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鼓膜が痛むほどの静寂に、戸惑いを滲ませた乙女の吐息が、解き放たれる。
それは、埃のように薄く鼻先を覆っていた冷気を、綿毛のごとく吹き飛ばして、
入れ替わりに、奇妙な臭いのする蒸気を、ベッドの下から引き連れてきた。


――なんて重たい闇。圧倒的なまでの量感に、押し潰されそうになる。
『彼女』は深く息を吸い込んで、大きく揺れていたココロを鎮めた。
それにしても、何年ぶりだろう。息を吸い、ニオイを感じながら、肺を膨らませるのは。
こんな風に、肌で空気の重みを知るのは。


夢などではない。『彼女』は横たわったまま、指だけを動かしてみた。
それから肘を曲げ、腕を上げて――ふわっと、頬を指先で撫でてみる。
多少ぎこちなくはあるが、概ね思いどおりに動かせて、じわぁ……っと充足感に満ちてくる。
けれど……些細なことで気をよくしたところで、『彼女』の頬が緩むことはなかった。


下腹部と右眼窩に、激痛と熱を感じた。臓腑を弄ばれているような、不快な疼きも。
いったい、この不快感を生み出しているのは、なに?
気持ち悪さの元凶をイライラと探っていた手が、不意に、ぬるりと滑る。
そして……吸い込まれるように、『彼女』の指は、生暖かく濡れた裂け目へと呑み込まれた。


ぬるり。ぬらり。
肌の下で蠢いていた何かが、二の腕に絡みついてくる。
子犬がじゃれて甘噛みするみたいに、無数の突起が、肌を撫で、這い回っている。
はたと、『彼女』は黒い荊の存在を思い出した。


「……くっ」


汚らわしい。腕を払うと、ぞるり……。荊は、裂け目の奥へと引っ込んだ。
こんな――自分の体内に、得体の知れないバケモノが棲みついているなんて。
その事実は、乙女の潔癖を刺激して、猛烈な拒絶反応を引き起こさせた。


気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
自己免疫にも似た強迫観念が、『彼女』の胸中で限度なく生みだされ、行動を促していた。

 
 
 
  第十四話 『Someday,someplace』

 
 
 
ベッドの下に、槐が握っていたナイフが、転がっているはずだ。彼の腕ごと。
あれで荊を寸刻みにして、暖炉に放り込んでやったら、さぞかし気分も晴れよう。
そんな想像をしながら、『彼女』は半身を起こそうとする。
……が、端正な顔は3秒と経たず、思うに任せぬ苦渋で埋め尽くされた。
腹の傷から間断なく駆け上がってくる激痛に抗うだけで、体力の殆どを消耗したようだ。


それでも、異物を排除したい欲求は、抑えようがない。
『彼女』はイモムシのように身をくねらせ、ベッドの端まで行き、そのまま転げ落ちた。
びちゃ……。床に散らばる肉塊と、臓物と、血腥い液体が、『彼女』を迎え入れる。
まだ温かい鮮血からは、仄かに湯気が昇っていた。


腹の傷を手で塞ぎながら、闇色の絨毯に這い蹲って、もう一方の腕を動かし始める。
ぴちゃ……ぴちゃ……。前に進もうと血だまりを掻くのだが、掌が滑って進めない。
程なく、『彼女』は疲れ果てて腕を止め、穢れた泉に横臥した。


「――あ」


途端、見開かれた双眸に捉えられ、『彼女』は息を呑んだ。
ベッドの下から――あらん限りの苦悶と未練を刻み込んだ槐の頸が、『彼女』を見据えていた。
工房から漏れてくる光に浮かぶ、虚ろながら、不自然に透明感を湛えた瞳――
ふと、『彼女』の脳裏に、いつかどこかで見たドールアイの色カタチが甦った。

 
 
  『目は心の鏡――とは、つまり、目によって心が育まれる……とも言えるだろう。
   では、この一点の曇りもない作り物の瞳に、一切の意志の介在なく世界を映すのであれば、
   そこに、より純粋かつ高潔な魂――至高の輝きは、培われるのだろうか』

 
 
きっと、おばかさんしか育たないわ。『彼女』はあの時、深く考えもせずに、そう答えた。
なぜならば、コトの善悪を規定すること自体、既に誰かの意志を介在しているのだから。
善悪とは、集団生活における倫理であり、遵守されるべきもの。
それを蔑ろにすれば、有形無形の害を為す存在となることくらい、火を見るより明らかだ。


あの、独り言とも、師弟が交わす問答ともとれる話を聞かされたのは――
――そう。何日も苦心して、やっと縫い上げた人形用ドレスを、見せに行ったとき。

 
 
  『素晴らしいドレスだ。こんなにも美しい服を着せてもらえる人形は、幸せだね』

 
 
絶賛しながら、温かく大きな手で、『彼女』の頭を愛おしげに撫でてくれた人……。



「……あぁ。逢いたい…………お父様」
 
 
もっと、いろいろな事を教えて欲しい。
もっと、飽きるくらいに誉めて欲しい。
もっと、温かい胸に抱きしめて欲しい。
もっと、もっと、もっと、私だけを――

 
 
痛みも、我が身を蝕む荊のことも忘れて、『彼女』が立ち上がったのと、ほぼ同時。
夜の静けさの中、控えめにドアをノックする音が、大きく聞こえた。


「ご……ごめんください、なのぉ」


なんだか、耳に馴染みのある声。でも、『彼女』の記憶にはない、女の子の声。
『彼女』は、この身体の主である娘の記憶を、検索してみた。
それこそ瞬く間に、固有名詞が弾きだされてきた。
雛苺――この娘、使えるかも。ほくそ笑み、『彼女』は真夜中の珍客に話しかけた。


「こっちよ……寝室に。動けないのぉ。お願い……こっちに、来てぇ」
「う、うい! いま行くのよー!」


小走りの足音が、近づいてくる。
なんて、おバカさん。飼い慣らされた犬でも、もっと警戒しようものを。
『彼女』は壁際に身を隠して、笑みを噛み殺した。


「きら――」


小柄な体躯が踏み込んできた刹那、『彼女』は獲物を捕らえる獣のように飛びかかり、
悲鳴をあげる間も与えず、床にしたたか叩きつけた。
だけでなく、娘の背中を両膝で踏みつけて、抑えつける。
カエルを踏みつぶしたような声が聞こえたけれど、キニシナイ。


「うっふふふふ……。よく来てくれたわぁ、おちびさん。
 私ね、あなたに頼みがあるの。聞いてくれるぅ? 聞き入れてくれるわよねぇ?」


言って、『彼女』は娘の髪を鷲掴み、その困惑しきった顔を血だまりに擦りつけた。
その段になって漸く、雛苺は気づいた。
目の前に、とんでもない光景が広がっていることに。


――なに、これ?
そこから先は、考えられない。頭が、状況を把握することを拒絶していた。
けれど、雛苺の意に反して、身体は素直に、生理的な嫌悪感を表してしまう。
ごぽり……。喉が鳴って、可愛らしい唇は、濁った呻きと苦い液体を迸らせた。
血と吐瀉物に顔を汚され、雛苺は殺されるかもしれない恐怖におののき、啜り泣くことしかできなかった。
 
 
  ~  ~  ~

 
 
苔生し、腐りかけた白樺の十字架。
そこに掛けたランプが、ふたつの人影を、仄かに浮かび上がらせる。
スコップを扱うのは雛苺。その仕事ぶりを、『彼女』は冷たい眼で見張っていた。


雨を吸った土は軟らかく、しかも、ここ最近、埋め戻した痕跡もあって、
女の子の細腕でも、大した苦もなく、朽ちかけた柩の全容を掘り出していた。
柩の蓋には、ぽっかりと穴が穿たれている。人が潜り抜けるに充分すぎる径だ。


「早く開けなさぁい。グズは嫌いよ」


『彼女』は含み笑いながら、胸元に抱いていた槐の頸に頬ずりをした。
雛苺の戦慄く腕が伸ばされ、震える指が、柩の蓋に掛かる。
――逡巡。死体なんか見たくない。と言って、『彼女』の命令に逆らう勇気もなく……
ギュッと目を閉じて、少しずつ蓋をずらし、そのまま柩の横に落とした。


「……まぁあ」


頭上から降ってくる『彼女』の溜息に、雛苺も、怖々と瞼を開く。
蓋の裏には、無数の引っ掻き傷と、幾つもの黄褐色のカケラ――剥がれた爪が食い込み、
柩の中では、夥しい量の黒い荊が枯れることなく、ひしめき合っていた。
パンドラの箱には『希望』だけが残っていたけれど、ここには『絶望』しか残っていない。


「そう。そう言うコトなのねぇ」


傷口から這い出ようとする荊を、鬱陶しげに腹腔内に押し戻して、『彼女』は独りごちた。
あの黒い荊は元々、この柩の主に手向けられた、普通の薔薇だったに違いない。
それが、エーテル・クリスタルによって腐敗を免れていた骸に根を張り、
養分を吸い上げるうちに、同化してしまったのだろう。


樹液を血に換え、色素を闇色に染めた荊は、いわば、ガン細胞のような突然変異体。
その切除によって、どんな影響が出るかなど、当の彼女にも分かるはずがなかった。


分離は難しい……。だからと言って、共存なんて、まっぴら。
ならば、別の手段に訴える他ない。
槐の頸を「あげる」と、柩に投げ入れて、『彼女』は素っ気なく言った。


「埋めちゃって。ぜぇんぶ」


雛苺は、吐き気を堪えて涙ぐみながら、黙々と、かつて人間だったモノを柩に放り込んだ。
ブツ切りにされた手足や、バケツに入れた臓物を、生ゴミのように。
弔うと言うよりは、片づけていると表すほうが、的確と思える風情だった。


黒荊の群は、久々の肥料に嬉々としてうねり、槐の亡骸を呑み込んでいく。
小骨や肉を挽き砕く音が漏れ聞こえて、雛苺は我慢できずに、棺の中に胃液を吐いた。



「……あと一人くらい、入りそうねぇ」


夜闇に溶かされた『彼女』の笑みに、雛苺は気づいていなかった。
 
 


 
 
  第十四話 終

 
 
 【3行予告?!】

 
谷間の百合、踏みつけても。あなたの場所に向かうため――
どうしてなの? 訊きたい。でも、訊けば未来が閉ざされそうで、恐い。
だから、ヒナは何でもするの。生き延びて、もう一度コリンヌお嬢様に逢うために。

 
次回、第十五話 『All along』