※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



 「明日は、会えないと思います。もしかしたら、明後日も」


見回りの看護士さんに咎められて、渋々と引き上げる間際、
雪華綺晶は、もらわれていく子犬みたいな、頼りない眼をして言った。

手術に何時間かかるか分からないし、早く終わったとしても、麻酔が抜けきってないはず。
明後日も、鎮痛剤とか、いろいろ投薬されてるだろうし……
ま、普通に考えても、とても歩き回れる状態じゃないわね、きっと。

だったら――
私は景気づけに彼女の背中をバシッ! と叩いて、笑顔で送り出した。

 「元気だしてよ。お見舞いには、必ず行ってあげるから」

「きっとですわよ?」と、雪華綺晶は縋るような眼差しのまま、去ってゆく。
何度も何度も、振り返り振り返り。

やがて、常夜灯だけが点る薄暗い廊下の向こうに、彼女のシルエットが消えた。
私は静寂の中に、ぽつんと立っていた。
これでまた、独りっきり。そう思った途端、大きな喪失感が、私を呑み込んだ。
火が消えたようなって表現、そのものだった。

胸が、キリキリと痛い。でも、発作じゃない。
いつからか忘れてた――忘れたフリをしていた感情が、その痛みを生んでいる。

…………寂しい。


このまま眠ることなんて、できない。気づいてしまったから。
ベッドに入っても、きっと泣いてしまう。


そう。ずっと、私は求めていたの。
この孤独で枯れそうなココロに、恵みの雨を降らせて、潤してくれる存在を。
死に憧れたのだって、その先に在るかも知れない救済を、夢みていたからだ。

結局のところ、私の中でも、天使は曖昧なイメージでしかなかった。
人でも動物でも、物でも、歌みたいな形のないモノでも……
ここから私の魂を解き放ってくれるのなら、すべてが天使になり得たんだわ。

でも、いま私の胸には、確かな天使の像が宿っている。
眼を閉ざしても、瞼の裏に、その姿を描くことができる。
だから、もう早く死にたいだなんて思わない。
独りで漠然と空を眺めることも、もうしない。


 「そうだ。おやすみって言うの忘れてた」

我ながら、白々しい。会いに行きたいなら、ただ歩き出すだけでいいのに。
そんなコトにさえ、口実を求めているなんて。
……ちょっと、素直な自分を、長いこと押し込めすぎてたみたい。


夜の病棟内は、怖いくらいに静かで、パジャマの衣擦れさえ、うるさく聞こえる。
スリッパなんか履いていられない。
私は素足になると、背を屈めて、ネコのように素早く歩き始めた。



幸い、夜勤の看護士さんたちは全員、ナースステーションに詰めていた。
お陰で、私は見咎められることなく、3階にある雪華綺晶の病室まで辿り着けた。
入り口のプレートで、室内の配置を確認――彼女のベッドは窓側の、向かって右。

それぞれのベッドは、L字型のレールに掛けられたカーテンで仕切られている。
耳をそばだてる……左右から聞こえてくるのは、規則ただしい寝息だけ。
それでも、なるべく物音を立てないよう、慎重に足を運んだ。
窓際のベッドの左からは、カーテン越しに、鼾が聞こえた。

じゃあ、右のベッドは? と言えば、これが驚くほど静かだった。
もう、眠っちゃったのかな。ついさっき別れたばかりなのに。
ひょっとして、雪華綺晶って、かなり寝付きがいい?

 「きらきー、起きてる?」

囁いて、カーテンの端っこに人差し指だけ掛け、そぉ……っと開いてゆく。
息を殺し、覗き込んだ先には――

――誰もいない。空っぽのベッドに手を差し入れても、温もりは残ってなかった。
病室は空調が効いていて、温度や湿度は一定に保たれている。
この状況で、こんな短時間に、ベッドが冷えるワケがない。

導かれる結論は、つまり、雪華綺晶は私と別れた後、ベッドに入ってないと言うこと。
じゃあ、この夜更けに、彼女はどこへ? 
着替えて、病院の外のコンビニまで、こっそり買い出しに行ったとか?

 「まさか、ね。あり得ないわ」

買い置きはあると言ってたし、やっぱり、病院のどこかに居るに違いない。

もしかしたら――焦りにも似たウズウズ感が、私を突き動かす。
窓に降ろされたブラインドの隙間に、ゆっくりと指を差し入れる。
そして、刑事ドラマよろしく指先で僅かにこじ開け、外の様子を窺った。

 「やっぱり」

私の勘は当たっていた。
雪華綺晶は、私たちの待ち合わせ場所だった木陰に、じっと立ち尽くしていた。
月光を浴びた彼女は、夜闇の中で、仄かに白く輝いて見える。


  まるで、幽霊みたい。


思った途端、雪華綺晶が顔を上げた。
まるで、私の思念に引かれたように、まっすぐ、この病室を見つめている。
夜の暗い中で、しかも僅かな隙間にもかかわらず、窓越しに眼が合った。
パッと破顔一笑した彼女は、優雅な仕種で、おいでおいでと手招きする。

私が来ることを、予期してたの?
それとも、不安で眠れず、散歩してたら、偶然この状況になった?

分からない。でも、どうでもよかった。
私は雪華綺晶に会うために、わざわざ来たんだもの。
彼女が外にいるなら、私も外に行く。それだけのことよ。


ブラインドから指を引き抜いて、私は速やかに病室を後にした。



スリッパやサンダルは、病室に置いてきてしまったので、仕方なく素足のまま外に出た。
直に触れるタイルやアスファルトは、ひんやりしてて、意外に気持ちがいい。
いつもの木のところに行くと、雪華綺晶は芝生に座って、膝を抱えていた。

 「こんな夜中に、なにしてるの?」

訊ねたら、「貴女こそ」と。
雪華綺晶は儚げな微笑みを浮かべて、傍らに立つ私を見上げる。
青白い月影の下で、彼女の唇は、異様に紅く見えた。

 「どうして、私の病室にいらしたのですか」
 「それは……おやすみって、言ってなかったから」
 「寂しかったから、じゃなくて?」
 「有り体に言っちゃうと、そうかな」

不思議なものよね。独り寝には慣れっこで、寂しいなんて思いもしなかったのに。
いまでは、独りでいることを、嫌いになり始めている。

 「隣、座ってもいい?」
 「どうぞ」

私は雪華綺晶の隣に腰を降ろして、ひっそりと寝静まる病棟を仰ぎ見た。
更にその上には、ちらほらと星が瞬いている。
そう言えば、ここのところ、あまり夜空を眺めてなかったなあ。

なんだか、小学校の夏休みに、家族で軽井沢に旅行したことが思い出された。
あの頃は、パパもママも、今よりずっと近くにいてくれた。
私の心臓だって、まだ頻繁に発作を起こすこともなくて――
パパは天体望遠鏡で、夏の星座を教えてくれたっけ。懐かしいな……とっても。


 「星を見るのは、お好き?」

雪華綺晶に訊ねられて、私は「ええ」と首を振った。

 「正しくは、夜空を眺めているのが好き。
  独りで、病室の窓を開け放して、じっと虚空を見つめているの。
  そうしているとね、黒い天使が舞い降りてくる気がして」
 「ソレって、悪魔と違いますの?」
 「天使も悪魔も、すべては主観の問題よ。本質は、どっちでもないわ」
 「……そうですわね」

私たちは、また夜空に眼を向けた。いつになく静かな夜だ。
街灯の明るさに寝惚けたカラスが、時折、かぁ……と啼くくらいで。
病院の脇を走る国道からも、物音は響いてこない。
昼間は車が数珠つなぎになるくらい、混雑するのにね。


 「私の病気は――」

静かすぎて、つい寝そうになった矢先、雪華綺晶の囁きが、私を起こした。
「右の視神経に、腫瘍ができているんです。どうも転移性の腫瘍みたいで」

 「転移性って、ガンじゃないの、それ?」
 「詳しくは分かりませんけど。植物の種くらいの大きさで。
  お医者さまの説明では、視神経は左右で交叉してますし、脳にも繋がってますから、
  そちらへの影響を考えると、あまり強いお薬は使えないらしいんです」
 「でも、放っておくことも、できないんでしょ?」
 「ええ。放置すれば、いずれ左の視神経や下垂体、脳の他の部分にも腫瘍が転移して、
  両眼の失明――最悪のパターンでは、脳への重篤な障害も考えられると」

だから、手術で腫瘍を切除して、その後は定期的に効力の弱い薬を投与しながら、
経過を診るとのことだった。それを、だいたい5年くらい続けるんだって。
まるっきりガンの治療法と同じね。

今なら、まだ右眼だけで被害を食い止められる。
定期的な通院が必要にはなるけれど、元どおりの生活に戻れる。
だったら、手術を受けるべきよね。


  元どおりになることと、治ることは、必ずしも同じではないのです。


私は、数日前に聞いた、雪華綺晶の言葉を思い出した。
そっか。あれは、こういう意味だったのね。やっと解った。



その後、巡回の看護士さんに見つかりそうになった私たちは、
連れ立って病院の敷地に隣接する教会へと逃れた。
誰にも邪魔されずに、夜明けまで喋っていたい気分だったから。

教会には、新旧ふたつの礼拝堂がある。
古い方はもう使われていなくて、近々、取り壊されるらしい。
だから、近づく人は居ない。こんな夜中なら、尚のこと。
そのせいか、扉は施錠もされていなかった。

 「不用心ですわね。イタズラでもされたら、どうするのでしょう」
 「いいんじゃない? どうせ壊すんだし、火事で焼けたら手間が省けるでしょ」
 「また、不敬極まりないなコトを」

祭具の類は、すべて新しい礼拝堂に移されたようで、がらんとしていた。
礼拝堂だった名残を留めているのは、整然と並んだ机と……
かつて十字架が掲げられてただろう祭壇の、大きなステンドグラスだけ。

私たちは祭壇に歩み寄って、それを見上げた。


 「見事なものよね。荘厳って感じで」
 「本当に……きれいですわ」

ステンドグラスには、天使が描かれている。ケルビムなのかな?
私、クリスチャンじゃないから、よく知らないんだけど。

 「ねえ、きらきー。あなた、空を飛びたいって思ったこと、ある?」

藪から棒な質問だったにも拘わらず、雪華綺晶は驚いた風もなく。

 「ありますよ。実際、飛んでいますし」
 「え? ウソ!」

逆に、私の方が驚かされていた。
だいたい、実際に飛んでるってナニ? バンジージャンプか、なにか?

 「実はね、私、趣味でパラモーターをしているんです」
 「パラモーター?」
 「エンジン付きパラグライダーですわ」
 「あ! あの扇風機みたいなの背負って飛ぶ、あれのこと?」
 「ええ。操作に慣れると、自由に空を飛べるので気持ちいいですわよ」

大空を自由に飛んでいる光景を、思い浮かべてみる。
もしかしたら、雪華綺晶と一緒に、空を飛べる日がくるかも知れないなぁって。
そう思ってしまうと、あっさり死ぬのが惜しくなった。

 「それって、私でも、すぐ飛べるようになる?」
 「貴女は……いつ発作が起こるか分かりませんし。単独飛行は、すすめられませんわね」
 「そんな死に方も、望むところだけど」
 「ダメです! どうしても飛びたいのでしたら、私が連れていってあげますわ。
  これでもライセンス持ちですから、タンデム飛行も、お手のモノですのよ」
 「ホント?!」
 「私が退院したら、めぐの体調がいい日に、外出許可をいただいてフライトしましょう」
 「最高っ! 私ったらツイてるわ~」

ずっと、蒼穹を眺めながら、空を飛びたいと願っていた。
その夢は、ちょっと手を伸ばせば掴めそうなところに、確かにある。
でも、なにかを得ようと思えば、必ず対価は求められるものだわ。
私には、ナニがある? 対価として払えるものを、私は持っている?

考えてみて、愕然とした。
……なにもない。

 「ゴメンね、雪華綺晶。私には、明日の手術、頑張ってとしか言えない。
  あなたは私の夢を叶えてくれようとしているのに、私は、なにもしてあげられない」

それが、ものすごく悔しかった。
知らず知らずのうちに、涙が溢れてくる。
私はただ、「ゴメンね」を繰り返すばかりで、結局、雪華綺晶を困らせている。

なのに、彼女は、涙に濡れる私の頬を、柔らかな手つきで包み込んで――


 「では、勇気をください。それで契約しましょう」


――と。
意味を問い返す暇もなく、私の唇は、雪華綺晶の唇によって塞がれていた。

それが、どれだけ続いたのか、憶えていない。
ただ、アタマが真っ白になって。
いつの間にか、涙さえ止まっていた。


 「……んふ。めぐの唇、キャベツ太郎の味がしましたわ」
 「なっ?! ば、バカ……」

そりゃ確かに、病室でお喋りしながら食べてたわよ、キャベツ太郎。
でもね、それを言ったら、雪華綺晶だって――

 「あなただって、ハートチップルの匂いがするじゃない! ニンニクくさっ!」
 「うっ! それを言われると」
 「あーもうっ。ムードもなにもブチ壊しよ」
 「お菓子だけに、おかしな結末ですわね。お後がよろしいようで」
 「……最悪」

本当に、顔から火が出るくらい恥ずかしくて、人生で最悪の出来事だった。

だけど、無かったことにするつもりも、なかった。
私が死の間際に立たされたときには、きっと、いい思い出になっていると予感していたから。


  ~  ~  ~


そんなコトがあってから、およそ1ヶ月が過ぎた、ある日。
私は、雪華綺晶の操るパラモーターで、夢にまで見た大空を飛んでいた。

彼女の手術は、無事に済んでいた。
右眼の視力を失ったものの、他への転移は、今のところ見られないと言う。
そこで、私の体調を見ながら、主治医に外出許可をもらったの。

不思議なことに、あれからの1ヶ月、私の体調は、すこぶる良かった。
心境の変化が、病状を劇的に快復させることがあるって話を聞くけれど、
まさか、そんなことが自分の身に起こるだなんて、思ってもみなかったわ。


  病は気から。為せば成る……か。


それにしても、なんて気持ちがいいんだろう。
眼下にも、周囲にも、私を閉じこめるものは、なにもない。
私は、雪華綺晶の耳元に顔を寄せて、モーターの音に負けないくらいの大声を出した。

 「ありがとう、天使さん」

私に向けられた彼女の瞳が、どういたしまして、と語りかけてくる。

幸せだ。
本当に、私の人生で最高の、至福の瞬間だった。

夢が叶った。天使と共に、空を飛ぶ夢が。
なんだか、ホッとしちゃった。
もう、なにも思い残すことなんか……ない。

無上の喜びに全身を包まれながら、私は――
雪華綺晶の頬にキスをして、彼女の肩に、頭を預けた。

そして、囁きかける。
彼女に聞こえようと、聞こえまいと、どっちでもよかった。


 「長かったわ、今日まで。本当に、長い長い闘病生活だった。
  ちょっと、疲れちゃった」

 「……めぐ?」


雪華綺晶が呼びかけてくるけど、キニシナイ。
私は、深く息を吸い込んで。


 「もう……ゴールしても良いよね」


大きく吐息すると、そのまま、瞼を閉ざした。




 「めぐ? ……めぐ?」



 「まさか…………そんな! こんなのウソですわ!
  お願いですから、目を醒ましてっ! ねえっ! めぐっ!」



あまりに狼狽えた声を出すものだから、もう我慢の限界。
私は笑いを堪えながら、目を開けた。

 「――――なワケないじゃぁぁん」
 「…………はぃ?」

雪華綺晶は、呆気にとられた様子で、すっかり涙目になっていた。
もう少しだけ焦らしてたら、ホントに泣き出しちゃったかもね。
それはそれで、見てみたかったけど……また次の機会のお楽しみってコトで。

 「ビックリした? 私、けっこう死んだフリが巧いでしょ」
 「ふ、ふは……はひひひ」

ようやく、からかわれたと悟ったらしく。
半泣きの顔に、引きつった笑みを浮かべて、雪華綺晶は安堵を滲ませる。
そして、次の瞬間!

 「もう貴女ゴールしちゃいなさいっ!」

彼女は般若のごとき形相で、私の頸を右手で鷲掴みにした。
でも、そんなことをしたら――

 「ぐがが……ちょ、きら……操縦して……落ち」
 「ふえ? あわわわっ?! き、きゃーっ!」
 「いやぁーっ! 死んじゃうー!」




――と、まあ九死に一生を得る体験もしたけれど。
私は、ちゃんと生きている。たまに、雪華綺晶と一緒に、空も飛んでいる。
やっぱり、天使が味方だと、死の方が逃げていくみたいね。



今日も、病室の窓から空を眺める。
もうしないって決めてたけど、あれはウソ。


  だって、ほら――


  ここから見る世界には、パラモーターを操る天使が居るんだもの。




  Fin