私は、世間一般では『お嬢様』と分類されるらしい。 父は経済界をリードしていて、新聞にもよく名前が載る。 親戚には政治家の人もいる。少し遠い親戚でも医者、弁護士、大学の教授など、 みな社会的地位の高い職業だ。俳優、作家などをやってる人もいる。 古い家柄だから、血筋を辿れば普通の家庭の人もいるかもしれない。 でも私はそういった親戚の人を見たことが無い。多分、親戚一同のパーティーなどで 呼ばれる人、呼ばれない人で線を引き、後者なのだろう。 こんな家に生まれた私は当然お嬢様であると言え、先の結論に達する。 『お嬢様』だから恵まれている、とは限らない。 普通、旧家の『お嬢様』として生まれると厳しい躾を受ける。 立派な『お嫁さん』として嫁がせるためだ。 でも私は両親の一人娘だった。体の弱い母はそう何度も子供を産めず、最初で最後の子供が私だったからだ。 両親は私を溺愛した。教育こそ真面目だったが(私が真面目に勉強しているととても嬉しそうに 褒めてくれたから、子供の私も嫌がらなかったのだ)、私の欲しい物は何でもくれたし、何処へでも 連れて行ってくれた。周りの人は全員私を可愛いと言ってくれた。 私は恵まれていた。お父様とお母様がいて、執事や、大勢のメイド達、 広い庭、綺麗な花壇、可愛い犬や猫、美味しい料理と毎日楽しみにしてたおやつ、 大きなスクリーンに映る映画、家族と使用人以外は誰もいない海岸で走り回ったり、 大きなお風呂で汗を流し、ヌイグルミに囲まれたベットで寝る一日。 子供の頃はこれが普通だと思っていた。 今ならもう少し世間が分かってきて、お父様が忙しい中、自分のために時間を作ってくれたことも、 使用人達が私を可愛いと言ってくれたのも、学校で私が他の子より目立っていたのも、全部理解できる。 けれど子供時代を皆に可愛がられ、好きな物はなんでも手に入って、我侭し放題だった私のこの性格は、 簡単には直らない。欲しい物は何としても、欲しい。そんな私が今、一番欲しいのは・・・ 嬢「あら男さん、おはようございますわ。今日も庶民らしく歩いて登校ですの?」 男「おはよう・・・ってお前も歩きじゃないか。いつもの高級車はどうした?」 嬢「完璧な私は健康にも気を使いましてよ。歩くのもいい運動ですわ」 男「運動、ねえ。・・・そういやお前、最近顔が丸くなってきてないか?・・・ダイエット?」 嬢「な!だ、誰の顔が丸くなったですって!この無礼者!!」 男「おお、恐っ!お嬢様、どうか気をお静めくださいってか?」 嬢「きーー!!それ以上の侮辱は許しませんわ!!あ、コラッ!待ちなさーい!」 私が今欲しい物はなかなか手に入らない。走っても届きそうにないと思えば、 目の前で大胆にも挑発してくる。その上掴んだと思っても、スルリと両手から抜けてしまう。 もどかしい。こんなもどかしい思いは人生で多分、初めてだ。 簡単に言えば、そう、私は今、恋をしているのだ。 私の学校はそれなりの進学校だ。『それなり』、と言うのも、私の学力ではもっとレベルの高く、 伝統ある私立校にも十分通えるからだ。事実、中学までは名門私立校に通っていたし、 エスカレーター式でそのまま高校、大学へと進学することもできた。両親も私がそうするものだと 思っていたらしく、この高校に進学したいと言ったときは驚きの表情を見せた。 けれど反対はしなかった。それどころか高校の近くに小さな家(世間では豪邸らしい) と生活に十分な使用人を与えてくれた。 私が今の高校に進学したのは当然理由がある。正確に言えば、高校は何処でもよかった。 この街に理由がある。 この街には私の母方の御祖父様、御祖母様が住んでいて、何度か来たことがある。 二人も私を溺愛していて、最初はそちらにお世話になろうと話もあったが、 学校からあまり近くないのと、少し窮屈だったので、新しい家に住むことにした。 それに、祖父母のことは勿論好きだが、それを理由にこの街に来たわけではない。 この街の○○公園に思い出があるのだ。とても遠く、霞がかった記憶でしかないが、二つ、 はっきりと覚えていることがある。 小さな男の子の背中と、全身を包んでくれるかのような、人の温もり。 小さな、と言っても幼少の頃の私と同い年位だったかもしれない。そしてどういうわけか、 私はこの公園でその男の子と遊んだことがあるらしいのだが、顔は思い出せず、後姿しか思い出せない。 後姿を、その男の子の細い肩が震えているのを−何故震えているのかわからないが−、今でも鮮明に思い出せる。 もう一つ、暖かい温もり。こちらはもっと不明瞭だ。視覚として記憶に残ったわけではなく、暖かかった、 と言う感覚を何故か覚えている。たぶん誰かに抱きしめられたんだと思うけど。 まるで母親に抱きしめてもらったかのような、体温の暖かさ。 けどその思い出には母様は出てこない。その暖かな温もりに包まれたかと思うと、そこでプツリと 私の記憶は途絶えてしまう。 私はそれが気になってこの街に来たのだ。 それだけ?と思うかもしれない。けどそれだけだ。私はどうしてもあの男の子が気になってしまう (温もりの方も気にはなるが)。 俗に言う『初恋』なのかもしれないが、今までそれだけは必死に否定していた。 初恋の相手の顔も覚えていないなんて、自分のそんな間抜けさを認めたくないのだ。 けれど、最近はやっぱり『初恋』の相手だったのかもしれないと思い始めた。 今、追いかけている彼の背中に、何故か思い出の男の子の細い背中が、重なって見えるから。 当然だが、人は成長すれば肩は広くなり、背中も大きくなる。男性ならなおさらだ。 思い出の男の子と彼の背中が重なって見えるなんて、自分でもどうかしていると思う。 せめて、男の子の顔さえ、顔さえまともに覚えていれば、その面影が重なったとしても不思議は無い。 顔さえ、顔さえ・・・ 男「・・・どうした?人の顔をじっと見て」 嬢「!」 いつの間にか、彼の顔をじっと見つめていたらしい。それも、目と鼻の距離で。 嬢「な、な、な、なんでもございませんわ。」 男「?・・・変な奴だな」 不覚だ。屈辱だ。しかも彼に『変な奴』呼ばわりされてしまった。なんて失礼な人だ。 そもそも『変な奴』は彼の方だ。クラスメイトは全員私の家の事を知っていて、 どこかよそよそしく、あるいは同い年なのに謙って私に接している。先生でさえもだ。 でもそれが普通なんだろう。なのに、彼は違う。謙るどころか、私をからかうのだ。 最初こそ、警戒するかような態度だったが、それもそうだ。 初対面では私のほうから話しかけたからだ。 〜回想 高校入学の日、その放課後〜 嬢「・・オ、オホン。そこのあなた」 男「!・・・なんだ?」 嬢「名は、何と言いますの?」 男「HRで全員自己紹介はしたと思うが?」 嬢「な、・・クラスメイト全員の顔と名前など一々覚えていませんわ」 男「そうか、なら俺が名乗っても意味無いな。覚えないんだから」 嬢「だ、だから、覚えるために、あなたに名前を伺っているのでしょう!」 男「人の名前を聞く前に、まず自分から名乗るが礼儀じゃないか?」 嬢「くっ、・・・私の名前は、嬢です」 男「知っている、あんなたは有名だからな」 嬢「な!だ、だったら名乗る必要ないではありませんか!何故名前を聞いたのですか!?」 男「名前を聞いてるのはあんたの方じゃないか?   あんたが勝手に名乗っただk・・嬢「いい加減に名乗れぇぇえええー!・・・ハア、ハア」 男「・・・想像してたのとは、少し違うんだな」 嬢「!」 結局あの後10分くらい、高度な論争の末、彼の名前を聞きだした。私の勝利だ。 ・・・決して彼が飽きたから答えたのではない、決して。 思えば、初対面から失礼な人だ。女の子から(しかも私のような美人から)話しかけられて、 どうしてあの様な対応が出来るのだろう? 入学初日に初対面の男子に話しかけるのに、どれだけ勇気が必要なのか、全くわかっていない。 その辺のデリカシーと言うものが欠如しすぎだ。今朝も私の顔を「丸くなった」などと 事実無根な戯言を言う。・・・戯言だ。絶対に。 元々、私はこの高校で友達を作る気はなかった。この街に住めば、いつかはっきりとあの記憶を 思い出せるかもしれないと考えただけで、高校生活を謳歌しようなんて考えてはいなかった。 それに、自分の家庭が、ここの生徒のそれと比べて非常に特殊だ。 対等な友達ができるとは思ってなかったし、別に孤立してもいいと思っていた。 けど、彼を一目見て、正確には彼の後姿を一目見て、話しかけずにいられなかった。 −教室− キーンコーンカーンコーン・・・ 今日の授業が終わる。授業と言っても、ほとんどの科目がこの間の期末テストの返却と、 答え合わせだけだった。今日の返却で全ての結果が返ってきた。 つまり、夏休みの補習の有無が決定されたのだ。 私は勿論全て満点だ。・・・言っておくが、金の力で教師を買収した、などと言うことは無い。 自分の実力だ。まあ、子供の頃から一流の家庭教師が付いている私の場合、当然かもしれない。 むしろ、男の成績の良さが意外だ。私が学年首席なのは当然の結果だが、彼も学年10位以内には 入る(クラスでは次席だ)。彼は家庭教師を雇っていなければ、塾にも通っていない。 それどころか、学校指定の教科書と参考書以外は持っていないらしいのだ。 以前、中間テストの時、意外と好成績な彼に勉強法を聞いたことがあるが、 「授業を真面目に聞き、教科書・参考書の問題を数回復習する」だけらしい。 確かに、テストの問題は教科書の類似問題も多いが、それだけでそれなりの進学校のテスト で満点に近い点を全教科で出すのは難しい。 そして気になるのが彼の性格と、「授業を真面目に聞く」が私の中で繋がらない。 私の座席は4月からずっと彼より前だ。だから当然、授業中の彼の顔を覗き見ることが出来ない。 勿論、授業中に後ろを振り返るなんてはしたないことは出来ないし、しない。 ・・・もどかしい。同じ教室で、すぐ近くにいると言うのに。彼の真剣な顔を、見てみたいのに。 だから私は二学期の席替えを、権力でも使って無理やり彼の隣を獲得するか、 そんな馬鹿なことまで考えて楽しみにしている。 男「なあ、嬢」 考え事をしていた私に、声がかけられる。 彼の事を考えていた時に、当の本人から声をかけられ、少しどもってしまう。 嬢「な、何ですの?男さん」 男「今日で全テストが返ってきただろ。嬢は大丈夫だろうが、中には楽しい夏休みを   学校と呼ばれる監獄で補習と言う拷問を受けなくてはならない人達がいるんだよ。   そこでだ。幸薄い彼らにもきっと明るい未来があるように、お祈りを捧げに行くことになった。   要するに、残念会だ」 嬢「・・残念会、と言うのは分かりましたが、つまり何をしに行くのですか?」 男「カラオケ   飯   酒」 嬢「不穏当な発言があった気がしますが・・・」 と言って、自分に向けられている視線に気づく。数人の男女が私と男とのやり取りを伺っているようだ。 きっとあのグループが残念会へ行くメンバーなのだろう。 私は友達が少ない。いや、男以外に対等な友達はいない。あの人達とも、男を通じて何度か言葉を 交わしたことがある人もいるが、友達、とは違うだろう。 私は幼少から社交界で、見知らぬ大人達に囲まれることもあった。 大人達相手に、洗練された振る舞いをして来たのだ。 自分一人が他人の集団に入る事は、そう苦痛ではない。 それでも自分からわざわざ居心地の悪い空間に飛び込むこともないだろう。 彼らも同じようだ。私と男の交渉を微妙な顔で見ている。 せっかくの楽しい雰囲気を、私に壊されたくないのだろう。 ・・・利害の一致だ。 男と一緒に街に遊びに行くのはとても魅力的だが(カラオケにも興味がある)、 残念ながら残念会の誘いは断ろう。・・・決して洒落ではない。 嬢「お誘いは嬉しいのですが、今回はお断りしますわ」 男「そうか。わかった。じゃあまた明日な」 そう言って、彼は例のグループと一緒に教室を出て行った。 ・・・素っ気無さ過ぎないか? もう一押し、「来てくれ」と言えば考え直したかもしれないのに。 そんなあっさり引き下がるとは思わなかった。それでいい筈なのに、釈然としない。 慎み深いお嬢様である私は自分から「行きたい」なんて言えない、 そんな誰にでもない負け惜しみを心で呟いてからため息をついた。 嬢「はあ」 まだ廊下を歩いているだろう彼らの姿を見ると、より釈然としない気持ちが 膨れ上がりそうな気がしたから、ゆっくりと帰り支度を整えた。 教室のドアを開け、二度目のため息をついてからドアを閉めた。 男「よう、今日は帰りも歩きなのか?」 嬢「ひゃ!・・・お、男さん・・コホン、お、驚かさないでください!」 校門を過ぎた辺りで後ろから声をかけられた。 校門の壁の裏に居たから気づかなかったのだろう。・・・この男のことだから、隠れていた、 という表現の方が的確かもしれない。後ろから声をかけ、私を脅かすために。 でも、どうしてここに居るのだろう?やっぱり私に「来てほしい」と頼むためだろうか? 最初の誘いを断られた時、すぐに引き下がったのは私を驚かせたいから? だとしたらとても嬉しい。先ほどの悪戯を許してあげてもいい。 嬢「ところで、残念会とやらはどうしたのですか?   あなた一人しかいないようですが」 男「ああ、あれなら俺も辞退した。   よく考えたら、俺みたいな成績優秀な奴が参加するのは   嫌味っぽいしな」 それなら誘われた時に気づくだろう。そもそも彼らの企画した残念会は、本当に残念だった人だけが 参加するもの、と言うわけではないだろう。グループの中には成績の良い者もいたし。 結局、理由を付けて騒ぎたいだけではないか。 待て。それだと彼は何故、ここで私を待っていたのか?えと、つまり・・・ 男「せっかくだ、一緒に帰らないか?」 今までのデリカシーの無さを許してあげるくらい心が躍ったのは、 さっきまで沈んでた分、浮かれてしまっただけだ。 たかが一緒に帰るだけで早くなる胸の鼓動に、そう説明づけて落ち着こうとした。 私と男は、よく登校を共にする。しかし下校時は、暗くなると家の者が心配するので車で帰り、 共にしないことが多い。何度が車で送ろうと誘ったこともあったが、何時も断られている。 そんな男の遠慮を少し悲しくも思うのだが、一緒に登校できるだけでも幸せだった。 けど今日は午後の授業が一限しかなく、しかも夏だ。十分明るい。だから歩いて帰れる。 男「・・・少し、寄り道していかないか?」 嬢「え?ええ、私は構いませんわ」 構うどころか、望むところだった。男女が二人、放課後に寄り道。 今まで、今日の残念会みたいにグループでの遊びに誘われることはあった。 その度に私は断るのだが、今は状況が違う。二人きりだ。デートみたいだ。 名家のお嬢様である私でも、憧れる俗世間的な事もある。 今がまさにそれだ。私は彼の隣で、紅葉してしまいそうな自分の頬の温度と戦った。 その格闘に夢中な私は、見慣れた道を歩いていることさえ、目的地に着くまで気づかなかった。 −○○公園− ・・・私は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。だがこの鼓動の早さは、一緒に帰ろうと誘われた時に 感じた早さとは、似ているが違う、緊張だ。 いや、公園のベンチに座り、のんびりと雲の流れを見るデートもあるかもしれない・・・この暑さがなければ。 帰り道、少しの寄り道で行ける公園が、偶然私の思い出の公園なだけかもしれない。 男「この公園・・・来たことあるか?」 彼に他意は無い・・・ただ純粋に、この場所を知っていたか、来たことがあるか、それを聞いているだけ。 いや、もしも・・・もし、彼が私の想像通り、思い出の男の子だとしたら・・・ その希望や不安が、頭の中で巡り巡る・・・ 不安?何が不安なのだ?彼が思い出の男の子でないことが不安なのか? いや、それは違う。確かに彼の背中は男の子の背中に重なるが、それだけで彼を好きになったのではない。 彼が・・・思い出の男の子で『ある』ことが不安なのか? ・・・どうしてだ?もし同一人物だとしたら、それは僥倖ではないのか? 初恋の人が、目の前にいて、しかも今でも好きでいれたのだ。思い出の人に、本当の意味で再会できるのだ。 それなのに何故、こんなにも不安で、喉が渇く。 私は声に出せず、頷くだけで精一杯であった。 結構広い公園だろう。緑が多く、ちゃんと掃除もされている。ベンチもきれいだ。 噴水がある。小さな子供達がボールで遊び、その近くのちょど木陰になるベンチに 親であろう御夫人が数人、会話に花を咲かせている。 私と彼は、入り口からすぐ近くのベンチに腰を降ろした。 男「俺はここに・・・この公園で、小さいときの思い出があるんだ」 ドクンッ!心臓が跳ね上がるかのような、大きな鼓動だ。胸が苦しい。 彼のことを、思い出の少年だと思えるようになればるほど、胸が苦しい。頭が、痛い。 まるでこの話は聞いてはいけないかのように。 何故、だ。何故、何故、何故・・・ 私の苦痛を余所に、彼は核心を聞いてきた。 男「・・・変な事を聞くようだが・・昔、この公園で俺と、会ったことがないか?」 やはり彼は、思い出の男の子なのだ。 彼が私と誰か他の人を勘違いしている、そんな可能性はもう考えられない。 言えばいい、言うだけだ。私もあなたと出会った思い出がある、と。 それだけなのに、それが出来ないほど、胸が苦しい。 初恋のことも、説明することになりそうだからか? 確かに、愛の告白なら緊張もするだろう。それが、幼い頃からずっと暖めてきた想いなら、 なおさら通じなかったときのことを考えると怖くなる。 けど・・・そんな乙女心の葛藤なんかじゃない。 彼のことを分かってしまうのが、この思い出を理解するのが、とても怖い。 嬢「わたくし、は・・」 喉が渇く。 嬢「私、は・・この公園で・・・」 顔を上げることが出来ない。彼の顔を見れない。 嬢「あなた、に・・会ったことが・・・あります」 短い言葉なのに、全部言うのに何十分もかけたように、疲れた。 男「そう、か」 私が呼吸を乱し、誰が見ても分かるくらい具合を悪そうにしているのに、 彼のその声は、至って冷静だ。 ・・まるで、こうなるかが分かっていたかのように。 男「・・・具合悪そうだな。もう、帰るか」 嬢「ま、待ってください!さ、最後まで・・・言わせて」 最後までも何も、彼は私の気持ちを聞きたがっているわけではないだろうに。 ただ、私と同じ霞がかった記憶をはっきりとしたい。それだけなのかもしれない。 けれど今言わないと、この苦しみに耐えられるようでないと、私は一生彼に 告白できないのではないか。そんな、今までの胸の痛みとは別の不安が強かった。 嬢「わ、私は・・・あの時から・・   この公園であなたと遊んだ、あの時から、あなたのことが・・」 ハッ、と息を呑む声が聞こえた。私は頭痛を我慢して、彼を見上げた。 その時の彼は、何かを探るような、鋭い眼をしていた。 男「・・・さっきの、もう一度言ってくれないか?」 嬢「・・え?え、ええ、昔、この公園で遊んだあの時から・・・」 男「・・・」 嬢「・・・覚えて、いないの?この公園で、出会ったのは覚えていますのよね?」 男「・・ああ、そうだったな。小さい頃だから、あまりはっきりと覚えていないんだ。   何をして遊んだのか、まではな」 ふっと、先ほどの眼が嘘のように、優しさで溢れる。 私は彼の瞳を直視できず、また下を向く。 不思議だ。彼の眼を見れないのは、彼と眼の合う恥ずかしさだけでない。 ・・・優しい瞳で見つめられる方が、胸が・・・イタム。 いったい私は如何してしまったのだろう。 好きな人に、睨まれるならまだ分かるけど、あんなに優しい眼で見られて、何が苦しいものか。 けど私のこの理解不能な苦痛は、唐突に、予期しない形で終わることになる。 風が、吹いた。 嬢「え?」 小さな風が吹いた。突然走り出した彼が起こした風だった。 気づいて顔を上げた時、彼は目の前から消えていた。 彼が駆け出した方向・・・そこにはさっき見回した時、ボールで遊んでいた子供が一人と、 アスファルトとの摩擦でスピードを殺そうとしている、トラックだった。 すぐに理解できる。ボールが道路に転がっていき、それを拾いに行く子供。 急に飛び出したので、急ブレーキが間に合わないトラック。 子供を助けに飛び出す男。 一瞬で理解できるけど、私の身体は動かない。 ドガッ! 想像していたよりもずっと小さな音がすると同時に、彼の体は宙を舞った。 嬢「男ォォーー!」 血が、流れる。赤い、紅い、血が。彼の体から、熱が漏れていく。 こういった場合、体を揺すらない方がいいのは分かっている。 でも私は彼を抱きしめずにはいられなかった。 彼の体から噴き出す血を、なんとしても止めたかった。 自分の手を真っ赤に染めながら、彼の名前を叫び続けた。 この時、血まみれの彼を見て、脳裏に何かが浮かんだが、 考えている余裕など、なかった。 救急車はすぐに来た。当然私も付き添い、近くの病院へと搬送され、 緊急手術することになった。今は集中治療室の前の椅子に腰掛けている。 そこで私はやっと冷静になれた。私には最高の医者、最高の設備を持つ病院を紹介できる。 こんな市立病院ではなく、日本最大の医療技術を持つ大学病院へとヘリで搬送すればよかった。 今からでも間に合うかもしれない。けど、もし一分一秒でも早く手術が必要だとしたら? 普通の高校生がそうであるように、私は医学など勉強したことは無いし、そんな習い事もない。 彼の怪我がどれだけ危険なのか、検討もつかない。 とりあえず、ここで緊急手術して、お手上げなくらい酷い怪我ならすぐに私の親戚一同がお世話になる 病院へと搬送すればいい。そう思い、ヘリを待機させるため、連絡しようとしたところだった。 バタン 嬢「!お、男は、男は無事ですか!?」 医者「・・・落ち着いて、聞いてください。彼は今、非常に危険な状態です」 嬢「!」 医「彼は出血が多くて輸血の必要があるのです。   ですが、彼の血液型は非常に珍しく、当病院で全ての血液のストックを検査しましたが、   適合試験に合格したものは一つもありませんでした」 嬢「!で、では他の病院に問い合わせればいいではありませんか!」 医「勿論、彼の血液型に適合する可能性のある血液を持って来て欲しいと、問い合わせていますが、   間に合うかどうか・・・」 嬢「ま、間に合わせなさい!それで、血液を持っている病院は何といいますの!?   すぐにヘリを向かわせます!」 医「そ、それが、△△病院です」 聞いた事のある病院だ。と言うより、私が彼を搬送させようとした病院だ。 嬢「その病院なら、お父様とも縁のある所。   私の名前を使えばすぐにでも運んできてくれるはずです!一秒でも速く寄越せと連絡なさい!」 医「き、君は一体何者なんだね?」 嬢「私は嬢家の一人娘です」 医「!!それを何で早く言ってくれなかったんだ!君の血なら彼を救えるかもしれない!」 そう言われた時、何故私の血液が適合する可能性があるとわかったのか、そんな疑問は頭から消えてしまった。 ただ、私の身に流れる血で彼を救えるなら、私は死んでもいい、そう心から思った。 −数時間後− あれから何時間がたったのだろうか。もうすっかり夜だ。 私は病院の個室で横になっている。 輸血の量が多くて、危険なレベルではないが、少し貧血気味だ。 入院する必要はないのだが、彼の容態が気になって帰りたくないのと、 少し疲れているのもあって、個室で一晩過ごすつもりだ。 事を知った私専属の執事が駆けつけ、両親に見舞いに来させようとしたが、 やめさせた。命に別状は無いし、こんな事で心配をかけたくなかった。 執事には帰らせて、今この個室には私しかいない。 医者には彼の緊急手術が終わり次第、すぐに連絡するように話してある。 どんな結果が待っていようと覚悟は出来ている。・・・出来ているはずなのに、肩が震える。 まるで私が、思い出の男の子にでもなったかのように。 コンコン 扉を叩く音だ。私はすぐに入ってくるよう、返事をした。 入ってきたのは予想通り、あの医者だ。疲れた顔しているが、 何かをやり遂げたかのような、満足そうに小さく微笑んでいる。 医「おめでとう。男君は助かったよ。今はまだ意識が戻らないけど、すぐに眼を覚ます」 覚悟は出来ていた。・・・出来ていたはずなのに、肩が震える。駄目だ。涙を抑えられない。 大人達相手に完璧な『顔』を作れる私でも抑えられない。 けれど−− 医「君が嬢家の人だと聞いたときはびっくりしたよ。彼は苗字が違うから、親戚なのかい?」 嬢「・・・どういうことですの?」 医「え?違うのかい?これは驚いたな。   彼と、君の血液型は特殊で、普通家族や親戚の人以外だと、日本中探してもまず見つからないんだ。   日本だけでなく世界で有名な嬢家の人はその血を代々受け継いでいるらしいからね。   こっちの世界じゃ有名なんだよ」 私は世間の事どころか、自分の周りの事さえ、無知であった。 第一部完