フルートに吹き込む吐息に、ボクの想いを乗せて、その旋律は奏でられる。
金糸雀が徹夜で作ったというこの曲は、単純だけれど玄妙なメロディを
醸し出していた。
すんなりと耳に入ってきて、勇気を沸き立たせてくれる、穏やかな調べ。
天才の存在を、こんなにも身近に感じるとはね。
もしかしたら、彼女は女神ミューズの生まれ変わりなのかも知れない。

金糸雀には、どんなに感謝しても足りない。
だけど……その恩を返す時間は、ボクに残されているだろうか。
ボクの頬を涙が流れ落ちて、フルートの調べが揺らいだ。

「あ~あ、なに泣いちゃってるんだろうね、この娘は。
 フルートの澄んだ音色が、へろへろに歪んじゃってるじゃないの。
 ゴチャゴチャして、まるで音の迷路よ。
 曲名、変えた方が良いわ。『乙女の涙は音迷路』ってね」
「うん……そうだね」

それ以上は演奏できなくて、ボクはフルートを降ろした。

「どうしたの、蒼星石? 自分の演奏で、感激しちゃった?」
「違うんだ。ごめん……なんでもないから」
「なんでもなくて、いきなり泣き出すワケないでしょ!
 ねえ、話してみて。私たちの間で、隠し事なんて止めましょうよ」
「…………」
「お願いよ、蒼星石」
「……そうだね。聞いてくれるかい、めぐ?」

しっかりと頷く彼女に促されて、ボクは徐に、口を開いた。




蒼星石の言葉は、雷に撃たれたかのような衝撃を、私に与えた。
末期のガン? 蒼星石が? こんなに、元気そうなのに?
少女のように泣きじゃくる彼女を、私は両腕で抱き締め、包み込んであげた。
過去の自分を見ているようで、心が張り裂けそうになる。

検査の結果、判明したのだという。
全身に転移していて、手術しても、手遅れなのだという。
なぜ、神さまは、こんなに残酷なことをするの?
博愛を唱えていながら、なぜ、全ての人を幸福にしてあげられないの?

こんな事を言うと、神さまを信じる人達に怒られるだろうけど、
一言だけ、言わせて。

――神なんて、何もできない能無しよ。

だけど、私は違う。蒼星石のために、何かを、してあげられる。
私を元気付けるため、フルートの特訓までしてくれた彼女に、お返しをしなきゃ。

「ねえ、蒼星石。二人の思い出のために、指輪の交換をしない?」
「えっ?」
「貴女が填めているファッションリングと、私の――」

私は、ベッド脇の戸棚から、化粧箱に収められた指輪を取り出した。
指輪の交換……それは、永久の愛を誓う、特別な儀式。

「おばあちゃんから貰った、このプラチナの指輪を、交換しようよ」
「そんな……価値が、違いすぎるよ」
「良いのよ。市場の価値と、個人の値打ちは違うわ。
 私は、蒼星石がくれる物なら、なんだって大切にする。たとえ、安物の指輪でも」




さり気なく『安物の』と付けるところに、やっぱり値段を気にしてるんだなと、
笑いを誘われる。
でも、めぐの申し出は嬉しかった。
ボクがプレゼントする物なら、何でも大切にしてくれると言うけど、
それは、ボクにとっても同じコトなんだよ。
物であれ、微笑みであれ、めぐが与えてくれるものは、ボクにとって珠玉の宝石なんだ。

ボクは右手の中指から、安物のファッションリングを抜き取って、めぐに差し出した。

「ボクには、こんな物しかあげられないけど……貰ってくれる?」
「受け取るわ、勿論。それに、貴女は私に、沢山のものを与えてくれたわよ。
 この半年の思い出は、私にとって、かけがえのない宝物。
 貴女の想いは、今、私がこの世に存在する理由の、全てと言っても良いわ」

めぐは、ボクの目の前に、すっ……と左手を伸ばした。

「折角だから、貴女が填めてよ。私の薬指に」
「……うん」

彼女の望むままに、ボクは指輪を贈った。
本当は、縁日の屋台で、姉さんとふざけて買って、交換した指輪なんだけど。
許してくれるよね、姉さん。

ボクが填めた指輪を、めぐはうっとりと見詰めながら、言葉を紡ぎ出した。

「貴女にとって、私が誰より1番だったら良いな。ううん。そうじゃなきゃ許せない。
 だって……私は、世界で1番、蒼星石が好きなんだもの。
 それなのに、貴女が私を二号さんだと思っていたなら、不公平じゃない?」




心から、こう思う。私は、蒼星石の特別な人でありたい……と。
お姉さんと、すごく仲がいいのは、彼女の態度から容易に察せられた。
だからこそ願う。
――どうか、蒼星石が、お姉さんよりも私を選んでくれますように。

想いを込めながら、私はプラチナの指輪を、蒼星石の右手の薬指に填めた。
蒼星石は、夢見るような眼差しで指輪を見詰めながら、呟く。

「ボクは、この指輪に誓うよ。死を以てしても分かたれない、永久の愛を」

私の左手と、蒼星石の右手。
お互いに差し出した掌を重ね合わせると、薬指のリングが当たる、硬い感触があった。
蒼星石の瞳と、私の瞳。見つめ合い、瞼を閉じる。
どちらからともなく、距離を縮めた。
涙を溢れさせながら、唇を重ねた。
この一瞬を、永久の愛に昇華させるための儀式は、これで終わる。

優しいキスを終えて、私は泣きながら、彼女にお礼を告げた。

「ありがとう、蒼星石。私、今になって、本当の夢を見付けたわ」
「本当の、夢?」
「いつか、話してたでしょう? もしも……の例え話」
「ああ……あれか。懐かしいね、何もかも」

本当に、懐かしい。あれは、先週の金曜日だった。
たった一週間前のことなのに、どうして、こんなにも懐かしいの?
なぜ、たった数日間のコトが、何年もの長さに感じられるの?




「せめて人並みに、幸せになりたい。
 あははっ……なんて平凡で、つまらない夢なの。
 人生で最後の願いが、こんな儚い願いだなんて……ホント、笑っちゃう。
 笑いすぎて、お腹が痛くって…………涙が出ちゃうわ」

涙を流しながら、ボクに、そう語った日の夜――
彼女は静かに、息を引き取った。死に顔は、幸せそうに微笑んでいたという。
果たして、めぐの十八年間は、幸せだったのだろうか。ボクには、解らない。
ボクは、彼女じゃないから。
――だけど、幸せだったと信じたい。彼女は、素晴らしい人生を生きたんだ、と。



あれから一ヶ月が過ぎて、ボクに残された時間も、あと僅かとなっている。
病室の窓から見る十月の空は、どこまでも澄み渡り、高かった。
今日は平日。枕元の時計は、午前十時を指していた。
姉さんは今頃、授業中だね。水銀燈や、真紅……みんなも。
この時間に来る見舞客は、居ない。ボクは、独りで死んでいくのかなぁ。

ボクには、ある予感があった。
今日、ボクは死ぬのだ……と。でも、それでも良い。
永久の愛を誓った、めぐの元に行けるのだから。もう、明日を夢見る必要なんて無い。

ふと、開け放った窓から吹き込んできた秋の風に、彼女の匂いを嗅いだ気がした。
何気なく、窓の方に頚を巡らして、空を見上げてみた。

「やっほー。お久しぶり」

そこには、背中に白い翼を生やした、彼女が微笑んでいた。
いつでも微笑みを……そう願った、ボクの為の笑顔が、目の前にあった。




少し見ない内に、蒼星石は痩せ衰えてしまっていた。
可哀想に……こんなに窶れて。辛かったよね、きっと。私には解るわ。

「キミの翼、とっても綺麗だね」

掠れた声だったので聞き取り難かったけれど、蒼星石は、確かにそう言ってくれた。
綺麗。その一言が、ただただ嬉しかった。
他には何も要らないって、思えるくらいに。

「ボクも欲しいな。キミと同じ、真っ白な翼が」
「……どうして?」

理由は解っていた。でも、わざと解らないフリをして訊ねたわ。
だって、蒼星石の口から、蒼星石の言葉で、伝えて欲しかったんだもの。

「君が好きだから、愛しているから、もう離れたくないから……。
 だから、ボクは翼が欲しい。キミと何処へでも、何処まででも行くために――」
「ありがとう、蒼星石。私…………とっても幸せよ」

私は、溢れる涙を抑えることが出来ず、ベッドの脇に降り立って、
蒼星石と口付けを交わした。

「キミは、ボクにとっての天使だったんだね」

彼女は、潤んだ緋翠の瞳から、乙女色の涙を零した。
私は、部屋の片隅に置かれた黒いケースを開いて、金色のフルートを取り出す。

「あの頃とは、立場が逆ね。今日は、私が曲を演奏してあげるわ」




めぐは、そう言うと、徐に、フルートで妙なる調べを奏で始めた。
ショパンの『別れの曲』だ。
本当はピアノで演じる曲なんだけど、真に良質の旋律は、聞く者と楽器を選ばない。
どんな楽器で奏でられても、人々を魅了する。
どんなに荒んだ人の心にも、すんなりと染み込んでいって、心のヒビを埋めてくれる。

それが、音楽の素晴らしさ。

「折角なんだけど、ボクは、バッハの『G線上のアリア』が聞きたかったなぁ」
「悪かったわね。練習する暇が無かったのよ」

めぐと軽口を叩いていると、身体まで軽くなっていく気がした。

いや……気のせいじゃない。ボクの身体は、いつの間にか宙に浮いていた。
背中に、願った通りの真っ白な翼を得て。

見下ろすと、ベッドには、ボクが持ち続けていた『意識の器』が横たわっていた。
十八年が長かったのか、短かったのか、人生経験の足りないボクには答えを出せない。
でも、多分、長さは関係ないと思う。
楽しい十八年だったと満足できたなら、きっと素晴らしい人生だったんだよ。

辛いこと、悲しいこともあったけど、素敵な十八年だったと思う。
だから、未練はない。
ボクの、意識の器……いままで、ありがとう。

ボクは、もう行くよ。

どこまでも、めぐと一緒に。




「準備は良い? 後悔とか、全くない?」
「無いよ。キミを愛しているから……キミと一緒に居られるなら、何も後悔しない」
「じゃあ行こうか、蒼星石。蒼い空の向こう側まで――」

めぐと蒼星石は、病室の窓から飛び出し、真っ白な翼を広げた。
思いっ切り羽ばたき、空を駆ける。
蒼星石は、初めて知った。
――空を飛ぶことが、こんなにも気持ちが良いことだったなんて。


「ねえ! 蒼星石っ!」

はしゃぐ蒼星石に、めぐが左腕を差し出す。

「手、繋いでいこう?」
「うん。今度こそ、ボクの右手に、キミの左手……だね」

手を繋ぐと、誓いの指輪が、かちっと当たった。
そして、二人は――蒼空の彼方へと、飛んでいった。

何処へでも、何処まででも――



愛って、なんですか?


  《完》
最終更新:2007年02月11日 12:03