あの物語で、太郎は箱から噴き出した白煙を浴びて、老人になった。
竜宮城と現世におけるタイムラグを、一気にリセットしたからだ。
では――私はいつ、その箱を開けたというのか。

 「もしかして……《九秒前の白》のことを、打ち明けたから」

真紅と、きらきーの話を話したがために、この状況が引き起こされた……と?
向こうで感じた幸せの、対価として。

 「もし、そうだとしても――」

だったら、私のみを不幸にすればいい。私の身を傷つければいい。
連帯保証人じゃあるまいし、誰かを巻き添えにする必要なんて、どこにもない。
それなのに……どうして。
口惜しさに唇を噛みながら、私は、目の前のベッドに視線を落とした。



お父さまは、俯せの姿勢で、ベッドに寝かされていた。
ここは集中治療室。見慣れない医療機器に囲まれ、お父さまは眠りに就いている。
お医者さまも看護士さんも、夜明け前には、一連の処置を終えて出ていった。
今は、私たちだけ……。

一命を取り留めたものの、お父さまの具合は依然として、予断を許さない状態だ。
当たり前よね。倒れてきた電柱の、下敷きになったんだもの。

折れた肋骨が背中に突き抜けていたり、椎骨が砕けたり、歪んでしまったり。
数時間にも及ぶ手術で、見た目だけは元どおりだけれど……
それは背骨や肋骨に沿って埋め込まれた、金属の固定具があっての話だ。

脊髄の損傷度合いによっては痺れが残り、悪くすれば下半身不随になるかも。
お医者さまには、そう説明された。


 「お父さま」

胸がはち切れそうに痛くて、喘ぐように口を開けば、溜息が零れるだけ。
私には医学なんて解らない。
専門家の話を鵜呑みにして、不安に苛まれながら、祈ることしかできない。

だけど、それでも、生きていてくれたから……
わずかでも気休めの余地があるだけ、まだ救われていた。
それすらできない状況になっていたら、きっと、罪悪感に押し潰されていた。
今度こそ本当に、私は生きていなかったに違いない。

 「お父さま。私……ちょっと家に戻ります。
  着替えとか、洗面用具とか……いろいろ持ってこないと」

お父さまの頬に触れて、微かな息づかいと肌の温もりを確かめた。
麻酔が効いて熟睡している。どうせ聞こえてない。それでも、私は話しかけた。
いつもみたいに振り向いてくれるんじゃないかしらと、淡く期待しながら。




半日ぶりくらいで帰り着いた家の様子は、ほぼ昨夜のままだった。
工房の床の、砕けたティーカップ。作業机に横たわる人形。お母さまの写真。
そもそも、ドアには鍵さえ掛かってない有り様で。
いかに、お父さまが必死になって追いかけてくれたかを、物語っていた。

私がいないと知るや、取るものも取り敢えず、外に飛び出して――
そして、荒れ狂う海に身を投げた私を見つけて、命がけで救ってくれたのだ。
どうしようもなくバカな、こんな私を。

 「ごめん……なさい」

また、涙。
どうして8年もの間、一度も泣かずに生きてこられたのか……不思議でならない。
私って、本当は、すごい泣き虫なのかも。そうとしか考えられない。

 「ヤダな、もぅ。とにかく…………入院の支度……しなきゃ」


――でも、その前に。
眼帯で、おまじないをしたほうが、よさそう。
これから先も、コトある毎に泣いてばかりでは困るから。

グズグズと鼻を啜りながら、お父さまの作業机に歩み寄った。
お母さまを模した人形と、お母さま本人の写真。
そして、そこに、私の眼帯も並べてあった。きちんと、拾っておいてくれたのね。


 「ありがとう……お父さま」

私は眼帯を手にとって、握った拳を、胸に押し当てた。



洗面所で、グシャグシャの泣き顔を洗い引き締めてから、眼帯を着けた。
少しは、まともな顔になったかな……鏡を覗き込んで、微笑んでみる。
その鏡像が、ふと《九秒前の白》で会った妹の顔と重なり、私は息を呑んだ。

髪の感じ、金色の瞳、面差し。どれをとっても、よく似ている。生き写しだ。
……と、言うか。

 「どうして、今まで忘れてたのかしら」

私は、しばらくの間、鏡を見つめたまま、愕然と立ち尽くしていた。
あれは――『きらきしょー』とは、私の……幼い頃の姿に他ならない。
正確には、子供だった私が憧れていた、理想の自分。


腐臭の澱む、ろくに陽も当たらない路地裏に座り込んで、私は眺めていた。
祭りに沸く街角を、煌びやかに着飾った子供たちが、親の手を引いて駆けてゆく様を。

私も、あんな風に――
みすぼらしく、異臭を放つボロを纏った私には、その世界が、とても眩しく見えた。

汚れひとつない、洗いたての匂いのする服を着て、美味しい物を食べて……
ありとあらゆる祝福を与えられた、幸せな、美しい女の子。
羨望と憧憬は、飽くことなき妄想の糧。
いつしか、私は自らの中に、別の人格を生みだすまでの夢想家に成長していた。

アリス――と言うのが、もうひとりの私の名前。
お父さまたちと出逢うまで、アリスは私の、唯一の友だちだった。


ヘドロ臭い運河の水面に写した、自分の姿。
そこに居る女の子こそが、アリス……私の分身。
汚れた水に投影された、汚れた娘の鏡像だというのに、彼女はとても美しかった。


アリス――『きらきしょー』の居た世界。
《九秒前の白》とは、つまり私の妄想が築きあげた、仮想空間なのかしら?
お母さま――真紅が言っていたことを、反芻してみる。


 『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』

 『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』


あれは、妄想を紡ぎ続けなさいと。
せっかく産まれた世界を、守って生きなさい――と。そういう意味だったの?
でも、それならどうして『きらきしょー』は、アリスと名乗らなかったのか。
彼女と一緒にいた、お母さまは…………だぁれ? まさか、本物の幽霊?

解らない。こんがらがってきた。
どうして私って、こうバカなんだろう。毎度のことながら、自己嫌悪。

 「ああ……もぅ、ヤメヤメ。悩む前に、始めなきゃ。いろいろと」

私はコツンとアタマを叩いて、おかしな考えを追い出した。
とにもかくにも、病院に持っていく荷物を、纏めなければ。
それに、当分は休業するとは言え、工房とお店を掃除しておかないと。
今は、私だけが、ここを守れるのだから。



まずは、割ってしまったティーカップの片づけ。
売り物のお人形を並べ直したり、ショーケースのガラスを拭いたり、箒で床を掃いたり。
家事に専念しているところに、来客を告げるドアベルが鳴った。

 「ごめんなさい。しばらくお休――あ」

店に入ってきたのは、隣で喫茶店を経営している、お父さまの古い親友だった。
切れ長の眼をした優男ながら、ここ一番では頼りになる人だ。

 「白崎さん……あの、昨夜は……ありがとうございました」
 「なぁに、気にしないでいいよ」

白崎さんは、人好きのする笑顔で、ひらひらと手を振った。
昨夜は、この人が、すべて手配してくれたのだ。泣き喚くだけの私に代わって。
その後も、お父さまの手術が終わるまで私に付き添い、慰めてくれていた。
もし、この人が気づいてくれてなかったら……と思うと、ゾッとする。

 「槐くんが一命を取り留めて、まずは、ひと安心だね」
 「でも……まだ、予断を許さない状況だって、お医者さまが」
 「彼だって若いから、回復力もあるし、きっと大丈夫だよ」
 「はい」

俯いた私のアタマを、白崎さんの手が優しく叩く。ぽふぽふぽふ……。

 「ほらほら、落ち込んでる暇なんかないよ。君が、しっかりしなきゃ。
  槐くんが帰る場所は、ここしかないんだからね」
 「それは、解ってます……けど」
 「笑う門には福きたる、って言うだろう。ほぉーら、スマイルスマイル~」

むにに……と両の頬を摘まれて、ムリヤリ笑顔にさせられた。
知り合ったときから、こういう人だ。ちょっと強引で、戯けかたが道化っぽい。
でも、気さくで、なんだか憎みきれない人。

白崎さんの指が離れても、私の作られた笑みは、崩れなかった。
むしろ、自然と笑いが沸いてきたから不思議。
思わず噴いてしまった私を見て、彼も満足そうに破顔した。

 「掃除が終わったら、病院に行くんだろう?
  いろいろと持っていく物もあるだろうし、僕の車で送ってあげるよ」
 「白崎さん……お店は?」
 「心配いらない。頼れるワイフが、ちゃんと切り盛りしてくれてるからね」

こんな人にも、奥さんがいる。名前は、めぐ。大学の同期生だったとか。
感情の起伏が激しいところはあるけど、基本的に、優しい女性だ。
それに、黒髪と喫茶店のエプロンが似合う、とっても綺麗な人。
お母さまが亡くなってから、この白崎夫妻には、とても良くしてもらってきた。

 「掃除なら、僕が代わってあげるから、君は荷物を纏めておいで。
  おなかも空いてるだろう? 病院に行く前に、ウチで食べていくといいよ。
  ……だけど、まずはシャワーを浴びるべきだね」

言われて、今更だけど気づいた。私、昨日から着替えてない。
髪はバサバサだし、服はムワッと潮臭くて、とても人前に出られたものじゃなかった。

 「打ち身が痛くて洗いにくいようなら、僕が手伝ってあげようか」
 「…………めぐさんに言いつけますよ」
 「失礼しました、お嬢様。それだけは勘弁してください」

セクハラまがいの軽口も、沈みがちな私の気を紛らそうとの、配慮だったのだろう。
私は身支度を整えてから、めぐさんのアドバイスに従い、当面の荷物を纏めた。
白崎さんの店でお昼をご馳走になってから、彼の運転する車で、病院へ――



お父さまは、依然として、昏々と眠り続けていた。
手術で背中を切開したから、俯せ寝のままだけれど、苦しそうな寝顔ではない。
「やれやれ、いい気なものだねえ」とは、白崎さんの感想。

 「せっかく、愛娘がお見舞いに来てくれたっていうのに」
 「いいんです。今まで……働き過ぎな感もあったし」
 「文字どおりの骨休めだったら、どんなに良かっただろうね」
 「……本当に」

何本も骨を折っている状態では、洒落にもならない。
いつか……こんなコトもあったねと、みんなで笑い合える日がくればいいけど。

 「――さて。僕は、引き上げるとしようかな」
 「え? 来たばかりなのに」
 「目を醒ましそうもないからね、彼。また日を改めて、様子見に来るよ。
  薔薇水晶。君は、どうするんだい。帰るなら、送ってあげるけど」
 「いえ、あの…………もう少し、残っています。
  お医者さまから、治療のことで……お話あるかも知れないし」

解った、と頷いて、白崎さんは踵を返した。「だけど、無理はしないように」

 「ありがとう、白崎さん。めぐさんにも、よろしく伝えてください」
 「話しておくよ。それじゃあ、また」

集中治療室のドアが、そっと閉じられる。
それよって、廊下から流れ込んでくる諸々の音は、すっかり遮られてしまった。

静かだった。まるで、この部屋そのものが《九秒前の白》と化したような――
そんな錯覚をしてしまうほど、濃密な静寂が、この場を支配していた。
医療機器の動作音はするけれど、それさえも、掠れて聞こえるほどに。
私は、ベッドの脇にスツールを置いて、腰を降ろした。


 「どんな夢……見てるの?」

長い長い、眠りの時間。
それが、せめて楽しい夢ならばと、願わずにはいられない。
たとえば――真紅や、きらきーに出会える夢とか。

ああ、でも、楽しすぎるのも考えものか。
夢の世界にドップリ浸かって、こっちに戻ってくれなくなったら困る。
私だけでは、あの工房を守ることなんて……できっこない。

 「せめて――私が、お母さまと同じくらい……賢かったら」

詮ないこととは承知の上で、泣き言を呟いてみた。
もちろん、本当に泣いたワケじゃない。
眼帯の封印は、神憑り的な効果を発揮して、私の涙を堰き止めている。

ベッドに肘を乗せ、頬づえを突いて、間近で、じっくりと寝顔を観察する。
けれど、お父さまは規則ただしい呼吸を、繰り返すばかりで。
頬をツンツンしても、耳に息を吹きかけてみようと、まったく反応なし。
本当に、よく眠っている。憑き物が落ちたような、安らかな表情で。



今だったら――
そんな想いに背を押されて、私は身を乗り出して、お父さまの耳元に唇を寄せた。

 「……槐……さん」

この人を名前で呼ぶのは、憶えている限り、これが初めて。
だから、なのか。それだけのコトなのに、ドキドキと、胸が苦しい。

でも、さっきまでの不安な胸騒ぎとは、根本的に違う。
嬉しかったり、楽しいときのような、フワフワする感じの――
巧く表現できないけれど、とても気持ちのいい胸のざわめきだった。

 「だいすき」

今まで、何度も口にしてきた言葉だけど。
今ほど、想いを込めて囁いたのは……やっぱり、初めてだと思う。
仰向けに眠っていてくれたなら、本気の証しをあげられたのに。
人口呼吸なんかじゃない、本当のキスを。

……ううん。これは、これで良かったのかもね。
眠っている間に、コッソリ……なんて一方通行では、満足できないもの。
誰よりも、好きだから――
だからこそ、もう一度、真剣に想いを伝えたい。
そして、叶うものなら、しっかりと受け止めて欲しかった。

 「今はまだ……これで、我慢しておくね」

お父さまが目を醒まさないよう祈りながら、私は……
伸び始めの無精ヒゲを避けて、そっと、彼の頬に口づけた。


病室のドアが無造作に開けられたのは、まさに、その直後。
ビクン! と飛び上がった弾みで、私はスツールごと床に倒れてしまった。
ノックも無しにドアを開けた、不埒な粗忽者はと言うと……

 「おやぁ? うたた寝でもしていたのかい」

と悪びれる様子もない。まったく……誰のせいだと思っているのか。
飄々とし過ぎるのにも程がある。私は立ち上がって、白崎さんに詰め寄った。

 「……し、白崎さんっ! ノックぐらいしてくださいっ」
 「これは失敬。驚かすつもりじゃなかったんだけどね」
 「悪気がないなら、余計に質が悪いです」
 「いやはや、確かに不注意だったね。申し訳ない」

白崎さんはアタマを掻き掻き、眉毛で八の字を描いた。
ホントにもう……困った人だ。憎めないところが、また憎たらしい。

それにしても、なんで戻ってきたのかしら。

 「てっきり帰ったとばかり……どうして、また?」
 「それが、駐車場を出ようとした矢先に、奥さんから電話があってね」
 「めぐさんが?」

眼で続きを促すと、白崎さんはベッドに伏せるお父さまを、チラと窺った。

 「夕飯には絶対、君を連れてこいって。君を元気づけようと、準備してたらしい。
  腕によりをかけて作った料理を、ご馳走してくれるそうだよ」
 「そんな。そこまで……甘えられない」
 「いやいや。僕らの間で、遠慮は無しだよ」

それに、と。白崎さんは、喋りかけた私を遮った。

 「槐くんが目を醒ましたら、忙しくて休む間もなくなるだろうからね。
  今夜中は起きないだろうし、英気を養える内に、しっかり休んでおいた方がいい」

一理ある。いつも白崎さんの車で、送迎してもらえるワケじゃない。
毎日、洗濯物などの荷物を抱え、病院と自宅を往復するのはキツイだろう。

 「そういうワケだから、ご招待されてくれないかな?」
 「ええ。じゃあ……お言葉に甘えて」

食事の用意までしてくれた2人の心遣いを、無下にはできない。
それに、今は誰かとお喋りしていたい気分だった。話題なんか、なんでもいいから。

 「よし、決まりだ。この時間だと道が混むけど、ちょうどいい頃合いに着けそうかな」

私は白崎さんに背中を押されて、ベッドから離れた。
病室の出入り口で歩を止め、一度だけ振り返る。
そして、ココロの中で囁きかけた。(あなただけを、ずっと想っています――)




白崎邸で夜食をご馳走になり、私は自宅に戻った。
よく眠れるようにと、紅茶に赤ワインを入れて、舐めるように嗜んだ。
眠りが浅いとき、お父さまは、よくこうしてワイン入り紅茶を飲んでいた。
それを、ちょっとばかりの興味から、真似してみたのだ。

……が、ちょっと分量を間違えたらしい。飲み干して、ややも待たず、顔が熱くなってきた。
歩くと、足元が覚束ない。アタマも、クラクラしてる。
もう寝よう――とは思うものの、なんとなく、独りでベッドに入るのが嫌で。
私は工房に行って、お父さまが仕事で使っている椅子に、腰をおろした。

お母さまの写真と、彼女を模した人形が、もの言わず私を見つめている。
もしかしたら、未成年のくせに飲酒したバカ娘に、呆れて言葉もないのかも。

 「……なんて、ね」

人形は、喋ったりしない。故人は、言葉を並べたりしない。
そのくらいは、分かっている。
理屈では解っているけれど、でも……やっぱり。

 「声が……聞きたいな。夢で……また、逢――かな?」

行けるものなら、行きたい。あの、真っ白な泡沫の世界へと。
私は、酔いの怠さに抗いきれず、作業机に両腕を重ねて、突っ伏した。
そのまま、じっとしていると……瞼が、とろん。
まるで、直火に炙られたチーズみたいに、とろとろと垂れ下がってくる。

何度か、ハッと目を開くも、ことごとくが徒労に終わった。
そして気づく。どうして、無理して起きようとしているんだろう、と。
眠ってしまえばいい。目を閉じて、もわもわと広がる無意識に沈みかけた、その一瞬。


 『夜は眠りの時間よ。おやすみなさい』


脳裏で囁かれた声が、優しい余韻を引く。
それは、お母さまの――真紅の口振りに、間違いなかった。
でも……その声音は彼女のものではなく、私の声だった。






最終更新:2008年09月26日 01:02