H18. 2.23 青森地方裁判所 平成14年(ワ)第43号 損害賠償請求事件

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十二指腸潰瘍穿孔による穿孔性腹膜炎を発症した患者の治療に当たっていた医師が,十二指腸潰瘍穿孔の診断を遅滞したとはいえず,消化性潰瘍の治療に関しても過失が認められないとされた事例。 主文 1 原告らの請求をいずれも棄却する。 2 訴訟費用は原告らの負担とする。 事実及び理由 第1 請求    被告は,原告Aに対し2451万3171円,原告Bに対し1225万6585円,原告Cに対し1225万6585円及びこれらに対する平成10年10月14日から支払済みまで年5%の割合による金員を支払え。 第2 事案の概要    本件は,亡DがE病院への入院後に十二指腸潰瘍穿孔による穿孔性腹膜炎を発症し,その後,転院先の病院において呼吸不全,胸水貯留,播種性血管内凝固症候群を併発し,平成10年10月14日,多臓器不全により死亡したことについて,亡Dの相続人である原告らが,E病院を設置経営する被告に対し,診療契約の債務不履行による損害賠償請求権又は民法715条の使用者責任規定による不法行為損害賠償請求権に基づき,亡Dの死亡による損害金の支払を求めたところ,被告が,担当医師には過失がなく,債務不履行もないなどとして争っているという事案である。    その中心的争点は,(1) 担当医師の診療契約上の注意義務違反(帰責事由)又は不法行為法上の過失(消化性潰瘍の治療が不適切であった過失又は穿孔性腹膜炎の診断が遅れた過失)の有無,(2) 死亡との因果関係の有無である。  1 前提事実    以下の事実は,括弧内に記載した証拠により認めることができるか,又は当事者間に争いがない。   (1) 亡DのE病院への入院と穿孔性腹膜炎の発症(甲1,2)     亡Dは,平成10年8月3日(以下,特に断りのない限り,日付は平成10年のそれを指す。)から咽頭痛,発熱があり,経口摂取が困難になったため,8月4日,F診療所を受診した。亡Dは,F診療所の医師から化膿性扁桃腺炎の疑いとの診断を受けてE病院を紹介され,同日E病院を受診し,同病院に入院した。     E病院に入院後,亡Dは腹痛を訴えるなどしていたところ,8月7日朝行われた腹部CT検査等の結果,穿孔性腹膜炎と診断された。   (2) G病院への転院と亡Dの死亡(甲5,6)     同日,亡DはG病院へ転院し,十二指腸潰瘍穿孔による汎発性腹膜炎と診断され,緊急手術を受けた。しかし,亡Dは緊急手術後呼吸不全,胸水貯留,播種性血管内凝固症候群を併発して一般状態が悪化し,10月14日,多臓器不全により死亡した。   (3) 原告らによる亡Dの相続(甲12,13)     原告Aは亡Dの夫,原告B及び原告Cはいずれも亡Dの子であり,原告らは,亡Dの権利義務を相続した。  2 原告らの主張   (1) 被告の債務不履行責任又は使用者責任    ア E病院担当医師の過失     (ア) 8月6日の段階における穿孔性腹膜炎の診断の遅滞       亡Dの穿孔性腹膜炎は,8月6日朝の時点で発症していたと考えられるが,E病院の担当医師は,それまでの亡Dの症状から消化管穿孔を強く意識し,胸部X線撮影などその症状に適した検査をし,穿孔性腹膜炎が発症していることを確認すべきであった。       しかし,担当医師は亡Dの重篤な症状に比べ,危機意識が希薄であり,それがひいては腹膜炎の診断を遅れさせた。     (イ) 消化性潰瘍の治療の不適切       仮に,穿孔性腹膜炎の診断の遅滞が認められないとしても,E病院の看護師は,8月5日夜に亡Dから黒色便の報告を受けているところ,これはいわゆるタール便であり,上部消化管出血を示唆する。そして,亡Dが化膿性扁桃線炎というストレス下にあり,高齢者であり,またボルタレンを使用したということを考えれば,「非ステロイド抗炎症剤による消化管出血」と診断できる。なお,被告は8月6日の直腸診で出血の所見はなかったとしているが,直腸診での肉眼的な出血の有無は,便潜血反応よりはるかに感度の低いものである。       したがって,E病院の担当医師は,8月5日の段階で上部消化管出血と診断して,ボルタレン等の非ステロイド抗炎症剤の使用を中止し,消化性潰瘍の治療(胃酸分泌抑制剤の使用等)を開始するといった対策をとるべきであったが,これを怠った。    イ 被告の債務不履行責任      亡Dは,8月4日,被告との間で,発熱等の治療を目的とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結していたのであるから,被告は,本件診療契約の履行に当たって亡Dの全身状態に配慮しながら最善の治療をすべき義務を負っていた。      そうであるのに,被告は,上記義務に違反し,その債務不履行により亡Dを死亡させてしまった。      したがって,被告には,上記債務不履行により亡Dが被った損害を賠償すべき債務不履行責任がある。    ウ 被告の使用者責任      E病院の担当医師は,亡Dの治療について,医師としての注意義務を怠り,その過失により亡Dを死亡させたのであるから,上記医師の行為は不法行為を構成し,上記医師の使用者である被告には民法715条の使用者責任規定による損害賠償責任がある。   (2) 損害    ア 葬儀費用                     120万円    イ 逸失利益                2142万6342円      345万3500円(平成11年度賃金センサス)×8.8632(12年〔平均余命の2分の1〕のライプニッツ係数)×0.7(生活費控除割合30%)=2142万6342円    ウ 慰謝料                     2200万円    エ 弁護士費用                    440万円    オ 原告らの相続      亡Dの死亡により,原告らは,上記損害賠償請求権4902万6342円を次の割合で相続した。       原告A (夫・相続分2分の1)  2451万3171円       原告B (子・相続分4分の1)  1225万6585円       原告C (子・相続分4分の1)  1225万6585円   (3) よって,本件診療契約の債務不履行による損害賠償請求権又は民法715条の使用者責任規定による不法行為損害賠償請求権に基づき,被告に対し,原告Aにおいては損害金2451万3171円,原告B及び原告Cにおいては各損害金1225万6585円並びに各原告ともこれらの各損害金に対する平成10年10月14日(亡Dの死亡の日)から支払済みまで民法所定の年5%の割合による遅延損害金の支払を,それぞれ求める。  3 被告の主張   (1) E病院担当医師の過失の不存在    ア 穿孔性腹膜炎の診断の遅滞のないこと     (ア) 8月6日の時点で,亡Dに出血性の十二指腸潰瘍が生じていた可能性は否定できないとしても,次のaからcのとおり,穿孔そのものは8月6日夜以降に生じたものと考えるのが妥当である。      a 8月6日午後8時過ぎに行われた腹部エコー検査でも穿孔の所見は得られていなかったのであり,また,同日夜に実施された直腸診では,出血すら認められなかったのであるから,その時点で消化管からの出血があったことすら疑わしく,同日夜の時点では少なくとも穿孔は生じていなかったと考えざるを得ない。      b ソセゴンは麻薬のような類ではなく,単なる鎮痛剤にすぎない。仮に8月6日の時点で原告らが主張するように穿孔から腹膜炎に進展していたとするなら,ソセゴンの投与で腹痛が軽快するはずはない。むしろこの時点で亡Dに腹膜炎が生じていたとするなら,腹痛は持続ないし増強してもおかしくないのであり,穿孔はなかったと考えるべきである。      c 一般に,十二指腸潰瘍による穿孔及びその結果としての汎発性腹膜炎による急性腹症の所見としては,筋性防御,圧痛著名,検査所見での白血球増多,悪心・嘔吐,呼吸数増加,冷汗などがあげられるところ,8月6日の時点での所見としては,そのような穿孔を疑うべき所見はなかった。すなわち,亡Dにある程度の圧痛は認められたものの,発汗は従前から見られた所見であり,白血球数については重い扁桃腺炎であったことから数値は参考にならず,筋性防御の所見が終始得られていなかった(担当医師は,8月6日の時点で上部消化管潰瘍を念頭に置いており,それだからこそ同日夜にはエコー検査を実施し,また,内視鏡検査の実施も考えたのであるから,この時点で筋性防御の所見が得られれば必ずカルテに記載しているはずであるが,そのような記載はない。)。     (イ) 以上のとおり,8月6日夜までに亡Dに穿孔とその結果としての腹膜炎を示す所見はなかったのであるから,8月7日午前に十二指腸穿孔と診断したことになんら過失はない。穿孔による遊離ガスの把握に胸部X線撮影が有効であるとしても,腹痛の訴えがあったからといって8月6日朝の時点で消化管穿孔を疑い胸部X線撮影をしなければならない義務はない。    イ 消化性潰瘍の治療が適切であったこと      亡Dの急性腹症を疑わせる情報は,8月5日午後9時に亡Dから黒色便の報告があったのが最初であるが,単なる報告で看護師が視認したわけではない。それまで亡Dから腰痛,背部苦,全身痛の訴えはあったものの,これから直ちに消化管潰瘍を疑うことはできないから,黒色便の報告があったからといって,直ちに消化管潰瘍等を前提とした検査や処置をすべきことにはならない。      担当医師は,8月6日の時点で消化管潰瘍を疑いマーズレンS顆粒を投与したが,同日の日中は亡Dの症状は落ち着いていたため経過観察を行った。また,直腸指診を行うも出血は認められなかった。      同日午後6時,亡Dから心窩部チリチリ感,圧痛あるも嘔気なしとの訴えがあったので,消化管潰瘍の疑いでガスター1アンプルを点滴投与し様子を見ていたが,午後7時過ぎ再度腹痛を訴えたのでソセゴン15mgを筋肉注射し,念のため午後8時過ぎに腹部エコー検査を実施したが特に異常は認められなかった。この時点で内視鏡検査の実施を考えたが,咽頭痛が強く,亡Dの強い希望もあって実施を控えた。      以上の8月5日から8月6日にかけての一連の担当医師の判断,処置に過失はなかった。   (2) 因果関係の不存在     亡Dの死亡診断書には,直接死因が多臓器不全とあり,その原因として十二指腸潰瘍穿孔が記載されている。     一般に消化管穿孔から死亡に至る医学的な帰序は,消化管穿孔により腹腔内感染を起こし,その後に敗血症から多臓器不全に進むと考えられる。しかるに,亡Dの場合,E病院入院以前から,「扁桃炎」のため絶食状態が続いていたというのであるから,開腹手術の8月7日の時点で腹腔内感染が進行していたとは考えられず,腹膜炎による多臓器不全とは到底考えられない。     仮に,8月7日の時点で感染を起こしていたとするなら,その後の敗血症,多臓器不全もかなり早い段階で進行しているはずであるが,ICU経過観察表(甲16)では少なくとも8月中の経過においては敗血症,多臓器不全の所見はみられていない。     むしろ,亡Dは8月8日に膿胸が診断されており,死亡まで胸腔ドレナージが継続されていたことから,両側性の膿胸が最後まで改善せず,10月に入ってから敗血症,多臓器不全に至り死亡したと考えるべきである。   (3) 損害について     原告ら主張の損害については,これらを否認し,争う。  4 原告の再主張   (1) 診断の遅滞に関する反論     被告は,亡Dには筋性防御がなかったとするが,8月6日以降のカルテの記載は亡Dの重篤な状態に比べあまりに少なすぎるのであり,カルテに記載のないことをもって「筋性防御なし」とする根拠はない。     被告は,亡Dの発汗が従前から見られていたとも主張するが,8月4日の発汗はボルタレン50mgが処方されて強力な解熱がされたことに伴う発汗と考えられる。8月5日に37度の熱で発汗,皮膚湿潤はなくなっているが,8月6日の腹痛出現後に皮膚湿潤が生じたのであるから,これは8月4日の発汗と病態,原因は異なると考えるべきである。   (2) 因果関係の不存在の主張に対する反論     亡Dが転院したG病院の担当医師は,亡Dの死亡原因について,十二指腸穿孔による腹膜炎の悪化が死亡原因の一つとなっていることを認めている。G病院での亡Dの死亡診断書では,死亡の原因は十二指腸潰瘍による穿孔としているのであり(甲15の109頁),それを裏付けるものである。 第3 当裁判所の判断  1 裁判所が認定した事実    前提事実,証拠(甲1から6まで,11から19まで,乙1から83まで,原告A供述,証人H証言,証人I証言,鑑定)及び弁論の全趣旨によれば,本件の事実経過等は以下のとおりであると認められる。   (1) 亡Dの診療経過等    ア 亡D(当時62歳)は,約3年間にわたって寝たきりで入退院を繰り返していた義母を介護していたが,その義母が約1週間前に死去したことなどから疲労を感じており(甲1の8丁,原告A供述1頁以下),8月3日,咽頭痛と発熱により食事をとることができなくなった。      そこで,亡Dは8月4日に自宅近くのF診療所を受診したところ,化膿性扁桃炎と診断され,E病院を紹介された(甲2の7丁)。    イ 同日,亡DはE病院を受診し,咽頭痛,発熱(39.2度)があり,経口摂取が不能であったため,午後零時20分,E病院に入院した。入院後,主治医のH医師は,血液検査,胸部X線写真撮影,心電図検査及び咽頭培養を行い,抗生剤を点滴投与した(甲1の2丁,乙83の2頁)。      なお,上記の血液検査の結果,白血球数が1万1700,CRPが28.3と,炎症が重症であることを示す所見が認められた(甲1の3丁,4丁,H証言1頁,2頁)。      同日午後2時ころ,解熱鎮痛薬であるメチロンの静脈注射が行われた。また,午後7時ころには,依然として39.1度の発熱がみられていたため,解熱鎮痛薬であるボルタレン座薬50㎎が処方されたところ,午後8時ころに多量の発汗があり,午後9時ころには37.7度まで体温が低下した(甲1の9丁)。    ウ 8月5日午前7時ころ,亡Dは咽頭痛,顎下部の膨張,疼痛が続いており,体温が38.3度と発熱もあったため,ボルタレン座薬50㎎が処方された(甲1の9丁,乙83の2頁)。      同日はその後も咽頭痛,顎下部の腫脹,発熱等の症状が継続していたが,午後9時30分ころ,亡Dは背部苦を訴えるとともに,看護師に対して黒色便があった旨の報告をした。また,午後10時30分ころには全身痛を訴えたため,ボルタレン座薬50㎎が処方され,体温は37.0度となった(甲1の9丁,乙83の2頁)。    エ 8月6日午前5時ころ,亡Dは背部苦を訴え,更に午前6時30分ころには差し込むような腹痛を訴えたため,H医師は鎮痙薬であるブスコパン1アンプルを筋肉注射した。しかし,亡Dの腹痛は続き,午前7時ころには下腹部全体にジリジリとした痛みがあり,亡Dから「腹折れる」と激しい腹痛の訴えがあったため,H医師は鎮痛薬であるソセゴン15㎎(乙5)を筋肉注射した。なお,この時,亡Dには腹部の膨満,圧痛は見られたが,緊満は認められなかった。      同日午前8時ころ,亡Dに皮膚湿潤があったが,腹痛は自制できる範囲内となった(甲1の10丁,乙83の2頁)。      同日午前10時ころ,亡Dには腹痛,心窩部圧痛があり,看護師に対して黒っぽい便が2回あった旨の報告をした。      同日昼ころ,H医師は亡Dの腹痛の原因を調べるため,立位及び臥位の腹部単純X線写真を撮影したが,消化管穿孔を示す所見は認められなかった。なお,この時,H医師は亡Dに消化性潰瘍の疑いがあったため消化性潰瘍治療薬のマーズレンS顆粒(H証言24頁)を処方するとともに,午後6時ころにはガスター1アンプルを投与した(乙83の2頁,3頁)。      同日午後も亡Dは発熱,顎下部膨張が続いており,全身痛を訴えるなどしていたが,午後7時ころに多量の発汗があり,午後7時15分ころ,再び腹痛を訴えたため,H医師はソセゴン15mgを静脈注射した。午後8時ころには亡Dは腹痛,背部痛に加えて息苦しさも訴え,血中酸素飽和度が83%にまで低下したため,酸素投与が行われたところ,午後8時15分ころ呼吸は穏やかになった(甲1の10丁)。      H医師は,亡Dの痛みが続いていたことなどから,午後8時50分ころ腹部超音波検査を実施したが,消化管穿孔を示す所見を認めることができなかった(なお,原告らは,カルテに筋性防御の記載がないことをもって筋性防御がなかったことの根拠とはならない旨主張するが,逆に筋性防御があったことを認めるに足りる証拠もない。)。また,この時にH医師は,直腸診も行い,便潜血反応を認めたが(H証言28頁),出血の所見までは得られなかった(甲1の2丁)。      また,H医師は,亡Dに対し,上部消化管潰瘍の疑いに対応する検査として内視鏡検査の受検を勧めたが,亡Dが咽頭痛が強いことなどから受検を希望しなかったため,H医師は,その検査実施を断念した(甲1の10丁,乙83の3頁,H証言15頁以下)。    オ 8月7日午前7時ころ,亡Dには心窩部痛,全身の皮膚湿潤が認められるも,腹部緊満は認められなかった。      H医師は,同日午前8時30分ころから,腹部超音波検査,腹部及び胸部X線検査及び腹部CT検査を実施したところ,腹腔内遊離ガスを認めたことから,穿孔部位を特定することはできなかったものの,上部消化管穿孔を確認した(甲1の2丁,11丁,乙83の3頁,H証言41頁以下)。      そこで,H医師は,亡Dの症状を穿孔性腹膜炎によるものと診断し,午前11時ころ,原告Aに対し,病状の説明を行うとともに,穿孔部位特定のための内視鏡検査及び手術が必要であるとの説明をしたが,原告Aの希望により,同日,亡DはG病院に転院した(乙83の3頁,原告A供述12頁)。    カ G病院転院後,亡Dに対する上部消化管内視鏡検査等が行われた結果,十二指腸潰瘍穿孔による急性汎発性腹膜炎であると診断された。      同日午後3時40分ころから,担当のI医師が緊急開腹手術を行ったところ,腹腔内全体に汚染が拡大しているなどその症状は重篤であり,十二指腸前壁には直径1.5㎝の穿孔があることが確認されたが,胃及び十二指腸壁の浮腫が著明であって切除術の適応にはならなかったため,穿孔部を塞ぐ大網充填術(穿孔部分に胃から下がる大網を詰めて固定する手術法〔I証言26頁〕)を行った(甲15の41頁,乙9,82,I証言)。なお,緊急開腹手術の際,I医師は,亡Dに生じた十二指腸穿孔が発症後1,2時間程度の新鮮穿孔例ではないものと判断した(乙82,I証言4頁)。    キ 緊急手術後,亡Dは集中治療室において治療を受けたが,8月8日には膿胸の所見が認められた。8月13日には緊急手術を行った部位の縫合不全が明らかとなり,創感染症の合併症が発現した。      その後も亡Dの病状は回復せず,9月16日には肝不全と診断されるなど,徐々にその一般状態が悪化し,10月14日,亡Dは多臓器不全により死亡した(甲5,6,乙9,82,I証言)。   (2) 本件に関連する医学的知見等    ア 十二指腸潰瘍に関する知見      十二指腸潰瘍においては,空腹時又は夜間の心窩部痛,背部痛,心窩部圧痛といった症状がみられる。合併症,続発症として出血や穿孔がみられ,下血の場合には黒色便をみることがある(乙4)。      黒色便や便潜血反応陽性所見は通常の消化性潰瘍などでしばしば観察され,消化性潰瘍穿孔の症状とは必ずしも一致するものではない(鑑定書11頁)。    イ 消化性潰瘍による穿孔の症状及び治療方法に関する知見      消化管穿孔の症状は,汎発性腹膜炎による急性腹症として発症し,急激な腹痛,悪心嘔吐や呼吸数増加,冷汗などの症状を示す(乙1の155頁)。      腹部所見としては,触診上,腹部に強い圧痛があり,反動痛が認められる(乙1の155頁,6の1の1頁)。筋性防御及び反跳圧痛は,腹膜刺激症状として重要とされ,胃及び十二指腸潰瘍穿孔時には強い筋性防御のため,板状硬と表現される高度の腹壁緊張を示す(乙6の2の2頁)。胃及び十二指腸潰瘍穿孔の患者の97.3%に腹膜刺激症状が認められたという報告例も存在する(乙7の931頁)。もっとも,汎発性腹膜炎には,初期の状態から敗血症を経て多臓器不全をきたす晩期的状態まで様々な段階があるところ,すべての段階において同様の筋性防御所見が得られるというわけではない。筋性防御所見は,ごく初期の段階から腹膜の炎症がある程度進行した時点で最も明らかとなり,晩期的状況では不明確となる(鑑定書5頁)。      また,汎発性腹膜炎を発症した場合,患者が通常一人で歩行することは困難であるとされる(乙1の155頁)。      十二指腸潰瘍穿孔の治療としては,外科的な手術による方法が多く行われているが,近年は薬物の投与による保存療法においても良好な治療成績が報告されている(乙7の933頁)。    ウ 消化性潰瘍による穿孔の診断に関する知見      検査所見では,立位の腹部単純X線写真で遊離ガスを認めれば診断は確定し,遊離ガス像が立位ではっきりしない場合には,左右の側臥位の状態で撮影を行う。腹部超音波検査やCTでは,腹水や腹腔内の遊離ガス像,消化管外での鏡面形成像などが認められる(乙1の155頁,158頁)。      消化管穿孔が疑われ,立位の腹部単純X線で遊離ガス像を認めない場合には,内視鏡検査を行って潰瘍性病変を検索し,その後に再び立位の腹部単純X線写真を撮影すると,わずかな穿孔でも,はっきりとした遊離ガス像として認められるとされる(乙1の158頁)。  2 E病院担当医師の過失(帰責事由)について   (1) 穿孔性腹膜炎の診断の遅滞の主張について     原告らは,「担当医師は8月6日の時点における亡Dの症状から消化管穿孔を強く意識し,胸部X線撮影などの検査を行うべきであり,これを怠ったため穿孔性腹膜炎の診断が遅れた。」旨主張する。     しかしながら,前記認定のとおり,H医師は8月6日昼ころには消化性潰瘍や穿孔以外の疾患をも考慮する必要があったことから立位及び臥位の腹部X線撮影を行ったが,消化管穿孔があれば通常は遊離ガス像が写るはずの部位である横隔膜下部にも横隔膜下遊離ガス像が認められなかった(H証言12頁以下,39頁以下,鑑定書3頁)。また,H医師は,同日午後8時50分ころに腹部超音波検査を実施しているが,やはり消化管穿孔を示す所見を認めなかった。さらに,その際,H医師は,亡Dに対して上部内視鏡検査を行うことを勧めており,結果的には咽頭痛が強かった亡Dの希望により同検査を実施することができなかったものの,H医師としては適切な検査を順次行うことに努めていた。加えて,H医師は,その際に直腸診も行い,便潜血反応を認めたものの(H証言28頁),穿孔を疑わせるほどの出血の所見までは得られなかった(甲1の2丁,H証言18頁以下)。また,それまで亡Dには穿孔性腹膜炎の発症時において顕著にみられるはずの筋性防御といった腹膜刺激症状が認められていなかった(H証言10頁以下,48頁)。そして,消化性潰瘍のすべてが消化性穿孔を招くものではないものであることを認めることができる(H証言21頁)。これらの治療経過及び事情からすると,8月6日夜までの段階において胸部X線検査を実施すべき義務がH医師にあったということはできず,H医師が穿孔性腹膜炎の診断を遅滞したものということはできない(鑑定書3頁,10頁)。   (2) 治療が不適切であったとの主張について     原告らは,「仮に穿孔性腹膜炎の診断の遅滞がなかったというのならば,8月5日の時点において消化性潰瘍の治療を開始すべきであった。」旨主張する。     確かに,亡Dは8月5日午後9時30分ころ,看護師に対して背部苦を訴えるとともに,黒色便があったとの消化性潰瘍を示唆する報告をしているところ,その後の午後10時30分ころには消化性潰瘍を悪化させるおそれのあるボルタレン座薬(疼痛軽減薬)が処方されている。     しかしながら,8月5日午前10時ころに亡Dから看護師に対して黒色便の訴えがされたといっても,医師や看護師がその黒色便を直接確認したわけではなく,その状態が不明確であった上,出血の原因は消化性潰瘍以外にも考えられるから,その時点で直ちに消化性潰瘍の治療を開始すべき義務がH医師にあったということはできない(H証言3頁以下,13頁,50頁)。     そして,翌8月6日午前7時過ぎころには看護師から上記黒色便についての引継ぎを受けたH医師が亡Dを診察しており,同日昼ころには腹痛の原因を調べるために腹部X線写真撮影を実施するとともに,消化性潰瘍の確定診断には至らない段階において消化性潰瘍の可能性を考慮して速やかに消化性潰瘍治療薬であるガスター及びマーズレンS顆粒を投与するなどしており,その後はボルタレン座薬を使用していなかったことからすると,消化管潰瘍に対する治療についてH医師に不適切な点があったということもできない。   (3) 以上によれば,E病院の担当医師であるH医師に原告ら主張の過失又は帰責事由があったものと認めることはできない。したがって,その余の点について判断するまでもなく,原告らの請求はいずれも理由がない。 第4 結 論    よって,原告らの請求は理由がないからいずれも棄却することとし,主文のとおり判決する。      青森地方裁判所第2民事部         裁判長裁判官  齊  木  教  朗             裁判官  伊  澤  文  子             裁判官  石  井  芳  明

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