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彼女と手を繋ぎ、雑踏を縫うように、長い橋を歩いていたら、ふと――
昨夜、夢うつつに浮かんだ疑問が、頭に甦ってきた。
 
「あのさ、ちょっと気になってたんだけど」
「……なんでしょう?」
「結菱グループと言えば、国内でも屈指の巨大資本なんだよ。その影響力は、計り知れない。
 そのトップに位置する人物なら……二葉氏ならば、大概のことは可能だったはず。
 君のお祖母さんを探し、連絡をとることだって、できたはずなんだ。
 それなのに、なぜ、彼は――それを、しなかったんだろう?」
 
そう訊いた僕を、彼女はまじまじと見上げて、やおら、口元を綻ばせた。
 
「してましたよ」
「えっ?」
「二葉さまは、お祖母様の安否を、ずっと気に掛けてくださってました。
 だから、消息が掴めるなり、幾日と置かず、お手紙を出してくれたんです。
 お互いの無事を喜ぶ内容と……近く再会して、フランスで一緒に暮らそう、と」
「また随分と、直球のプロポーズだね。それって、戦後すぐのこと?」
「1957年のこと、ですわ」
 
戦争が終わって12年も後か。随分と、時間が経ってのことだ。
まあ、日本の国内もゴチャゴチャ混乱してたし、仕方なかったのかもなぁ。
…………いや。ちょっと待てよ。
戦後から12年。日本の年号に置き換えると、終戦が昭和20年8月だから――
 
「昭和32年……。ダイナ号の沈没事故があった年じゃないか!」
「ご存知でしたの?」
「昨夜、二葉氏について調べてる時、偶然に知ったんだよ。
 その事故で、双子の兄、結菱一葉氏が亡くなったと」
「違いますよ」
 
違う? 彼女の自信に満ちた口振りの意味が解らず、僕は驚き、足を止めた。
その途端、横を通り過ぎる人の波が肩に当たって、蹌踉いた僕は……
ドサクサ紛れに近い感じで、オディールさんに抱きついてしまった。
 
「ぅあ……っと。ご…………ごめん」
「い、いえ……。橋の途中で止まると、通行の妨げになってしまいますね」
「そうだね。話のつづきは、この橋を渡り終えてからにしよう」
 
僕らは肩を寄せ合うようにして、海水浴客と観光客がたむろする長い橋を渡りきった。
曇天でも気温が高いせいで、近くの磯から、むわっと、鼻を突く強い臭いが漂ってくる。
橋を渡った右手には、鄙びた感じの江ノ島に似合わない、瀟洒な建物があった。
なにかと思えば、スパ。ちゃんと温泉を汲み上げているそうだ。
 
また今度、時間があるときに試してみるとして、とりあえずは、さっきの話の続きを聞きたい。
参道入り口の青銅の鳥居を潜り、観光客で溢れる土産物屋の軒先を過ぎると、
正面に、朱塗りの大鳥居が見えてくる。そこで右に折れ、細く急峻な東参道に入った。
こっちの方が人通りが少ないから、会話もし易いかと思ってのことだ。
女の子の足には、ちょっとばかりキツいかもしれないけど……。
 
 


 
 
こんなことなら、もっとヒールの低い靴を履いてくるべきだった。
――と、後悔しても仕方がない。引き返すにしても、今から坂を下るほうが恐い。
彼に手を引かれ、急勾配の長い坂を、ひと区切り上りきると、いくらか足が楽になった。
上り坂はまだ続くけれど、さっきまでの傾斜は、もうなさそう。
 
「大丈夫かい? 少し、そこで休もうか」
「ええ……ありがとう」
 
彼が指差す先には、木々の切れ間があって、遠く続く砂浜と、山並みが一望できた。
とにかく、人が多い。砂浜だか人混みだか、分からないくらい。
雨空のせいか、はたまた普段どおりなのか、見おろす海は濁った深緑色をしていた。
 
「湘南海岸と、丹沢の山々だよ。晴れてたら、富士山も見えるんだけど」
「そうなんですか? 残念です」
「うん……残念だね」
 
近くを舞うトンビを目で追いながら、彼が呟く。「なんか、今日は朝から躓きっぱなしだ」
天候や鎌倉でのことも含めて、気に病んでいるのかしら。
だとしたら、本当に不器用で、損な性分の人ね。あなたのせいではないのに……。
それとも、職業病?
 
「ところで、さっきの話の続きだけど――なにが違うのかな」
「は? あぁ……ダイナ号のこと?」
「うん、そう。違うと言った君の口調が、どうにも気になってね」
「あれは、犠牲者について言ったのよ。亡くなったのは、二葉さまです」
「え? じゃあ、インターネットの記載が間違ってたのか」
「……と、言うより、誤った情報を流布させた人が居ましたの。誰の仕業だか、分かります?」
「いや――たかが一朝一夕で、分かるわけないよ。君は知っているのかい?」
「情報を流したのは、結菱一葉さまです。あなた、言ったでしょう。結菱の影響力は、計り知れないって。
 亡くなったのは自分だと偽り、彼は二葉さまの名を騙って、生きてきたんです」
「そんな……なぜ、そんなことを?」
「彼も――お祖母様のことが好きだったから。そういうところ、やはり双子なんですね」
 
そう。結菱一葉もまた、商用でフランスを訪れたとき、コリンヌに会っていた。
私が調べただけでも、彼は戦前に数回、フランスに渡っている。密かに、結菱二葉の名義をつかって――
彼を、弟の二葉と思い違いして慕ってくれる美しい少女に、若い胸をときめかせたのね。
 
だから、数年前、コリンヌ=フォッセーが叙勲されたのを知るや、探りを入れてきた。
弟の死の元凶を許し難く思う一方、どこかで未練を引きずっていたみたい。
結果として、その身を滅ぼすことになったけれど。『好奇心は猫を殺す』ってね。
 
「一葉さまは、きっと羨ましかったんでしょう。コリンヌに愛されている、二葉さまのことが。
 だから、彼は二葉さまに、なろうとしたの。お祖母様を愛するために、二葉さまになりたかったの」
「……僕には、分からないな。偽物の自分を愛してもらったって、虚しいだけじゃないか」
「でも、それを望み、幸せを感じる人も居るのよ」
 
雛苺みたいに、ね。そう言いかけた口を慌てて閉ざし、彼の顔を窺う。
よほどショックだったのか、彼は目を泳がせ、呆然と立ち尽くしていた。
 
「どうして、君は……そんなことまで知っているんだ」
 
 


 
 
彼女の祖母コリンヌも、ダイナ号に乗っていたという。反対する一葉氏を振り切って、二葉氏と駆け落ちするつもりで。
真相を聞かされて、僕は足元が崩れ落ちるような錯覚に襲われ、コンクリートの手摺にしがみついた。
ダイナ号事件の後、二葉氏は人前に出ない時期があり、復帰後の彼の人柄は、がらりと変わっていたと言う。
だが、まさか……人そのものが入れ替わっていただなんて、考えてもみなかった。
 
「お祖母様は、二葉さまに命を救われたんです。夜中の事故で、乗客は誰もが、パニック状態でした。
 でも、彼は冷静に人々を誘導して、数少ない救命ボートに、お祖母様たちを乗せて――
 彼は最後まで、救助のため甲板に残り、船と共に、暗い海に沈んでしまったそうです」
「二葉氏の遺体は?」
「……見つかっていません。まだ、大西洋の底で眠っているのか……海の彼方にあるという浄土に、流れ着いたか」
 
僕は、溜息を吐くことしか、できなかった。
二葉氏は、それで満足だったかもしれない。でも、コリンヌさんや一葉氏は、そうじゃない。
捨てることも、誰かに肩代わりしてもらうこともできない悲しみを抱えながら、何十年も生きてきたんだ。
つくづく、今日、二葉氏――いや、一葉氏か――に、話を聞けなかったことが悔やまれた。
 
「そろそろ、行きませんか」
 
優しく背中を押されて、僕は我に返った。
声のしたほうに顔を向けると、オディールさんが、僕の背に手を添えて微笑んでいた。
その温かな笑顔に、ちょっとだけ動揺したココロを癒されて、僕も笑顔を返した。
 
「――そうだね。行こうか」
 
 
  ~  ~  ~
 
 
広い参道に合流して、僕らは、歌川広重の浮世絵にも描かれた『岩屋』に向かった。
傾斜のきつい石段を、這うようにして怖々と下り、磯に出る。
ここもまた、海水浴に来たカップルで溢れていた。磯釣りの人たちも、心なし、肩身が狭そうだった。
オディールさんが、足元を走るフナムシに驚いてキャーキャー騒いでたのは、いい思い出になった。
 
『岩屋』で弁天様の像を拝んで、来た道を戻り、雨に濡れて滑りやすい石段を慎重に昇る。
彼女が、どうしても行きたい! と言い張っている場所が、参道の途中にあったからだ。
 
――恋人の丘『龍恋の鐘』。つい数年前に作られた新名所らしく、僕は今日まで知らなかった。
相模湾を一望する、なんとも見晴らしの良い展望台だ。
見おろす鉛色の海原には、ウィンドサーフィンの帆が、いくつも並んでいる。
よく晴れた日には伊豆大島も一望できると、案内板にあるけれど……残念ながら、今日は見えそうもないな。
音もなく降りしきる雨の中、灰色にくすんだ景色を眺めているのは、僕らだけ。
 
垂れこめた雲と、暗い海のコントラストは、モノクロームの世界。
いま、この寂寞たる光景に僕たちしか居ないことは、映画のワンシーンみたいで、できすぎてる気がした。
 
「……いい眺めですわね」
「晴れてると、もっと綺麗らしいよ。見せてあげたかったなぁ」
「では、また連れてきてください。いつか、きっと――」
 
言って、オディールさんは、小さな釣り鐘へと歩み寄った。
なんでも、この地に伝わる『天女と五頭龍』の伝説に因んだものだそうだ。
早い話が縁結び。この鐘を鳴らすと、恋人たちは結ばれるとか、なんとか……。
 
 
 
  -3- に続く