―長月の頃 その2―  【9月9日  重陽】
 
 
相も変わらずの強い日射しが、露わな乙女たちの柔肌を、容赦なく炙る。
その炎天下を、怠そうに並んで歩くのは、翠星石と雛苺。
乾く間もなく汗が滲み、濡れた薄手のシャツが、背中に貼り付いていた。
 
けれど、彼女たちの一挙一動が精彩を欠く理由は、暑さばかりではない。
なにより大きな影響を及ぼしていたのは、重たく沈んだココロ。
 
 
フランスに発つ蒼星石とオディールを見送った、その帰り道――
翠星石は、足元の濃い影に目を落としつつ、時折、力の抜けきった息を吐く。
祭りの後にも似た空虚と、喪失感。
空元気さえ絞りだせないほど、彼女の気力は萎えていた。
 
雛苺もまた、そんな翠星石の心境が解ってしまうだけに、胸を痛めていた。
どうにかして元気づけてあげたい。でも、どうすれば喜んでもらえるのか。
乗り継ぐ電車の中でも、あれこれ話題を振ってはみたけれど、会話は弾まず。
雛苺の努力も虚しく、こうして、住み慣れた街へと戻ってきてしまった。
 
 
「うよ?」
 
それでも、根気よく話題を探し求めていた雛苺の瞳が、よさげなモノを捉える。
見ず知らずの民家。その広く日当たりのよい庭に並ぶ、いくつもの鉢植え。
 
青々とした葉の鮮やかさが、見る者の眼を奪う。
いずれの鉢にも丈の長く伸びた茎と、蕾らしきモノもついていた。
 
「ねえねえ、翠ちゃん。あれ、なーに?」
「……ん? どれですぅ?」
「お庭に、いーっぱい植木鉢が置いてあるのよ」
「ああ――」
 
雛苺が指差す先を見遣って、翠星石が得心顔をする。
「あれは、キクですよ。観賞用の、大輪の花が咲く種類です」
 
言って、翠星石は、今日が五節句のひとつ『重陽』であることを思い出した。
正確には、旧暦の9月9日――現在の暦では、10月中旬から後半頃にあたる。
キクの開花する時分と重なることから、キクの節句とも呼ばれてきた。
 
「大輪って、どのくらい? いつ咲くなのー?」
「ん~。品種にもよるですけどぉ……だいたい、このくらい……ですかねぇ」
 
と、翠星石は両手で、直径10センチほどの円を形づくって見せた。
「咲くのは、あと一ヶ月ほど後ですぅ」
 
こと草花に関する翠星石の造詣は、博士号を与えてもいいくらいである。
円転自在。植物について語るときの表情は溌剌として、実に愉しげだ。
好きこそものの上手なれ、と言うように、好きだからこそ蘊蓄も深まるのだろう。
やっと、いつもの彼女らしさを見られて、雛苺も嬉しくなった。
 
「わぁ楽しみ。そんなに大きなお花だったら、きっと食べ応えがあるのよー」
「はあ? おめーは、ホントに食い意地が張ってるですねぇ」
 
気をよくし過ぎて、翠星石に呆れられるのは、毎度のこと。
 
「食用のキクは、また品種が違うです。きっと、品評会とかに出品するですよ」
「ほえ~、そうなんだぁ。にゃははは……知らなかったなの」
「来月の今頃に来れば、ちらほら咲き始めてるかもです」
「なんかヒナ、わくわくしてきたのよー」
「また見に来ればいいです。ほれ、もう行くですよ」
 
ずっと日なたに突っ立っていたら暑い。翠星石は言下に、歩きだした。
あまり長く余所の家の庭を覗いて、あらぬ誤解を招くのも嫌だったのだろう。
語られなかった翠星石の心境を如才なく察して、雛苺も素直に従った。
 
 
それから暫くは、また無言で歩く2人。
雛苺は肩に掛けたポシェットから携帯電話を抜きだすと、メールのチェックを始めた。
いい加減、翠星石を気遣いながら話しかけることに、疲れたのかも知れない。
 
だが、急に黙られてしまうと、それはそれで奇妙な胸苦しさを感じるもので。
なにか喋らなければ……。意味もなく、逸る心持ちにさせられる。
雛苺の様子を横目に伺いながら、翠星石が話しかけるタイミングを計っていると――
 
 
「あっとゆーま、あっとゆーま、あっとゆーまー♪」
彼女より先に、雛苺が歌を口ずさみだした。
 
なにが、『あっとゆーま』なのか。翠星石は片眉をあげて、首を傾げた。
キクの開花までの一ヶ月を、すぐのコトだと笑い飛ばしているとか?
それとも、大した思慮もなく独りごちただけなのか。
翠星石が考え込んでいる間も、雛苺の『あっとゆーま』は途絶えなかった。
 
 
「なんです、その歌は?」
 
あんまり、同じ部分だけ繰り返すものだから、翠星石も鬱陶しくなり訊ねた。
喋らせれば、ひとまずは歌うのを止めさせられる。そんな意図からだ。
 
果たして翠星石の思惑どおり、雛苺は歌を区切って、説明を始めた。
「これ、テレビ番組『アッー! とUMA』のテーマソングなのよ」
 
雛苺の語るには、未確認生物(UMA)を探すスペシャル番組なのだとか。
聞きながら、翠星石は『ホニャララひろし探検隊』を想像していた。
 
「でねっ、でねっ、ヘンなもの見つけたら『おったどー!』って叫ぶのよー」
「……へえ」
「すっごい人気で、視聴者からの目撃情報も、いっぱい寄せられてるなの」
「ふぅん。そですか」
 
元より、あまり興味もなかったから、翠星石の受け答えは素っ気ない。
それに気づいて、雛苺が口を噤んだ。
だが、申し訳なさそうな顔をしたかと言えば、答えは否。
むしろ逆で、雛苺はニタリと眼を細め、いやらしい笑みを作った。
 
「もしかして……知らなかったの? わぁ、遅れてるのよ~」
「な、なに言うです」
 
よもや、バカにされるとは思っていなかったようで。
一瞬ムッと柳眉を逆立てたものの、翠星石は澄まし顔を作って、鼻を鳴らした。
 
「知ってるですよ、そのくらい」
「えー? ホントぉ~?」
「あまりにも調子っぱずれで音痴だったから、すぐに解らなかっただけですぅ」
「ぶー。ヒナ、音痴じゃないもん」
「音痴なヤツほど、そう言うですよ。音感が狂ってるから、自覚できねぇのです」
「違うのっ! 音痴じゃないなのー!」
 
暫し、音痴か否かで不毛な応酬が続けられて――
「――はふぅ。今日は、このくらいで勘弁してやるです」
 
優勢のうちに逃げ切り勝ちを掴むべく放たれた、翠星石の台詞。
ところが、彼女の目論見どおりに、事が収まるかと思われた矢先。
 
 
  がさっ! ぞるっ!
 
民家と民家を隔てる植え込みから届く、茂みを揺らす音が、2人の会話を切った。
一斉に、物音のした方へと顔を向ける娘たち。
ツツジの枝が、ゆらーりゆらり……招くように揺れている。
 
「うよ? 今のなーに?」
「わからんです。ニャンコかワンコか、鳥ですかね?」
「違うと思う。もっと、おっきい感じだったのよ」
 
雛苺の意見には、翠星石も頷くより他になかった。
聞こえたのは確かに、重たくて、そこそこ体積もある物体を引きずった感じの音。
犬猫や野鳥ならば、ツツジの枝を揺らしたりしないだろう。
 
では、いったい何なのか?
考えること、数秒。雛苺が、やおら手を打ち鳴らした。
「解ったなのっ! きっとUMAなのよ」
 
おバカ。翠星石が即座に、冷たく突き放す。
 
「そんな簡単に確認できるなら、UMAとは呼ばねーです」
「えー? でもでもっ、分かんないのよー」
「おめーの頭のほうが、よっぽどワカランチンのトンチンカンですよ。
 論より証拠。目ん玉かっぽじって、よぉ~く見てるですぅ」
 
言うが早いか、翠星石は近くに落ちていた棒きれを拾って、藪を突っつきだした。
 
「ほぉーれ、出てこいやーですぅ」
「す、翠ちゃん……止めたほうがいいのよ。危ないなの」
「この手のヤツは大概、脅かせば逃げてくですよ。退いたら負けですぅ」
 
翠星石は調子に乗って、なお一層、激しく藪をかき回す。
――が、次の瞬間、棒きれはビクとも動かせなくなり、彼女の手から奪い取られた。
なにが起きたのか解らず、声を出すことさえ忘れて、立ち尽くす翠星石。
雛苺も、ただならぬ様子を敏感に察知して、身を強ばらせた。
 
2人に訪れる、なんだかよく分からない急展開。
茂みのざわめきが、翠星石たちへと近づいてきた。しかも、意外な速さで。
ソレは植え込みの枝葉を折りながら、ヌッ! と、翠星石の足元に顔を覗かせた。
 
「ヒィッ?!」
「ぴゃっ!?」
 
喉を鳴らし、カカシのように立ち竦む翠星石と、雛苺。
さもありなん。彼女たちの眼前には、動物園にしか存在しないはずの生物が、居た。
 
「わ……わわ……ワニ、ですぅ」
 
どう見ても、ワニ。紛れもなく、ワニ。近すぎちゃって、どうしよう。
頭から尻尾の先まで、少なく見積もっても、3メートルはあろうか。
どこかの無責任者が、大きくなりすぎて飼えなくなったペットを、捨てたのかも知れない。
 
「き、きっと人喰いワニなのよ。これがホントのワーニングなの」
「ダジャレなんか言ってる場合かですぅ!」
 
極度の緊張から、ついつい声を荒げた翠星石が、獲物と認識されたのか。
ワニが、のしのしと接近してきた。彼我の距離、およそ50センチ。
 
慌てて飛び退こうとした翠星石だが、「きゃぅっ!」
髪が脚に絡みついて縺れ、尻餅をついてしまった。
雛苺も咄嗟に、そんな翠星石を助け起こそうとしたけれど、ワニのひと睨みで硬直。
 
「あわわわ…………は、は……早く……たた、た、助けるです」
「う、うぃ。そ、そ~っと、そぉ~っと」
 
ワニを刺激しないように、忍び足で接近を試みるも――がふり! 
噛みつく素振りで威嚇されて、失敗。雛苺は怯んで、弾かれたように後ずさった。
 
「す、翠ちゃん。うと……あの、ね」
「なな、なんです。ヘンに言い淀むなです」
「じゃあ」
 
雛苺は決意のこもった眼差しを、翠星石に注いだ。
そして――
 
「迷わず成仏してなのー!」
 
踵を返すや、百メートル10秒を切りそうな勢いで走り去った。
冗談じゃないと慌てたのは、翠星石である。
 
「あぁーっ! 待てやコラぁ! 私を置いて逃げるなですぅ!」
 
怒鳴って追いかけ……たかったが、抜けた腰と、萎えた脚では、それも儘ならず。
ガタガタ震えながら、両腕とお尻で後ずさることしか、できなかった。
そんな翠星石の悪あがきを嘲笑うかのごとく、ズンズンズンと近づいてくるワニ。
 
「ここ、こっち来んなです! 蹴飛ばすですよっ!」
 
がなりたてても、所詮は虚勢。翠星石の両脚は脱力しきって、立つことさえ無理。
むしろ、彼女の怯えが、ワニの闘争本能を刺激してしまったらしく……
 
 
  グァバァ――!
 
いっぱいに開かれたワニのあぎとが、翠星石に迫る。
このままでは、鋸を彷彿させる牙の列で、アタマから痛快丸かじり。
それが解っていても、翠星石に許された行動は、両腕を前に翳すことだけだった。
 
「はひぃ!」
 
蒼星石っ! 思わず、妹の名を胸裡で叫んでいた。
ほんの数時間前に別れたばかり。あれが、今生の別れになってしまうだなんて。
もっと話したかったのに……もっと、たくさん。
 
目頭が熱くなり、翠星石は双眸から、ブワッと涙を溢れさせた。
元より涙もろい質だったが、蒼星石にもう逢えないと思えば、尚のこと。
噴きだす悲しい想いは、留めようがなかった。
 
 
――ところが。
 
「……は、れ?」
 
いつまで経っても、ワニは食いついてこない。大口を開けたまま停まっている。
どうなっている? 怖々と両腕を降ろした翠星石の頭上から、
 
「ここで、ネタばらしー」
 
やたら軽い口振りが降ってきた。
涙の残る双眸で、ぐるり見回すと……看板を右手に持った娘が背後に立っていた。
 
「おっす、翠ちゃん。少しは、涼しくなった?」
「……ば、ばら……」
「うん、ばらしーだよ。これ、なにか分かる? ミキプルーンの苗」
 
言って、薔薇水晶は左手に持ったラジコンと思しいプロポを、掲げて見せる。
と同時に、右手に持つ看板を、翠星石の鼻先に突きつけた。
そこにプリンターで印字されていたのは――
 
  『どっきりビデオ』
 
カメラは、あっち。
薔薇水晶が指差すほうを見遣れば……電柱の陰に見え隠れする、雪華綺晶の姿が!
ハンディカムのレンズを翠星石に向けて、ニタニタと歯を見せていた。
 
「な、な、な……」
 
たちまち混乱する、翠星石の思考。二の句を継ぐどころか、ほぼフリーズ状態。
薔薇水晶は、そんな彼女を心配するでもなく、プロポを弄くる。
すると、ワニの顎は閉ざされ、置物のように動かなくなった。
ニセモノか。そうと判れば、翠星石の恐慌状態も、じわじわと消えていった。
 
「これ……どうしたです?」
「お父さまが造った、ワニ型ロボット。本物そっくりに動く。
 他にも、サメとか恐竜とか、ゾンビとか……映画の撮影に使われたのもある」
「ふぇ? 人形師だって、聞いてたですけど――」
「ロボットも、広義に解釈すれば、自動人形と呼べるのではないかしら?」
 
横から掛けられた声に振り向けば、すぐ傍らに雪華綺晶の微笑。
いつ接近していたのか、彼女はカメラを構えたまま、翠星石の脇に屈み込んでいた。
 
「お父さまは、その道のプロですのよ。俗に言う、サイバネティクスでしょうか」
「サイバ……バ?」
 
トボケた翠星石の脳天を、薔薇水晶のまさかりチョップが撃つ。
それも、かなり本気モードで。「お父さまを……愚弄しないで」
一度は引っ込んだ翠星石の涙が、またぞろ溢れてきた。
 
「ぐぬぬ……い、痛いですぅ」
「あらまあ、可哀想に。よしよし、痛いの痛いの飛んでけー」
 
雪華綺晶は雪華綺晶で、撲たれた箇所を撫でるのかと思いきや、ペチペチ叩く始末。
口は災いの元。まったくもって、先人は巧いことを言ったものだ。
翠星石は、シッシッと雪華綺晶の手を払い除けて、憤然と立ち上がった。
 
「ろくでもねぇイタズラしやがる姉妹ですぅ! 死ぬほど驚いたですよ!」
「私たちも、正直……予想外」
「雛苺さんの協力あっての大成功ですわねぇ」
 
いま、雪華綺晶の口から、聞き捨てならない台詞が漏れた。
協力? 雛苺が? 
 
「ちょぉっと待ったです! まさか、雛苺も仕掛人だったですか」
「うん。メールで……シナリオを伝えといた」
 
メール。翠星石は、ついさっきのコトを思いだした。
雛苺が携帯電話を弄りながら、調子はずれな歌を口ずさんだのは、つまり――
あのときに、薔薇水晶からの指示を受けていたと言うのか。
ならば、翠星石を見捨てて逃げたのも納得できる。すべてが布石だったのだ。
 
「……おぉ~のぉ~れぇ~、おバカ苺ぉ~。
 ぜったい許さんです! ぜったい許さんです! ぜったい許さんです!」
 
仕返ししなければ、とても怒りが収まりそうにない。
拳を握り締めて翠星石が言うと、薔薇水晶と雪華綺晶は顔を見合わせ、ニマリ。
 
「でしたら、私に妙案が。どっきりで意趣返し大作戦というのは、いかが?」
「私たちも……全力で手伝う。見返りは、撮影で」
「確かに、名案ですね。きしししっ……面白くなってきたですぅ」
 
 
  ~  ~  ~
 
マナーモードにしてある携帯電話が、小刻みに震えた。
メールの着信。薔薇水晶からだ。ドッキリ大成功の報告だろう。
 
雛苺は、慌てふためく翠星石を回想して、申し訳なく思いつつも、小さく笑った。
どんな仕返しをされるのかを思えば、ちょっと怖いけれど――
基本、翠星石は優しいから、きちんと謝って誠意を示せば、許してくれるだろう。
 
楽観的に構えつつ、新着メールを開くと、ディスプレイには、
 
 
  『どうしよう。非常事態。ワニ本物』
 
 
極めて簡潔な文字の列。意表を突かれて、雛苺は「ほよ?」と呟いていた。
非常事態? ワニ本物? それって、つまり……
 
「た、大変なのっ?! 翠ちゃんが」
 
大慌てで、転がるように取って返す。現場までは百メートルほど。
十字路を左折して真正面が、ワニとの遭遇ポイントだった。
 
直後、雛苺は、人生において最もショッキングな映像を目撃した。
路面に、ふてぶてしく身を乗り出して、くつろぎモードっぽいワニ。
その閉じられた顎からは、異物がはみ出していた。
 
どう見ても、人間の足首。
履いている靴は、翠星石のものに間違いない。
早い話が――
 
「す、翠ちゃんが……ワニに……食べ……ら」
 
そこからは、もうワケが解らなかった。
混乱した雛苺は、絹を裂くような悲鳴をあげて、脱兎の如く逃げだした。
振り返ったりしない。少しでも遠くに離れることしか、念頭になかった。
その様子を物陰から窺い、ニヤニヤしている3人娘の存在には、気づきもせずに。
 
 
走って、走って、周りの景色さえ分からないほど無我夢中に走り続けて――
雛苺は息も絶え絶えになりながら、自宅の玄関に飛び込んだ。
どんなルートで帰ってきたのか、思い出せない。依然、思考は混乱したままだ。
けれど、嗅ぎ慣れた自宅の空気が、雛苺の狼狽を、わずかだが和らげてくれた。
 
安堵の息を吐き、脱力したのもつかの間。
やおら携帯電話が震えだして、小柄な彼女を、5センチほど空中浮遊させた。
点滅するLEDの色が、メールの受信を報せていた。
 
「だ、誰なの? ばらしー?」
 
表示された情報は……違った。
送信者の名前は、翠星石。
 
「あ、よ……よかったのよー。無事だったのね」
 
そう思いたいばかりに独りごちた声は、不自然に固かった。
ワニが銜えていた足首と靴が、どうしても、雛苺の脳裏から離れない。
たまたま同じ靴を履いていた誰か――という可能性も、否定はできないのに、
あれは翠星石だと、頭から信じ切っていた。
 
祈るような気持ちで、メールを開く。
そこには、いかにも翠星石らしい、気っ風のいい文面があった。
 
 
  『よくも私を置き去りにしやがったですね!
   これからヤキ入れに行くから、ガクブルしながら待ってろです』
 
 
怒り心頭に達する、といったところか。
しかし、モノは考えようだ。怒ったり、メールを打てるほどには無事なのだろう。
雛苺は猛烈な脱力感に襲われて、ドアに背を預けたまま、その場に座り込んだ。
 
ほどなく、玄関先に人の気配を感じて、またもや、新着メールが届いた。
今度も、翠星石から。
 
 
  『着いたですよ。ちゃっちゃとドアを開けるです』
 
 
インターホンを鳴らせば済むのに、逐一、メールを送ってくるのは、何故?
奇妙に思いつつも、雛苺はドアを開け、恐る恐る、顔を出した。
 
 
――が、誰もいない。確かに、人の気配がしたのに。
 
「……うよ?」
 
小首を傾げ、なにげなく目線を下げた雛苺は、その直後、卒倒しそうになった。
そこには、人間の両脚――膝から下の部分が、ちょこんと揃えられていたのだ。
靴は、翠星石のもの。食いちぎられたような断面は、生々しく濡れている。
 
『お~バ~カ~苺ぉ~』
 
足首の辺りから、さも恨めしそうな翠星石の声が、話しかけてきた。
『私、食べられちまったですぅ。おめーが見捨てたせいでぇ……こんな姿にぃ』
 
とは言われても、雛苺だって、こんな展開は予想だにしていなかった。
気を紛らせてあげたくて、薔薇水晶からの誘いに乗った。それだけだ。
あくまで、軽い気持ちで……イタズラの範疇に留めるつもりだったのに。
 
「ごめんなさい、なの」
 
雛苺は、その場に跪いて、しゃくり上げ始めた。
「こんなコトになるなんて……ヒナ……思ってなくて……だから」
 
『――後悔してるですぅ?』
「してる、なの」
『じゃあ償いに、今日一日、私の言うことを、なんでも聞くですか?』
「……うい。ジャンピング土下座して、靴だって舐めてキレイキレイするのよ」
『そこまで思い詰めなくても、ほんのイタズ……あわわ。も、もういいですぅ!』
 
なんだか、死霊にしては元気がいいと言うか、口やかましいと言うか。
流石に、ナニか様子が変だと気づいて、雛苺が頭を上げると、そこには……
 
 
「ここで、ネタばらしーですぅ!」
 
門扉の陰から、『どっきりビデオ』の看板を手にした翠星石が、賑々しく姿を見せた。
正しくは、薔薇水晶におんぶされた翠星石が、である。
その後ろに従う雪華綺晶は、相も変わらず、ハンディカムで撮影を続けていた。
 
雛苺はと言えば、完全無欠の放心状態。
へたりこんだまま、涙も拭わず、いやらしく嗤う3人娘を呆然と眺めていた。
悪質なイタズラをされたのに、怒ることさえ、忘れてしまったかのようだ。
 
「気の抜けた顔してやがるですね。いっちょ、目ぇ醒まさせてやるです。
 こいつで――ポチッとな」
 
翠星石が、薔薇水晶から預かっていたリモコンのボタンを押す。
すると、雛苺の前にある足首のモックアップが、怪しく微振動して……パンッ! 
生々しい断面から、色鮮やかな火花と煙を噴きだした。
 
こんな仕掛けまで、内蔵されていたとは。
雛苺はもちろん、事情をよく知らない翠星石も、この小爆発には肝を縮めた。
ビクン! と身震いした様子も、雪華綺晶がバッチリ録画。
 
「も、もぉー。こんなのヒドイのっ!」
 
今になって我に返り、沸々と怒りが込み上げてきたらしく、雛苺が頬を膨らませる。
けれど、翠星石は、そんな憤りなどキニシナイ。
 
「おめーが言うなですぅ。ほれ、約束どおり、今日一日、私に服従するですよ。
 手始めに、その靴を持ってきて、履かせやがれです」
 
お互いさまと言われたら、返す言葉もない。
薔薇水晶たちに誘われたとは申せ、先に悪ノリしたのは、雛苺のほうだ。
むくれながらも、雛苺はモックアップから靴を脱がせて、翠星石の足に履かせた。
 
「ンッン――実に清々しい。歌でもひとつ歌いたい気分ですぅ」ご満悦の翠星石。
「人を驚かせるのは、なかなか愉快ですね。きししっ、病みつきになりますぅ」
 
ニコニコしながら、「次のターゲットは、銀ちゃんにするです」だなんて。
おかしな趣味に目覚めてしまったらしく、すっかり、やる気満々。
さっきまで、鬱々と暗い顔をしていたのがウソのようだ。
 
「銀ちゃん……面白そう。ふふ……みwwwなwwwぎっwwwてwwwきたwww」
「あの気丈な人が、あられもなく狼狽える姿……これは必見の価値アリですわね」
 
おまけに、薔薇水晶、雪華綺晶もノリノリである。
雛苺だけでは、彼女たちを思い留まらせることなど、できなかった。
 
 
結局、翠星石との約束もあって、雛苺も手伝わされる羽目となり、
水銀燈の立ったまま気絶、金糸雀のパンチラ、めぐの臨死体験、などなど――
来週は以上の3本でお送りしまーす、な勢いで。
 
どっきり失敗により、真紅の厳しい説教を食らうまで、被害者を増やし続けたのだった。
 
 
 
ちなみに。
この『どっきりビデオ』は、薔薇水晶によって『ドキドキ動画』にアップロードされ、
再生数は100万を越えたとか、なんとか……。
 

最終更新:2009年01月11日 02:00