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  ―葉月の頃 その7―  【8月24日  湯屋】①


闇と虫の声に包まれていた山の夜が、ひっそりと明けゆく頃――

翠星石もまた、夢を見た憶えのないまま、浅い眠りから覚めた。
開け放した障子の向こう、窓越しに仰ぎ見る東の空は、仄白い。
まだ未練がましく居残っている夜の部分さえも、もう淡い紫に色づいていた。

夏の夜明けは早いものながら、こんなに早起きしたのは、久しぶりだった。
空気のニオイとか、マクラや布団が違ったせいかも知れない。
ここ最近、翠星石がベッドを起き出すのは、午前8時を過ぎたくらい。
気温が上がって、暑苦しさに耐えかねた挙げ句に、仕方なく起きるのである。


(ん……いま、何時ですかぁ?)

時間を気にしながらも、翠星石は既に、二度寝モードに突入しかけていた。
抜けきらない眠気に一寸すら抗おうともせず、腫れぼったくて重たい瞼を瞑る。
いつもの調子で、ふぁ――と、大欠伸だって、したい放題。

それでも一応、時刻を確かめる意志は、失っていない。
横たわったまま、寝る前に外して枕元に置いた腕時計を、もそもそ手探りした。
二度、三度……右へ左へ腕を彷徨わせては、指を窄めることを繰り返す。
けれど、彼女の腕は空を切り、指先は悉く、畳を掻くだけだった。

そして、四度目の正直とばかりに、えいやっと大きく振り回した手は――
時計ではなく、ナニか固いモノを、ぺち! と叩いていた。

(あっちゃぁ~…………やっべぇですぅ)

指先に絡んでくる、細やかな糸状のモノ。触感から、すぐに髪の毛だと理解する。
そして今更ながらに、同じ部屋に泊まっている娘たちの存在を思い出した。
蒼星石、雪華綺晶、薔薇水晶の三人のことを。

いま撲ってしまったのは、誰? 起こしてしまったかな?
少しの間、翠星石は身動きを止め、息を潜めたまま、様子を窺った。
――すると、次の瞬間っ!


  ぱくんっ♪

擬音語にするなら、こんな感じ。
突如として、親指を除く4指が、生温かく湿ったナニかに捕らえられていた。
ただでさえデリケートな翠星石の心臓はキュッと萎んで、身体が硬直した。

(いひぃいぃ――っ!? なな、なんなんですぅ!)

不意打ちに狼狽えた心臓が、カゴの中のリスみたいに、胸の奥でドキドキと暴れだす。
のたのた巡っていた血液は一気に加速され、暴走列車の如く、全身を循環していく。
それによって、まとわりついていた眠気と気怠さも、どこかに運び去られてしまった。

頚を軋ませ、焦りと驚きに見開かれた双眸を、腕の先に向けた翠星石は……
鮮やかな白のイメージを纏った娘の、幸せそうな寝顔を見つけた。
雪華綺晶は可愛らしい口で、翠星石の指をパクッと銜えこんでいた。
しかも、彼女のナマ渇きの舌が、ねとねとと指先を舐めだしたから堪らない。
くすぐったいやら、気持ちいいやら、筆舌に尽くしがたい感覚だった。

暫くすると唾液が溢れ始めたのか、ちゃぷちゃぷとアヤシイ音まで漏れだした。
その音に誘われるように込みあげてくる、不思議な胸の高鳴り。この感じは、なに?
翠星石の背筋を、悪寒とも悦楽ともつかない震えが、ゾクゾクッと駆け抜けていく。
横になっているにも拘わらず、腰が抜けるような脱力感に襲われていた。

「ふわぁぁ……きらきーのお口の中、あったかいですぅ~」


……なんて、思わず譫言を口にしたところで、翠星石は我に返った。
ほのぼのと快感に酔いしれている場合ではない。隣には、蒼星石も寝ているのだ。
こんな場面を見られては、あらぬ誤解を受けて、またぞろ面倒なコトになろう。
それは困るとばかりに、翠星石が手を引き抜こうとした折りも折――

いきなりガブッと、たべごろマンマ!

「ひぎっ?!」

咄嗟に空いている方の手で口を押さえて、迸りかけた絶叫を喉元に留めた。
それでも、半端ない激痛に、ブワッと涌きあがってくる涙は止めようもない。
前歯でガッチリかぶりつかれているから、無理に引っ張ったらケガをする。
かと言って、このまま放置していても、大ケガは必至。

そこで、翠星石が採った緊急手段は――

(こうなったら…………くらいやがれですぅ!)


困ったときのハムラビ法典。歯には歯を、ガブッとやられたら、ガブッと。
カタツムリのように布団から半身を乗り出し、雪華綺晶の首筋に顔を近付けると、
翠星石は、芳香を放つ髪の間に表れている彼女の耳に、かぷりと噛みついた。

窮余の一策のハズが、意外にも効果覿面。雪華綺晶は鼻にかかった甘い声を上げた。
僅かでも口が開いたこの隙を逃さず、翠星石は、サッと手を引っこ抜く。
そして、雪華綺晶が完全に目を覚ましてしまう前に、彼女の耳を解放した。
幸いにも、彼女は「やめちゃらめぇ~」と、呂律の回らぬアヤシイ寝言を呟いただけで、
スヤスヤと眠りの世界に戻っていった。


(ひぃぃ、いったぁぁい。もうっ! 私の指は、ソーセージじゃねぇですよっ)

唾液まみれの指には、くっきりと歯形が残っていた。微かに、血も滲んでいる。
涙で曇った瞳で、暢気に寝息をたてている雪華綺晶をジトっと睨めつけながら、
翠星石は噛まれて出血した箇所を、ちろ……っと舌先でなぞった。

そして、ふと雪華綺晶のヨダレも舐めたことに気付いて、トマトみたいに赤面した。
あたふた慌てながら、誤魔化すように枕元の腕時計を摘みあげ、針の位置を読む。
時刻は、5時を少し過ぎたところだった。

いくらなんでも、起きるには早すぎる。もう一度、寝直そうか。
そう思ったが、雪華綺晶のせいで、眠気はカンペキに吹っ飛んでいた。
優雅に朝風呂を満喫するのも良さそうだけれど、ここで人見知りスキル発動。
たった独りで行くのは不安で、考えたそばから、気が引けてしまった。

(しゃーねぇです。早起きは三文の得って言いますしぃ……
 折角だから、誰か叩き起こして、散歩に付き合わせるですよ)


こういった場合、蒼星石に白羽の矢が立つのが、いつものパターンだ。
通例に倣い、翠星石は、隣に敷かれた布団に顔を向けた。

――が、そこに、蒼星石は眠っていなかった。
試みに手を差し入れてみると、布団の中は、まだ温かい。
出ていって間もないようだ。トイレにでも行ったのだろうか?

(起こす手間が省けたですね。廊下で待ってりゃ、逢えるハズですぅ)

なるべく物音を立てないように、翠星石は布団を抜け出した。
幽かな衣擦れに、雪華綺晶が小さく呻いたが、目を覚ますには至らない。
薔薇水晶に至っては、眼帯が額までズリ上がっているばかりか、
浴衣の胸元がはだけているのに、起きる気配がなかった。

「寝相の悪いヤツですぅ。ほれ……そんな格好してると、風邪ひくですよ」

翠星石は試みに、露わになった薔薇水晶の胸の桃色ボタンを、ぷに……と押してみた。
しかし、覚醒しない。ならばと、ボタンを軽く摘んで引っ張ってみたが、効果なし。
そこでモヤモヤと脳裏に浮かんでくる、第三の選択肢は――

┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 1:【スイッチぽん!】       ┃
┃ 2:【押してダメなら引いてみな】┃
┃⇒3:【吸ってみる】         ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛

自分で考えておきながら、かぁっと赤面した翠星石は、ぶんぶんと頭を振った。
いくら起こすためのイタズラでも、そこまでは出来ようハズもない。
もう知らんです。翠星石は、薔薇水晶をそのままにして、窓際へと移った。


眠りこける二人を余所に、洗面所の鏡を見ながら、長い髪にブラシを入れる。
翠星石は、身だしなみを整えながら、意外に空気がヒンヤリしてるなと思った。
顔を洗うために触れた水も、室内の蛇口だというのに、まるで氷水だ。
ただ立っているだけで、浴衣からはみ出した二の腕や足先から、体温が奪われてゆく。
ここですら肌寒く感じるのだから、夜中、宿の外は、かなり冷え込んだろう。

「そう言えば……あいつ、平気ですかねぇ」

ブルッと身震いして、両腕を掻き抱いた翠星石は、ある人物を思い浮かべた。
あいつ――とは、他でもない。メンバー唯一の男性、桜田ジュンその人だ。
彼は昨夜、みっちゃんの車に宿の布団を運び込み、車泊したのである。


夏休みシーズンということもあり、予約を取れたのは、和室が3部屋だけだった。
倫理的な観点からすれば、ジュンが一部屋を専有することになる。
となると、女性陣は残る二部屋に、5人と6人で分かれなければいけない計算だ。
部屋の広さ的に見て、5人の雑魚寝が、いっぱいいっぱい。
6人だと、誰かが押入で寝なくてはいけなかった。

最善策としては、3部屋に4人ずつ泊まること。
これならば、きちんと布団を敷いて、のびのびと眠れる。
問題があるとすれば、誰か3人が、ジュンと相部屋になることだ。

だからと言って、女の子たちが多数決により、車泊を強要したのではない。
それどころか、彼と同室になることを、密かに期待している娘も居たほどだ。
ジュンも薄々、その雰囲気を察していたのだろう。
後に禍根を残さないため、敢えて、災いの芽を摘む選択をしたまでだった。


「今頃、布団にくるまって、ガタガタ震えてるかも知れねぇですね。
 温かい飲み物でも手みやげに、いっちょ様子を見に行ってやるかですぅ~」



翠星石は足音を忍ばせて、そそくさと部屋を出た。
彼が夜気に凍えているようなら、温泉に誘ってみるも良し。
まだ眠っていたら、そっと布団に潜り込んで、二度寝してみるのも一興かも。
ああ、でも……添い寝なんかして、襲われちゃったら……どうしよう?
やおら湧いたヘンな妄想が、翠星石の胸をざわつかせた。

ジュンは、そんなコトしない。と言うか、襲ったりする度胸はないだろう。
――とは思うのだけれど……彼を信じてはいるけれど、やはり……少し怖い。
だが、ココロのどこかでは、そうなることを望んでいるのかも知れない。
でなかったら、こんなご都合バリバリ急展開を、はしたなく期待しやしないだろう。

「わ、私…………やっぱり……今でも、あんな、へっぽこぽこのすけを――」

一度は、想いを伝えた。青い感情を燃えたたせて、胸を焦がしもした。
それは叶わなかったけれど、だからと言って、想いの全てを捨て去るなんて無理。
だって、本気だったから。
誰もが一度は経験する、通過儀礼的な恋愛ゴッコなんかじゃなかったから。

だからこそ、小さな恋の芽は今も、翠星石の胸の中で枯れずに残っていた。


とにかく、行動してみよう。結果を欲するなら、そうするより他にない。
恋愛にカンニングペーパーなど無いのだから、答えを導くには計算式が必要だ。
そう思って、いつになく積極的な心持ちに、翠星石自身ですら戸惑いを覚えた。
何も変わらないかも知れない。あるいは、また傷つくだけかも知れない。
だけど……それでも、逸るココロを抑えきれなかった。


「もし、ジュンが……も、求めてきたら――
 ――わ、私……断れないかも……ですぅ」

いゃぁん。翠星石は、桜色に染めた頬に手を当てて、廊下でモジモジ身悶えだした。
彼の腕に抱かれながら、淫らな笑みを浮かべる自分を想像してしまったら、
期待と不安で小刻みに震えだす膝を、止められなかった。

妖しい熱が、翠星石の身体を火照らせ、意識をクラクラさせる。
腰の辺りが奇妙にウズウズして、落ち着かない。
さっさと行こう。胸のドキドキを持て余しながら、彼女は歩き始めた。


しかーし。そうは問屋が卸さない。
3歩と進まない内に、耳を衝く甲高い涙声が、翠星石を呼び止めていた。

また、よりにもよって絶妙のタイミングで、妨害してくれる。
翠星石の火照りは、冷や水を浴びせられたように、しおしおと萎んでいった。
ナニ考えてたんだろう。翠星石は額に手を当てて、はふぅ――と吐息した。

「ぶゃぉわあぁあぁんっ……翠ちゃあぁぁんっ!」
「うっせーですよっ! 朝っぱらから、キンキン声で泣き喚くなです。
 おめーは他人の迷惑ってもんを考えらんねぇですか、おバカ苺っ!」

翠星石が、駆け寄ってきた雛苺の脳天に、まさかりチョップを見舞う。
ゴッ! という鈍い音が、冷え冷えとした空気を震わせた。
一応、翠星石の名誉のために断っておくと、これは体罰ではない。
スパルタ乙女の『苦悶式・教育的指導』である。

雛苺は両手で頭を押さえながら、怨みがましく翠星石を睨んだものの、
言いかけた文句を引っ込めて、本題を切り出した。

「トモエが居ないのっ! 昨日の夜、寝るときは一緒だったのにっ」
「だからって、泣くほどのコトですぅ? ちゃんと探したですか」

翠星石の問いに、雛苺は濡れた目頭をこすりこすり、小さく頷いた。
聞けば、宿の中は、ひと通り探してみたと言う。

「オディールは、なんて言ってたです?」

雛苺と巴、オディールの3人は、同じ部屋に寝泊まりしている。
ならば、誰かが部屋を出る気配を、夢うつつに察していたかも知れない。
そんな翠星石の推測に、雛苺は間髪入れず、首を横に振った。

「グッスリ眠ってるの。だから、きっとオディールは知らないのよ」
「なるほど。あぁ、そう言えば、蒼星石も部屋に居なかったです。
 どっかで見かけなかったですか?」
「ううん、ヒナは見てないのよ。ひょっとして、トモエは蒼ちゃんと?」
「……どうですかねぇ。蒼星石と巴って、あまり接点ないようですけどぉ」

友達ではあるけれど、いつも一緒に遊ぶほど親しい間柄ではない。
巴は控えめで奥手な感じだし、蒼星石も、過度の馴れ合いを好まない方だ。
そんな二人が、繋ぎ役を介さずに意気投合するだろうか。
仮に、そうだったとして……二人は連れ立って、どこに行ったのだろう?
翠星石と雛苺は、腕組みをして、起き抜けで働きの鈍い頭をフル回転させていた。


と、そこへ――

「おはよ、二人とも。こんな朝早くに顔を揃えちゃって、どうかしたの?」

宿の正面ホールを横切り、近付いてくる人影が、翠星石たちに話しかけてきた。
それは他でもない、浴衣姿の蒼星石だった。

「蒼星石こそ、独りでドコほっつき歩いてるですか。心配したですぅ」
「ごめん、姉さん。いやさ、なんだか早くに目が覚めちゃってね。
 そしたら、ほら……肌寒いでしょ。ジュン君、平気だったのかなって」
「ふぅ~ん。気懸かりだから、あいつの様子を見に行ってたですか」

考えることが同じだなんて、やはり双子ですねぇと、翠星石は破顔した。
だが、ふと……彼女の胸の片隅で、変なざわめきが生まれていた。
もしかして、蒼星石もジュンのことが好きなのだろうか、と。
考えることが似通うなら、寄せる想いもまた、共通してくるものではないか?
双子は同じタイプの人を好きになると、聞いた憶えもある。

――まさか。しかし、有り得ないコトではない。
そんな予感めいた不安を、翠星石はココロの中で、強引に押し潰した。

「それで……ジュンは、冷たくなってやしなかったですか?」
「杞憂だったよ。ボクたちが気を揉むまでもなく、ジュン君には彼女がいるもの」

鼻の頭を指で掻き掻き、はにかむ蒼星石の態度から、翠星石と雛苺は全てを察した。
雛苺とオディールを部屋に残して、居なくなった巴。
蒼星石が言った『彼女』とは、つまり――

「……たはぁ~。剣道で培われた勝負勘は、伊達じゃねぇですね。
 受けどころと攻めどころを、ちゃーんと弁えてやがるですぅ。
 大胆に攻め込んだってコトは、きっと昨夜はお楽しみに……きししっ」
「うゆ? 翠ちゃん。お楽しみって、なぁに?」
「決まってるじゃねぇですか。ジュンと、にゃんにゃ――」
「わ、わぁーっ?! なに言いだすのさ、姉さんっ! 違うよ、雛苺っ!
 ジュン君と柏葉さんは、そんなコトしてないからね!」
「わかんねぇですよぉ~? 大体、なんで蒼星石は、違うって断言できるですか。
 ははぁん……さては、コッソリ覗いてやがったですねぇ~?」

焦りまくりの蒼星石は、姉のニヤケた流し目に晒され、更に狼狽えてしまった。
ロクに反論もできずに「知らないっ」と言い捨て、その場から逃げだそうとする。
そんなナイーブな妹の腕を、翠星石が掴んで、引き留めた。

「あぁん。待つですよ、蒼星石ぃ。冗談を真に受けるなですぅ」
「…………もぅ。ヒドイよ」

恥ずかしさか、からかわれた悔しさか、蒼星石は、ぷーっとむくれた。
翠星石は朗らかに笑って謝りながら、妹の柔らかい髪を、ぽふぽふと撫でる。
そして徐に、右腕で蒼星石の肩を、左腕で雛苺の肩を、グイと引き寄せた。

「さぁて。巴の所在は判ったし、蒼星石とも会えたですから、問題解決ですぅ。
 珍しく早起きしたし、気晴らしも兼ねて、ちょっくら散歩に行くですー」

いつもの強引さで、翠星石は実の妹と、妹みたいな親友を引きずり、宿を出た。
二人の肩を抱き寄せたまま、足早に駐車場を横切って、林道の方に向かう。
その際、みっちゃんの車が視界に入ったが、翠星石は努めて顔を背けていた。
内側が結露した車のガラスを見てしまったら、きっとドス黒い感情が噴出してくる。
車内の様子が気になって、覗かずには居られなくなるだろう。
そして、寄り添って眠る二人に嫉妬して、ココロを醜く穢れさせていくのだ。




明け方の林道に、彼女たちの足音と、早起きな鳥の声が谺する。
もう少し気温が上がれば、また煩くセミが啼きだすだろうが、今は静かだ。
木々の間から、朝霧が音もなく浸みだしてくる光景は、とても幻想的だった。
路肩のなだらかな斜面には、斑入りの白い花が、霧に紛れて点々と咲いている。

「わぁっ! ねえねえ見てっ。あれ、ユリの花なのよね?」
「そうだよ、雛苺。あれは、ヤマユリ。花言葉は『純潔』と『荘厳』だったかな」

蒼星石の返答に、雛苺は「うよー」と感嘆して、白い可憐な花に目を注いだ。
鮮やかな緑の葉や茎に、しっとりと降りた夜露が、朝日を受けて煌めいている。
確かに、いま翠星石が見つめている花たちには、花言葉どおりの趣があった。

それに引き替え、ジュンと巴の仲を妬む自分は、なんて醜いんだろう。
翠星石は、胸の痛みを覚えながらも、目を逸らすことなくヤマユリを眺めていた。


(私のココロには……まだ、純真な部分が残ってるでしょうか?
 あるとしたら、これから先も、ずっと純真なままでいられる……です?)

少しの間、答えを探してみる。そして、一分と経たずに諦めた。

解りっこない。人生は、この林道のようにハッキリと形作られてなどいないから。
未舗装の部分があったり、突然の崖崩れで寸断されることも有ろう。
でも――どんな困難に直面しても、いつだって気高く生きていたいと思った。
願わくば、かけがえのない親友たちと、いつまでも一緒に。


翠星石は、蒼星石と雛苺の肩に掛けていた腕を、そっと背中に降ろした。
そして、溢れんばかりの慈しみに、ちょびっとの恥じらいを滲ませながら、
なにも言わずに、二人を抱き寄せた。

キリリと冷えた山の空気の中で触れ合った、蒼星石と雛苺の温もり。
それは、翠星石のココロに蟠っていた黒い感情を、すぅっと融かしてくれた。


まるで、泥まみれの名残り雪を消し去る、春の日射しのように――