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合戦場豆知識

川中島の合戦

川中島の戦い
永禄4年(1561)
上杉謙信 VS 武田信玄

川中島の戦いは、12年間に5度起こっている。
史実で有名な川中島の戦いは
4度目の八幡原の戦いの事を指す。

かねてより領土拡大を望んでいた
甲斐の武田信玄は信濃侵攻を開始した。
信玄の信濃侵攻によって領地を失った豪族達は
隣国の越後を治めている上杉謙信に助けを求めた。
謙信は豪族達の救援要請を受け、信濃へ出陣する。

上杉謙信は1万3千人の大部隊を率いて
妻女山に陣地を構える。
それに対する武田信玄は
2万人の兵を率いて海津城に入城。
そこで信玄は軍議を開き、軍師山本勘助が
「啄木鳥(きつつき)戦法」を立案する。

「啄木鳥戦法」とは軍勢を二手に分け
一方が妻女山にいる上杉軍に夜襲をしかけ
上杉軍がその攻撃に耐えきれずに
妻女山から逃げ、下山してきたところに
もう一方の本隊が迎えて討ち取るという作戦であった。
しかし、謙信は天性の勘で信玄の作戦を察知。
武田軍の夜襲部隊が到着する前に下山し
八幡原に布陣する。

信玄はこの戦略を見破れず、朝を迎えてしまう。
濃い霧が晴れた八幡原で鉢合わせになる両軍。
武田軍は「啄木鳥戦法」で兵を二手に分けており
上杉軍の半分ほどの戦力しかなかった。
しかも不意を突かれてしまった武田軍は
信玄の弟である信繁が討たれ
軍師である山本勘助までもが
壮烈な戦死を遂げてしまう。

この激しい混戦の中で
謙信自らが武田本陣まで切り込んでいき
武田信玄と一騎打ちを行ったとされる。
謙信は長刀を振るい、
信玄は軍配でその刀を受けるという
一進一退の攻防が続く。
これがかの有名な「川中島の一騎打ち」である。
両者とも数度剣を交えたが、決着はつかなかった。

武田軍は苦戦を強いられたが
やがて妻女山を攻撃しようとしていた夜襲部隊が下山し
上杉軍の背後から攻撃を開始した。
これによって上杉軍は挟み撃ちに合う形になり
武田軍は一挙に形勢逆転、優位に立つ。
上杉軍は武田軍の猛攻の前に敗走した。

結果的には信濃は信玄のものとなったが
多数の戦死者を出してしまい、苦い勝利となった。
このように武田信玄と上杉謙信は
信濃を奪い合う戦いを長年繰り返し、
お互い消耗している間に
尾張の織田信長は着実に
天下取りの基礎を固めていった。
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春日山攻防戦

春日山城

春日山城は別名鉢ヶ峰城とも言われている。
城の築城時期については確固たる資料が
存在しないために具体的な築城年はわからない。
通説では南北朝の動乱時代に
築城されたのではないかといわれている。

それまでは単なる砦程度であった。
春日山城を強固な備えにしたのは
上杉謙信の父・長尾為景であった。
以降為景から晴景へ、そして謙信へと変わって、
さらに景勝へと城主が代わっても
春日山城の存在は変わらなかった。
度重なる改築の末、
難攻不落の要塞に変貌していくのである。

守護、上杉定実の調停により、
病弱の晴景に代わり上杉謙信が
守護代・春日山城主として入城する。
その上杉謙信が春日山城で脳溢血のために死去すると
養子である上杉景勝と上杉景虎とが
家督をめぐって争う「御館の乱」が勃発した。
この乱で勝利をおさめた上杉景勝が
春日山城主となり、景虎は自刃。

景勝は春日山城に20年余在城したが
豊臣秀吉の手によって会津若松に移封される。
代わって掘秀治が春日山城主となるが
その子忠俊の時に平地の福島城に移り、
春日山城は廃城になり、戦国の大要塞は
その歴史的な役割を終える・・・
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高松城水攻戦

備中高松城の戦い
天正10年(1582)
羽柴秀吉 VS 清水宗治(毛利臣)

織田信長の天下統一は間近と迫っていた。
畿内のほぼ全域を統一した信長は
難敵であった武田氏を打ち倒し、
毛利氏の治める中国地方に侵攻を開始する。

信長から中国地方攻略の命を受けた羽柴秀吉は
2万5千人の兵を従えて備中へ進攻する。

備中に着いた秀吉は
毛利氏の攻防拠点である高松城を攻める。
高松城は周囲に深田や沼地が多く
人馬共に進み辛い難攻易守の要害であった。

秀吉は高松城へ正面攻撃を仕掛けるが
その攻めづらさに加え
高松城城主、清水宗治の激しい抵抗にあい
多数の死傷者を出し、失敗に終わる。
そこで秀吉は前代未聞の作戦を実行する。
それは城の周囲に大堤防を築いて
城を水に沈める「水攻め」である。

秀吉は付近一帯の村々から多数の農民を動員し
城を囲むように堤防の大工事を開始した。
工事は昼夜兼行で続けられ
わずか十一日間で巨大な大堤防ができあがる。
堤防が完成すると、天候も秀吉に味方したのか
梅雨の集中豪雨がやってきた。
数日のうちに堤の内は湖と化し
高松城は水上に浮かぶ城として完全に孤立してしまう。

毛利方の士気は大きく下がり、秀吉と講和をしようとする。
そんな秀吉のもとへ一報が届く。
それは信長が本能寺で家臣明智光秀によって
殺害されたというものであった。
主君の死に茫然自失となった秀吉であったが
すぐに冷静さを取り戻し
毛利方の和睦に応じ、城兵全ての命を助ける代わりに
城主である清水宗治を切腹させる。

その切腹を見届けると、
秀吉は主君の仇である明智光秀を討つべく
人智を越えた速度で京都へ向け行軍を行う。
これが後世で「中国大返し」と呼ばれる
大撤退作戦である。
驚くべき速さで行軍した秀吉は
明智光秀を倒し
天下人への第一歩を歩むこととなるのである。
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最南端平定戦

戸次川の戦い
天正14年(1588)
島津義久 VS 長曾我部元親・仙石秀久

薩摩の島津義久は九州統一を目指して
豊後の大友宗麟を倒すべく北上。
島津氏の進攻に耐えきれなくなった大友宗麟は
当時の関白である豊臣秀吉に救援を依頼した。

これを承諾した秀吉は配下の
毛利勢と四国勢へ島津氏討伐を命じる。
それを受けた両軍が豊後へ出陣した。

豊後に向かった毛利・長曾我部連合軍は、
島津軍から攻撃を受けていた
鶴ヶ城を救援するために
戸次川に陣を構え軍議を行う。

連合軍の主将・仙石秀久は
「敵は恐れるほどの相手ではない」
と島津軍を蹴散らそうと主張するが、
それに対して四国の長曾我部元親は反対する。
しかし秀久は元親の意見を聞き入れず
結局は戸次川を渡って戦うことになる。
戸次川を渡った連合軍は島津軍に勝利していく。
しかし、それは島津軍の罠であった。

わざと追い込まれ、敵軍を引き寄せた島津軍は
多くの伏兵で連合軍に襲いかかる。
島津軍の戦術を前に仙石軍は逃亡。
残された長曾我部軍は
善戦するが多勢に無勢で全滅。
なんとか生き残った元親だけが退却し死を免れる。
こうして島津軍に翻弄され、
長曾我部軍は壊滅的な敗戦を味わうこととなる。

この合戦に島津軍は勝利しはしたものの
その後に来た豊臣本隊との戦いは
圧倒的な物量差を前に敗戦続きとなる。
結局、島津氏は軍を薩摩に戻し
豊臣秀吉に降伏するのであった。
これにより、秀吉は九州を手中に収めることに成功する。
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三方ヶ原強襲戦

三方ヶ原の戦い
元亀3年(1572)
武田信玄 VS 徳川家康

戦国の巨獣、武田信玄は
将軍家の力を利用するために
上洛(京都に上ること)を決意。

当時、戦国時代で絶対的な権力を得るためには
京都に上り、都を治めている天皇の権力を
利用する必要があったのだ。

上洛途中の障害である
三河の徳川家康を打ち払うために
武田信玄は2万5千人の兵を従え、甲府をあとにする。
信玄は各地の徳川氏の諸城を攻略しながら進軍。

このまま徳川家康の居城である
浜松城を攻撃するかに見えた。
しかし、信玄は浜松城を無視し通り過ぎた。
自分のいる浜松城を無視された家康は、
武門の誇りを傷つけられ激怒。
通り過ぎた武田軍を背後から攻撃するため
浜松城から出陣する。

武田軍が浜松城を無視したのは
攻城戦を不利と考えた信玄の
家康を野戦に誘い出す巧妙な心理作戦だったのだ。

まんまと信玄の策に引っかかってしまった家康。
武田軍は三方ヶ原台地で転進し徳川軍を待ち構える。
ここに来て、信玄の作戦にようやく気づいた家康も
もはや退くに退けず、前兵力をもって武田軍に挑む。

徳川軍は包囲攻撃を得意とする「鶴翼の陣」で攻撃を開始。
対する武田軍は攻撃に優れた
「魚鱗の陣」でそれを迎え撃った。
徳川軍に所属する三河武士達は
戦上手で根性ある古参兵軍団であり
周辺諸国からも恐れられている存在だった。
その評判通り、最初は徳川軍が武田軍を押し始め
一見、有利に思われた。

しかし武田信玄の巧みな采配で、
武田軍は新手を次々に繰り出し、
その攻撃を受け、徳川軍は総崩れとなってしまう。
家康も敗戦を認め、やむなく退却した。

合戦に勝利した信玄はその後、陣中にて病にかかる。
戦いに関しては無類の強さを誇った信玄だったが、
病には勝てず、上洛を果たせぬままに病死してしまう。
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四国上陸戦

四国平定戦
天正12年(1584)
長曾我部元親 VS 豊臣秀吉

四国内の長きにわたる戦いに
長曾我部元親がついに終止符を打ち
念願の四国統一を完成させた。

しかし、ちょうどその時、関白に就任した豊臣秀吉が、
その四国を手中に収めんと、
元親に讃岐と伊予を返還するように求めてきた。
元親にとっては、やっと手に入れた讃岐と伊予であり、
簡単に手放せるものではなかった。
だが秀吉の軍事力も侮りがたく、
元親は伊予一国を返還することで
折り合いをつけようとした。

秀吉はそれを許さず、交渉は平行線を辿る。
元親との交渉を最初からアテにしていなかった秀吉は、
四国征討令を発した。
弟の羽柴秀長を総大将に命じ、
安芸・播磨・摂津から総勢11万の大軍で四国に進攻する。
対する長曾我部軍は4万の兵力で迎え撃とうとする。
しかし津波のように押し寄せる秀吉軍の前では、
元親の軍勢などひとたまりもなかった。

四国の諸城は秀吉に瞬く間に落とされていった。
秀吉の圧倒的な大軍の前に元親は降伏を宣言。
元親の四国統一は、半年でもろくも崩れ去るのであった。

こうして四国は豊臣氏の新たな統治下となる。
また四国は豊臣政権にとっても
本拠・大坂の地を守備する上で重要な領土となっていく。
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本能寺の変

本能寺の変
天正10年(1582)
織田信長 VS 明智光秀

織田家家臣、明智光秀が主君織田信長に
反旗を翻した、戦国時代で最も有名な謀反劇である。

当時、織田信長の天下統一は
もはや時間の問題であった。
その信長から山陰攻略を命じられていた明智光秀は、
命令に背き、山陰には向かわず、京都へと進軍した。
明智軍の兵士達は不審に思ったが
桂川付近で明智光秀は「敵は本能寺にあり」と
進軍の意図が謀反であると全軍に伝えた。

この明智光秀の謀反の動機は現在も謎のままであり
野望説、自己防衛説、怨恨説など様々な説がある。

一つ言えるのはこの日、京には織田信長の護衛200人しか
軍隊が存在しておらず、謀反を起こすには
千載一遇のチャンスだったということだ。

光秀はこのチャンスを生かして1万3千人もの軍勢を率いて
明け方の本能寺を襲撃する。
明智軍は本能寺を完全に包囲し、攻撃を開始。
明智軍の攻撃が始まり、
騒がしくなると信長の下へ小姓の森蘭丸が来て、
光秀の謀反を知らせた。
これを聞いた信長は
「是非も無し」(しょうがないの意)と言ったとされる。

信長は手近にあった弓を放ち、
それが無くなると槍を手にして戦ったが
よもやこれまでと悟ると
最後までそばにいた女達を逃がし
小姓たちに本能寺へ火をつけさせた。
本能寺炎上。
その中で信長は自刃したとされている。
死体は見つからなかった。

また、このとき、正妻であった濃姫や森蘭丸も共に
本能寺で死んだとされる。

同日、京都二条御所にいた織田信長の息子
織田信忠も明智軍に攻められて自刃する。
本能寺の変はその動機や事件の内容など、
現在も多くのことが謎に包まれたままである。

本能寺の変の成功で、光秀が天下を治めようとする。
しかし、この後すぐに中国地方から驚異的な速度で
戻ってきた羽柴秀吉に
明智光秀の短い天下は崩されてしまうのである。
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摺上原追撃戦

摺上原の戦い
天正17年(1589)
伊達政宗 VS 芦名義弘

正宗は奥州制覇を目指し、進撃を開始。
電光石火の勢いで諸大名を滅ぼした。
勢いづいた正宗は奥州南部で勢力を誇っていた
芦名義弘を破るために進攻を開始した。

芦名義弘は伊達政宗に反撃するべく出陣。
その知らせを受けた伊達軍は摺上原に布陣した。
伊達軍2万3千人に対し、
芦名軍は1万6千人と伊達軍は数では勝っていたが
相手方の奮戦があり、押され気味であった。
その上、西から東へ強風が吹いており
東側に布陣した伊達軍は強風のため視界を遮られ
鉄砲や弓矢がまともに使えず、闘いは困難を極めた。

もはや敗走寸前の伊達軍であったが
合戦開始から伊達軍の視界ふさいできた
風向きが東から西へ変わった。
風向きの変化で士気をあげた伊達軍は
猛反撃を見せる。
伊達軍の攻撃に芦名軍は総崩れとなり敗走した。

この戦の勝利によって正宗は
奥州の覇者としての地位を確立させる。
その後も勢力を拡大した正宗は
いよいよ奥州から
天下取りを目指すように見えたが
時勢は正宗に味方をしなかった。

その頃、すでに天下の大半は関白である
豊臣秀吉に握られていたのである。
関白の命令で奥州諸国での私戦を禁ずるという
「関東・奥両国惣無事令」が出され
奥州諸大名の多くが秀吉に臣従を誓う。
芦名攻めの一件で秀吉に目をつけられた正宗は
その兵力差にあきらめ、秀吉に臣従を誓う。
これにより、秀吉の天下統一が大成するのであっった。
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長篠反撃戦

長篠の戦い
天正3年(1575)
武田勝頼 VS 織田信長・徳川家康連合軍

武田信玄の病死により、
長篠城主・奥平信昌は徳川家康の調略を受け
武田方から徳川方に寝返ってしまう。

裏切りに激怒した武田勝頼は
1万5千人の大軍を率いて長篠城に押し寄せる。

武田信玄亡き後も、
武田の騎馬隊は戦国最強と当時恐れられていた。
武田軍の侵攻を知った徳川家康は、
同盟を組んでいた織田信長に援軍を要請。
信長はこれを受け長篠に出陣した。

信長の援軍が長篠に到着すると
まず、織田・徳川連合軍は武田騎馬隊に備えて
騎馬の突撃を防ぐための馬防柵を作った。
そして連合軍は3千挺もの鉄砲足軽を
その馬防柵の後ろに配置した。
当時の鉄砲には欠点があり
それは一度撃つと弾を込めるのに
時間が掛かってしまうところにあった。

そこで信長は、連続して天保攻撃ができる
「三段式装填法」という新しい砲術を考え出す。
鉄砲隊3人1組に分け、縦列させる。
まず最初の1人目が発砲。
その後すぐ後ろに下がり、次の弾を込めはじめる。
1人目が弾を込めている間に2人目が発砲。
そして3人目が撃ち終わると、1人目が弾込め終わり
発射の準備を終えているというものである。

武田勝頼は人馬が一体となって体当たりすれば
馬防柵や鉄砲など撃ち破ることはたやすいと考えた。
勝頼は6千人の兵を従えて連合軍に突撃を開始した。
それを連合軍は突撃してくる武田騎馬隊へ
「三段式装填法」により絶え間なく鉄砲を撃ち込み
次々倒していった。

何度となく武田騎馬隊は突撃を敢行するが、
連合軍の鉄砲隊の前にほとんどが壊滅してしまう。
武田勝頼は命からがら敗走していく。

この戦いによって武田軍は歴戦の名将を多く失ってしまい
それによって武田氏は急激に衰退し滅亡してしまう。

長篠の戦いの意味は単に織田・徳川連合軍が
武田軍に勝利しただけではない。
騎馬戦という旧世代の最強戦術を
鉄砲戦という近代戦術が打ち破り
その後の合戦の様相を大きく変える
重要な意味を持つ合戦なのである。
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桶狭間奇襲戦

桶狭間の戦い
永禄3年(1560)
織田信長 VS 今川義元


東海道の雄・今川義元は
上洛(京都へ上ること)
を果たすべく、その途中にある
織田信長の領土への進攻を開始した。

義元率いる2万5千人の今川軍に対し
織田軍は3千人という少ない兵力。
当時の信長と義元の力の差を考えると
負けることは必定である。
しかも負ければ織田家が滅亡する。
まさに信長の状況は絶体絶命であった。
そかし、そんな切羽詰まった状態でも
信長はたいした軍議もせず寝てしまう。

家臣達からもあきれられ
このまま織田家は滅亡するかと思われた。
しかしその日の深夜、信長は目覚めつと突如
出陣命令を出す。そして信長の好きな謡曲の一節
「敦盛」を舞ってから信長は出陣。
その頃、今川義元は、織田の諸城である
鷲津砦、丸根砦をすでに陥落させ
戦勝に酔って桶狭間で宴を行っていた。

信長は偵察に出していた兵士から
「今川義元は桶狭間で休憩中」との報告を受け
ここぞとばかりに奇襲をしかける。
天候も信長に味方し
突如稲妻が走り、大雨が降り出した。
大雨のせいで織田軍の接近に今川軍は気づかなかった。
さらに、今川軍はこの奇襲を味方の裏切りだと勘違いし
大混乱に陥ったのだ。

今川義元は大軍に指令を与える間もない内に
乱戦中にその首を取られた。
主君を失った今川軍は崩壊し、退却していった。

この勝利で織田信長の武名は天下に轟き
その勢いで織田信長の「天下布武」への
快進撃が始まるのである。
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山崎殲滅戦

山崎の戦い
天昇10年(1582)
羽柴秀吉 VS 明智光秀

織田信長の命を受け
備中高松城で毛利方の
勇将・清水宗治と戦っていた羽柴秀吉は
本能寺の変で織田信長が死んだ報を受け取る。

それを聞いた秀吉は大急ぎで毛利方の
和睦に応じ戦を収めた。
そして戦を収めるなり
羽柴軍は明智光秀を倒すため1万3千もの兵を率いて
驚異的な速度で本拠地である姫路へ向け進軍を開始した。
この進軍はそのスピードの速さから
「中国大返し」と呼ばれる伝説となっている。

秀吉はそんな驚異的な速度で
移動しながらも各地の武将の賛同を集め
3万もの兵力で打倒明智のため
万全の体制を整えていた。
一方、光秀は秀吉がこんなに早く帰ってくるとは
夢にも思っておらず、
どうすることも出来ないまま羽柴軍を
迎撃しなければならなくなった。

3万にも膨れあがった秀吉軍に光秀は
山崎で布陣して対抗しようとする。
昔から合戦は高所を取った方が
有利とされていた。
山崎には天王山という山があり
そこを陣取った方が有利なのは明白であった。
両軍、天王山を奪い合う激しい戦いが行われたが
羽柴軍が天王山を取ることに成功する。

更に各所で本格的に合戦がはじまり
羽柴軍の猛攻の前に明智軍は次々と崩壊していく。
光秀も奮戦したが
先に天王山という地の利を取られたことが戦局に響き、
戦いに敗れて退却。
光秀は退却中に竹やぶの中で土民の槍にかかり落命。
明智光秀のわずか10日あまりの「天下」は
惨めに幕を閉じたのであった。

この合戦の勝利により
秀吉は主君織田信長の敵を討った
最大の功労者として
その後の織田家中における
主導権を握っていくこととなる。
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姉川分断戦

姉川の戦い
元亀元年(1570)
浅井長政・朝倉義景連合軍
        VS 織田信長・徳川家康連合軍

上洛を果たした織田信長は、将軍の権力を利用し
越前の朝倉義景が将軍の命令を聞かないことを口実に
3万の軍勢を率いて越前攻略に出陣した。

不意の朝倉攻めであり
朝倉方にまだ防御態勢が整ってなかったため
織田軍は快進撃を続けた。
そんな信長のもとに思いもかけない知らせが届けられた。
浅井長政の謀反であった。
長政は信長の妹である、お市の方と結婚しており
信長が最も信頼していた同盟軍である。
その長政が北近江で信長に反旗を翻したのだ。

越前の奥深くまで進入していた
信長の3万の大軍は退路を断たれてしまうことになる。
織田軍はすぐに転進し、命からがら京都に逃げ帰った。
京都に逃げ帰った信長は徳川家康とともに
報復を行うため浅井・朝倉征伐を決意。近江へ出兵する。

浅井・朝倉連合軍1万8千人に対して
織田・徳川連合軍2万8千は姉川を挟んで布陣。

戦国時代始まって以来、最大規模の野戦である。
そして早朝に戦いの火蓋が切って落とされた。
初めは浅井・朝倉連合軍の奮闘で
織田・徳川軍は押され気味であった。
特に浅井方の猛将・磯野員昌の
活躍はすさまじく
織田軍の布陣をつぎつぎと撃破。
あと一歩で信長本陣というところまで迫る。

しかし、織田の同盟軍である徳川軍が
右翼から浅井軍を攻撃。形勢逆転する。
これを機に織田軍は勢いを盛り返し
結果的には織田軍の大勝利となった。
合戦の時間は8時間にも及び
両軍の多数の死者により
姉川の水は真っ赤に染まったとされる。

姉川の戦いで勝利を収めた織田信長であったが
敵対賞である朝倉義景と浅井長政を
討ち取るには至らなかった。
しかし、姉川の戦いから数年内に両者とも
信長の手によって討ち取られている。
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小田原城包囲戦

小田原の戦い
天正18年(1590)
北条氏政・氏直 VS 豊臣秀吉

織田信長が本能寺で没した後、
秀吉は他の織田家臣団との覇権争いに勝利し
関白太政大臣に就任。更に中国・九州を平定した。

全国で秀吉が支配していない
地域は関東、東北のみとなった。
秀吉は「関東・奥両国惣無事令」を発令。
全国の諸大名を集め、
関東から陸奥に至るまで戦国大名達の私闘を禁止した。
しかし、関東を支配していた
北条氏政・氏直親子はこれに従わなかった。

これに激怒した秀吉は北条氏に対し攻撃を開始する。
北条氏の居城である小田原城は
巨大な城郭を持つ難攻不落の城。
力攻めでは攻めきれないと考えた秀吉は
22万もの大軍で小田原城の大包囲作戦を決行した。

更に北条氏の繊維を徹底的に喪失させるため
「一夜城の建設」を秀吉は行った。

小田原城を見下ろす石垣山に
一晩で巨大な城が出現したのだ。
そのトリックは、80日間もの短い期間で
樹木に隠しながら城を築き
完成させると、夜のうちに目の前にある樹木全て伐採。
まるで一夜にして城が出現したかのように見せたのだ。
この「一夜城」の出現で北条氏の家臣は動揺し
その結束に亀裂が入る。

大軍に包囲され、更に一夜城の出現で
内部崩壊してしまった北条氏は
降伏を決めるのだった。
秀吉は氏政とその氏照を切腹させ
5代にわたって関東を治めていた
北条氏は滅ぶこととなる。

この小田原城の戦いの成果は、
北条氏を破って関東を秀吉の
支配下に置くことに成功しただけではない。
22万の大軍という圧倒的な力を
東北の諸大名に見せつけたのだ。
関東を制圧した秀吉に対して、
東北の大名は戦わずして次々と臣従を示す。
これより、秀吉の天下統一は大成したのであった。
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