H17. 9. 2 名古屋地方裁判所 平成14年(ワ)第1004号 損害賠償請求事件

判示事項の要旨:
 先天性心疾患(ファロー四徴症)に伴う慢性心不全の状態にあった患者が急死した事案において,経過観察とした医師の判断には過失はなく,興奮状態を鎮静させるため投与されたハロペリドールには急死との因果関係が認められないなどとして請求が棄却された事例。


主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
 1 原告
  (1) 被告は,原告に対し,8861万3556円及びこれに対する平成12年8月2日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  (2) 訴訟費用は被告の負担とする。
  (3) 仮執行宣言
 2 被告
   主文同旨
第2 事案の概要等
本件は,先天性心疾患であるファロー四徴症に罹患していたA(以下「A」という。)が,被告が開設しているB大学医学部付属病院(以下「被告病院」という。)において死亡したのは,被告病院医師に心不全の悪化の兆候を見落とし,適切な治療を行わなかった過失,肺水腫を伴う心不全の急性憎悪について適切な治療を行わなかった過失,重症の心不全患者には禁忌の薬剤であるハロペリドール(製品名・セレネース)を投与した過失などがあったためであるとして,Aの相続人である原告が,被告に対し,民法715条又は債務不履行に基づき損害賠償及びこれに対する民法所定の遅延損害金の支払を求めた事案である。
1 争いのない事実等
(1) 当事者
Aは,平成12年8月2日に死亡したが,その相続人は,母である原告(昭和25年3月28日生)である(甲1)。
被告は,名古屋市内において,被告病院を開設している。
(2) 被告病院に通院するまでの経緯
 A(昭和52年8月22日生)は,先天性心疾患であるファロー四徴症極型であり大動脈肺動脈側副血行路(以下「MAPCA」という。)を伴っていた。
 同人は生後まもなくファロー四徴症と診断され,名古屋市内のC病院で治療を受け,昭和57年12月8日,同病院においてファロー四徴症の姑息的手術である大動脈肺動脈吻合術(短絡手術)を受けた(甲9)。また,Aは,平成3年8月から,D大学付属病院心臓血管外科に通院し,同病院医師に,平成8年8月時点では,根治手術の適応がないと診断された。
(3) 被告病院通院後,死亡するまでの経緯
 ア 平成8年8月から被告病院にも通院を開始した。Aは,当初,被告病院の胸部外科に受診していたが,平成10年5月15日から小児科に受診するようになった。Aは,当時から,ファロー四徴症極型に伴う心不全があった。
 イ Aが,平成10年5月15日に被告病院の小児科を受診してから,平成12年8月2日午後4時43分に死亡が確認されるまでの診療経過等は,別紙診療経過一覧表記載のとおりである。
(4) ファロー四徴症,心不全及び肺水腫の医学的知見(甲4,13,14,16,17の5・6,18,乙4,5,21,証人E,同F)
 ア ファロー四徴症
 ファロー四徴症は心室中隔欠損症、肺動脈狭窄,大動脈右室騎乗,右室肥大を四徴とする先天性心疾患である。血液循環は,全身から酸素飽和度の低い血液が右心房,右心室に流入するが,その後,肺動脈狭窄があるため,血液の多くは心室中隔欠損孔を通って大動脈を経て全身へ流れる。一方,右心室内の一部の血液は,狭い肺動脈を経て全身へ流れる。一方,右心室内の一部の血液は,狭い肺動脈から,肺,左心房,大動脈を経て全身へ流れるが,その量は少ない。したがって,全身は低酸素の状態となる。
 ファロー四徴症のうち肺動脈の狭窄が最も高度で閉鎖した型(肺動脈閉鎖兼心室中間欠損)をファロー四徴症極型という。ファロー四徴症極型の血液循環は,全身から酸素飽和度の低い静脈血が,右心房,右心室へ流入しても,肺動脈が閉鎖しているため,肺で酸素を取り込むことなく心室中間欠損孔を通って左心室に流入し,酸素飽和度の低い血液がそのまま大動脈を経て全身に送られる。その結果,血液は肺へ全く流れず,酸素が供給されず,生存するためには,肺への血流路が不可欠となる。肺への血流路として,動脈管,MAPCAが存在する場合がある。動脈管は,出生後しばらくの間存在する大動脈と肺動脈とをつなぐバイパス血管であり,MAPCAは,まれに大動脈から肺へ直接伸びる奇形の側副血管である。動脈管,MAPCAにより,血液は大動脈から肺へわずかに流れる。肺からは左心房,左心室,大動脈を経て全身へ流れるが,その量は極めて少ないため,全身は著しい低酸素の状態である。
イ 心不全(甲4)
 心不全とは,心機能の異常が原因となって組織代謝の要求に相応した割合で心臓が血液を駆出できなくなったり,あるいはたとえ辛うじてポンプ作用は保たれたとしても充満圧の異常な上昇を代償としている病態生理学的状態である。
 心不全の臨床症状は,呼吸困難,起臥呼吸,発作性呼吸困難(心臓喘息を含む。),周期性呼吸,疲労感及び衰弱感,脳症状(錯乱,集中力低下,記憶力障害,頭痛,不眠,不安など)であり,理学的所見は,口唇,爪床のチアノーゼ,洞性頻脈,体静脈圧の異常な上昇,肺野基部のラ音,心性浮腫,水胸と腹水,黄疽,四肢が冷たく蒼白で汗ばむ,尿量が減少しタンパク質を含み高比重でナトリウム濃度が低くなる,腎前性高窒素血症などがある。
 心不全状態の治療としては,①心作業負荷の軽減,②過剰の塩と液体貯留の調節,③心筋収縮性の増強がある。具体的には,まず身体活動・ナトリウム摂取の適度の制限を行い,これらが不十分であれば,利尿剤,アンギオテンシン転換酵素阻害剤,ジキタリス配糖体併用による治療を開始する。次の段階として,食塩摂取制限をさらに厳重とし,他の利尿剤と併用の形で大量のループ利尿剤を用いる。心不全がさらに存続すれば,入院させ,厳重な食塩制限,就寝安静,血管拡張薬の血管内投与,陽性変力作用薬の投与が必要である。
ウ 肺水腫(甲4,16)
 肺水腫とは,肺の血管外領域に多量の水分が貯留した病的状態をいう。健常者において肺毛細血管から周囲の間質組織に漏出した漿液性液体は,間質リンパ流を介して最終的には体静脈系に入るため,正常では過剰な血管外水分は残留しない。しかし,この均衡が破れると肺の間質水分量は増加し間質性肺水腫をきたし,さらに進行すると肺胞腔内にも漏出するようになり肺胞性肺水腫となる。
 心不全が急性憎悪した場合に,この急性肺水腫を呈することもある。
 肺水腫の臨床所見は,呼吸困難,喘鳴,咳嗽,胸部圧迫感,血性泡沫痰の喀出,努力性呼吸,頻呼吸,頻脈,起座位,皮膚が蒼白で冷たくチアノーゼを伴う,軽症であれば肺底部に捻髪音,重症であれば肺全野で湿性ラ音や喘鳴が聞かれるなどである。
 胸部レントゲン検査所見では,肺底部や肺門部を中心に,粒状・線状陰影,斑状・塊状陰影が認められ,典型的な場合,両側肺門部から肺野の中心にかけて扇型に広がり,蝶形陰影あるいはコウモリ翼形陰影を示すことがある。軽症例では,肺間質の浮腫に基づく所見が重要であり,肺静脈陰影の増強,肺門血管陰影の拡大,葉間線の肥厚,小葉中隔線の有無に注意すべきであるが,その診断はしばしば困難である。
 急性肺水腫の治療は,体位の改善(上半身を起こして半座位を取らせる。),利尿剤・血管拡張薬・強心薬の静脈内投与に加え,100%酸素の陽圧下での投与,モルヒネの静脈内投与を実施する。
2 原告の主張
(1) 被告病院医師には,平成12年7月24日に,次の診療上の過失があった。
 ア Aは,平成11年12月21日には,心胸比74.6%,胸水も左胸部に極少量が確認される程度だったが,平成12年4月27日には,心胸比79.7%となるとともに右胸部にも胸水が見られ,同年6月ころからは,低酸素状態を原因とする精神症状が発生し,同年7月12日には,心臓喘息が発症するなど心不全が増悪していた。また,同月24日,被告病院のE医師(以下「E医師」という。)がAを診察した際(以下「本件診察」という。),胸部X線撮影の結果,心胸比83.0%という著明な心拡大が見られるとともに右胸部に著明な胸水貯留が確認されたのであるから,同日の時点で心不全が悪化していることは明らかであった。
 したがって,被告病院医師は,平成12年7月24日にAを心不全と診断し,Aに対して,1ないし2週間の安静を指示するとともに,利尿剤や血管拡張薬を投与すべき注意義務があった。しかるに,E医師は,これを怠り,血管拡張薬の投与等の特段の治療は行わず,単に経過措置としたのみであるから,過失がある。この過失がなければ,Aの心不全が悪化して不整脈を生じ心停止に至ることはなかった。
イ また,平成12年7月24日の時点で,胸水の著明な増加が認められているのであるから,医師としては,利尿剤や血管拡張薬の投与の判断の前提として症状等について丁寧に問診すべきである。ところが,E医師は,原告に対して「特にかわりありませんか。」と極めて概括的な質問しか行っていない。また,心不全の悪化の有無を見る上で,体重の変化を知ることは極めて重要であるところ,E医師はその点の確認も行っていない。E医師は,著明な胸水貯留が存在するにもかかわらず,レントゲン写真を見て「まあ,こんなものでしょう。」と告げたにすぎず,必要な問診も行わないまま,心不全悪化の兆候を見落とした。
(2) 被告病院医師には,平成12年8月2日に,次の診療上の過失があった。
ア Aが,平成12年8月2日,被告病院へ搬送されたとき,口渇を訴え,時折「ウオー」という叫び声を上げていたが,これは典型的な心不全の急性増悪に際して生じる症状,肺水腫の際に発する声である。その他,当時のAには,呻吟様呼吸,チアノーゼ,苦悶表情,咳痰,皮膚の湿潤,頻脈,心雑音,多量の胸水貯留が見られ,Aは入院時,肺水腫を伴う心不全の急性憎悪があったことは明らかである。
 したがって,被告病院医師は,心不全・肺水腫の管理・治療として,早急に上体を起こした半座位をとらせ,十分量の酸素投与を行い,モルヒネを投与し,利尿剤を静脈注射し,硝酸剤により末梢静脈を拡張させて心臓への灌流を減少させるべき注意義務があった。
 しかるに,被告病院医師は,これを怠り,不十分な酸素吸入と利尿剤(フロセミド(製品名・ラシックス)2分の1錠)の経口投与を行ったにすぎないから,過失がある。この過失により,Aの心不全は悪化し,不整脈が生じて心停止に至った。
 イ ハロペリドールは,神経遮断剤の一種であり,重症不整脈から心停止を起こしうる薬剤の典型であり,重症の心不全患者には禁忌の薬剤である。特に心停止が生じやすいリスク因子は,①心不全があること,②低酸素血症があること,③QTc間隔が延長していること,④肝障害(特にうっ血による肝障害)が存在すること,⑤不整脈を誘発しうる他の薬剤が併用されていること,⑥徐脈があること,⑦低カリウム血症,低マグネシウム血症など電解質異常などである。この点,当時のAには,①心臓喘息の症状を伴うほど心不全が重篤化し,②入院時から著明な低酸素血症を認め,③心電図のQT間隔が延長して不整脈や心ブロックが生じやすい状況にあり,⑤テグレトールという不整脈を誘発しうる薬剤が投与されており,心停止が生じやすいリスク因子が多数存在していた。
 それにもかかわらず,被告病院医師は,平成12年8月2日にAに対して,ハロペリドールを投与したものであるから,過失がある。この過失により,不整脈が生じて心停止に至った。
 この点,被告は,ハロペリドールはAの体内には到達していないと反論するが,Aは,ハロペリドールの投与開始後,約2分でベッドに座り込み,約3分で仰向けに倒れたのであって,ハロペリドール投与開始後約5分で急変した。
 医師の指示によれば,15分から30分で全溶液が滴下するよう指示されていたのであるから,実際には,被告の主張する2倍から4倍の速度で調整されていた可能性が高い。また,点滴開始後は投与速度が速く,それを徐々に調節するといった方法がとられるのであるから,点滴開始時に多量のハロペリドールが注入された可能性も極めて高い。そうすると,約5分で薬剤全体の5分の1程度が注入された可能性も存し,Aには,ある程度の量のハロペリドールが投与されたと考えられる。
(3) 被告病院医師の不法行為ないし被告の債務不履行によりAが被った損害は,次のとおりである。
 ア 逸失利益 5811万3556円
 Aは,昭和52年8月22日生まれで死亡当時22歳であり,本件の事故に遭わなければ67歳までの45年間毎年324万9700円の収入(平成10年度賃金センサス第1巻第1表,産業計,企業規模計,学歴計の平均賃金)を得ることができたから,ライプニッツ方式により中間利息を控除し,生活費を4割としてその現価を求めると3465万6100円となる。
 また,Aは,障害基礎年金と遺族年金補償金の合計251万7786円を得ることができたから,ライプニッツ方式により中間利息を控除し,生活費を5割としてその現価を求めると2345万7456円となる。
 したがって,Aの逸失利益は,上記の合計の5811万3556円となる。
 なお,Aは,昭和57年にブラロック・ターシグ術(短絡手術)を施されて著しい症状の改善が見られ,平成11年にD大学病院にて,右のブラロック・ターシグ術を受けることも可能であると判断されている。ファロー四徴症極型は,そのような根治手術ではない姑息的治療でも長期生存は可能であり,場合によっては,将来,根治手術を受ける可能性もあった。被告の主張する事例は,姑息的手術も受けなかった場合の自然予後にすぎず,Aの場合はこれに当たらない。手術療法を行った場合には,生後15年の生存率は85%であり,40歳代までの生存率は75%である。
   イ 慰謝料 2400万円
   ウ 葬儀費用 150万円
   エ 弁護士費用 500万円
 3 被告の主張
  (1) 原告の主張(1)に対する反論
ア(ア) Aは,ファロー四徴症の極型で根治手術も不可能な病態にあったことから考えると,心不全の緩徐な悪化自体は不可避である。Aは,いわば徐々に死に向かう中での医療,終末医療の段階にあったもので,それだけで直ちに何らかの医療行為の対象とすべきではない。
 明らかな不具合が生じている場合,それを除去するための医療措置は,副作用のリスクを考えても,より延命を図り,あるいは本人の生活の質を高めるという効果が期待される場合において必要かつ相当なものであるというべきであり,そのような必要性が認められないのに,単に心不全が悪化しているからといって,副作用の危険性も顧みることなく医療行為の対象とすべきではない。
 すなわち,利尿剤の副作用としては,Aの身体は全体的に低酸素状態にあり,生体の防御反応として,血液の酸素運搬能力を高めるため,血液中の赤血球が増加していた(乙1・16頁)。ヘモグロビン値が高い値になるにつれ,血栓症の危険性が高まるところ,利尿剤を使うと水分が体外に排出されるため,体内のヘモグロビン値がより高まり,血栓症のリスクが高まる。血管拡張薬についても,その薬剤の効果が体内循環に向かう血管に作用すれば心不全の状態を改善させることはできるが,他方,肺に血液を流入させるMAPCAに作用した場合,かえって肺に向かう血流を増大させる。その結果,胸水の貯留を増悪させるとともに,肺血流量の増加から体内血流量が減少し,より重篤な心不全の状態をもたらす可能性がある。
(イ) 原告は,本件診察時において,心胸比拡大,胸水貯留が認められたのであるから,心不全は悪化しており,安静を指示するとともに,血管拡張薬や利尿剤を投与すべきと主張する。
 しかし,本件診察時,末梢循環不全(四肢冷感),尿量減少,浮腫など心不全の兆候は認められず,心不全の悪化の程度は緩慢であった。
 予後が極めて不良である根治手術の適応のないファロー四徴症極型において,心不全が進行したというだけでは,直ちに治療対象とすべきとはいえない。他方,心不全の急性増悪が生じたならば治療対象とすべきことは医学常識であるところ,その場合には,その兆候である末梢循環不全(四肢冷感),尿量減少,浮腫などの症状が出現しないはずがない。心不全治療は,まず末梢臓器への循環の確保を目的とするものであるところ,末梢不全など,心不全の急性増悪に伴う症状が認められないのであるから,心臓の循環は,Aの身体状態なりに維持されていたのであり,この時点で副作用が考えられる血管拡張薬や利尿剤の投与を開始するのは相当でない。
 Aは,平成12年7月28日ころから1日1500㏄程度という心不全患者とすれば大量の水を飲むようになり,同月31日,その結果としての眼瞼の浮腫に気付き,同日,救急外来を受診していることからすれば,Aの心不全が急性増悪した時期は,同日ころ以降と考えるのが合理的である。
(ウ) 原告は,平成12年6月ころからのAの精神症状の原因を,心不全の悪化による低酸素状態によるものであると主張する。しかし,かかる精神症状のきっかけは,自分の母がいなくなってしまうのではないかといったAの精神的な不安から発生したものである。根治手術をしていないファロー四徴症患者の場合,慢性的な低酸素状態にあるため,身体がそのような低酸素状態に順応しており,単に低酸素であるからといってそのような意識障害が発生したとは考えられない。
(エ) また,原告は,平成12年7月12日の小児科受診時,Aが心臓喘息であったと主張する。しかし,同日時点でAを心臓喘息と断定することはできないし,その後も,心臓喘息を疑わせる兆候は記録されていない。
イ 原告は,本件診察時において,E医師の問診が不十分であるなどとも主張する。
 しかし,原告の主張によっても,具体的にどのような症状を知ることができたのか全く明らかではない。すなわち,当時,常にAに付き添い,その病状は医師よりもはるかに的確に把握していたであろうAの母である原告自身が,当日,小児科を訪れて,開口一番「精神科で今までと投薬が違ったが大丈夫か。」と尋ねた反面,「それ以外,特に変わったことはない。」と述べたという状況からすると,この時点でAについて心不全の急性増悪など治療対象となるべき状況が出現していなかったことは明らかである。
ウ 以上から,本件診察時において,Aについて経過観察としたE医師の判断は,医学的に相当なものであり,過失はない。
(2) 原告の主張(2)に対する反論
ア 原告は,平成12年8月2日にAが被告病院に搬送された当時,肺水腫であったと主張する。しかし,肺水腫の状態に陥っていたのであれば,ピンク色の血痰が出るなどの症状が見られ,また人工呼吸器などによる強制換気が必要になるほどの重篤な低酸素状態に陥るはずである。ところが,Aの場合,自発呼吸ができ,酸素投与をして安静をとり,利尿剤を投与しただけで状態が改善し,睡眠がとれるだけでなく,食事までできたというおよそ心不全患者として良好かつ安定した病状が見られており,「肺水腫に陥った心不全患者」という想定に合致しないことは明らかである。
 また,原告が主張する血管拡張剤や利尿剤の投与については,当時,Aは,全身に浮腫が見られる等,心不全が増悪していたといえるが,ただ,この場合の治療として,血管拡張薬投与,利尿剤の静脈内投与,ジキタリス製剤の投与等考えられる治療行為を全て行うべきものではなく,Aの病状に合わせ,副作用の発生などの状況も確認しながら,これらの措置を行うべきである。
 担当医師は,Aの搬送後,利尿剤の経口投与を行い,体内の水分排出状態の改善を期待したところ,後に,Aは落ち着き,Aからは呼吸困難などの訴えもなくなり,午後2時にはAの経皮酸素飽和度が92%まで上昇し,薬250㏄の排尿も見られたため,さらに利尿剤の効果を観察すべく経過診察とした。副作用が考えられる血管拡張薬や利尿剤の静脈投与,強心剤等をむやみやたらと投与することなく,利尿剤の経口投与でしばらく様子を見て,さらにその後の対応を決めようとした担当医師の措置は適切であった。
 以上から,平成12年8月2日の搬送後の治療行為は,医学的に相当なものであり,過失はない。
イ 被告病院の精神科のF医師(以下「F医師」という。)は,Aの肝機能の悪化が薬剤性のものである可能性があったため,一度それまでの薬剤の投与を中止せざるを得ないが,Aが不穏状態に至ったままでいると,本人の心臓等身体に負担をかけるなどの悪影響が懸念されるほか,治療行為が不能となるため,安静にさせる必要があること,一方,不穏状態下では,患者は医師の指示には従わないため,静脈に点滴ないし注射するほかないこと,それにもっとも適切な薬剤はハロペリドールであったことから,同薬剤の投与を決定し,その使用量を最低投与量である5ミリグラムとし,静脈に点滴で徐々に投与するように指示した。
 このような経緯に照らせば,本件の場合,ハロペリドールは禁忌ではなく,むしろ第一選択薬であったというべきであり,ハロペリドールの投与について,被告病院医師には過失はない。
 当時のAは,ベッドの上で家族らに安静を保つように体を押さえられて座っている状態であった。当時,G看護師(以下「G看護師」という。)は,ハロペリドール1アンプル(5ミリグラム)を生理食塩水50ccで希釈して点滴液を作り,Aの点滴管に接続し,10秒間で3滴が滴下する程度に調整して点滴を開始したところ,5秒ないし20秒程度でAの様態が急変した。同薬剤投与位置からAの体内までは約120センチメートルの距離があり,静脈内に同薬剤が達するまでは4分以上を要する。したがって,ハロペリドールはAの体内にさえ到達していなかった。
 さらに,仮にハロペリドール薬液が,静脈内に到達していたとしても,それが人間の身体において一定の血中濃度に到達して心電図を変化させるように作用し,さらに実際にハロペリドールが重症不整脈を出現させるまでには,秒単位,分単位ではなく,時間単位,日単位の時間を要するところ,本件ではそれだけの時間経過が認められない。
 (3) 原告の主張(3)に対する反論
   逸失利益について,Aは,67歳まで生存し,賃金センサス記載の平均所得を得ることについて合理的に期待できる状態ではなかった。すなわち,ファロー四徴症の自然予後は一般に不良であり,平均寿命7.5歳,40歳を超えて生存する例はまれであり,20歳までの生存例も必ずしも多くない。Aのような心内修復術ができない患者の場合,10歳の生存率は約40%,22歳の生存率は20%である。
第3 当裁判所の判断
1 事実経過
 上記争いのない事実等に証拠(甲8,乙1ないし3,6の2・3・4・7,乙7の2,8の2・4,乙9ないし12,14,15,証人E,同G,原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば,次の事実が認められる。
  (1) 平成12年6月中旬まで
   ア Aは,平成8年8月26日から被告病院に通院を開始した。当初は胸部外科の担当であったが,平成10年5月15日からは小児科の担当となった。同日から平成12年6月中旬までのAの小児科への通院態様は,最大で10ヶ月以上の間隔があく場合もあるなど不定期であり,主として発熱や心不全症状の発現など病状の変化があった際に通院するというものであった。また,当時,被告病院小児科では特定の医師が特定の患者を担当する主治医制はとられておらず,Aについても診察する医師は特定されていなかった(証人E)。
   イ Aは,小児科受診開始当時から,中程度のチアノーゼ,心音の拡張期雑音,心拡大(心胸比75%程度。乙6の2・3)が認められるなど,心疾患による長年にわたる心肺への負荷のため心不全の状態にあり,50メートル程度の歩行で苦しくなり,普段は電動車いすを使用していた(乙1・5頁ないし7頁,乙6の2,原告本人)。
 平成12年4月27日には,心拡大の進行(心胸比約80%)に加え,右側胸膜腔内に胸水貯留が認められ(乙6の4),その心不全は悪化傾向にあった。なお,同日,排尿の減少,軽度の浮腫,全身倦怠感が認められ,一時,循環動態の悪化が認められたが,下肢の浮腫はなく,四肢の動脈も触知され,同年5月2日には排尿があり,浮腫が消滅している(乙1・13頁,14頁)。
  (2) 平成12年6月中旬以降7月23日まで(以下,特に断りがない限り,日付の表示はいずれも「平成12年」を指す。)
   ア 6月中旬ころから,Aは「頭がつまる。」などと訴え,夜中に暴飲暴食をするようになり,同月21日には,四肢をバタバタさせるなど不穏状態となったため,原告は,Aを被告病院小児科に受診させた(乙1・14頁)。
     診察にあたったH医師は,来院時に意識混濁があり,その後も反応が鈍いこと,神経学的所見がなく,頭部CT検査結果も正常であること(乙7の2),原告から自分が突発性難聴になりAに心配をかけたことが原因かもしれないとの説明があったことから,Aの状態が精神的なものである可能性を疑い,精神科に診察を依頼した(乙1・14頁,20頁)。
   イ 6月22日,Aは原告に付き添われて精神科を受診した。精神科ではF医師がAの担当医となり,F医師が診察した。原告は,自分が突発性難聴となり治療のため姉宅へ行くとAに言ったら,Aは自分が一人にされるかもしれないと思ったらしいこと,Aは原告を気遣う思いが強すぎて心配で眠れなくなったようであること,「頭がつまる。」と言うが,心臓はえらくないようであること,夫が38歳で事故死してから,Aの心疾患もあってずっと一緒にいたこと,Aはいつも自分のルール・約束を守らない相手にはよく怒っていたが,今回ほどのことはなかったこと,性格は几帳面,頑固,甘えん坊の面が見られることなどの事情を説明した。F医師はAに対して,「お母さんと離ればなれだと心配?」と質問したところ,「心配」との回答があった。その際,Aの体重は51キログラムであった(乙2・4頁)。
 診察の結果,F医師は,Aの身体疾患のため母子密着が非常に強く,Aの症状は母の身体不調を心配したことなどを原因とする心因反応(欲求不満や葛藤などの心理的・精神的原因によって起こる精神障害)であると診断し,精神科において対症的に向精神薬の投薬を行うこととし,以下の投薬内容を1日分とする薬剤を14日分処方した(乙2・8頁,9頁)。
セディール(10mg)  3錠(毎食後1錠ずつ)
リスパダール(1mg)  1錠(就寝前)
ピレチア(25mg)   1錠(就寝前)
テトラミド(10mg)  1錠(就寝前)
ウ 6月24日ころ,Aは口からヨダレを出すようになり,向精神薬の服用を拒否したため,原告は,同月24日から二日間薬を飲ませなかった(乙2・10頁)。
     Aは,同月26日午後11時すぎころ,「死にたい。」とわめいたり,奇声を発するなどの興奮状態となったため,原告は,精神科で処方された向精神薬(就寝前の分)を飲ませたが治まらなかった。そこで,原告は,翌27日午前2時ころ,Aを被告病院の救急外来に受診させ,精神科医師の診察を受けた。その際,Aは「夜になると悲しくなって夜が怖い。」,「お母さんがいなくなっちゃうんじゃないかと思って怖かった。お母さんの体が心配。」と話し,原告は,「Aは自分のことを気遣いすぎ。」,「母のためと思ってやったことが報いられないと悲しみにくれる。」などの事情を説明した。Aは診察中次第に落ち着いていった。同医師は,同月29日にAの担当医であるF医師の診察を受ける旨指示した(乙2・9頁)。
     6月29日,Aは上記指示に従い,原告に付き添われて精神科を受診し,F医師が診察にあたった。原告は,「ヨダレが出てきて,薬を飲みたくないと言っていたので,二日間飲ませなかった。」,「同月24日夜は少しダメでした。右手がダメだと言ってわめいてました。」,「いやなことがあると不穏になります。」,「指図されたりするとダメだし,几帳面なので自分の与えられた仕事をきちんとやりたがるので無理したようです。」,「車いすの生活でみんなに日頃からあざけられている気がするようです。」,「きちんとこの二日は薬を飲んで落ち着いています。」,「自分が興奮して言ったことは覚えてないようです。」などの事情を説明した。F医師は,6月22日と同様の薬剤を14日分処方した(乙2・10頁)。
   エ 7月12日,Aは,原告に付き添われて小児科を受診した。診察にあたったI医師に対して,原告は,二日前から風邪気味であり,喘鳴(ゼイゼイ)及び痰が出てきたこと,気管支喘息の既往歴があることを説明した。同医師は,胸部の喘鳴を認め,既往歴のあった気管支喘息を疑い,アレベール(去痰剤)及びメプチン(気管支拡張剤)の吸入の措置をとり,テオドール(気管支拡張剤),イサロン(抗胃潰瘍薬)を処方した(乙1・20頁)。
   オ 7月18日,Aは原告に付き添われて精神科を受診し,F医師が診察にあたった。原告は,「夜の11時くらいからイライラが強くなって,薬で午前2時に寝ます。」,「水分を欲しがって午前4時に起きます。」,「ここ数日は日中もイライラしてます。」,「いろいろなストレスがあるようです。」などと事情を説明した。また,Aは,診察中,車いすで落ち着かない様子で部屋を動き回っていた(乙2・13頁)。
     F医師は,上記同月29日の処方から以下の投薬内容を1日分とする処方に変更した(乙2・13頁)。
テグレトール(100mg)3錠(毎食後1錠ずつ)
リスパダール(1mg)  1錠(就寝前)
ピレチア(25mg)   1錠(就寝前)
テトラミド(10mg)  2錠(就寝前)
(3) 7月24日
   ア 7月24日の日中,Aが興奮状態になったため,原告は,精神科に受診させた。担当医のF医師の診察日ではなかったためJ医師が診察にあたった。原告は,「イライラが強い。薬は飲んでいたけど,無理して飲ませていました。」,「この前来たときに薬ですぐに治ると思っていたが治らない。」,「横になるとチアノーゼになる。」,「夜は寝ている。」,「テトラミドを2錠飲んだときに落ち着かなかった。」,「前にもどしたら寝ている。間に喘息になっているけど,夏は汗をかいて落ち着かない。」「テグレトールで眠くなかった。日中寝ている。」,「昼夜逆転している。」,「大声はこの1,2週間。6月22日から突然こうなった。以前には全くこんなことはなかった。」などと事情を説明した(乙2・14頁)。
 J医師は,上記同月18日のF医師の処方から以下の投薬内容を1日分とする処方(4日分)に変更した(乙2・14頁)。
ヒルナミン(5mg)   3錠(毎食後1錠ずつ)
アモバン         1錠(就寝前)
イ 原告は,上記のように変更された投薬内容が本当にAの現状にふさわしいかについて疑問を持ち,これを確認するため,精神科受診後,Aを小児科に受診させた。当日診察にあたったのはE医師であった。上記のように小児科では主治医制がとられておらず,E医師もAを診察するのはこの日が初めてであった(甲8,乙1・20頁,14,証人E,原告本人)。
 受診に際して原告は,E医師に「今,精神科で新しい薬を処方されたが,心臓に影響がないか。」と質問した。E医師は,小児科外来診療録(乙1)を参照してAの病歴を確認し,視診によりAの顔面に浮腫はなく中程度のチアノーゼがあること,聴診により胸部に軽度のラ音があること,触診により四肢に冷感はなく末梢循環不全が存しないことを確認した。その際,原告に対し,「最近特に変わったところはないですか。」と質問し,原告は「特に変わりない。」と答えた(甲8,乙1・20頁,14,証人E,原告本人)。
 また,E医師は,胸部レントゲン検査を行い,心拡大と右側の胸水貯留を認めた。その際,同医師は,小児科外来診療録の4月27日部分(乙1・13頁)記載の前回のレントゲン検査結果の所見(胸部レントゲン写真の陰影を写生したもの及び胸部右側を指した「胸水軽度貯留」との記載)と比較した(乙1・21頁,6の7,証人E)。
 上記診察の結果,E医師は,心不全が悪化傾向にあることを認めるも,経過観察を行う旨判断してその旨カルテに記載し,原告に対し,「まあ,こんなものでしょう」などと告げ,特段の治療行為は行わなかった(乙1・21頁,乙2・17頁,原告本人)。
 なお,この時点のAの状態は,4月27日時点の比べて心拡大が進行し(心胸比約83%),胸水は右側の増量に加えて,左側にも少量の貯留が認められるようになっていた(乙6の7)。
(4) 7月25日以降8月1日まで
ア 7月24日の精神科での処方変更後,Aの状態は比較的落ち着いていた(乙2・15頁,19頁2枚目)。
 7月27日,Aは原告に付き添われて精神科を受診し,F医師が診察にあたった。原告は,「夜寝れてましたが,24日の日中に興奮したんです。」,「もともと薬が苦手で飲みたくないようです。」,「薬の錠数が増えたので機嫌が悪かったんです。」,「テトラミドを二錠にした直後にけいれんのようになりました。」,「テグレトールを飲むと寝てしまいます。」,「7月24日にヒルナミン1錠にしてもらったら,錠数が減って喜んでいる。」,「アモバンが強く効くようです。」などと事情を説明した(乙2・15頁)。
 F医師は,Aが薬の数が増えると飲みたがらないこと,テグレトールは1日に300mgで過鎮静気味となることを認め,上記7月24日のJ医師の処方から以下の投薬内容を1日分とする処方(14日分)に変更した(乙2・15頁)。
テグレトール(200mg)  1錠(就寝前)
テグレトール(100mg)  1錠(不穏時,1日2回まで)
イ Aは,同月29日夜「頭が分からなくなる。もうダメだ。殺してくれ。」とわめくなど興奮状態となり,精神的に不安定な状態になった。原告はしばらく様子を見ていたが改善しないため,同月31日,電話でF医師に相談したところ,テグレトールを1日700mgまで投与してよい旨の回答を受けた。原告は,同日に600mg,翌日の8月1日に400mgのテグレトールを服用させた(乙2・17頁,19頁2枚目)。
 Aの平均体重は51kgから52kg程度で,少しむくむと53kg程度だったが,遅くとも7月末ころには約55kgに増加していた。また,7月末ころからは,1日1.5リットル程度の水分を摂取し,同月31日には眼瞼に浮腫が出現し,原告もそれに気付いていた(乙1・25頁,3・8頁)。
  (5) 8月2日
   ア 8月2日未明,原告が下肢の浮腫に気付くとともにAが胸部苦悶を強く訴えたため,同日午前5時40分ころ,Aは救急車で被告病院に搬送された(乙3・5頁)。
 午前5時40分ころ,両下肢に浮腫が見られ,強い吐き気をもよおしながら,頻脈,呻吟様の呼吸をし,時折「ウオー!」と叫ぶなど不穏状態にあった(乙3・5頁)。
 午前6時ころ,胸部・腹部レントゲン検査(乙8の2・3)と維持輸液の点滴がなされた。胸部レントゲン検査では,前屈みだったため胸水量等の比較はできなかったが,両側に胸水貯留が認められた(乙3・8頁,17頁,8の2)。
イ 午前6時40分ころ,小児科K医師(以下「K医師」という。)がAを診察した際,同人は,依然として不穏状態にあり,経皮酸素飽和度は70%台で,チアノーゼが増強していたが,下肢の浮腫は減少ないし消滅していた(乙1・25頁,3・5頁,8頁)。血液検査を行ったところ,肝機能の悪化が認められた(乙2・16頁,3・23頁,26頁,27頁)。Aは,原因不明の急性肝炎及び心不全により入院することとなった(乙1・24頁,3・8頁)。
 そのころ,F医師がAを診察し,薬剤性の肝機能障害の疑いがあること,精神科処方のテグレトールの影響も否定できないとの印象を持ち,テグレトールの投与を中止すること,不穏時の対処は心不全もあり困難であるがハロペリドールで対応することを判断した。そこで,精神科が依頼診療録8月2日の部分(「8/1」とあるのは誤記である。)に,入院中不穏時には点滴にて生理食塩水100ミリリットルにハロペリドール1アンプル,アキネトン1アンプルを混入して,30分で投与するよう記載し,さらに「ファロー四徴症あり,心臓の悪い人なので,大量に使用するのは危険と思われる。1回でどうしても鎮静しなければ,主治医,精神科担当医か当直医と相談の上,最大2回/日 可とします。」と書き加えて,指示した(乙2・16頁,3・5頁)。
 また,入院時に医師により作成される系統別症状一覧及び身体所見によれば,食欲,睡眠,話し方,咳痰,喘息,夜中に苦しい,尿が出にくい,不安,いらだち,不眠に異常があり,苦悶表情,チアノーゼがあることが記載されている(乙1・25頁,3・13頁,14頁)。
 午前7時ころ,再度,胸部レントゲン写真が撮影された(乙8の4)。
ウ 午前7時45分ころ,毎分1リットルの酸素吸入が開始され,午前8時30分ころには経皮酸素飽和度73%となった(乙3・5頁)。
 午前9時ころ,Aは,原告及びAの兄であるL(以下「兄」という。)に付き添われ,入院部屋に移動した。その際,Aの意識は比較的はっきりしており,下肢の浮腫も改善していた(乙3・42頁,証人G,原告本人)。
 午前9時50分ころ,Aは入院時に比べて落ち着いていたが,呻吟様の呼吸,チアノーゼ,全身浮腫が見られ,酸素飽和度は約73%だった。右手首に維持輸液の点滴(静脈注射のルートを確保する点滴路)が行われるとともに酸素吸入が毎分3リットルに増やされ,フロセミド(製品名・ラシックス)2分の1錠が経口投与された。この際,Aは直接会話をすることはできなかったが,看護師の指示には従っていた(乙3・34頁,42頁)。
 午前10時45分ころ,精神科医師が回診した際も,Aは,多少の胸部の痛みを訴えていたが,落ち着いていていた(乙2・17頁)。
 正午ころ,Aは,座位の状態で自力で昼食を半分ほどとった(甲8,乙3・42頁,9,証人G,原告本人)。
 午後2時ころ,Aは傾眠状態(浅眠状態)にあり,250ccの排尿が認められ,経皮酸素飽和度は92%に上昇した(乙3・34頁,42頁)。
 午後2時15分ころ,精神科J医師がK医師から依頼箋を受け回診した。その際,Aは,傾眠状態(浅眠状態)にあり,同医師は,Aが床上傾眠にあり,とりあえず落ち着いていることを認め,精神科外来診療録に,不穏時及び不眠時には生理食塩水50ミリリットルにハロペリドール(5mg)1アンプルを混入して15分から30分かけて投与する旨記載し(乙2・17頁),K医師の依頼箋に対しても,従前処方していた向精神薬の投与を中止し,不穏時,不眠時にハロペリドールを投与する旨回答した(乙2・19頁1枚目)。
 午後2時25分ころ,心電図がとられた(乙3・30頁)。
エ 午後3時45分ころ,Aが騒ぎ出したため,原告は,午後3時50分ころ,ナースコールをした。G看護師が病室に駆けつけたところ,Aは,病室のベッドの上で正座した状態で,病衣ははだけ,酸素吸入用カニューレははずされていた。Aは,原告と兄に手で押さえつけられながらも,「熱い。怖い。」などと叫び,病衣を脱ぎ去ろうとしたり,腹部をかきむしろうとし,冷や汗をかき,極度のチアノーゼを呈するなど,顕著な不穏状態にあった。
 G看護師は,他の看護師にナースステーションに戻りタオルを持ってくるように指示し,そのタオルで冷や汗を拭こうとし,また,点滴をはずそうとするAを注意するなどしたが,Aはこれに従わなかった。その間,Aは暴れていたため,その手が原告やG看護師に当たるなどした。
 そこで,G看護師は,医師からの不穏時における投薬指示に従い,ハロペリドール1アンプルを生理食塩水50ccで希釈し,Aの右手首に確保されていた点滴路の途中にある三方活栓(点滴路の途中に別の点滴路を接続するための弁)に接続し,ハロペリドール希釈液側の点滴路のクレンメ(滴下量を調節するつまみ)を調節し,ハロペリドールの投与を開始した。
 そうしたところ,Aは,なおも暴れた後,突然,白目をむいた状態になり,後ろ向きに倒れた。Aは,心停止,呼吸停止の状態で,顔面が紫色になり極度のチアノーゼを呈していた。G看護師がクレンメを調節し,ハロペリドールの投与を開始してからAが倒れるまでの時間は,長くとも30秒程度であった(甲8,乙3・42頁,9ないし11,証人G,原告本人)。
 その後,酸素吸入,心臓マッサージ,強制換気,投薬などの蘇生措置が施されたが,午後4時43分,Aの死亡が確認された(乙3・42頁,43頁等)。
2 原告の主張(1)(7月24日の診療上の過失)について
(1) 本件診察当時のAの臨床経過等について
ア 7月24日時点のAの病状
    (ア) Aには,被告病院小児科に受診を開始した平成10年5月15日当時から,中程度のチアノーゼ,心音の拡張期雑音,心拡大(心胸比75%程度)が認められるなど,既に慢性心不全の症状を呈していたところ(乙1・5頁ないし7頁,6の2),平成12年4月27日には,心拡大の進行(心胸比約80%)に加えて右側胸膜腔内に胸水貯留が認められるようになり(乙6の4),7月24日には,心拡大がさらに進行するとともに(心胸比約83%),右側の胸水の増量に加えて,左側にも貯留が認められるようになった(乙6の7)。そして,7月31日ころ,眉間の浮腫が出現し,8月2日未明には下肢の浮腫の出現とともに胸部苦悶の訴えがあり,被告病院に搬送された(乙1・25頁,3・5頁,8頁)。
 このような経緯からすれば,被告病院に受診を開始した当初から存在したAの慢性心不全は,緩慢な悪化の経過をたどり,7月末ころ,急性増悪に転じたことが認められる。
    (イ) ところで,Aには6月中旬ころから精神症状が見られ,6月26日午後11時すぎ及び7月24日日中の2度の興奮状態を含む断続的な精神症状が発現している(乙1・14頁,2・4頁,9頁,10頁,13頁,14頁)が,①心不全の増悪等により血中酸素が低下し,脳の酸素が欠乏することによりせん妄,錯乱などの脳機能障害が発生しうること(甲10),②錯乱,集中力低下,記憶力障害,頭痛,不眠,不安などの精神症状は,心不全の急性増悪型の臨床症状の一つとされていること(甲3,4),③7月24日の日中の興奮状態の発現以前は,Aの不穏状態は,もっぱら心不全にとって好ましくない臥位状態にある夜間に出現していること(原告は被告病院医師に対し,6月21日に「夜中に暴飲暴食するようになった。」と説明し,7月18日に「夜の11時くらいからイライラが強くなって,薬で午前2時に寝ます。水分を欲しがって午前4時に起きます。ここ数日は日中もイライラしてます。」と,説明しており,Aも被告病院医師に対し6月27日に「夜になると悲しくなって夜が怖い。」と訴えている。乙1・14頁,2・4頁,9頁,13頁,14頁),④Aには精神症状の既往歴がなかったこと(弁論の全趣旨),⑤心不全の悪化と精神症状の発生・悪化とはほぼ同時期に進行しているとみられることからすれば,この精神症状は心不全の悪化による低酸素血症がその主因であると推認される。
      この点,被告は,Aの精神症状は,同人の精神的な不安から発生したものであり,慢性的な低酸素状態にあるため,身体がそのような低酸素状態に順応しており,単に低酸素であるからといってそのような意識障害が発生したとは考えられないと主張する。
      たしかに,重度の先天性心疾患により長年生活全般に及ぶ身体活動の不自由を強いられてきたAの身上,母である原告との精神的密着性,A自身の性格及び原告の突発性難聴の発症等の諸事情から,心因反応もその一因となってAの精神症状が生じたとみる余地はある(乙2・4頁,8頁)が,上記認定の事実に照らせば,Aの精神症状は,主として心不全の悪化による低酸素血症とみるべきものであるから,被告の同主張は採用できない。
    (ウ) また,心臓喘息及び呼吸困難は心不全の臨床症状の一つであるとされているところ(甲3,4),7月12日の小児科受診時,胸部に喘鳴が確認されたこと(乙1・20頁),7月24日の精神科受診時,原告が「(薬を)前にもどしたら寝ている。間に喘息になっているけど,夏は汗をかいて落ち着かない。」旨説明していること(乙2・14頁),Aには上記(ア),(イ)のとおりの心不全の増悪の徴候が併存し,後に急性増悪に転じていることからすれば,7月24日当時,Aには心臓喘息とみられる喘鳴があったと認められる。
      この点,被告は,7月12日当時の喘息症状は気管支喘息として適切に治療されており,心臓喘息であったことを認めるに足りる証拠は皆無であると主張する。なるほど,7月12日の小児科診察時,気管支喘息の治療としてメプチン(気管支拡張剤),テオドール(気管支拡張剤)等が処方され,その後,同月24日まで喘息症状の訴えはなされていない(乙2・14頁)。しかし,気管支喘息の既往歴はAが中学生ころのものであること(甲9,原告本人),同月24日まで喘息症状の訴えがなかったからといっても,同月24日の精神科受診時の原告による「間に喘息になっているけど。」との説明からして,それまでの間に実際に喘息症状がなかったとはいえないこと,心不全が急性増悪に至った上記の経緯に照らせば,7月12日の喘息症状は心臓喘息であったと推認すべきであり,被告の同主張は採用できない。
    (エ) なお,心不全の急性増悪では,症状の悪化から入院に至るまでいくらかの時間経過があり,その間,徐々に循環血液量が増加し,体重増加や四肢浮腫が顕著となることが多いとされているところ(乙23),8月2日の入院時に原告が被告病院医師に対して,Aの体重は通常51キロから52キロ程度であり,少しむくむと53キロ程度であったところ,一週間前ぐらいから55キロに増加していたと伝えていること(乙1・25頁),6月22日のAの体重は51キロであったこと(乙2・4頁),7月31日には眉間の浮腫が,8月2日未明には下肢の浮腫が見られたこと(乙1・25頁)からすれば,遅くとも7月末ころには,Aの体重は55キロに増加していたものと認められる。
 しかし,8月2日の入院時に原告が被告病院医師に対して,この2,3日,水分摂取量が増え,1.5リットル程度摂取していたと伝えていること,7月30日以前には浮腫は確認されていないことに照らせば,Aの体重は,水分の過剰摂取等により7月末ころ急激に増加した可能性が相当程度あり,本件診察当時,既にAの体重が増加していたか否かは判然としない。
    (オ) 以上によれば,本件診察当時,Aには,心不全の急性増悪の徴候とみられる精神症状,心臓喘息という臨床症状があったと認められる。
      しかし,本件診察当時,Aのチアノーゼは中程度と通常と異ならず,四肢冷感や浮腫はなく,原告への問診や被告病院医師への原告の事後報告によっても尿量の減少等,病状の悪化は窺われない一方で,Aは,7月29日夜,興奮状態になり,同月31日には眉間の浮腫,8月2日には下肢の浮腫及び胸部苦悶の訴えがなされている本件の診療経過(上記第3,1(3)ないし(5))に照らせば,緩慢な悪化傾向をたどっていたAの心不全が急性増悪に転じたのは7月末ころであり,本件診察当時においては,急性増悪に転じつつあったものの,その程度は今だ緩慢であり,心不全の緩慢な悪化という従前の経過から逸脱していたとまでは認め難い。
イ 被告病院における本件診察までの治療経過
(ア) 小児科では,被告病院に受診を開始して以来,通院の際の診察によってAの病状を把握しつつ,その経過を観察していたところ,6月中旬ころ発症したAの不穏状態を心因的なものであることを疑い,精神科に診察を依頼した(乙1・14頁,20頁)。
(イ) 精神科では,6月22日,Aの不穏状態を心因反応と診断し,同診断の下,向精神薬による対症的治療が開始された。当初の処方は,セディール,リスパダール,ピレチア,テトラミドであった(乙2・8頁,9頁)。
 上記精神科における治療は,Aの精神症状に対しててき面な効果こそもたらしていなかったが,6月28日以降7月18日ころまで,特段の不穏状態の訴えはなく,一応の小康状態が保たれていた。ところが,7月18日ころから精神症状が悪化し,F医師により処方が一部変更され,セディールの代わりにテグレトールが処方された(乙2・13頁)。しかし,Aは,同月24日日中,興奮状態に陥り,精神科を受診した。当日,担当医であるF医師が不在であったためJ医師の診察を受け,同医師により投薬内容を一時的にヒルナミン,アモバンに変更する処方を受けた(乙2・14頁)。
(2) E医師の問診義務違反の有無(原告の主張(1)イ)について
   ア 心不全の治療としては,①心作業負荷の軽減,②過剰の塩と液体貯留の調節,③心筋収縮性の増強があり,具体的には,まず,身体活動・ナトリウム摂取の適度の制限を行い,これらが不十分であれば,利尿剤,アンギオテンシン転換酵素阻害剤,ジキタリス配糖体併用による治療を開始し,次の段階として,食塩摂取制限をさらに厳重とし,さらなる投薬や入院などの措置が必要とされている(上記第2,1(4)イの認定事実)。そして,上記治療の必要性及びその取捨選択をするためには,患者の血行動態から心不全の重症度を把握することがまず必要となる。
     特に,心不全の治療においては,上記①及び②といった日常生活上の制限事項を遵守させることが病態改善のための第一義的治療であり,それ自体が重要な治療行為である。したがって,そのための問診及び指示説明については,一般の技術的治療行為と同様の水準で評価しなければならないというべきである。
     そうすると,心不全の診察にあたっては,患者の血行動態を把握すべく,視診,触診,聴診及び胸部レントゲン検査等とともに問診によって診察当時の労作状況,水分摂取状況及び体重の推移等を確認することが重要となる。
   イ この点,被告も自認するように,E医師は,本件診察時,原告に対し「最近特に変わったところはないですか。」と質問し,原告が「特に変わりない。」と答えたという程度の問診を行ったにとどまり,当時の労作状況,水分摂取状況及び体重の推移等の個別的な問診は行っていない。
 しかし,E医師は,視診,触診,聴診及び胸部レントゲン検査を行っており,胸部レントゲン検査等によって心拡大と右側の胸水貯留があって,Aの心不全が悪化傾向にあることを認めたほか,視診によりその顔面に浮腫はなく中程度のチアノーゼがあること,聴診により胸部に軽度のラ音があること,触診により四肢に冷感はなく末梢循環不全が存在しないことをそれぞれ認め,Aの血行動態を把握していたものである(上記第3,1(3)イの認定事実)。
 また,生後まもなくファロー四徴症と診断されたAと長年にわたり日常生活を共にしてきたAの母である原告は,医学については素人で,専門的な知見は持ち合わせていなかったものの,チアノーゼの程度,体重の増減,尿量など日常生活においてAの病態の変化を読み取るための基本的な注意事項については一応把握していたものであって(原告本人),これが本件診察の前提とされていた(乙1,2)ということができる。
   ウ 以上の事情に照らせば,本件診察における問診が概括的なもので,当時の労作状況,水分摂取状況及び体重の推移等の個別的な問診を行っていないとしても,視診,触診,聴診及び胸部レントゲン検査を行い,Aの血行動態を把握していたE医師の本件診察が不当であるとはいえず,本件診察当時,E医師が原告の主張にかかる問診を行わなかったことが医師としての注意義務に違反したとは認め難い。
(3) E医師の安静指示及び投薬義務違反の有無(原告の主張(1)ア)について
   ア 心不全の治療は,その重症度によるが,一般的には,まず,身体活動・ナトリウム摂取の適度の制限を行い,これらが不十分であれば,利尿剤,アンギオテンシン転換酵素阻害剤,ジキタリス配糖体併用による治療を開始し,次の段階として,食塩摂取制限をさらに厳重とし,さらなる投薬や入院などの措置が必要とされているところ(上記第2,1(4)イの認定事実),本件診察当時,Aの心不全は,急性増悪に転じつつあったが,その程度はいまだ緩慢であり,心不全の緩慢な悪化という従前の経過から逸脱していたとまでは認め難い(上記第3,2(1)ア(オ)の認定事実)。
 そうとすると,本件診察当時,Aは,直ちに利尿剤や血管

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最終更新:2005年10月19日 10:33
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