紅き夜の向こうへ

「紅き夜の向こうへ」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

紅き夜の向こうへ」(2005/07/18 (月) 12:09:55) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

*紅き夜の向こうへ  ――ハーヴェイは佇んでいた。  暗い、暗い、海の方に目をやりながら。 「ハーヴェイ、貴方は救われた……?」  メイの言葉が思い出される。  ……答える事の出来なかったその言葉が。  メイの手の温もりを感じながら、死を迎えようとしていたその時。  ハーヴェイは、己が人狼であったのだとようやく理解した。死の際に抜け落ちて行った何か。「それ」が抜け落ちた時、彼の脳裏に記憶が浮かび上がった。それまで認識する事の出来なかった「それ」の見た記憶が。  そう。「それ」が目覚めた時には、ハーヴェイの意識は眠り、暗く翳っていた筈の視界は鮮やかな色彩を取り戻し……「それ」の思うままに、アーヴァインを、そしてヘンリエッタをその手に掛けていたのだった。  二人の無残な姿が、叫びが、脳裏に浮かび上がる。  生きていれば、償う事も出来たのかも知れない。  生きていれば、逃げるために死を選ぶ事も出来たのかも知れない。  けれど。  もう、償う事も出来なくて。  もう、逃げる事も出来なくて。 「ネリーの傍に…居てあげてね。 ネリーは本当に…貴方を愛してるから……。 ネリーから愛とは何か、教えて貰えるといいね。」  その言葉を思い出す。  しかし……  もう、誰かの傍にいる事は出来ないだろう。  愛する事も、愛される事も、許す事は出来ないだろう。  そう。  自分自身を許す事は決して出来ないだろう。  人を殺めてしまったから。  ……否。  その行為への愉悦を。  その手が、その心が覚えてしまっていたから。  そんな己を許す事が出来ないから。  もう、大切だと思う人の許にいる事は出来なかった。  もう、己を責める事しか出来なかった。  ……それでも。  その胸にある想いを消し去る事は出来なかった。  だから。  ずっと、一人で海を眺めていた。  ――その時。  ――視界が暗く翳り、歪む。  くっくっく、と。  上品で、けれど厭らしい……そして何より楽しげな笑い声。  身の内に込み上げる言い知れぬ感触――ざらついた、寒気を伴う怖気のようなそれに、ハーヴェイはおこりにかかったようにその身を曲げ、振るわせた。 【――良いのだよ? 思い悩まずとも。】  優しげな、声。  あの時……メイの手で命を終えた時……体から抜け落ちた筈の「それ」が、再びハーヴェイの内に巣食っていた。 【君が、本当は何をしたいのか。私が教えてあげよう。】  優しさと厭らしさを兼ね備えたその声が。 【君は……欲しいのだよ。あの娘を。そう、あのメイという娘を。あの髪も、あの柔らかな肌も。あの温もりも、瞳の輝きも。あの真っ直ぐな心も。その全て手に入れたいのだよ。己だけのものにしたいのだよ。】  ――声が。  ハーヴェイの心に染み……蝕んで行く。  否定しようとする――しかし、声にはならない。 【良いのだよ? その思いのままで。】  笑い声。  くっくっく、と軽やかに、しかし纏わりつくような笑い声。  ――視界は色を失い黒ずんで行く。 【君は今まで……ずっと自分を抑えて生きてきたのだろう? でも……もう、良いんだよ。】  ハーヴェイの心の襞をねっとりと撫で上げるように、言葉は続く。  そして、ゆっくりと。  ……そう、ゆっくりと。  意識は闇に飲まれてゆく。 【――さあ、行こうか。】  その言葉に――その誘惑にハーヴェイは頷き……彼の意識は闇に堕ちて行った……。  ――暗い夜に潮騒だけが響く。 「明日も逢えるよね。」  そう、ナサニエルに言って、意識を失った筈のメイが目を覚ましたのは海の見える砂浜だった。  そう、そこはギルバートの眠る所であった。  ――何時の間に此処に来ていたのだろうか。  メイは、そんな事をぼんやりと思いながら身を起こした。  目を瞑り、静かな潮騒に暫し耳を傾けた。……何故だろう。先程まであんなにも昂ぶっていたというのに、今、メイの心は静かに、そして澄んでいた。    ――ふと、振り向く。  そこには。  茶色の髪をした青年が立っていた。  そう。  この砂浜に埋っている筈のハーヴェイが。    少し不思議そうな顔をして……メイは、ふと微笑んだ。 「――メイ。迎えに来たよ。」  微笑みを返しながら、ハーヴェイは口を開いた。にっこりと、優しげな微笑みを浮かべながら。  メイの顔に、驚きと……期待が浮かぶ。 「ギルの所へ……行けるの? ギルに会えるの?」  幾分、声を震わせながらそう言ったメイの言葉に、ハーヴェイは頷いた。その顔に優しげな笑みを浮かべたままで。そして、ハーヴェイはメイに歩み寄り……メイの頬にそっと手を触れた。 「会えるよ。君がギルバートさんと同じ所に行けるのなら、ね。」 「え?」  ハーヴェイの言葉と、そこに混じった僅かなからかうような調子にメイは眉をひそめた。  ――その刹那。  痛烈な痛みにメイは思わず、声にならぬ叫びを上げ、身をくの字に折り膝をつく。  痛みを訴えたそこは右目だった。反射的に右目を庇おうと上げた両の手は何かを掴んでいた。  それは、腕であった。  そう、それはハーヴェイの左腕であった。  頬に触れていたハーヴェイの左手の人差し指が……メイの右目に差し入れられていた。    ――笑い声が。  くっくっく、という、上品で、けれど厭らしい、愉悦を帯びた笑い声が。  ハーヴェイの喉から漏れていた。 「人を殺めた君が……真実を語り、勇気を持ち私を人狼だと言い放った彼と同じ所へ行けるならね。」  くっくっく、という、抑えたような、だが抑え切れぬような笑い声が。 「行けると思うのかい? 君が。主の御許へ行けるなどと思うのかい? その血塗られた手で。……君には……狭き門を潜る資格は残ってはいないさ。」  ――笑い声が。  抑えなければ、呵々とした大笑になっているであろう、笑い声が。  右目に走る激痛……しかし、その痛みよりもメイの心を打ちのめしたのはハーヴェイの言葉であった。会いたいと焦がれたギルバートに再び会う事が出来ない、痛みよりもその事がメイを打ちのめした。  ……ああ。  私は悦びを禁じ得なかった。  苦痛に歪み。  打ちひしがれた。  その娘の表情に。    行かせはしないよ。  そう。  行かせはしないよ。  君を。  あの男の許に。  ――否。  誰の許へも。  そう、君は。  私だけのものだから。  片方だけ開けられた。  苛む苦痛に耐えながら私を見ている、そのメイの瞳を。  そこに混じった絶望を。  愛しく、愛しく思いながら。  私は、そう呟いた。  その愛おしさを限りに込めて。  赤い、赤い血を流すその右の目に口付ける。  ああ。  その、血の甘さ。  涙の零れるような程の愛おしさが、身の内を巡る。  その、愛しい者の。  狂おしい程の。  血の甘さに。  その目に口付けたままに。  そっと、指を動かし。  そっと、舌を動かす。  その動きに合わせメイの上げる叫びが。  私の胸元に叩きつけるように響いて。  その声に、私は恍惚をすら覚える。  ああ、君は。  メイ、君は。  求めているんだね。  だから、私を喜ばせようと。  そんなにも素敵な声を、私の身に響かせてくれるんだね。  ゆっくりと。ゆっくりと。  君の眼窩を指で、舌で探って行く。  ――やがて。  血の甘さを。暖かさを。  胸に響くその声を。  存分に味わって、私は唇を離す。  崩れ落ちそうになる君の身を、右の腕できつく抱き寄せ。  私は口を開けた。  舌に転がしたそれを、左の指で抓み。  静かな夜の帳の下へと掲げる。  ああ。  月の光を受け輝く様の何と美しい事か。  私は、うっとりと。  静寂の中、夜の闇の中、美しく月の光を返すそれを見上げていた。  そう。  君の右の瞳を。  その美しさを目に焼き付けると、私は再び、メイの瞳を口に含む。  胸に抱いた君が荒い息をつく事を感じながら。  私は、それを飲み込んだ。  喉を通るその感触に、我知らず、悦びに身を振るわせていた。  ああ。  ああ、これで。  私だけのものだよ。  身を震わせ、荒い息を吐く君をきつく抱き締め。  私はまた、君の右目に口付けた。  ぽっかりと空洞となったその瞼の奥に舌を差し入れた。  私の舌が撫で上げる度に、君はその身を小さく振るわせる。  まるで。  そう、まるでこの行為への悦びを示すかのように。  その様子に、私は昂ぶりを覚える。  歓喜がこみ上げる。  ――唇を離す。  左手を頬に添え、君の顔を私に向けさせる。  眉根を僅かに寄せて、目を細めて、唇を少し開いて。  その顔は、更なる悦びを求めるかのようで。  私は、胸を突く愛おしさに。  はやる想いを抑えつけながら。  ゆっくりと唇を重ねた。  貪るようにその柔らかさを味わうと。  私はその唇に、つぷり、と牙を立てていた。  君の血の甘さも味わえるように。  けれど、喰い破ってしまわぬように、そっと。  牙を突き立てた。  そして私は己の唇を噛み裂いて。  私は自らの血を君の口へと流し込む。  血は、舌と共に絡み。  いつしか、抗う事を諦めて。  君は交じり合ったその血を飲み込み……己の中へと受け入れた。  ――唇を離す。  赤い糸が、私たちの唇を繋いでいた。  君の口の端には、赤く血の筋が流れていて。  その姿は、一層に美しさを増したようで。  私の胸は震えた。    首筋に。  そして、服を裂き、胸元に。  私は口付け、牙を突き立てる。  その白い肌を穿ち、赤く染めて行く。  傷を穿つ度に上がる君の声が。  私の情念に火を灯して行くようで。  昏い歓喜を呼び覚ますかのようで。  君の身を。  小さく振るえる君のその体を。  そっと砂浜に横たえた。  はだけられたその肌に。  口の端から。  首筋から。  胸元から。  乳房から。  流れ、筋を引いた、鮮やかなその血の赤さは。  白い肌に咲かせた薔薇のようで。  ――荒い呼吸の音が静寂の夜に響いている。  それは、私の音であったのか。  それとも、君の音であったのか。  荒い呼吸は、何時しか重なって。  君の瞳が――片方だけになった君の瞳が、私の瞳を見詰めて。  薄く開けられた瞼の奥から。  そう。  何かを訴えかけるかのように。  君の瞳は私の瞳を見詰めていた。  ……むのなら……してくれていい。  貴方が本当にそれを望むのなら……そうしてくれて良い。  ……ああ。  言葉にはならずとも。  君の瞳はその想いを私に伝えてくれる。  君は望んでくれるのかい?  本当に、君は望んでくれるのかい?  君のその願いに。  私は、心の内に厳かなるものさえも覚え。  君の身を跨ぎ。  跪いた。  視線を絡めたままに。  君が小さく頷いたから。  私はそっと、君の胸に両の手を置いた。  しっとりと血に濡れたその温かな肌に。  とくん、とくん、と。  君の鼓動が響いて来て。  私の鼓動と重なった。  ――私は。  私は、その鼓動を確かめようと。  君の胸を裂き。  ぱきりぱきりと音を立てて。  君の胸を開いて行った。  音の度、君は声にもならぬ声を上げ、弾けるように身悶えて。  やがて、その胸から、赤く脈打つ君の命が顔を見せた時。  君は目を開け、私を見詰め。  疎も身を震わせ。  ――その頬を涙の雫で濡らしていた。  その涙の美しさに。思わず心を奪われながら。  私は、脈打つ君の命に口付けた。  私の鼓動と重なっていた君の胸の音は。  やがて少しずつ、その動きをゆっくりと。  少しずつ、力を失って。  私は君の心臓に口付けながら。  やがて来る、その時を待った。  ――ふと。  私の頭に何かが触れる。  優しく私の髪を撫でるそれは。  君の温かな手の感触。  君の手は、もう一度、君の思いを私に伝える。    貴方が本当にそれを望むのなら……そうしてくれて良い。  君の手が、私にそう伝える。  ……月明かりだけが照らす夜。  いつしか、君の手はその動きを止め。  君の命がその脈動を終えようとしたその時。  私は。  君の命を喰い破り。  溢れる温かな血と共に。  ゆっくりと飲み込んだ。  ……涙が流れた。  涙は止め処なく私の頬を流れ……君の顔を濡らして行く。  ……ああ。  俺は……君を手に入れたのだろうか。  君を……失ったのだろうか。  ――気が付けば。  俺は我知らず、嗚咽を漏らしていた。  これは……喜び故であろうか。  それとも……悲しみなのであろうか。  ……メイ。君は……  君の身を抱き起こし、きつく抱き締めた。  まだ残っている、君の温かさを感じながら。  力を無くした……命を無くした……俺が殺した……君の温かさを感じながら。    俺は……。  君の体を抱き締めたまま。  ばきりばきりと音を立て。  己の左の胸を開く。  確かな脈動を伝えるそれを。  掴み、引き千切り。  君の頭上へと掲げ。  握り潰した。  鮮血が、君を染める。  そして、俺は両腕で君を包み。  強く、強く、抱き締める。  脈打つ命を失った体は、急速に命を失い。  視界は黒く黒く染まって行く。    ――行こう。  行こう、メイ。  俺たちが行くべき場所へ。  俺がお前を連れて行こう。  ……月明かりだけが照らす夜の帳の下。  潮騒だけが響く静かな夜。  赤く染まった二つの影を。   ただ。  ……月だけが照らしていた。
*紅き夜の向こうへ  ――ハーヴェイは佇んでいた。  暗い、暗い、海の方に目をやりながら。 「ハーヴェイ、貴方は救われた……?」  メイの言葉が思い出される。  ……答える事の出来なかったその言葉が。  メイの手の温もりを感じながら、死を迎えようとしていたその時。  ハーヴェイは、己が人狼であったのだとようやく理解した。死の際に抜け落ちて行った何か。「それ」が抜け落ちた時、彼の脳裏に記憶が浮かび上がった。それまで認識する事の出来なかった「それ」の見た記憶が。  そう。「それ」が目覚めた時には、ハーヴェイの意識は眠り、暗く翳っていた筈の視界は鮮やかな色彩を取り戻し……「それ」の思うままに、アーヴァインを、そしてヘンリエッタをその手に掛けていたのだった。  二人の無残な姿が、叫びが、脳裏に浮かび上がる。  生きていれば、償う事も出来たのかも知れない。  生きていれば、逃げるために死を選ぶ事も出来たのかも知れない。  けれど。  もう、償う事も出来なくて。  もう、逃げる事も出来なくて。 「ネリーの傍に…居てあげてね。 ネリーは本当に…貴方を愛してるから……。 ネリーから愛とは何か、教えて貰えるといいね。」  その言葉を思い出す。  しかし……  もう、誰かの傍にいる事は出来ないだろう。  愛する事も、愛される事も、許す事は出来ないだろう。  そう。  自分自身を許す事は決して出来ないだろう。  人を殺めてしまったから。  ……否。  その行為への愉悦を。  その手が、その心が覚えてしまっていたから。  そんな己を許す事が出来ないから。  もう、大切だと思う人の許にいる事は出来なかった。  もう、己を責める事しか出来なかった。  ……それでも。  その胸にある想いを消し去る事は出来なかった。  だから。  ずっと、一人で海を眺めていた。  ――その時。  ――視界が暗く翳り、歪む。  くっくっく、と。  上品で、けれど厭らしい……そして何より楽しげな笑い声。  身の内に込み上げる言い知れぬ感触――ざらついた、寒気を伴う怖気のようなそれに、ハーヴェイはおこりにかかったようにその身を曲げ、振るわせた。 【――良いのだよ? 思い悩まずとも。】  優しげな、声。  あの時……メイの手で命を終えた時……体から抜け落ちた筈の「それ」が、再びハーヴェイの内に巣食っていた。 【君が、本当は何をしたいのか。私が教えてあげよう。】  優しさと厭らしさを兼ね備えたその声が。 【君は……欲しいのだよ。あの娘を。そう、あのメイという娘を。あの髪も、あの柔らかな肌も。あの温もりも、瞳の輝きも。あの真っ直ぐな心も。その全て手に入れたいのだよ。己だけのものにしたいのだよ。】  ――声が。  ハーヴェイの心に染み……蝕んで行く。  否定しようとする――しかし、声にはならない。 【良いのだよ? その思いのままで。】  笑い声。  くっくっく、と軽やかに、しかし纏わりつくような笑い声。  ――視界は色を失い黒ずんで行く。 【君は今まで……ずっと自分を抑えて生きてきたのだろう? でも……もう、良いんだよ。】  ハーヴェイの心の襞をねっとりと撫で上げるように、言葉は続く。  そして、ゆっくりと。  ……そう、ゆっくりと。  意識は闇に飲まれてゆく。 【――さあ、行こうか。】  その言葉に――その誘惑にハーヴェイは頷き……彼の意識は闇に堕ちて行った……。  ――暗い夜に潮騒だけが響く。 「明日も逢えるよね。」  そう、ナサニエルに言って、意識を失った筈のメイが目を覚ましたのは海の見える砂浜だった。  そう、そこはギルバートの眠る所であった。  ――何時の間に此処に来ていたのだろうか。  メイは、そんな事をぼんやりと思いながら身を起こした。  目を瞑り、静かな潮騒に暫し耳を傾けた。  ……何故だろう。先程まであんなにも昂ぶっていたというのに、今、メイの心は静かに、そして澄んでいた。    ――ふと、振り向く。  そこには。  茶色の髪をした青年が立っていた。  そう。  この砂浜で永久の眠りに就いている筈のハーヴェイが。    少し不思議そうな顔をして……メイは、ふと微笑んだ。 「――メイ。迎えに来たよ。」  微笑みを返しながら、ハーヴェイは口を開いた。にっこりと、優しげな微笑みを浮かべながら。  メイの顔に、驚きと……期待が浮かぶ。 「ギルの所へ……行けるの? ギルに会えるの?」  幾分、声を震わせながらそう言ったメイの言葉にハーヴェイは頷いた。その顔に、優しげな笑みを浮かべたままで。そして、ハーヴェイはメイに歩み寄り……メイの頬にそっと手を触れた。 「会えるよ。君がギルバートさんと同じ所に行けるのなら、ね。」 「え?」  ハーヴェイの言葉と、そこに混じった僅かなからかうような調子にメイは眉をひそめた。  ――その刹那。  痛烈な痛みに、メイは思わず声にならぬ叫びを上げ、身をくの字に折り膝をつく。  痛みを訴えたそこは右目だった。反射的に右目を庇おうと上げた両の手は何かを掴んでいた。  それは、腕であった。  そう、それはハーヴェイの左腕であった。  頬に触れていたハーヴェイの左手の人差し指が……メイの右目に差し入れられていた。    ――笑い声が。  くっくっく、という、上品で、けれど厭らしい、愉悦を帯びた笑い声が。  ハーヴェイの喉から漏れていた。 「人を殺めた君が……真実を語り、勇気を持ち私を人狼だと言い放った彼と同じ所へ行けるならね。」  くっくっく、という、抑えたような、だが抑え切れぬような笑い声が。 「行けると思うのかい? 君が。主の御許へ行けるなどと思うのかい? その血塗られた手で。……君には……狭き門を潜る資格は残ってはいないさ。」  ――笑い声が。  抑えなければ、呵々とした大笑になっているであろう、笑い声が。  右目に走る激痛……しかし、その痛みよりもメイの心を打ちのめしたのはハーヴェイの言葉であった。会いたいと焦がれたギルバートに再び会う事が出来ない、痛みよりもその事がメイを打ちのめした。  ……ああ。  私は悦びを禁じ得なかった。  苦痛に歪み。  打ちひしがれた。  その娘の表情に。    行かせはしないよ。  そう。  行かせはしないよ。  君を。  あの男の許に。  ――否。  誰の許へも。  そう、君は。  私だけのものだから。  片方だけ開けられた。  苛む苦痛に耐えながら私を見ている、その君の瞳を。  そこに混じった絶望を。  愛しく、愛しく思いながら。  私は、そう呟いた。  その愛おしさを限りに込めて。  赤い、赤い血を流すその右の目に口付ける。  ああ。  その、血の甘さ。  涙の零れるような程の愛おしさが、身の内を巡る。  その、愛しい者の。  狂おしい程の。  血の甘さに。  その目に口付けたままに。  そっと、指を動かし。  そっと、舌を動かす。  その動きに合わせ君の上げる叫びが。  私の胸元に叩きつけるように響いて。  その声に、私は恍惚をすら覚える。  ああ、君は。  メイ、君は。  求めているんだね。  だから、私を喜ばせようと。  そんなにも素敵な声を、私の胸に響かせてくれるんだね。  ゆっくりと。ゆっくりと。  君の眼窩を、指で、舌で探って行く。  ――やがて。  血の甘さを。暖かさを。  胸に響くその声を。  存分に味わって、私は唇を離す。  崩れ落ちそうになる君の身を、右の腕できつく抱き寄せ。  私は口を開けた。  舌に転がしたそれを、左の指で抓み。  静かな夜の帳の下へと掲げる。  ああ。  月の光を受け輝く様の何と美しい事か。  私は、うっとりと。  静寂の中、夜の闇の中、美しく月の光を返すそれを見上げていた。  そう。  君の右の瞳を。  その美しさを目に焼き付けると、私は再び、君の瞳を口に含む。  胸に抱いた君が荒い息をつく事を感じながら。  私は、それを飲み込んだ。  喉を通るその感触に、我知らず、悦びに身を振るわせていた。  ああ。  ああ、これで。  私だけのものだよ。  身を震わせ、荒い息を吐く君をきつく抱き締め。  私はまた、君の右目に口付けた。  ぽっかりと空洞となったその瞼の奥に舌を差し入れた。  私の舌が撫で上げる度に、君はその身を小さく振るわせる。  まるで。  そう、まるでこの行為への悦びを示すかのように。  その様子に、私は昂ぶりを覚える。  歓喜が込み上げる。  ――唇を離す。  左手を頬に添え、君の顔を私に向けさせる。  眉根を僅かに寄せて、目を細めて、唇を少し開いて。  その顔は、更なる悦びを求めるかのようで。  私は、胸を突く愛おしさに。  はやる想いを押え付けながら。  ゆっくりと唇を重ねた。  貪るようにその柔らかさを味わうと。  私はその唇に、つぷり、と牙を立てていた。  君の血の甘さも味わえるように。  けれど、喰い破ってしまわぬように、そっと。  牙を突き立てた。  そして私は己の唇を噛み裂いて。  私は自らの血を君の口へと流し込む。  血は、舌と共に絡み。  いつしか、抗う事を諦めて。  君は交じり合ったその血を飲み込み……己の中へと受け入れた。  ――唇を離す。  赤い糸が、私たちの唇を繋いでいた。  君の口の端には、赤く血の筋が流れていて。  その姿は、一層に美しさを増したようで。  私の胸は震えた。    首筋に。  そして、服を裂き、胸元に。  私は口付け、牙を突き立てる。  その白い肌を穿ち、赤く染めて行く。  傷を穿つ度に上がる君の声が。  私の情念に火を灯して行くようで。  昏い歓喜を呼び覚ますかのようで。  君の身を。  小さく振るえる君のその体を。  そっと砂浜に横たえた。  はだけられたその肌に。  口の端から。  首筋から。  胸元から。  乳房から。  流れ、筋を引いた、鮮やかなその血の赤さは。  白い肌に咲かせた薔薇のようで。  ――荒い呼吸の音が静寂の夜に響いている。  それは、私の音であったのか。  それとも、君の音であったのか。  荒い呼吸は、何時しか重なって。  君の瞳が――片方だけになった君の瞳が、私の瞳を見詰めて。  薄く開けられた瞼の奥から。  そう。  何かを訴えかけるかのように。  君の瞳は私の瞳を見詰めていた。  ……むのなら……してくれていい。  貴方が本当にそれを望むのなら……そうしてくれて良い。  ……ああ。  言葉にはならずとも。  君の瞳はその想いを私に伝えてくれる。  君は、望んでくれるのかい?  本当に、君は望んでくれるのかい?  君のその願いに。  私は、心の内に厳かなるものさえも覚え。  君の身を跨ぎ。  跪いた。  視線を絡めたままに。  君が小さく頷いたから。  私はそっと、君の胸に両の手を置いた。  しっとりと血に濡れたその温かな肌に。  とくん、とくん、と。  君の鼓動が響いて来て。  私の鼓動と重なった。  ――私は。  私は、その鼓動を確かめようと。  君の胸を裂き。  ぱきりぱきりと音を立てて。  君の胸を開いて行った。  音の度、君は声にもならぬ声を上げ、弾けるように身悶えて。  やがて、その胸から、赤く脈打つ君の命が顔を見せた時。  君は目を開け、私を見詰め。  その身を震わせ。  ――その頬を涙の雫で濡らしていた。  その涙の美しさに。思わず心を奪われながら。  私は、脈打つ君の命に口付けた。  私の鼓動と重なっていた君の胸の音は。  やがて少しずつ、その動きをゆっくりと。  少しずつ、力を失って。  私は君の心臓に口付けながら。  やがて来る、その時を待った。  ――ふと。  私の頭に何かが触れる。  優しく私の髪を撫でるそれは。  君の温かな手の感触。  君の手は、もう一度、君の思いを私に伝える。    貴方が本当にそれを望むのなら……そうしてくれて良い。  君の手が、私にそう伝える。  ……月明かりだけが照らす夜。  いつしか、君の手はその動きを止め。  君の命がその脈動を終えようとしたその時。  私は。  君の命を喰い破り。  溢れる温かな血と共に。  ゆっくりと飲み込んだ。  ……涙が流れた。  涙は止め処なく私の頬を流れ……君の顔を濡らして行く。  ……ああ。  俺は……君を手に入れたのだろうか。  君を……失ったのだろうか。  ――気が付けば。  俺は我知らず、嗚咽を漏らしていた。  これは……喜び故であろうか。  それとも……悲しみなのであろうか。  ……メイ。君は……  君の身を抱き起こし、きつく抱き締めた。  まだ残っている、君の温かさを感じながら。  力を無くした……命を無くした……俺が殺した……君の温かさを感じながら。    俺は……。  君の体を抱き締めたまま。  ばきりばきりと音を立て。  己の左の胸を開く。  確かな脈動を伝えるそれを。  掴み、引き千切り。  君の頭上へと掲げ。  握り潰した。  鮮血が、君を染める。  そして、俺は両腕で君を包み。  強く、強く、抱き締める。  脈打つ命を失った体は、急速に命を失い。  視界は黒く黒く染まって行く。    ――行こう。  行こう、メイ。  俺たちが行くべき場所へ。  俺がお前を連れて行こう。  ……月明かりだけが照らす夜の帳の下。  潮騒だけが響く静かな夜。  赤く染まった二つの影を。   ただ。  ……月だけが照らしていた。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。