「ふざけないでっ!」


突然の喝破に、雛苺は身体を震わせ、猫のように首を竦めた。
不思議な『パステル』の効能について、洗いざらいを話し終えたときのことだ。

あのパステルを使えば、良かれ悪しかれ、真紅の人生を狂わすことになる。
下手をすれば、一生の恨みを買うことにさえも。
だからこそ、隠し事なんて、したくなかったのだ。
いい返事を得たいがためと邪推されるのは、雛苺の本意ではなかったから。

半身を起こした真紅が、脚に落ちたタオルを掴み、雛苺に投げつけようと腕を振り上げる。
その瞬間、夢で見た病室でのシーンが、脳裏に甦って――
雛苺の怯えた瞳が、水銀燈の悲しげな眼差しと重なり、真紅の激情は急速に冷めていった。

「――ごめんなさい。お客さまに対して、声を荒げてしまうなんて……
 ダメね、私。腕を失くしてから、たまに、自分を抑えられなくなるの」
「風が吹けば、地面から埃が舞い上がるし、水面には漣が生まれるわ。
 気持ちが激しく動くのは、真紅のココロが凍ってないことの証しなのよ」

だったら、いっそ氷結してしまえば、楽になれるのだろうか……。
真紅は再び、ソファに仰臥して深く息を吐くと、雛苺へと頸を巡らせた。
その表情には、もう一喝したときの険しさなど、欠片もなかった。

「ねえ、雛苺。貴女、本気で、私の右腕を元どおりにできると信じているの?」
「う、うゆ……」
「羨ましいほど幸せなのね。そんなのは、おとぎ話だわ。ただの夢物語よ」

描いた絵が現実になるパステルだなんて、童話じゃあるまいし。
理性も分別もある大人なら、誰もが、馬鹿げたフィクションだと一笑に付すだろう。

真紅は苦労を重ね、社会的な成功を勝ち取ってきた、理知的な大人の女性だ。
その課程で、無邪気なココロに、現実というヴェールを幾重にも被せてきたはずである。
お気楽な子供っぽさを、弱さと思い込んで。


「貴女の気づかいは、嬉しく思っているわ。本当よ」

長い沈黙の末に、優しく紡がれた言葉。
真紅は、余裕ある温かな笑みを、雛苺に向けていた。
さながら、落ち込む我が子を宥めようとする、母親みたいに。

「でもね――私は、このままで構わないのよ。
 一生、片腕のままで、自らを縛めながら暮らさなければいけないのだわ」
「そんな……どうしてなの?」
「贖罪だから。あの子を傷つけたことへの、私なりの罪滅ぼしよ」

穏やかではない単語に、雛苺は固唾を呑んだ。
そこまでの覚悟をさせるほど、真紅は水銀燈に、酷い仕打ちをしたのだろうか。
気にはなる。……が、これ以上、無思慮な真似もできなくて――

「ヒナ……そろそろ、おいとましなきゃ。
 紅茶、美味しかったのよ。ごちそうさまでしたなの」

雛苺はデイパックを手に、立ち上がった。
ぺこりと一礼して、応接間を出ようとした、その矢先。

「お待ちなさい」

凛とした真紅の声が、小柄な娘を、その場に縫い止める。
振り返ると、宝玉を想わす蒼眸に、ひた……と。雛苺は捉えられた。

「もし、よければ――なのだけれど」

そう呟く真紅の声音は、震えていた。
よほど耳を澄まさなければ分からないほど、微かに。

「いまの私を、描いてみてちょうだい。ありのままの私を」
「ホントに、いいの?」
「ええ。でも、貴女の腕が確かならば……って条件つきなのだわ」
「うい! それなら大丈夫なのっ。ヒナ、こう見えても美大生なのよー」
「ウソ……てっきり、中学生の1人旅かと思ってた」
「ぶー。失礼しちゃうなのっ。そりゃあ、ヒナはちっちゃいし、
 子供っぽいって、みんなからよく言われるけど――」

普通、女の子は若く見られると嬉しいものだ。
しかし、それも程度の問題。度を越せば、ただの侮辱になってしまう。
顔を真っ赤にして反駁する雛苺を、真紅は神妙な面持ちで宥めた。

「ごめんなさい。確かに、不躾な言い種だったわね」
「うんうん。解ってくれればいいのよー。えへへ~」

なんともまあ、気持ちの切り替わりが早い。真紅は文字どおり、舌を巻いた。
そういう精神的な落ち着きのなさが、子供っぽさを助長しているのだが、
当の本人は、それを自覚していないようだった。

「それで? 私はどういうポーズをとったらいいのかしら」
「少し長くなるから、楽な姿勢でいいのよ。
 うーっと、そうね……ソファの左端に寄って、肘かけに腕を乗せてみて」

「こんな風に?」と、ソファの背もたれに、ゆったりと身体を預ける。
これなら肘と背中で支えられるので、たいして疲れないだろう。
でも、あまり長引くようだと、腰が痛くなりそうね……と、真紅は思った。

「うい! それで、あとは深く座っててくれれば、バッチリなの」
「解ったわ。こうね」

真紅が頷いてみせると、雛苺も首肯して、道具の準備に入った。

「表情も、ずっと変えずにいたほうがいいのかしら?」
「顔は最後に描き込むから、その時だけ集中してくれたらオッケーなの。
 それまでは、普通にお喋りしてても構わないのよ」

雛苺は2Hの鉛筆を手にして、スケッチブックを開いた。
さすがに失敗の許されない状況で、パステルでの一発描きなんて冒険はできない。
ある程度の当たりを付けてからが本番だ。

しん、と静まり返った室内に、紙面を走る鉛筆の音だけが、微かに聞こえる。
静かすぎるあまり、却って気が散りそうになった雛苺は、「あ、あのね……真紅」
手を止めて、上目遣いにブロンドの乙女を見た。

「少し立ち入った話、訊いてもいい?」
「それは、私を描くために不可欠なこと?」
「不可欠ではないけど、絵にココロを宿すためには、大切なコトなの。
 ヒナはいつでも、描く対象に気持ちを近づけてるのよ」
「絵に、命を吹き込む……という意味?」
「そんなに大それたコトじゃないけど、だいたい、そんなところなの。
 だから――ヒナに真紅や水銀燈のこと、教えて欲しいのよ」

イヤなら話さなくてもいいけど、と締め括って、雛苺はまた手を動かし始めた。
結果、聞けずじまいになったとしても、さっきの雑談から、ある程度のことは推し量れる。
それで、真紅の胸にある悲しみを、絵に反映しきれるかどうかは、怪しいところだが。

――暫し。沈思黙考がなされた。


「なにから話せば、いいのかしら」

さり気なく紡がれた台詞は、了承の証し。
いま、真紅の中では様々な想いが、ぐるぐると廻っていることだろう。
情報が茫漠としすぎていて、話題を搾りこめない苦しみが、雛苺にも伝わってきた。

「それじゃあ――」

だからこそ、雛苺は核心を衝いた。「真紅が右腕を失った理由を、聞かせてなの」
それこそが真紅と水銀燈を隔てた理由であり、
彼女の苦悩を生みだしている元凶に違いないと、目星がついていたから。

真紅は、悲しげに睫毛を伏せて、深く息を吐いた。
気持ちの整理をするためには、誰であれ、多少の時間を要する。
その間、雛苺はスケッチを続けながら、真紅が口を開くのを待っていた。


「事故だったのよ」やおら、真紅の語りが始まる。
「ちょうど、梅雨時でね。連日、激しい雨が降り続いていたわ」

それが、長いモノローグの始まりだった。



このままでは、新たに開いた茶畑が、流されてしまうかも。
案じた真紅と水銀燈は、真紅の運転する車で、巡回に向かった。
こんなことで……たかが雨ごときで、夢を潰えさせてなるものか。
2人はレインコートを着て、茶畑の補強に全力を費やした。

「でも、悪いことって重なるものなのね。
 見回りの最中だったわ。水銀燈が発作を起こして、倒れてしまったのは。
 あの子、苦悶で顔を歪めて……涙ながらに繰り返すのよ。
 『真紅……助けて』と、私の腕に縋りながら――

 いつ発作が起きてもいいように、彼女は薬を持ち歩いてたのだけれど……
 でも、その時は、どんなに探しても見つけられなかったの。
 もしかしたら、作業中に落として、気づいてなかったのかも知れないわ」

一刻の猶予もない。真紅は、なんとか水銀燈を助手席に押し込み、車を発進させた。
豪雨。ぬかるんだ林道。容赦なく降りてくる夜の帳。
その中を、2人を乗せた車は、泥水を撥ね散らしながら、猛スピードで駆け抜ける。

「あのときの私は、もう……とにかく、水銀燈を助けたい一心で。
 他には何も、考えられなくなっていたのね、きっと」

ほんの一瞬の判断ミスで、真紅の運転する車は、崖の下へ――

「車が宙に浮いたとき、これで死ぬんだ――って思ったわ。
 今際に走馬灯が甦るって話ね……あれ、本当よ。
 私も、見たの。子供の頃から、水銀燈と歩いてきた日々の記憶を。

 そうしたらね、なんだか……達観したような、不思議な気持ちになったのだわ。
 このまま、水銀燈と一緒に人生を終えるのも、悪くないかなぁって」

そこで意識が遠退き、目覚めたら病院のベッドに横たわっていたと、真紅は語った。
右腕を失い、両脚にも酷いケガを負っていたのだ、と。

「つまり、誰かが事故の現場を見てて、救急車を呼んでくれたのね」

言って、安堵の笑みを浮かべた雛苺に、真紅は「いいえ」と。
苦渋に満ちた表情から、更なる悲愴を滴らせながら、首を左右に振った。

「居なかったわ。私たち以外には、誰も」
「うゅ? それじゃあ……」
「――ええ、そうよ。私を運んでくれたのは、水銀燈なのだわ。
 激しい雨に打たれ……苦悶に喘ぎながら……それでも、私を担いで歩き続けて。
 麓の病院まで辿り着いたとき、彼女もまた、息も絶え絶えだったそうよ」

後から看護士に聞かされたのだけれど――
真紅は、指が食い込むほどにソファの肘かけを強く握り、顔を伏せた。

「あと少し治療が遅れていたら、私は失血死していたんですって。
 私が、今こうしていられるのも、水銀燈のお陰だったのよ。
 それなのに、私は……

 右腕を失ったショックと、絶えず全身を襲う激痛に、苛立つばかりで。
 愚かにも、理不尽な憤りを彼女にぶつけて、突き放してしまったのだわ。
 私が、バカだったばかりに!」
「いまからでも謝って、仲なおりするコトはできないの?」

誤解は、誰にでもある。どんな聖人君主だって、過ちを犯す。
そのくらいは水銀燈だって解っているだろう。謝れば、真紅を許してくれるはずだ。
雛苺は、そう信じていた。ずっと一緒に……と誓い合った2人なのだから。

けれども、俯いた真紅の瞼からは、大粒の雫が、ぽろ、ぽろ……。
それは、あの日の豪雨のように降り続けて、彼女の胸元を濡らしてゆく。

「できないの。もう……手遅れなのよ」
「どうして?」
「水銀燈は、病室を出たっきり、行方を眩ませてしまったから。
 マンションは引き払われ、携帯電話も解約されていて、連絡も取れない――
 どんなに手を尽くしても、あの子の消息は、杳として掴めなかったのよ」
「病院は? 持病を患ってるんだから、通院しなきゃ大変なのよ」
「その線も辿ったわ。だけど……かかりつけの病院にも行っていないの」

身辺を整理して、持病を抱えているにも拘わらず、薬も持たずに出奔。
どうしても、雛苺の胸に、嫌な想像が広がってしまう。
そうなるとココロの動揺が誘発されて、スケッチする手にも乱れが生じた。

「いまの私にできることは、毎日、駅に行くことだけ。
 いつか……あの子が帰ってきてくれるのではないかと……
 改札を出てくる水銀燈の姿を思い浮かべながら、待つことしかできないのよ」

そこで、雛苺と真紅は、巡り会ったというワケだ。
ただの偶然と言ってしまえば、それまでだけれど。
女の子の心情としては、どうしても、そこに一抹の運命を見出したくなる。

知り合って間もないが、雛苺には、真紅の人柄がよく理解できた。
健気で、ある意味、愚直な性格を。
片腕でいることを、贖罪と……彼女なりの罪滅ぼしと言っていたけれど。
――違う。真紅は水銀燈のために、欠落することを望み、現状を甘受しているのだ。

雛苺の中で、揺らぎは収束するどころか、なおも増幅してゆく。
いつにも増して、鉛筆が重い。芯先も、うまく滑ってくれない。
だが、線画だけなら、大まかな構図はできている。
雛苺は息を吐いて、手を休めた。仕上げは後にしよう、と。

「少し休憩するの。ヒナ、ちょっとアタマが重たくて」
「もしかして、風邪? ベッドで横になったほうが――」
「ううん。ソファーでいいのよ。ちょっとだけ、休むだけだから」
「それなら、なにか掛ける物を持ってくるわね」

言って、真紅が腰を上げる。
その背中を見送って、雛苺はドサリと、ソファーに倒れ込んだ。


   ◆   ◇


夢を見ているのだと、雛苺は、すぐに自覚できた。
彼女の前には、真紅の屋敷になかったものが、存在していたからだ。

大きなテーブルと、ウサギとネズミ、それに、男が1人。
それが何であるのか、思い当たるモノがあって、雛苺は「あっ」と声をあげた。
よく読む『不思議の国のアリス』の中でも特に好きな、奇妙な茶会のシーンだ。

キチガイウサギ、居眠りネズミ、帽子屋――
雛苺は、おかしな3人の茶会に迷い込んだ、アリスの役だった。
どうして、こんな夢を?
茫然と立ち尽くす雛苺を気にも留めず、居眠りネズミが、ぼそぼそと語り始める。

「ずぅっと昔の話だよ。井戸の底に暮らす、3人の姉妹が居たんだよ。
 彼女たちは絵を習っていてね、いろんな絵を、たくさん描いてたんだよ」

雛苺の胸が、ドキリと一拍した。
いろんな絵を描いてるなんて――雛苺のことを言っているみたいではないか。

そこに、帽子屋が横槍を入れてくる。
彼は自分の帽子から、トランプのカードを一枚だけ抜きだして、ニヤリ……。
「おやおや、クローバーの3だ。なんと奇遇な」

こんな描写あったっけ? 雛苺は首を捻って、ふと――あることに気づいた。
おかしな3人。井戸の底の3人姉妹。クローバーの3。
更に、キチガイウサギは3月ウサギとも呼ばれるし……
帽子屋が時間とケンカしたのも、確か、3月だった。

悉くに、3が絡んでいる。なにかを示唆しているのか。それとも、ただの偶然?
3という数字が、雛苺に童話の決まり事を思い出させる。

「叶えてもらえるお願いは、3つだけ……なの?」

呟くなり、どういうワケか、パステルの箱書きが瞼に浮かんできた。
虫食いになっていて判読不能だった、あの部分。
あそこに、3度までと記載されていたかも知れない。
 もし、そうであるならば――


   ◇   ◆


浅い眠りから帰還した雛苺は、真紅に声を掛けて、すぐに絵の仕上げを始めた。
これで、2度目。
仮定が正しければ、残された猶予は、あと一度のみ……。





最終更新:2009年02月11日 00:56