運命の巡り合わせ――とは、大概において、妄想。誤った思い込みである。
その場その時の雰囲気によって、偶然の産物でしかないものに、変なロマンを感じたに過ぎない。

しかし……ごく稀にではあるが、本当の必然にぶつかることもある。
たとえば、希有の品と、彼女の出会いのように――
気紛れな誰かさんの、退屈しのぎの悪戯に、付き合わされた場合だ。



雛苺が、かつての同級生と約2年ぶりの再会を果たしたのは、3月のはじめ。
桃の節句と呼ばれる、麗らかな日のことだった。

美大生となって2度目に迎える、2ヶ月にもわたる長い春休み。
自転車での配達アルバイトに勤しんでいたとき、彼の家の前を通りがかったのだ。
懐かしい風景が、女子高生だった頃の記憶を、ありありと甦らせる。
かつては毎日、通学のために歩いた道も、今となっては随分と久しぶりだった。

いつも、彼の部屋の窓をチラチラと横目に窺いながら、通り過ぎるだけ――
そう……いつだって、それだけ。
劇的な変化をもたらしてくれるナニかを、ココロのどこかで期待しつつも、
彼女を引き留めるだけの理由は、遂に生まれることがなかった。


今日もまた、あの頃と同じように、何事もなく通り過ぎるだけなのか。
ちょっとだけ寂しい気持ちが、雛苺の胸を苦しくする。
今更だとは解っていても、静電気で貼りついてくる糸くずみたいな未練を、振り払えない。
払おうとすればするほど、却って意識してしまうのだ。

こんなコトでは、ダメ。ブンブンと頭を振って、雑念を粉々に砕く。
しかし、雛苺が足早に行き過ぎようとした矢先、ソレは起こった。

彼の家の門構えから、地を這うように勢いよく飛び出してきた、小さな影。
咄嗟に、猫か犬だと思った。だが、違った。
自転車の接近にビックリして、道のド真ん中で竦んだのは……真っ白なウサギ。

このままでは轢いてしまう。雛苺は息を呑んで、左右のブレーキを握り締めた。
――が、あまりに強く握りすぎたから、ブツッ! 
急なストレスに堪えきれず、ワイヤーが弾けた。

「びゃあぁっ?!」

止まらない。狼狽えるあまり急ハンドルを切り、民家の外壁に激突。
そのまま、雛苺は自転車と共に、バッタリと横倒しになってしまった。
配達途中の品は、幸いにもバッグに収められていたので、ブチ撒けずに済んだ。

時ならぬ甲高い悲鳴と、クラッシュ音を聞いたのだろう。
目を丸くした彼が、門から飛び出してきて……
そこに倒れている雛苺と視線が合うや、ハァ? と眉で八の字を描いた。

「なにやってんだ、おまえ」
「もー! 見れば解るでしょっ! 早く助けてなのーっ」
「……はいはいはい」

さも『しょーがねぇなあ』と言った風情で、彼は自転車を脇にどけて、
雛苺に手を差し伸べた。「大丈夫か?」

「そういうコトは、最初に訊いて欲しかったのよ」
「いや……こんな直線道路で、どうして壁に突っ込むかなぁって。気になるだろ、普通」
「だって! ジュンの家から、ウサギが飛び出してきたんだものっ」
「ウチじゃ飼ってないぞ、ウサギなんか。どうせノラ猫だろ。まったく、人騒がせな」
「ち、違うもん!」

両の拳を握り、ムキになって反論する雛苺のアタマを、彼――
桜田ジュンは、ぽふぽふと叩いて、愉しげに笑った。

「解った解った。信じてやるよ」
「ぶー。なにその上から目線。失礼しちゃうのよ」
「ちびっこいだけじゃなく、子供っぽさも、相変わらずだな」
「チビはお互い様なのっ!」

べーっ! と舌を出す雛苺に、彼は悠然と、微笑で応える。

あれ? 思いがけない肩透かしに、雛苺は続ける言葉を失った。
高校の頃は、身長のことを口にするだけで、他愛ない罵りの応酬が始まったものだが。
――たった2年。されど、2年。人が変わるには、充分すぎる時間なのか。

「それにしても、久しぶりだよな。元気そうで、なによりだよ」
「う、うい。ジュンもね」

変わっていないのは……精神的に成長していないのは、自分だけなのかも。
そんな、どこか置いてきぼりにされたような寂しさが、雛苺の胸に広がった。
水面に落とした墨汁の一滴が、ゆっくりと溶け馴染んで、淡い色を着けるみたいに。

それまでの騒がしさから一転、押し黙って俯いた雛苺に、ジュンの心配そうな眼が注がれた。

「どこか痛むのか? ちょっとウチに寄って、姉ちゃんに診てもらえよ」
「う、ううん……平気なのよ」
「いいから、こっち来いって。意地を張ったって、損するだけだぞ」

――ホントに、平気だから。
言いかけた台詞は、彼女の唇から零れなかった。
なぜなら、ジュンに手を握られた瞬間、息と共に呑み込んでしまったのだから。
自分がアルバイトの途中だったことさえ、綺麗サッパリ忘れていた。


庭先に入ると、雛苺たちは、大小さまざまな荷物の群に出迎えられた。
なにごとだろう。引っ越しの準備だろうか……?
雛苺が訊ねると、ジュンは笑いながら、否定した。

「ないない。物置みたいになってる部屋があってさ。そこの掃除だよ。
 姉ちゃんと2人がかりで昨日からやってるんだけど、ちっとも捗らなくて」

なるほど、運び出された品々は、色が変わるくらいに厚く埃を被っている。
開け放したドアの奥にも、まだまだ、あるみたいだ。
それにしても、どれだけ長く寝かせておいたら、こんな風になるのだろう。
眺めているだけで鼻がムズムズして、雛苺は顔を背け、クシャミを堪えた。



「まあまあまあぁ……。久しぶりねぇ、ヒナちゃん」

ジュンの姉、のりは、雛苺と顔を合わせるなり、パッと表情を輝かせた。
それでも、疲労困憊の様相は、隠し切れない。目元が暗く、窶れて見える。
ジュンの言っていたように、片づけに四苦八苦しているようだ。

「姉ちゃん、こいつ、チャリでコケたんだ。ちょっと診てやってよ」
「あらあらぁ、大変。それじゃあ、奥のほうで手当しましょうねぇ~」
「う……そ、そんな大袈裟な。ほっとけば治っちゃうのよ」
「そんなのダメよぅ! 目立たないケガほど、実は怖いんだからぁ。
 お姉ちゃん、部活で応急手当の講習を受けたことあるから、任せといて」

ここにきて、やっと、雛苺はアルバイトのことを思い出した。
早く仕事に戻らなければ、日暮れまでに間に合わない。
――が、のりは治療する気で、救急箱の中身をゴソゴソ探っている。

のりは基本的におおらかで、人当たりがよく、面倒見のいい人間だ。
しかも積極的で、意外に頑固な一面も併せ持っていた。
教師のような、継続的な辛抱強さを求められる職に就くには、いい性格だろう。
しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。度が過ぎれば、お節介になってしまう。
ちょうど、今みたいに。

「それじゃあ、お願いしますなの」

雛苺は吐息して、素直に、擦り剥いた箇所を、のりに見せた。
ささっと手当してもらって、引き上げるのが得策。そんな判断からだ。

のりの手際の良さに感心しながら、雛苺は、片づけを手伝おうかと申し出てみた。
明日から週末で、アルバイトは休みだ。急ぎの用事もない。
けれども、彼女は雛苺の気遣いに感謝しながらも、やんわりと断った。
そして、憂いを含む笑みを浮かべた。

「お姉ちゃんね……もうすぐ、この家を離れちゃうのよぅ。
 だから、ワガママだけど……後始末だけは、ね。この手で、しておきたくってぇ」
「どうしてなの? ひょっとして、お嫁に行っちゃうの?」

その問いに、彼女は、かぶりを振った。「マンションで、独り暮らし」

「この家にはジュン君と、お嫁さんが暮らすのよぅ」

――え? 
雛苺は胸裡で、のりの台詞を反芻した。3度目で、じわっと実感が戻ってきて……
4度目にして漸く、アタマが理解した。ジュンは結婚するんだ……と。
考えてみれば、ジュンも自分も、今年で二十歳になる。
それに、服飾系の専門学校に進んだ彼は、この春に卒業して、社会人になるのだ。
所帯を持つのも、早すぎて損をすることはない。

対して、自分はどうか。大学に進んだけれど、休日にデートする恋人もなく。
バイト三昧の日々は、それなりに充足感を与えてくれるが……だけど……。

こういうの、負け犬って言うのかなぁ――なんて。
またぞろ、置いてきぼりにされた気分が甦ってくる。
雛苺は、治療を続けるのりの手元を、ぼんやりと眺めていた。



手当を済ませ、仕事に戻ろうと玄関を出た彼女を、ジュンが待っていた。

「よっ! なんともなかったか?」
「う、うい。ごめんね、心配かけちゃって」

なんとなく顔を合わせにくかったけれど、逃げ去るのも変な気がして、
雛苺は、深呼吸ひとつの後、にっこりとジュンに笑いかけた。

「それより、聞いたのよ。結婚するんですってね。おめでとうなの!」
「お、おう……ありがとな。なんか、本当に急なことでさ。
 僕自身、自分のことなのに、まだ実感わいてこないって言うか」
「要するに、浮ついちゃうぐらい幸せってコトなのね」
「まあ、な」

臆面もなく惚気たジュンのみぞおちに、雛苺は頭突きを入れた。
もちろん、軽く。仔猫がじゃれるように。

「ねえねえ。ジュンのお嫁さんって、どんな子? ヒナの知らない人なの?」
「いや、知ってると思うよ。憶えてないかな。高校の頃の、学年のプリンセス」
「……あぁ。あの子なのね」

名前は失念してしまったが、面差しは、微かに憶えていた。
チャーミングという表現と制服がよく似合う、可愛らしい女の子だった。
どういった縁で結ばれたのかは、知る由もないが、いろいろ有ったのだろう。
雛苺が、ジュンと逢わなかった2年の間に。

「それじゃあね、ジュン。また、いつか――」

言って、雛苺はブレーキの壊れた自転車へと歩き出した。
その肩を掴んで引き留める、温かな感触。
ジュンの手は、いつの間にか、大きく力強く成長していた。
大切な誰かを、しっかりと守れるだろう男性的な手に。

「ちょっと待った。おまえに渡そうと思ってた物があるんだ」

言って、彼は、手にしていた古めかしい木箱を、ずいっ……と突き出した。
なぁに? 受け取って、蓋を開いた雛苺の満面が、喜色に満たされてゆく。
それは、80色セットのパステルだった。

「わぁあ……すっごぉい! どうしたの、これっ!」
「物置の整理してて、見つけたんだ。ウチの両親、世界中を飛び回っててさ。
 いろんな場所で、アヤシイ物を買い漁っては、ここへ送ってくるんだよ。
 蓋の裏に、注意書きっぽいのが貼ってあるんだけど、僕には読めなくってな」

ジュンが読めないということは、ラテン語とか、ロシア語だろうか。
それとも、もっと古い――くさび形文字や、甲骨文字?
……まさかね。雛苺は、蓋をひっくり返してみた。

「なぁんだ。これ、ドイツ語なのよ」
「解るのか? なんて書いてあるんだ」
「うーっと……このパステルで絵を描くと、その絵のとおりになる、って。
 まだ続きがあるけど――紙が虫食いになっちゃってて、判読できないのよ」
「……ふん。なんともまあ、胡散臭いもんだな。いかにも、あいつら好みだ」

――辟易。肩を竦めたジュンの口ぶりは、まさしく、その二文字に尽きた。
彼の小さな悪意に毒されて、柳の葉を想わせる雛苺の眉も、やにわに曇る。
歳の割にナイーブな彼女は日頃から、周囲の些細な機微にも、過敏に反応しがちだった。
それがプラスに作用するなら、素晴らしいインスピレーションも湧くのだろうけれど……。

「ご両親を『あいつら』呼ばわりするなんて、いけないのよ」
「いいんだよ。あんな、ろくでなし連中なんか、どう呼んだってさ。
 ここ数年、ずっと会ってないし……もう、親って実感ないね。遠い親戚――みたいな?
 そのパステルにしても、どうせ買ったことさえ忘れてんだろうからな、きっと」
「……でもぉ。それなら、ヒナが貰っちゃダメなんじゃないの?」
「構わないさ。ウチにあったって、誰も使わないし。また、ホコリ被ったままになるだけだ。
 どんな上等な道具でも、使ってくれる人が居なきゃ、ただのガラクタだろ」

それに……と、少しの間を空けて、ジュンは照れくさそうに続けた。
「高校の時にさ……チョコレート貰ってたのに、いっつも、そのまんまだったから」

数年遅れの、少し早いホワイトデーのお返し――と?
変なところで律儀なんだから。雛苺は呆れて、失笑を禁じ得なかった。
彼らしいと言えば、まあ、らしいのだけれど。

そういう渡され方をされては、女の子の心情として、固辞できなくなってしまう。
このパステルが使い手のないまま、ガラクタにされてしまうのも不憫で……
結局、雛苺は受け取ってしまった。半ば、押しつけられるカタチで。



と、まあ。こう言うと、いかにも仕方なしの渋々といった趣があるが――
実のところ、雛苺の喜びようは大層なものだった。
ついさっきまで感じていた、鬱々とした気分が、すっかり消えてしまうほどに。
些か現金だが、気持ちの切り替えが早いのは、彼女の長所なのだ。

小さな頃から絵を描くことが好きだった彼女にとっては、画材すべてが宝物。
ましてや、不思議な効力を秘めたパステルとくれば……。

「ステキ! ステキ! あぁ~ん、なにを描くか迷っちゃうのよー」

残りの配達を片づけているときも、木箱はずっと胸に抱きしめたまま。
いつもなら疲れて重たくなっている両脚も、ステップを踏みたくてウズウズしていた。
すぐにでも試してみたい。貼ってあった説明書が真実なら、凄いことだ。
沸きあがる衝動は、雛苺の心身を、かつて無いほど浮つかせていた。



アルバイトを終えて、寄り道もせずに帰宅。
夕食の時も。風呂で1日の疲れを流し、自室で洗い髪を乾かしている間も。
雛苺のアタマには、あのパステルで絵を描きたい欲求しかなかった。

とりあえず、どんなモチーフなら、実験に最適かしら?
物理的な変化――破損とか、誰にでも簡単に再現できるテーマなら、意味はない。
およそ有り得ない絵を描いて、そのとおりに変化するかを、検証すべきだ。

でも、奇抜なテーマ――たとえば、隕石が自宅の庭に落ちたり――を描いて、
現実になったら厄介だし、その隕石にナゾの物体Xなんかが付いていたら怖すぎる。

じゃあ、自画像は? 雛苺の閃きは、幾ばくもなく、落胆に変わった。
それなら、他者に迷惑はかからない。
でも、効力が本物ならば、少しの失敗でも、取り返しのつかない事態になろう。

ドラクロワやゴヤのような写実的な絵を、狂いなく仕上げられるのであればいい。
だが、キュビズムみたいな自画像を描いて、そのとおりに顔が変わるとしたら――
交通事故で顔面がグチャグチャに潰れる様を想像して、雛苺は、ブルッと身震いした。

「うぅっ。やっぱり……初めは無難に、静物画でいくのよー」

モデルは、何にしたらいいだろう。雛苺は、ぐるり部屋を見回した。
どうせなら変形しにくかったり、壊れにくい物を選ぶべきだろう。
それでも絵と同じ変化を遂げたなら、パステルの効果を、少しは信じられる。


彼女の視線が、本棚に飾ってある、高さ20センチほどの石像を捉えた。
何年か前、キャンプで訪れた山中に投棄されていた、ベヘモス神像だ。
横たわった状態で、腐葉土に半ば埋もれた姿に、なんとなく愁情を誘われ……
そのままにしておけなくて、わざわざ持ち帰ったものだった。

「うんっ。これなら、簡単に形が変わったりしないから、もってこいなのっ!」

雛苺は愛用のスケッチブックを手に、ベッドに座り込んだ。
明日から週末で、アルバイトは休み。絵を描く時間なら、たっぷりある。
パジャマの袖をたくし上げて、気合いも充分。


きりりと表情を引き結んで、雛苺は、茶色のパステルを手にした。





最終更新:2009年02月11日 00:45