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そういう風に、口裏を合わせてもらったのだ――と。
水銀燈は、なんの捻りもない事実を、自嘲を交えて語った。

「病院から連絡を受けて、お父さまが、すぐに駆けつけたわ」
「怒られなかったなの?」
「決まってるでしょ、おもいっきり撲たれたわよぉ」

まあ、当然か。けれども、それは愛情の籠もった平手打ちだったろう。
愛娘に、愚かな考えを翻させるための、優しい暴力だったに違いない。
槐の邸宅で世話になっていたのも、愛想を尽かされて勘当されたと言うよりは、
リハビリ期間といった意味合いではなかったのか。
雛苺に訊かれ、こくり……。水銀燈は、首振り人形のように頷く。

「私が、お願いしたのよ。別人として生きることを、許して欲しいって」
「そこまでして、真紅から遠ざかりたかったの?」
「今にして思えば、思考停止してたのよねぇ。逃げることしか考えてなかったわ」

そして、苦笑したっきり、水銀燈は口を噤んでしまった。


目指す病室のあるフロアまでは、階段で――
多くの患者はエレベーターを使うため、階段は静かなものだ。
各フロアから届くざわめきも、この縦坑に居ると、別世界のことみたいに感じられる。
それらが2人の足音と混ざり合って共鳴すると、不思議な余韻が鼓膜に染みついた。

その途中、徐に、水銀燈のほうから話しかけてきた。

「真相を知っていたのは、4人だけ。お父さまと、主治医と、槐先生と、私。
 水銀燈は行方不明って扱いのままにして、私は、有栖川アリスを名乗ったわ」
「この病院に、ちなんだのね。でも、すぐにバレちゃいそうな名前なのよ?」

そう。あまりに幼稚で、安直すぎる。まるっきり、子供の『でまかせ』だ。
しかし、その結果たるや、大方の予想を覆すものだった。

「これが意外にバレないものなのねぇ。2年もの間、別人を演じてたんだもの。
 家事手伝いでいる間は、身元を証明する必要もなかったしぃ」
「でも、保険証は? 病院の診察とか、お薬の処方には必ず使うでしょ?」
「そこのところは、槐先生たちにも迷惑をかけて、申し訳なく思ってるわ」

その言葉どおり、水銀燈は、心苦しそうに息を吐いた。
話の流れから察するに、健康保険証は、槐のものを使わせてもらっていたのだろう。
主治医も共犯なのだから、薬は、薔薇水晶の名義で処方されていたに違いない。

その経費、見返りとして、どれほどの金額が動いたものやら……。
雛苺は興味をそそられたが、プライベートなことだし、詮索しないでおいた。
丸く収まりそうなことを、わざわざ箱に詰め戻して角を立てる必要もない。

「でも、かくれんぼは、もう終わり――なのよね?」
「もう続ける意味ないわねぇ。正直、他人に成りきるのにも疲れてたのよ。
 あの娘たち――めぐと薔薇水晶にも、謝っておかなきゃ」

言って、水銀燈は、少しばかり不安げに顔を曇らせる。怯えたのかも知れない。
騙し続けてきた罪悪感と、それを責め詰られ、ココロを傷つけられることに。

だが、雛苺は、薔薇水晶については杞憂な気がしていた。
彼女は、水銀燈の人間性を慕っているのであって、名前を好いているのではない。
『アリスさん』ではなく『お姉ちゃん』と呼んでいたのが、いい証拠だ。

これから会いに行く柿崎めぐも、退院祝いにパジャマを贈るほど気安い相手だし、
「なぁんだ」くらいに、笑って許してくれるのではないか。

案ずるより産むが易し、とは、けだし名言だろう。
ずっと良好な信頼関係が続いてきたのであれば、些細なことで壊れたりはしない。
それでも、もし仮に、ダメになってしまう関係ならば……
どのみち、いつか終わってしまう仲だったと諦めても良いのではないか。

「じゃあ早速、めぐさんに会いに行かなきゃね」

雛苺は、水銀燈の手を握った。冷たくて、かさかさに肌荒れた手――
家事ばかりが原因ではなく、常用している薬の副作用もあるのだろう。
それを気にしてか、引っ込められる手を、雛苺は強く引き戻した。

「早く早くっ。善は急げーなのよ~」
「……貴女、見かけによらず強引ねぇ」
「うよ? やっと気づいたの?」
「まあ、知ってたけどぉ。改めて、そう思っただけよ」
「えへへー」

無垢な笑み。天使のような、という形容そのままの。
つられて、水銀燈も口元を綻ばせた。

「お気楽なのか、おバカさんなのか……どっちにしても、たいしたものね」
「ん? なにが?」
「貴女は、逃げようともしない。目の前に、困難が立ちふさがっているのに」
「あぁ、めぐさんのコト?」

水銀燈が頷くのを見て、雛苺も、声のトーンを落とした。

「確かに、すごく難しい問題なの。どんな絵を描けばいいのかも、分かんない。
 ヒナは神さまじゃないんだもの」

雛苺が、繋いだ水銀燈の手を、ギュッと握りしめる。

「でもね――
 大切な毎日を、大切な人たちを、ずっと守りたいって思えるから……
 だから、ヒナにできることなら、してあげたいの。それだけなのよ」

優しい子だ。水銀燈は、手の痛みとともに、ココロに温もりを感じた。
さもしい打算や姑息さなんて、まったくない。
その精神は本来、高潔なものとして賞賛されるべきものであろう。

まあ、雛苺については、世俗の汚濁を知らないだけの、
いわゆる『世間知らず』な面が濃厚そうだったが。

「つくづく人が好いのね。世が世なら、修道女にでもなってたんじゃなぁい?」
「えー? たぶん、それはないのよー」
「どうだかねぇ」

いつもの、からかい口調はそのままに、水銀燈が朗らかに笑う。
ニヒルな笑みを浮かべることの多い彼女にしては、珍しいことだ。
雛苺の純朴さに、ちょっぴり感化されたようだった。

事実、水銀燈は上機嫌だった。こんなにも晴れ晴れとした心境は、久しぶり。
今ならば、すべてが巧く収まってくれそうな……そんな予感を覚えていた。

「さぁて、と。おしゃべりも大概にしときましょ。
 どんなに素敵な理想を語っても、行動しなきゃ始まらないわ」

水銀燈は言って、雛苺の手を握り返した。「いっときの夢でもいい。めぐに希望を見せてあげて」



――316。それが、病室の番号。
併記されているのは『柿崎めぐ』の名前のみ。1人部屋だった。

雛苺は、ちょこんと首を傾げた。これは、どういうことだろう。
重病なのだし、集中治療室みたいに、おおくの医療機器が運び込まれているのか。
それとも――およそ考え難いが、言動甚だ粗暴につき隔離中……とか。

後者だったら、どうしよう。雛苺の背中が、ぞぞめく。
ほとんど交流がなかった相手だけに、勝手な想像が独り歩きしつつあった。
そうだったとしても、水銀燈も同伴しているし、酷くは荒れないだろうけれど。

「はぁい、めぐぅ。起きてるぅ?」

雛苺の不安を察してか、水銀燈がノックもなしに病室のドアを開いた。
すると――

「……あ、有栖川さんね。いらっしゃい」

こんな不意討ちには慣れっこなのか、ドアの前を覆う薄いカーテンの衝立越しに、
鈴の音を思わす若々しい声が返ってきた。柿崎めぐ、その人だろう。

「どうぞ入って。いま動けないの」
「なぁに? 点滴でもしてるわけぇ」
「あう。銀ちゃん、待ってなのー」

水銀燈は、遠慮もへったくれもなく、ズカズカと衝立を回り込む。
雛苺も、彼女の背に隠れるようにして、小走りに追いかけた。
そして遂に、この部屋の主との対面を果たした。


彼女――柿崎めぐは、日射しが溢れる窓辺のスツールに座って、
雛苺もよく知る青年、桜田ジュンに、美しい黒髪を梳いてもらっていた。
なるほど、これでは動けないはずだ。
めぐは、水銀燈の服装を見るなり、陽光にも負けないほどの眩しい笑顔を湛えた。

「そのパジャマ、着てくれてるのね。あなたも、検査入院?」
「違うわ。ちょっとワケありでねぇ。で、あのぉ…………
 実は、私……めぐに謝らないといけないんだけど」
「なぁに? お見舞いのケーキ買ってくるの忘れちゃった、とか?」
「……ウソ吐いてたのよ。私は、有栖川アリスなんて名前じゃないわ」
「え、そうだったの? じゃあ、本当の名前は?」
「水銀燈、よ。ずっと騙してて、ごめんなさい」

水銀燈。その名詞を、めぐは何度か口の中で繰り返し、ふ……と、眼を細めた。
「いい響きね。あなたのイメージに合う、素敵な名前だと思う」

拍子抜けして、呆気にとられた水銀燈が「なんで怒らないの?」と訊ねれば、
めぐは、それこそ意外そうに訊き返した。

「おかしい? 誰にだって、秘密にしておきたいことくらいあるでしょ。
 でも、あなたは打ち明けてくれた。だから、許してあげるのよ」
「だけど……それじゃあ、私の――」
「気が済まない? だったら、ずっと私の友だちでいてね。それでチャラよ」

なんとも、さばさばしたものだ。案外、話しやすい娘かも知れない。
雛苺は、思い切って水銀燈の背後から進み出て、会話に割り込んでみた。

「おはようなの。いきなりお邪魔して、ごめんなさい」
「あれ? やっぱり雛苺か。似た声が聞こえたから、もしやと思ったけど……」
「ヒナね、めぐさんに会いに来たのよ。ジュンは、朝からお見舞い?」
「面会時間は午後3時からなんだけどな、特別に入れてもらってるんだ」
「あらぁ……婚約者ともなると、かいがいしいわねぇ。ちょっと妬けるわぁ」

からかうように水銀燈が話の腰を折っても、ジュンは、「まあな」と。
とても雛苺と同じ歳とは思えない、大人びた微笑みで応じた。

「あれ? 3人とも知り合いなんだ?」
めぐは訊ねて、雛苺を見つめた。そして、おや? という風に眉を上げた。

「えっと……間違ってたら、ごめんなさい。あなた……どこかで会ってた?」
「うい。高校で、一緒の学年だったのよ。お話したことは、なかったけど」
「…………あ! あー、はいはいはい。思い出した。憶えてるわよ」
「ホントに?」
「あなた、6組だったでしょ。私は1組で、顔を合わせる機会は少なかったけどね。
 お人形さんみたいで可愛い子だなって、思ってたものよ」

多少なりとも憶えてもらえていたことが嬉しくて、雛苺ははにかんだ。
水銀燈に『イカレた子』だと聞かされていたから、どれだけ怖い人かと思いきや――
なんのことはない。温厚で、気さくで、優しそうな女性だ。

もしかすると、めぐもまた、変われた存在……
呼んでくれる声に気づいて、過ちを正すことができた一人なのかも。
だとしても、本題を切り出せば豹変しないとも限らない。
雛苺は、より親好を深めておこうと、先手を打った。

「改めて、自己紹介するのよ。ヒナはね、雛苺っていうの。よろしくね」
「よろしく。私、柿崎めぐ。呼び捨てで構わないから」
「じゃあ、ヒナのことも、雛苺って呼んでなの」

ジュンに髪を三つ編みにしてもらいながら、めぐは静かに頷いた。

「それじゃあ、雛苺――そろそろ、ご用向きを教えてくれない?
 あなた、言ってたわね。私に会いに来た……とか」

期せずして、めぐの方から切り出された。
表情は穏やかなままだが、彼女の瞳に宿る訝しげな光は、刺さりそうなまでに鋭い。

「絵を描かせてもらいたくて……その、お願いに」

遅かれ早かれ話すことだ。雛苺は意を決して、本来の目的を告げた。
ジュンが同席しているのも幸いと、デイパックから、パステルの箱を取り出す。

「おい、雛苺。それって、金曜日にあげたヤツじゃないのか」
「え、なになに? あなた、私以外の女の子にプレゼントなんてしてたの?
 まさか……信じられない。挙式もしない内に、もう浮気だなんて」
「冗談はよせよ。そんな甲斐性ないって。めぐだけで手一杯だしさ」
「あら、そう? じゃあ、浮気できないように、もっと迷惑かけなきゃね」
「はいはい。身を尽くしてお仕えしますよ、プリンセス」

いつも2人は、こんな風に、気安く軽口を交わしているのだろう。
仲睦まじく、端で見ている者に、ちょっとの羨望と嫉妬心を抱かせる関係。
雛苺と水銀燈は、互いに顔を見合わせて、やれやれと言わんばかりに苦笑った。

ジュンは、そんな2人のゲストなど気にも留めず……
三つ編みにした彼女の髪に、紅いリボンをあしらって、手鏡を差し出した。

「よしっと。こんな感じで、どうかな」
「……ん。いい感じよ。ありがと、またお願いね」

お安いご用さ――なんて。
ジュンは、めぐの耳元で囁き、彼女の肩を揉みほぐしてあげたりする。
あまりのラブラブっぷりを見せつけられ、とうとう、水銀燈が痺れを切らした。

「あーもうっ! ベッタベッタベッタベッタ、鬱陶しいわねぇ。
 居心地悪すぎて、やってらんなぁい。さっさと、めぐを描いちゃってよ」

と、水銀燈は、雛苺の手にある木箱を指差す。
それを受けて、ジュンの顔が、あからさまに強ばった。

「待てよ、おい……おまえ、なにを言ってるんだ?
 それが、どんな代物か、知ってて言ってるのかよ」
「もちろんよ。描いた絵が現実になるパステル、でしょぉ?」

ここぞとばかり、水銀燈が胸を張る。
2人のやりとりに興味をそそられたらしく、めぐは雛苺に目を向けた。

「面白そうな話ね。本当なの?」
「う、うい……ホントよ。描いたとおりになるの。ヒナ、確かめたのよ」
「へぇ~。まるで、おとぎ話ね。そういうの、割と好きよ」

並んで立つ雛苺と水銀燈を、交互に見つめ、真意を察したのだろう。
「つまり、こういうコト?」めぐは徐に、唇を開いた。

「その魔法のパステルで、私の病気を治す絵を描いちゃおう……と」
「話が早いわねぇ。そのとおりよ」

なんて安直な発想。ジュンは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
もちろん、めぐを病苦から救ってあげたいと願っているのは、彼とて同じ。

しかしながら、ジュンは、どちらかと言えば現実主義者だった。
1枚の絵を描くだけで、20年も患い続けてきた病気が治る――
そんなオカルトめいた話には、強い抵抗を感じずにいられない性分だった。

ならば、めぐの意志はと言うと。

「いいわ。描いてみてよ、私を」
「お、おい! ちょっと待てよ、めぐ! よく考えるんだ」

気が気でないのは、ジュンだ。「あんな得体の知れないもの、アテになるもんか」
語気を強めて、将来を誓い合った女性に再考を求める。

「めぐの身にナニが起きるか、分かったものじゃないんだぞ」
「あら。なにが起きるか分からないのは、いまだって同じでしょ」
「そうだけど…………まかり間違えば……」

ジュンの危惧は、真っ当なこと。それが最愛の女性についてのことなら、尚更だ。
めぐは、自らの肩に置かれた彼の手に、そっ……と、手を重ねた。

「解るわ……あなたの気持ち、あなたの怖れは。でも、私だって怖いのよ。
 やっと幸せな日々に巡り会えたのに、もう終わりだなんて、考えたくもない」
「僕だって、そうさ。でも、だからって、こんな博打みたいなこと――」
「それを言ったら、人間の一生なんて、博打そのものだと思わない?
 チャンスを捉えて勝ちを拾うか。危ない橋は渡らず、適当に惰性で生きるか」
「……いまが、めぐにとっての勝負時だって言うのか」
「断言なんて、できないけど……なんのリスクもない人生なら、私は要らないわ」

リスクだらけの人生を送ってきた彼女の感性は、麻痺しているのかも知れない。
だが、どうあれ、彼女の意志が揺るぎそうもない以上、ジュンも決断を迫られた。

「…………解ったよ。僕も、未来を賭ける。めぐと一緒に」
「ありがとう。あなたは、そう言ってくれるって信じてた」

信念と呼べるほど強くはないけれど、ジュンは我を折った。
めぐは、満足そうにジュンに笑いかけて、その視線を2人の乙女に転じる。

「水銀燈も、雛苺もね……ありがとう」
「ん? ヒナは、まだ何もしてないのよ」
「絵のモデルなら、私の写真で事足りるでしょ。でも、そうしなかった」
「だって、めぐさんの気持ちを聞かなきゃ、絵にココロを宿せないもの」
「その想いが、結果として、私に選択権をくれた。だから……お礼を言うのよ」

どういう意味なのか。小首を傾げる雛苺から、めぐは目を逸らせた。

「誰かのせいで――なんて、無力な被害者ぶるのは、イヤ。
 誰かに変えてもらえるのを、ただ呆然と待っているのは、もうたくさん。
 私はね、自分で選んで、自分で決めたいの。誰のせいにもしたくない。
 たとえ愚かな選択をして、傷ついたとしても、その結果を誇りたいのよ」

だから――
めぐの、鬼気迫るほどに真剣な眼差しが、雛苺を射竦める。

「描かせてあげる。私の……いいえ、私と彼の未来を」

雛苺を、極度の緊張が支配する。固唾を呑むことさえ、ぎこちなかった。
どんな絵を描けば、めぐの病気を治せるのか……イメージは、まだ浮かばないけれど。
いよいよだ。ちらりと唇を舐めて、雛苺は、戦慄く声を絞り出した。

「銀ちゃん、ジュン……。悪いんだけど、めぐさんと2人きりにしてなの」