C.U.B. @Wiki RSLシナリオ01


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シナリオ01


まだまだ修正&校正中
  • ゲームのメインは、リアルタイムシミュレーション部だが、シナリオとしては国と軍事、国と個人との関係を現在の日本の延長線上として表現することで、リアルな雰囲気を演出するのか目的
  • 2項対立的で説教っぽくならない様に何度も見直すこと
  • なんだか同じ語尾多すぎ
  • 冗長過ぎるとこは消す
  • 状況説明をダラダラ書くよりも、テンポよく解りやすく
  • ゲーム開始時に読む内容として適切な内容だろうか?→ごっそり省く?
  • システム上、半角文字は使わない様にしとく



【内藤 正臣】

幼少の頃の記憶でいつも思い出されるのは、休日に近所の海辺を父と散歩したことだ。
父はどちらかと言えば無口な方だったので会話も殆どなく、夕方頃から海辺の道をゆっくりと歩くだけの散歩だった。
日の入りを見て家に戻ると、決まって母が夕食の準備をタイミングよく終えるところで、家族3人で揃って食事を済ませ、風呂に入ってしまえば一日遊んだ疲れが出て、ぐっすりと寝てしまう。
何も特別なことが起こるわけでもなく、平穏なものだった。
けれども、自分にとってはこれほど安らぐものが無い、特別な時間に感じたのだ。
父は散歩の途中で、肩車をして海を見せてくれることがあった。
父の肩の上から見る海は、いつもと違ってより広く、より青く輝いて見えた。
空を見上げれば雲が自分を包み込むかの様に迫ってくる感覚に圧倒され、ずっと空を見上げていた。
穏やかな日差しの中、父と共有する時間は静かで、幸せに満ちていた。
この平穏な時間はこれからもずっと続くと信じて疑うことはなく、父の肩の上から見た情景の暖かさと雄大さが、それを約束してくれている気がした。

海上自衛隊の自衛官であった父は、任務で海に出ていることの方が家に居る時よりも多かった。
数日間家で過ごした後に数ヶ月も会えないこともざらで、父が所属する第3護衛隊群・第63護衛隊が母港とする舞鶴の地へ滋賀から越してきたのは、家族で過ごせる時間を少しでも増やすためという母の提案によるものだった。

小学校も高学年に近づいた頃になると、子供心にも父の職業への世間の風当たりが一層強くなったことが解った。
父が任務で航海に出る度に、多くの大人達が「戦争反対」と軍港付近に集まり、シュプレヒコールを上げることが次第に多くなったきたからだ。
反対に、近くの港に隣の国から来たという船が停泊する時には、沢山の大人達が知らない国の国旗を嬉しそうに揺らしながら歓迎する事が多くなった。
隣の国から来たというわりに、あまり見覚えの無い国旗で、玩具の万国旗から同じものを探したが、見つからなくて不思議だった記憶がある。
母は、あれは怖い国の船で危ないからと、その船が停泊している時は自分を港や浜には近づけさせなかった。

小学校の高学年になった頃、父はミサイル護衛艦”あまぎ”の先任伍長に任命され、半年以上も任務に出るほど忙しくなった。
”あまぎ”は米国のアーレイバーク級ミサイル駆逐艦をベースに建造された、こんごう級ミサイル護衛艦であり、老朽化した”みょうこう”の後継機となる、所謂イージス艦と呼ばれる艦艇だ。
父が忙しくなったのは、”あまぎ”の先任伍長として任命されただけでなく、某国の軍拡による軍事プレゼンスの拡大と、米軍のトランスフォーメーションによるアジア駐留軍の縮小、当時の日本の政権が所謂”思いやり予算”の削減を断行するなど、諸々の事情によって在日米軍がグアム島まで撤退したため、各護衛艦隊の負担が急激に増したためだ。

中学校へ入学して間もなく、東京の首都高速道路・環状道路・鉄道・空港とあらゆる交通網やインフラ設備に対して、大規模な同時多発テロが発生した。
首都機能は完全にマヒし、国の総力をもってしても1ヶ月もの間、応急処置的な復旧に時間を要した。
日本だけでなく世界中が騒然とし、テレビでも連日報道特集が組まれた。

識者や評論家などが警察力の限界と自衛隊による対処を訴えたが、当時の政権は超ハト派で、御多分に洩れず軍隊不要論者であり軍事アレルギーとでも言うのか、災害の支援・救助活動にさえ自衛隊を出動させない徹底ぶりであったから、結局は警察力で対応という結論しか出ようが無かった。
一方、警察では急増したアジア系外国人による犯罪や、ビザ無し渡航を悪用した不法滞在者の取り締まり等に加えて、日本各地にできた不法滞在者の温床と言われるアジア街への対応と治安維持で、既にオーバーワークとなっており、ここにきてテロ対策などという、せいぜい暴力団を制圧する程度しか想定されていない装備ではできるはずもなかった。
また、事の重大さから事実を公表することによって、事態の収拾が困難になることを恐れ、犯人の国籍等の情報は公表されることはなかった。
しかしながら、世間の関心はアジア街に対する取締り強化の声と漠然とした不安だけで、テロに怒りを覚えても犯人達の背景にある思想や目的を気にかける者は居なかった。
もちろんテロリストの正体はアジア某国の工作員であるとした情報がリークされることもあったし、十分に説得力と信憑性のある情報だったのだが、大部分の世間の興味を惹くこともなく、マスコミの言う”アジアの国々”も、表向きは事件への同情を寄せていたので、そういった話題はいつの間にか聞かなくなってしまったのだ。
つまりはテロリスト達を、頭のおかしな異常者達が突発的に行った重大な犯行程度にしか認識していなかったのである。
そして、世論はマスコミに誘導されるまま、当時の政権非難に集中していった。
当時の自分には、そうした政治家やマスコミ、世論のそれぞれの思惑までをも理解することはできなかったが、この国に大きな転換期が訪れたことは肌で感じることができた。

それから2年の月日が流れ、中学を卒業する少し前に父は亡くなった。
港への帰港直後に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
死因は過労死。
先任伍長という仕事は、幹部士官以外の兵、つまり海曹士以下全てのクルーの勤務指導から、士気の高揚及び融和団結の強化に関して士官への意見具申、報告書から資材に関する各種書類の処理まで行う激務である。
加えて、先の在日米軍の撤退と、陸・海・空の3軍の統合への移行に関する作業から、父への負担は相当なものであったのだろう。
事故や戦闘による殉職ではなく、自衛官が過労死するという事実は、自分にとっては思ってもみなかったことで、久しぶりの父との対面を待ちわびていた矢先のことだったこともあり、自分も母もひどいショックを受けた。
父が亡くなってからは京都の祖父の家で暮らしていたが、元々体の弱かった母は、父の死を境に病で臥せることが多くなり、高校卒業を前に父の後を追うようにして亡くなってしまった。
祖父のおかげで高校を卒業することはできたが、大学へは進学はしなかった。
それどころではなかったし、何より自分自身の将来に対する夢や希望の全てが失われたかの様な喪失感で、何もできないでいたのだ。

この頃、自衛隊は自衛軍となり、正式に軍として認知された。
あのテロ以降も続いた小規模なテロや、情勢不安から国民の自衛軍に対する感情が以前とは打って変わり、政権も保守派政党に交代したためだが、既に国民の意識は、自衛官の募集が政府広報CMで流れても自然に受け止められるほどに変化していた。
そんな流れに自分だけは取り残されたかの様に、国を護るとか日本人としての誇りがどうとかの意識も無く、政府広報CMの愛国心を煽ったキャッチコピーや、勇ましい音楽を横に冷めた目で眺めていた。
自衛官を人殺しと呼んで軽蔑し、無策に米軍をアジアから撤退させ、テロを誘発させたこの国でなければ、父は過労で亡くなることも無かったかもしれないし、いざテロが発生して情勢が不安になると180度民意が替わった、この国の無節操さを憎んでさえいた。

矛盾と思われるだろうが、それでも高校卒業後、自分は父と同じ自衛官となる道を選んだ。
祖父には他にやりたいことや、好きなことは無いのかと尋ねられたが、本当のところ自衛官になることは、特別にやりたいことだったわけではない。
父の面影を見れるかもしれないという点において、ただ自衛官となる道が必然の様に思えただけのことだ。
一般曹候補生として志願し、試験に合格すれば舞鶴教育隊へ入校できる。
そうすれば舞鶴の海を見ることができる。
ただ、それだけに惹かれて自衛官になることを選んだ。
馬鹿だと思われても仕方が無い。
自衛官にならなくても舞鶴に行くことはできるし、舞鶴に自衛官以外の仕事が無いわけじゃない。
けれども、自分にはそれしか無かった。
だから、本当に自分は馬鹿なんだと思う。
国や家族を護るなんてキャッチコピーを冷めた目で見ながらも、思い出に浸りたいというだけの自分勝手な理由で自衛官になったのだ。

もちろん、今この時期に自衛官になるということが何を意味するかも解っていた。
戦争という現実が近づいていたからだ。
日本は世界から孤立し、日米安全保障条約も空洞化し、経済も思わしくない。
国内情勢も不安定で、アジア某国の影響力は軍事力と共に日増しに拡大していた。
祖父が自衛官になることを止めたのは、そのためだ。
しかし、空っぽの自分にはそんな厳しい現実の方が、かえって心地よくも感じた。
父との思い出という呪縛にとり憑かれた自分が、その殻を自力で破ることができずに、無意識の内にそれを変える大きな力を欲していたのかもしれない。
いや、そんな不幸な境遇に同情して欲しくて甘えていただけなのだろう。
どちらにせよ、自分一人のそんな考えなど、この国を取り巻く過酷な状況には何の影響もあろうはずが無く、変革の時は否応無しに自分を飲み込んでいった。
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