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静寂だけが随所に鏤められた、茫洋たる空間。
凍てつくような夜の冷気に包まれて、ソレは、眠っていた。
威圧的ですらある巨体に、数多の人間を呑み込んで、ひっそりと……。
ソレの正式な名称は、有栖川大学病院、という。

重たい――としか喩えようのない、漆黒と気配に満ちた、1階ロビー。
ハエの羽音のように、うるさく絡みついてくるのは、自動販売機のノイズ。
彼女たちは硬い表情のまま、自販機の脇にあるソファーで身を寄せ合っていた。
夜闇の中で、灯りに群がる昆虫のように、身じろぎもせず。

「大丈夫なのよ、きっと」

沈黙に押し潰されまいと、雛苺は両手をグッと握り、努めて明るく言う。
だが、そんな気休めは却って、隣で項垂れている水銀燈のココロを逆撫でた。

「どうして、そう言い切れるのよ」

水銀燈は、僅かに顔を斜にして、雛苺を睥睨した。

「安っぽい慰めなんか、聞きたくないわ。苛つくわね」
「うゅ……ごめんなさい、なの」

雛苺の胸に去来する、罪悪感。こうしてしまったのは、自分。
独りよがりの、お節介だったのだろうか。
真紅と水銀燈を、焦って引き合わせるべきでは、なかったのだろうか。
こんなことに、なるくらいだったら――

じわ……。雛苺の目頭が、にわかに熱を帯びる。
でも、泣いたら余計に、水銀燈を怒らせてしまいそうだから……
雛苺は手の甲で、ぐしぐしと瞼を擦って、涙を堪えた。

そんな健気な様子を、横目に盗み見ていた水銀燈は、「謝らないでよ」
俯いたまま、呟いた。気まずそうに。「謝られたら、もっと惨めになるから」
雛苺は、ゆるゆると頭を振って、応じる。

「だけど、ヒナも無神経すぎたの」
「そうじゃなくて……私のは、ただの八つ当たりよ。貴女は悪くないわ」

言って、水銀燈はアタマを抱え込み、無造作に髪を握りしめた。

「私って、いつも、そう。やっぱり、逢うべきじゃなかった」
「ど、どうして?」

雛苺には、理解できない。「なんで、そんな風に言うの?」
その問いに返ってくるのは、沈黙。
真紅のこととなると、彼女の口は、途端に重くなる。

それが、あの大事故に端を発していることは、雛苺にも分かる。
だが、そこまで意地を張るだけの理由、確執……それが解らない。
真紅を愚かだと嘲っておきながら、水銀燈もまた、気に病み続けている。

「真紅と、仲直りしたいんじゃないの?
 ずっと一緒にって、約束したんじゃなかったなの?」

ぴくり。水銀燈が、背中を震わせる。「――だから、よ」
なにが、だから、なのか。
雛苺が問うより先に、水銀燈は続けた。「私は、疫病神だから……」

「そ、そんなの、一時の気の迷いなのよ!
 真紅だって悔やんでるわ。ココロにもないことを言っちゃった、って」
「……おめでたいわねぇ。そんなの、体の良い、後から取って付けた口実だわ。
 あの子はどこかで、私を疎んじていたのよ。
 だから、『疫病神』だなんて罵りが、即座に口を衝いて出たんだわ」

口は心の門と言うでしょう? 水銀燈の切り返しに、雛苺は言葉をなくした。
なんで、ネガティブにしか考えられないの? 
その問いかけが、雛苺の胸中にだけ、虚しく谺する。

メンタルな後遺症。トラウマ。
カウンセラーですらない雛苺には、どう慰めれば良いのかも解らない。
言葉を尽くせないのなら、せめて仕種で……とは、思うのだけれど。

言いたいだけ言って、水銀燈はいじけたように、また上体を蹲らせた。
その背中は、とても、とても、小さく見えた。
誇張ではなく、その姿は無力な少女のようでさえあった。

なんとか、してあげたい。
たとえ、独りよがりの、お節介だったとしても……それでも。
今よりは、みんなが笑顔でいられる世界を、雛苺は望んだ。

(あの、パステルでなら――)

脳裏に閃いた電光が、雛苺の暗く沈んだココロに、明かりを灯した。
自分にできるのは、絵を描くことぐらいだ。
でも、それで、水銀燈の聞こえざる慟哭を和らげてあげられるのなら……
そうすることに吝かでない。


「ねえ、聞いて」

そっ……と。雛苺は、水銀燈の背中を撫でながら、唇を開いた。

数日前、幼なじみの青年に、不思議なパステルを譲られたこと。
ほんの気まぐれの旅が、真紅との邂逅をもたらしたこと。
彼女に微笑んで欲しくて、モデルになってもらったこと。
すべての経緯を、水銀燈に話して聞かせた。

「そしたらね、真紅は本当に、絵のとおりに笑ってくれたのよー。
 あのパステルは、きっと本物の、魔法の道具なの」
「だから……なに?」
「ヒナが、描いてあげるの! 銀ちゃんを、笑顔にしてあげるのよ」

水銀燈は顔を上げて、雛苺の顔を、しげしげと見つめた。
そして、ふっ……と。力なく鼻先で笑って、瞳を逸らした。「遠慮しとくわぁ」

どこまでも依怙地に徹するつもりなのか。
これで良いのだと、自らのココロさえも騙し続けて……
挙げ句、現実から乖離する虚像に縛られ、ずっと独りで泣き暮らす気なのか。

そんなのは、おかしい。間違ってる。美談でも、美徳でもない。
雛苺は、猛然と食ってかかろうとした。
しかし、機先を制したのは、やはり水銀燈だった。

「私なんかのために描く暇があるのなら、おまぬけ真紅でも描いたらいいわ。
 描けば現実になるんでしょぉ? あの子の右腕を、元どおりにしてみなさいよ」

なるほど。やはり、禍根は、そこにある。
水銀燈が恐れているのは、真紅に傷つけられることではなく――

「真紅を、もう傷つけたくなかったのね」

訊ねた雛苺に、水銀燈は、なにも答えない。図星だから。
彼女の沈黙は、正鵠を得たことの肯定に他ならなかった。

「姿を消して、別人に扮してたのは、自分を許せなかったから?」
「……気に入らなかっただけよ。真紅に依存しきってた、無様な生活に嫌気がさしたの」
「どっちにしても、自分に厳しい人なのね、銀ちゃんって」

雛苺の言葉を、水銀燈はいつものように、鼻で嘲り飛ばす。
けれど、いつものような勢いは、そこにない。
もしかして、彼女なりの微笑……だったのだろうか。

「仕方ないじゃない。子供の頃から、持病のせいで、ずっと疎まれてきたわ。
 悪いのは、周りに合わせられない私なんだって思わされてたら、卑屈にもなるわよ。
 独りのときは、いつも、メソメソしていたっけ」
「だけど、真紅は違ったのよ。手を差し伸べてくれたのよね?」
「……ええ。だけど、あのとき……疫病神と罵られたとき、私は気づいたわ。
 私という存在は、真紅にとって、足枷に過ぎなかったんだって」
「だから、それは――」

錯乱した真紅の、ただ一度の失言。
声を出しかけて、雛苺は、徐に口を閉ざした。
ぐるぐると、ただ虚しさが巡るだけ……。そう思ったからだ。

「銀ちゃんは、自分を責めすぎなのよ。そんなの……あんまりなの」

先天性の病を患ったことは、水銀燈のせいではない。
真紅が右腕を失った事故にしても、諸々の不運が重なった結果だ。
それなのに、彼女は、すべての非が自分にあるように思い込んでいる。
ありもしない壁、錯覚の風景、進路を塞ぐ様々な幻影を生みだして、
目に映る現実世界さえも、歪めてしまっている。

では、どうしたらいい? 考えても、妙案など思いつかない。
やはり、彼女の願いを聞き入れて、少しばかりの慰めに縋るしかないのか。

「……解ったなの。ヒナ、真紅の右腕を、描いてみるのよ」

本当に? 水銀燈が、無邪気な子供のように瞳を輝かせる。
雛苺も、満面の笑顔で、頷き返すが――

「勝手に決めないでちょうだい!」

凛とした声に叩かれ、水銀燈と2人して、ビクンと肩を竦めた。
そぉ~っと振り向けば、そこには、看護士に支えられた真紅の姿があった。

「なんの相談をしているのかと思えば、まったく……
 前にも言ったでしょう、雛苺。私は、今のままで構わないのだわ」

看護士が、夜だから静粛にと諫めるが、真紅は逆に「口を挟まないで!」と。
桑田というネームプレートを着けた若い看護士は、気圧されて沈黙した。

「貴女もよ、水銀燈。私の右腕のことなんて、貴女が気に病む問題ではないわ」
「だけど、真紅――」
「片腕だって、誇りさえ失わなければ、気高く生きられるわ。
 欠落したからと言って、すべてが終わるわけではないのよ」

真紅は、看護士を促して水銀燈の前まで歩み寄ると、左手を伸ばした。
そして、水銀燈の頭を、愛おしそうに撫でた。

「だから、貴女も、貴女として生きなさい。胸を張って、誇り高く生きて」

水銀燈は、呆けたように真紅を見上げていた。
その瞳が、見る見るうちに、潤んでゆく。

「だったら、私は真紅の右腕として、生きていくわ」
「気持ちは、とても嬉しいわ。本当よ。貴女の想いは、なによりも尊い宝物。
 それは確かに、私のココロにある。だから、もう充分なのだわ」
「……私が側にいると、迷惑?」
「そうじゃないわ。これ以上、貴女を縛り付けて、苦しめたくないの。
 右腕の代わりとして生きれば、貴女にはずっと、呵責が付きまとうでしょう。
 私はね、水銀燈……貴女には、あの頃みたいに……
 もっと自由奔放な、美しいライバルであって欲しいと……そう思っているのよ」

水銀燈に注がれる真紅の眼差しは、聖母のような慈愛に満ちあふれていた。
「だから、ね。もういいの。贖罪に人生を費やそうだなんて、考えないで」

それは、真紅自身にも向けられた言葉なのね。
会話に耳を傾けながら、雛苺は、そう思った。
彼女もまた、水銀燈への贖罪の意識を引きずりながら、今日まで生きてきた――
どれほど時が経とうとも、決して癒えることのない痛みと苦しみを抱いて。
でも、もう終わり。一緒に重荷を捨てましょう。真紅の瞳が、そう語っていた。

「でも、それでは貴女の気が済まないのであれば、そうね……
 ときどき、気が向いたらでいいから、ティータイムに付き合ってちょうだい。
 取り留めのないお喋りを、一緒に愉しんでくれると、嬉しいのだけど」
「…………やぁよ。誰が、そんな、おままごとなんかに」
「ダメなの?」
「そ、そんな哀しそうな顔したって…………ああ、もぅ。しょうがないわねぇ。
 だったら、ときどきと言わず、毎日でも遊んであげるから、覚悟しときなさいよぉ」

どうして、覚悟しないといけないのか?
涙を堪えて強がろうとするあまりに、支離滅裂になっている様子だ。
真紅も、雛苺も、看護士の桑田さんも、言った水銀燈本人でさえ、失笑を禁じ得ず。
暗かったロビーを、束の間、華やいだ空気が満たした。

「それで」

ひとしきり和んだ後、頃合いを見計らって、雛苺が切り出した。
「検査の結果は、どうだったの?」

歩いて、会話できるほどなのだから、大過ないことは確かだ。
真紅は微笑み、しっかりと首肯して見せた。

「大きな異常は、見つからなかったわ。ホーリエが受け止めてくれたお陰ね。
 ただ、大事をとって2、3日ほど検査入院することにしたけれど」
「じゃあ、着替えとか要るのね。場所さえ教えてくれれば、ヒナが――」
「ありがとう。でも、それは朝になったら、サラに電話して頼んでおくわ」

話は、それでおしまい。
真紅たちは桑田さんに連れられて、静まり返る病棟へと向かった。


  ~  ~  ~

割り当てられた病室は、4人部屋だった。……が、患者は、真紅だけ。

「なんだか、広い部屋に独りぼっちだと、寂しい感じなのー」
「あら。私にとっては、普段と大差ないわよ」

気兼ねがなくていいわ。ベッドの上から、真紅が素っ気なく言う。
なるほど、ものは考えようだ。
他の患者がいたら、こんな風に、夜中の会話もできなかっただろう。

「ところで、さっきから考えていたのだけれど」

と、真紅。
いたって真剣な口振りに、雛苺と水銀燈は、なにごとかとベッドを覗き込んだ。

「雛苺の持っている、不思議なパステル……まだ使えるのかしら」
「うい。でも、あの――もしかしたら、なんだけど」
「なにか気懸かりなことでも?」
「効力は、3回までかも知れないのよ」

とかく、旨い話には、限度とペナルティが存在するものだ。
ありがちな話だと思ったのか、真紅と水銀燈は、黙って頷いた。

「試しで使って、その後に私を描いたから、残りは1回という計算ね?」
「そうなの。なにを描くかは、まだ決めてないのよ」

さっきは真紅の右腕を治してみると言ったが、ああも本人に反対されては描けない。
それについては、水銀燈も納得しているようで、異存は出てこなかった。

真紅は、「よかったわ」と吐息すると、瞑想するように、瞼を降ろした。
「それなら、最後の1回で、描いて欲しい絵があるのだけれど」

なにを? 小首を傾げて、雛苺は、水銀燈と顔を見合わせる。
目を閉ざしたままの真紅が、2人の奇妙な様子を、気にするはずもなく。

「あのパステルで、水銀燈の病気を治してあげられないかしら?」

これには、雛苺も、水銀燈も、眉間に皺を刻まずにいられなかった。

「んと……。ヒナもね、銀ちゃんには元気になってもらいたいのよ。
 でも、お医者さんじゃないから、どんな絵を描けばいいのか、解らないの」
「真紅ぅ……貴女、やっぱり頭を打ってたんじゃなぁい?」

――などと。水銀燈は、あからさまに眉を曇らせ、真紅の額に手を当てる始末だ。

「いつにも増して、おバカさんに輪が掛かってるわ」
「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」
「あらぁ。久々に聞けたわねぇ、その子供じみたリアクション」

からかいながらも、「まぁ……確かに、バカはお互い様だわねぇ」と。
水銀燈は、ふと口元に自嘲を浮かべて、雛苺へと眼を向けた。

「折角だけど、謹んで辞退するわぁ。薬さえ服用していれば、私は平気だし。
 真紅が今のままを貫くのなら、私だって、ありのままに生きてみせるわよ。
 その代わり――と言っては何なんだけどぉ」

もし、できるのであれば……。くどいほどに前置いて、水銀燈が切り出す。

「あの娘を……めぐを、救ってあげてちょうだい。
 たとえ完治させられなくても、せめて、もう少しだけ猶予を与えてあげて。
 今、めぐに必要なのは、時間なのよ」