紅き夜の向こうへ
――ハーヴェイは佇んでいた。
暗い、暗い、海の方に目をやりながら。
「ハーヴェイ、貴方は救われた……?」
メイの言葉が思い出される。
……答える事の出来なかったその言葉が。
メイの手の温もりを感じながら、死を迎えようとしていたその時。
ハーヴェイは、己が人狼であったのだとようやく理解した。死の際に抜け落ちて行った何か。「それ」が抜け落ちた時、彼の脳裏に記憶が浮かび上がった。それまで認識する事の出来なかった「それ」の見た記憶が。
そう。「それ」が目覚めた時には、ハーヴェイの意識は眠り、暗く翳っていた筈の視界は鮮やかな色彩を取り戻し……「それ」の思うままに、アーヴァインを、そしてヘンリエッタをその手に掛けていたのだった。
二人の無残な姿が、叫びが、脳裏に浮かび上がる。
生きていれば、償う事も出来たのかも知れない。
生きていれば、逃げるために死を選ぶ事も出来たのかも知れない。
けれど。
もう、償う事も出来なくて。
もう、逃げる事も出来なくて。
「ネリーの傍に…居てあげてね。
ネリーは本当に…貴方を愛してるから……。
ネリーから愛とは何か、教えて貰えるといいね。」
その言葉を思い出す。
しかし……
もう、誰かの傍にいる事は出来ないだろう。
愛する事も、愛される事も、許す事は出来ないだろう。
そう。
自分自身を許す事は決して出来ないだろう。
人を殺めてしまったから。
……否。
その行為への愉悦を。
その手が、その心が覚えてしまっていたから。
そんな己を許す事が出来ないから。
もう、大切だと思う人の許にいる事は出来なかった。
もう、己を責める事しか出来なかった。
……それでも。
その胸にある想いを消し去る事は出来なかった。
だから。
ずっと、一人で海を眺めていた。
――その時。
――視界が暗く翳り、歪む。
くっくっく、と。
上品で、けれど厭らしい……そして何より楽しげな笑い声。
身の内に込み上げる言い知れぬ感触――ざらついた、寒気を伴う怖気のようなそれに、ハーヴェイはおこりにかかったようにその身を曲げ、振るわせた。
【――良いのだよ? 思い悩まずとも。】
優しげな、声。
あの時……メイの手で命を終えた時……体から抜け落ちた筈の「それ」が、再びハーヴェイの内に巣食っていた。
【君が、本当は何をしたいのか。私が教えてあげよう。】
優しさと厭らしさを兼ね備えたその声が。
【君は……欲しいのだよ。あの娘を。そう、あのメイという娘を。あの髪も、あの柔らかな肌も。あの温もりも、瞳の輝きも。あの真っ直ぐな心も。その全て手に入れたいのだよ。己だけのものにしたいのだよ。】
――声が。
ハーヴェイの心に染み……蝕んで行く。
否定しようとする――しかし、声にはならない。
【良いのだよ? その思いのままで。】
笑い声。
くっくっく、と軽やかに、しかし纏わりつくような笑い声。
――視界は色を失い黒ずんで行く。
【君は今まで……ずっと自分を抑えて生きてきたのだろう? でも……もう、良いんだよ。】
ハーヴェイの心の襞をねっとりと撫で上げるように、言葉は続く。
そして、ゆっくりと。
……そう、ゆっくりと。
意識は闇に飲まれてゆく。
【――さあ、行こうか。】
その言葉に――その誘惑にハーヴェイは頷き……彼の意識は闇に堕ちて行った……。
――暗い夜に潮騒だけが響く。
「明日も逢えるよね。」
そう、ナサニエルに言って、意識を失った筈のメイが目を覚ましたのは海の見える砂浜だった。
そう、そこはギルバートの眠る所であった。
――何時の間に此処に来ていたのだろうか。
メイは、そんな事をぼんやりと思いながら身を起こした。
目を瞑り、静かな潮騒に暫し耳を傾けた。
……何故だろう。先程まであんなにも昂ぶっていたというのに、今、メイの心は静かに、そして澄んでいた。
――ふと、振り向く。
そこには。
茶色の髪をした青年が立っていた。
そう。
この砂浜で永久の眠りに就いている筈のハーヴェイが。
少し不思議そうな顔をして……メイは、ふと微笑んだ。
「――メイ。迎えに来たよ。」
微笑みを返しながら、ハーヴェイは口を開いた。にっこりと、優しげな微笑みを浮かべながら。
メイの顔に、驚きと……期待が浮かぶ。
「ギルの所へ……行けるの? ギルに会えるの?」
幾分、声を震わせながらそう言ったメイの言葉にハーヴェイは頷いた。その顔に、優しげな笑みを浮かべたままで。そして、ハーヴェイはメイに歩み寄り……メイの頬にそっと手を触れた。
「会えるよ。君がギルバートさんと同じ所に行けるのなら、ね。」
「え?」
ハーヴェイの言葉と、そこに混じった僅かなからかうような調子にメイは眉をひそめた。
――その刹那。
痛烈な痛みに、メイは思わず声にならぬ叫びを上げ、身をくの字に折り膝をつく。
痛みを訴えたそこは右目だった。反射的に右目を庇おうと上げた両の手は何かを掴んでいた。
それは、腕であった。
そう、それはハーヴェイの左腕であった。
頬に触れていたハーヴェイの左手の人差し指が……メイの右目に差し入れられていた。
――笑い声が。
くっくっく、という、上品で、けれど厭らしい、愉悦を帯びた笑い声が。
ハーヴェイの喉から漏れていた。
「人を殺めた君が……真実を語り、勇気を持ち私を人狼だと言い放った彼と同じ所へ行けるならね。」
くっくっく、という、抑えたような、だが抑え切れぬような笑い声が。
「行けると思うのかい? 君が。主の御許へ行けるなどと思うのかい? その血塗られた手で。……君には……狭き門を潜る資格は残ってはいないさ。」
――笑い声が。
抑えなければ、呵々とした大笑になっているであろう、笑い声が。
右目に走る激痛……しかし、その痛みよりもメイの心を打ちのめしたのはハーヴェイの言葉であった。会いたいと焦がれたギルバートに再び会う事が出来ない、痛みよりもその事がメイを打ちのめした。
……ああ。
私は悦びを禁じ得なかった。
苦痛に歪み。
打ちひしがれた。
その娘の表情に。
行かせはしないよ。
そう。
行かせはしないよ。
君を。
あの男の許に。
――否。
誰の許へも。
そう、君は。
私だけのものだから。
片方だけ開けられた。
苛む苦痛に耐えながら私を見ている、その君の瞳を。
そこに混じった絶望を。
愛しく、愛しく思いながら。
私は、そう呟いた。
その愛おしさを限りに込めて。
赤い、赤い血を流すその右の目に口付ける。
ああ。
その、血の甘さ。
涙の零れるような程の愛おしさが、身の内を巡る。
その、愛しい者の。
狂おしい程の。
血の甘さに。
その目に口付けたままに。
そっと、指を動かし。
そっと、舌を動かす。
その動きに合わせ君の上げる叫びが。
私の胸元に叩きつけるように響いて。
その声に、私は恍惚をすら覚える。
ああ、君は。
メイ、君は。
求めているんだね。
だから、私を喜ばせようと。
そんなにも素敵な声を、私の胸に響かせてくれるんだね。
ゆっくりと。ゆっくりと。
君の眼窩を、指で、舌で探って行く。
――やがて。
血の甘さを。暖かさを。
胸に響くその声を。
存分に味わって、私は唇を離す。
崩れ落ちそうになる君の身を、右の腕できつく抱き寄せ。
私は口を開けた。
舌に転がしたそれを、左の指で抓み。
静かな夜の帳の下へと掲げる。
ああ。
月の光を受け輝く様の何と美しい事か。
私は、うっとりと。
静寂の中、夜の闇の中、美しく月の光を返すそれを見上げていた。
そう。
君の右の瞳を。
その美しさを目に焼き付けると、私は再び、君の瞳を口に含む。
胸に抱いた君が荒い息をつく事を感じながら。
私は、それを飲み込んだ。
喉を通るその感触に、我知らず、悦びに身を振るわせていた。
ああ。
ああ、これで。
私だけのものだよ。
身を震わせ、荒い息を吐く君をきつく抱き締め。
私はまた、君の右目に口付けた。
ぽっかりと空洞となったその瞼の奥に舌を差し入れた。
私の舌が撫で上げる度に、君はその身を小さく振るわせる。
まるで。
そう、まるでこの行為への悦びを示すかのように。
その様子に、私は昂ぶりを覚える。
歓喜が込み上げる。
――唇を離す。
左手を頬に添え、君の顔を私に向けさせる。
眉根を僅かに寄せて、目を細めて、唇を少し開いて。
その顔は、更なる悦びを求めるかのようで。
私は、胸を突く愛おしさに。
はやる想いを押え付けながら。
ゆっくりと唇を重ねた。
貪るようにその柔らかさを味わうと。
私はその唇に、つぷり、と牙を立てていた。
君の血の甘さも味わえるように。
けれど、喰い破ってしまわぬように、そっと。
牙を突き立てた。
そして私は己の唇を噛み裂いて。
私は自らの血を君の口へと流し込む。
血は、舌と共に絡み。
いつしか、抗う事を諦めて。
君は交じり合ったその血を飲み込み……己の中へと受け入れた。
――唇を離す。
赤い糸が、私たちの唇を繋いでいた。
君の口の端には、赤く血の筋が流れていて。
その姿は、一層に美しさを増したようで。
私の胸は震えた。
首筋に。
そして、服を裂き、胸元に。
私は口付け、牙を突き立てる。
その白い肌を穿ち、赤く染めて行く。
傷を穿つ度に上がる君の声が。
私の情念に火を灯して行くようで。
昏い歓喜を呼び覚ますかのようで。
君の身を。
小さく振るえる君のその体を。
そっと砂浜に横たえた。
はだけられたその肌に。
口の端から。
首筋から。
胸元から。
乳房から。
流れ、筋を引いた、鮮やかなその血の赤さは。
白い肌に咲かせた薔薇のようで。
――荒い呼吸の音が静寂の夜に響いている。
それは、私の音であったのか。
それとも、君の音であったのか。
荒い呼吸は、何時しか重なって。
君の瞳が――片方だけになった君の瞳が、私の瞳を見詰めて。
薄く開けられた瞼の奥から。
そう。
何かを訴えかけるかのように。
君の瞳は私の瞳を見詰めていた。
……むのなら……してくれていい。
貴方が本当にそれを望むのなら……そうしてくれて良い。
……ああ。
言葉にはならずとも。
君の瞳はその想いを私に伝えてくれる。
君は、望んでくれるのかい?
本当に、君は望んでくれるのかい?
君のその願いに。
私は、心の内に厳かなるものさえも覚え。
君の身を跨ぎ。
跪いた。
視線を絡めたままに。
君が小さく頷いたから。
私はそっと、君の胸に両の手を置いた。
しっとりと血に濡れたその温かな肌に。
とくん、とくん、と。
君の鼓動が響いて来て。
私の鼓動と重なった。
――私は。
私は、その鼓動を確かめようと。
君の胸を裂き。
ぱきりぱきりと音を立てて。
君の胸を開いて行った。
音の度、君は声にもならぬ声を上げ、弾けるように身悶えて。
やがて、その胸から、赤く脈打つ君の命が顔を見せた時。
君は目を開け、私を見詰め。
その身を震わせ。
――その頬を涙の雫で濡らしていた。
その涙の美しさに。思わず心を奪われながら。
私は、脈打つ君の命に口付けた。
私の鼓動と重なっていた君の胸の音は。
やがて少しずつ、その動きをゆっくりと。
少しずつ、力を失って。
私は君の心臓に口付けながら。
やがて来る、その時を待った。
――ふと。
私の頭に何かが触れる。
優しく私の髪を撫でるそれは。
君の温かな手の感触。
君の手は、もう一度、君の思いを私に伝える。
貴方が本当にそれを望むのなら……そうしてくれて良い。
君の手が、私にそう伝える。
……月明かりだけが照らす夜。
いつしか、君の手はその動きを止め。
君の命がその脈動を終えようとしたその時。
私は。
君の命を喰い破り。
溢れる温かな血と共に。
ゆっくりと飲み込んだ。
……涙が流れた。
涙は止め処なく私の頬を流れ……君の顔を濡らして行く。
……ああ。
俺は……君を手に入れたのだろうか。
君を……失ったのだろうか。
――気が付けば。
俺は我知らず、嗚咽を漏らしていた。
これは……喜び故であろうか。
それとも……悲しみなのであろうか。
……メイ。君は……
君の身を抱き起こし、きつく抱き締めた。
まだ残っている、君の温かさを感じながら。
力を無くした……命を無くした……俺が殺した……君の温かさを感じながら。
俺は……。
君の体を抱き締めたまま。
ばきりばきりと音を立て。
己の左の胸を開く。
確かな脈動を伝えるそれを。
掴み、引き千切り。
君の頭上へと掲げ。
握り潰した。
鮮血が、君を染める。
そして、俺は両腕で君を包み。
強く、強く、抱き締める。
脈打つ命を失った体は、急速に命を失い。
視界は黒く黒く染まって行く。
――行こう。
行こう、メイ。
俺たちが行くべき場所へ。
俺がお前を連れて行こう。
……月明かりだけが照らす夜の帳の下。
潮騒だけが響く静かな夜。
赤く染まった二つの影を。
ただ。
……月だけが照らしていた。
最終更新:2005年07月18日 12:09