忘れえぬ想い

忘れえぬ想い


 まぶしい春の日差しの降り注ぐ昼下がり、グレンは酒場を訪れた。
 軽く軋みを立てる扉を開く。
 人影もなく静まり返った酒場。
 ――ついこの間まで、賑やかな声が聞こえていたというのに。

 騒ぎの収まった翌朝、メイは姿を消していた。
 鼻歌交じりに酒を注ぐローズマリーの姿も、気持ちの良い程の飲みっ振りでグラスを空けるキャロルの姿も。
 本を読みふけり、顔を合わすと議論に興じていたハーヴェイとラッセルも。
 危なっかしげだが一生懸命なニーナの声と物音も。
 リックとウェンディ。微笑ましい双子たちも。
 毎日決まった時間に訪れるアーヴァインも。
 いつもの席でうたた寝をしているデボラの姿もなく。

 今は静かに。
 ――そう、とても静かに。
 静寂だけが彼を迎えるだけだった。

 外から入ってきた彼の目が酒場の中の明るさに慣れてくると、そこには目を引かれる物があった。
 部屋の真ん中にある、大き目の円卓。
 その上には、いくつものグラスが並べられていた。それぞれに酒が注がれ、萎れかけた花が添えられている。
 そして、飲み干されたグラスがひとつだけ。
 ……きっと、あの男なりの手向けなのだろう。

 目を閉じる。
 去来するいくつもの思い。
 とても長い時を。
 ほんの少しでしかない筈の、とても長い時をそうして過ごして。
 溜息と共に目を開ける。
 ――もう、二度と戻る事のない日々を胸にしまい込んで。
 彼はゆっくりと扉を閉め、酒場を後にした。

 空は青く澄みきって。
 陽は大地にまぶしい光を注いでいる。
 ポケットから取り出した彼の手に握られた何かが、陽の光を返した。

 銀のペンダント。

 飾りっ気のない、質素な造りの。
 旅の細工師が村に訪れた時、散々悩んだ末に買ったものだった。

 ……それを渡したかった人は、もう、いない。

 ぽっかりと穴のあいたような胸を、柔らかな日差しと、優しい風が撫でて行く。
 騒ぎで滞っていた種蒔きは昨日ようやく終えることが出来た。この陽気なら、今年はきっと豊作に恵まれるだろう。物心付いた時から土を耕し空を眺めていた彼にはそれが判った。
 そして、今までそうしてきたように、これからもこの村で土を耕し暮らして行くのだろう……

 ……やがて、時は巡り。

 今、天に召される床にある彼の胸に置かれた手には、あのペンダントが握られている。
 ――静かに。
 そう、とても静かに。
 今、彼の生涯はその終わりを迎えようとしていた。

 あの頃のままの想いと。

 忘れえぬ面影を胸に抱いて。

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最終更新:2005年07月18日 11:01
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