hanrei @Wiki H17.12.15 東京地方裁判所 平成16年(ワ)第11004号 損害賠償請求事件



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平成17年12月15日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官
平成16年(ワ)第11004号 損害賠償請求事件
口頭弁論終結日 平成17年9月8日
判        決


原         告           A

被         告      川崎市
同代表者病院事業管理者       B
同訴訟代理人弁護士      児  玉   安  司
                  中  島   健 太 郎
主        文
1 被告は,原告に対し,金850万円及びこれに対する平成11年4月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,これを4分し,その1を被告の負担とし,その余は原告の負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。 
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告に対し,金3750万円及びこれに対する平成11年4月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 
第2 事案の概要
本件は,被告の開設する病院において結腸及び子宮等の摘出手術を受けた患者の子である原告が,担当医師において,(1)患者の同意なく無断で子宮等の摘出手術を実施した(その結果,患者が精神的苦痛を被った。),(2)①腹部外科手術時における前処置用下剤であるマグコロールの投与が禁忌であったにもかかわらず,これを投与した,②術後,左股関節の化膿性関節炎の発症を診断して,関節内に抗生物質を投与するとともに,持続洗浄ドレナージを実施すべきであったにもかかわらず,これを怠った(①,②の結果,患者に体幹不自由,下肢短縮等の後遺障害が生じた。)と主張して,被告に対し,不法行為(使用者責任)又は債務不履行に基づいて,慰謝料等の損害金及びこれに対する症状固定の日の翌日からの民法所定の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。 
1 前提事実(証拠原因を掲記しない事実は当事者間に争いがない。)
(1) 当事者等
ア 原告は,C(昭和16年7月7日生,平成13年9月3日死亡。)の子であって,その唯一の相続人である。
イ 被告は,川崎市内に「D病院」という名称の病院(以下「被告病院」という。)を開設している。
平成10年当時,医師であるE及びFは被告病院(E医師は産婦人科,F医師は外科)に勤務していた。
(2) Cの診療経過等
ア Cは,平成10年7月3日,子宮癌に対する子宮及び両側卵巣全摘出術を予定して被告病院に入院し,同月6日,マグコロールの投与を受けたが,同月7日,同日に予定されていた同手術は中止(延期)され(同日に予定されていた同手術について同月6日に原告が同意書を提出していた。),同月8日,急性腹症及び子宮癌に対する結腸並びに子宮及び両側卵巣の全摘出術を受けた。
Cは,その後も引き続き被告病院に入院して治療を受けていたところ,同年9月2日には左股関節の脱臼骨折が生じていて,平成11年1月,左股関節化膿性関節炎との診断を受け,同年3月8日,M病院に転院した。 Cは,同年4月28日,M病院において,障害名「体幹不自由,左下肢短縮及び右手関節機能障害」,総合所見「体幹の機能障害により座っていることができない,左下肢5cm以上の短縮,右手関節の著しい機能障害」という診断を受けた(甲A1,4)。
Cは,同年5月31日,横浜市から,障害名「両下肢体幹機能障害[1級]」,身体障害者等級表による級別「1級」による身体障害者手帳の交付を受けた(甲A3)。
なお,Cは,平成13年9月3日に死亡した。
イ 被告病院におけるCの診療経過の概要は,別紙診療経過一覧表の「年月日時分」,「診療経過(入通院状況・主訴・所見・診断)」,「検査・処置」欄記載のとおりである(ただし,下線部分を除く。また,「診療経過」欄の【】書きの事実は,「証拠」欄の【】書きの証拠によって認められる。)。
(3) 本件で前提となる医学的知見は,別紙医学的知見のとおりである。
2 原告の主張
(1) 子宮の摘出に係る義務違反
被告病院の医師は,子宮全摘出術を行うに当たって,Cの同意を得るべきであったにもかかわらず,無断で同手術を行った(いったんは同意したものの,後にこれを撤回していた。)。
その結果,Cは精神的苦痛を被った。
(2) 体幹不自由等の障害をもたらした義務違反
ア 義務違反1
(ア) 急性腹症・重症硬結便が疑われる患者については,マグコロールの使用は症状を増悪させるので禁忌である。
この点,Cは,平成10年7月3日に被告病院に入院した後,腹痛を訴え,腹部膨満もあり,同月6日の時点で,急性腹症・重症硬結便の症状が認められた。
よって,被告病院の医師は,Cに対してマグコロールを投与してはならなかった。にもかかわらず,被告病院の医師は,同日,これを投与した。
(イ) Cは,マグコロールを投与された結果,消化管蠕動運動亢進によって腸閉塞状態が増悪し,結腸全摘出術を免れない状態に至った(マグコロールの投与がなければ,S状結腸の摘出のみで足りた。)。そして,結腸の全摘出により,常に下痢を繰り返すようになって,低栄養状態となり,そのため,全身状態が悪化して筋力が低下し,体幹不自由となった。
イ 義務違反2
(ア) Cは,平成10年7月末から,高熱や白血球の上昇があり(同月25日の時点で体温44℃,白血球13400),左股関節・左大腿の痛みを訴えていた。また,同年9月2日の腹部レントゲン写真では,左大腿骨骨頭の変形が見られた。
よって,被告病院の医師は,同年7月,遅くとも同年9月には,化膿性股関節炎を疑って,①関節内への抗生物質の注入又は②関節内の持続洗浄ドレナージを行うべきであった。にもかかわらず,被告病院の医師は,平成11年1月まで,Cが化膿性股関節炎を発症していることに気づかず,これらの治療を怠った。
(イ) 被告病院の医師が平成11年1月まで左股関節化膿性関節炎を見逃して治療を開始しなかった結果,左大腿骨頭が変形して,自力歩行が困難となり,介助が必要な状態となって,体幹不自由,左下肢短縮,右手関節機能障害という後遺障害(身体障害等級1級)が残った。
(3) 損害
ア Cの慰謝料   3000万円
Cは,上記(1)及び(2)のとおり,子宮の全摘出を受けたこと,体幹不自由,左下肢短縮及び右手関節機能障害という後遺障害が生じたことによって,精神的苦痛を被った。これに対する慰謝料は3000万円が相当である。
Cが死亡したことにより,その唯一の相続人である原告が,Cの被告に対する損害賠償請求権を相続した。
イ 原告固有の慰謝料  500万円
ウ 弁護士費用     250万円 
3 被告の主張
(1) 上記2(1)(子宮の摘出に係る義務違反)について
Cは統合失調症に罹患していたところ,その長女で唯一の相続人である原告が,常にCの入通院に付き添っていた。
 平成10年7月6日,原告は,Cが子宮及び両卵巣摘出手術を受けることに同意した。もっとも,腹部膨満のため,同月7日に予定されていた同手術は一時中止(延期)となった。
 同月8日,緊急の結腸全摘出術を実施することになったため,E医師が,原告に対し,全身状況が許せば子宮癌のある子宮と卵巣の摘出も結腸全摘出術に併せて施行する旨の説明をしたところ,原告もこれに同意した。
(2) 上記2(2)(体幹不自由等の障害をもたらした義務違反)について
ア 義務違反1について
(ア) Cは,平成10年7月6日時点において,蠕動運動及び便通が確認されており,嘔吐や吐き気の訴えはなかった。
よって,同日時点において,Cが急性腹症又は重症硬結便の状態にあったとはいえないから,マグコロールの投与は術前の処置として適切であった。
(イ) 因果関係について
否認する。
 Cは,もともと腸管の状態が悪化していた。すなわち,同年5月の時点で既に便秘によって腸管が拡張しており,結腸全摘出術時の所見でも,S状結腸は完全に壊死に陥っていて,下行・横行・上行結腸も全域が著しい拡張と結腸壁肥厚を伴って巨大結腸化しており,結腸内腔にも多量の便が残っていた。また,結腸全域を含む腸管蠕動は非常に弱く,術後,容易に麻痺性腸閉塞の状態になり得ることが予測された。このため,術後に便の排出が十分に行われず,中毒性巨大結腸症から致命的な感染症を起こす可能性が高いと考えられた。さらに,結腸温存と人工肛門造設の場合は,人工肛門管理が術後のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を低下させると考えられ,また一時的人工肛門から二期的に再建術を行うことはCの状態から困難と判断された。
 そこで,以上の総合判断から結腸全摘出術を選択したのである。
 よって,マグコロールの投与と結果との間には因果関係がない。
イ 義務違反2について
(ア) 外科担当医師は,左大腿部及び左股関節の異常を疑い,平成10年7月31日,整形外科に検査を依頼した。同日の整形外科における診察では,左股関節は軽度の拘縮を呈する程度で,運動時痛の訴えがあったが局所症状は乏しく,レントゲン写真でも異常を認めなかったため,痛みの原因は手術後の筋肉の拘縮によるものと診断された。
化膿性関節炎に罹患すると強い疼痛を訴えるのが通常であるが,Cには,強い疼痛の訴えがなく,脱臼骨折があったと思われる同年8月31日から同年9月2日までの間も疼痛の訴えに変化がなかった。
そして,同年9月2日の腹部レントゲン写真は,外科医師が結腸摘出後の経過観察のために撮影したものであったため,その読影に際して股関節の変化に注意を払わなかった。
同日までの診療経過にかんがみると,それまでの間,左股関節化膿性関節炎を発見することは実際上極めて困難であり,その診断をしなかったことに過失はない。
(イ) 関節内への抗生物質の注入について
Cに対しては,平成10年7月下旬に5種類の抗生剤(PIPC,クラフォラン,ビクシリン,パンスポリン,ゲンタシン)の全身投与(点滴投与)をしているほか,その後も抗生剤(セフメタゾン)を同年8月14日まで点滴投与し,同月下旬及び同年9月下旬にはペントシリンを点滴投与しているから,抗生剤の投与は十分であった。
 また,関節内への抗生剤投与は,耐性菌を出現させるので慎むべきであるし,股関節は深部にあり,同月2日には既に脱臼骨折していたので,関節内への抗生剤の連日投与は手技的にも難しい。
 さらに,Cには抗生剤の全身投与が行われていたから,関節穿刺をしても,起炎菌を検出することは困難であった可能性が高く,関節内への抗生剤注入を行っていても有効性にも疑問がある。
 よって,関節内への抗生物質の注入を行うべきであったとはいえない。
(ウ) 関節内の持続洗浄ドレナージについて
持続洗浄ドレナージは,股関節を切開してチューブを挿入し,2週間以上にわたって股関節内の持続洗浄を行うものである。
 Cは,精神疾患があったことから,治療についての理解や協力を得にくく,体を動かしたり,チューブを自ら抜いたりする危険性があるなど,チューブを入れた状態で長期間安静を保つことが極めて困難な患者であった。
 また,Cは,全身状態の衰弱が著しく,腹部の調子も悪く,下痢を繰り返していた。このように患者の全身状態が衰弱した状態でドレナージを行うと,様々な合併症(肺炎,膀胱炎,腎盂炎,褥創の悪化,下肢静脈血栓等)の重症化のおそれがあったほか,チューブの刺入部感染をもたらしたり精神状態に影響を与える可能性があった。さらに,持続洗浄ドレナージの手術で大量の出血が生じることが予測され,体力的に非常に困難であった。
 したがって,Cに持続洗浄ドレナージの適応はなかった。
(エ) 因果関係について
否認ないし争う。
 左股関節化膿性関節炎に由来する障害は,左下肢の短縮であり,体幹不自由や右手関節機能障害は無関係である。
 そして,平成10年9月2日の時点において左大腿骨骨頭が変形しているから,かかる状態からは,いかなる治療を施しても同骨頭が正常に回復することはない。よって,仮に同時点において左股関節化膿性関節炎を発見できていたとしても,その後の経過(左下肢の短縮)が変わることはなかった。
 なお,Cが体幹不自由となったのは,S状結腸の全摘出により常に下痢を繰り返すようになり,低栄養状態となって全身状態が悪化していたため,筋力が低下したことによるものである(脊柱の異常によるものではなく,仮にそうであるとしても,左股関節化膿性関節炎によって脊柱の異常が生じることはない。)。
(3) 上記2(3)(損害)について
争う。
第3 当裁判所の判断
1 前記前提事実に証拠(各項に掲記したもの)及び弁論の全趣旨を併せると,次の事実が認められる(本項の月日は,特に断らない限り,平成10年の月日である。)。
(1) 被告病院への1回目の入院(乙A4,6,証人E)
Cは,統合失調症に罹り,昭和57年から横浜市鶴見区に所在する「H病院」(精神病院)に入院していた。
Cは,4月23日ころ,腹部緊満が著明であった。
Cは,5月21日,子宮癌の疑いがあったため,被告病院の産婦人科を受診した。その際,子宮癌としてはそれほど進行した状態ではないと診断されたが,腹部エコー検査において,腸内に大便が充満しているとの所見があった。
Cは,6月2日,子宮癌の手術目的で同科に入院して,精神科と併診となり,子宮頚癌0期以上,統合失調症との診断を受けた。また,Cには,CT検査の所見において,大腸の拡張が著明に認められた。
E医師は,Cが入院していた際,Cの入通院に付き添っていた原告(旧姓・I)に対し,Cの子宮癌の治療方法としては手術が望ましいと説明したが,原告から放射線治療を希望された。しかし,E医師は,Cの子宮癌の進行状況や放射線治療の副作用を考慮すると,放射線治療は適切な治療方法ではないと判断して,外来通院による経過観察をすることとした。なお,E医師は,Cに対しても治療方法の説明を試みたが,手術の話をするとCに不穏状態が見られた。
Cは,同月17日,被告病院を退院した。
(2) 被告病院への2回目の入院(甲A8,乙A1,2,4,6,証人E)
ア 6月17日のCの退院後,間もなくして,原告は,E医師に対し,手術を希望する旨の電話を架けた。
Cは,同月23日,原告に付き添われて被告病院を受診した後,7月3日,被告病院に入院した。
E医師は,同月6日,原告に対し,Cの子宮癌について子宮及び両卵巣摘出手術を実施すること,手術の合併症として腸管損傷及び尿管損傷の可能性があること,輸血を行う可能性があることを説明した上で,原告から同手術(同月7日実施予定)についての同意書(乙A第2号証11頁)を受け取った。E医師が同手術についてCに直接説明をせず原告に対して説明をしたのは,Cが,子宮癌という病気に対する理解に乏しく,手術という言葉に対してやや不穏が見られたからであった。
しかし,E医師は,同月7日,Cに腹部膨満が強く見られ,そのまま手術を実施すると合併症の危険が高まるほか,Cの手術拒否の態度が著しく,Cが不穏状態となると創離開の可能性が高いと判断し,原告にその旨を説明して,手術の実施を一時中止した。
イ 7月8日のこと
Cは,被告病院の内科を受診して,S状結腸軸捻転症と診断され,子宮癌への対処とは異なり,そのまま放置すれば生命に関わるものであるということで,内視鏡による整復は難しいことから緊急開腹手術(S状結腸軸捻転整復又はS状結腸切除)を受けることになった。
F医師は,Cに対し,緊急開腹手術が必要である旨説明したが,Cから手術についての返答はなく,Cが説明内容を十分に理解している様子もなかったため,原告に対し,S状結腸軸捻転で,放置すれば命に関わること,開腹をして整復を試みるが,虚血性の変化が強ければ切除することになることのほか,合併症等を説明して,原告から同手術についての同意書(乙A第1号証56頁)を受け取った。
また,E医師は,緊急開腹手術の直前,原告に対し,同手術は子宮と卵巣の摘出手術と同一視野になるため,同時に子宮等の摘出を遂行できるので,全身状態が許せば,子宮等の摘出も併せてする方が,後日に改めて開腹手術をする必要がなくなり,侵襲による負担が少なくなるので,できれば子宮等も一緒に取る旨説明した。これに対し,原告は,子宮等の摘出術について反対せず,これに同意した。E医師は,この説明の際,同月6日に原告から子宮等摘出手術の同意書を一度受け取っていたため,改めて同手術についての同意書の提出を求めることはしなかった。
E医師は,原告の同意を受けて,緊急開腹手術を担当するF医師及びJ医師に対し,状況が許せば子宮等も摘出してほしい旨依頼した。
(なお,原告は,同月8日に子宮等摘出の説明を受けておらず,それに同意していないかのように主張し,原告本人の供述中にもそれに副う部分があるが,これに反する具体的で信用性の高い婦人科入院診療録である乙A2(17頁)及びそれに裏付けられている乙A6,証人Eの証言に照らして,採用できない。)
(3) 緊急開腹手術の実施(乙A8,証人E,同F,原告本人)
Cは,7月8日,緊急開腹手術(以下「本件開腹手術」という。)を受けた。
本件開腹手術の際の腹部所見では,S状結腸が,全域に渡って黒くなり,完全に壊死していて,その切除が必要であった。また,下行・横行・上行結腸全域が,著しい拡張と結腸壁肥厚を伴って巨大結腸化していて,結腸内腔にも多量の便が残っており,結腸全域を含む腸管の蠕動は非常に弱かった。そのため,術後,容易に麻痺性腸閉塞の状態に陥り,中毒性の巨大結腸症を起こして,そこから致命的な感染症に至るおそれがあった。他方,結腸温存と人工肛門造設という治療方針は,人工肛門管理に伴うQOLの低下等が懸念された。
そこで,F医師らは,結腸全摘出術を実施し,併せて,子宮及び両側卵巣を摘出した。
E医師は,本件開腹手術の後,原告に対し,Cの子宮及び両側の卵巣も摘出した旨説明したが,原告から抗議を受けることはなかった。
(4) X線所見(甲A6,乙A3,5,7,9,10の1・2,証人K)
7月31日に撮影されたX線写真では,両側とも股関節に異常が認められなかったが,左股関節の大腿骨頭の外側に少し透けている影のようなものが見られた。
8月17日撮影のX線写真では,左大腿骨頭の萎縮が見られた。
同月28日撮影のX線写真では,大腿骨頭及び臼蓋の骨融解像が見られた。
同月31日撮影のX線写真では,未だ左股関節の脱臼は認められなかった。
9月2日撮影のX線写真では,左大腿骨骨頭は,縦方向に骨折し,骨頭の3分の1を臼蓋に残して外側上方に転位し,左股関節脱臼骨折を呈していた(これによって関節包が断裂した。)。
同日以後,徐々に骨融解が進んだ。
(5) 化膿性関節炎の発症(甲A6,乙A1ないし8,証人K)
Cは,7月25日ころには,左股関節において化膿性関節炎を発症していた。
しかし,被告病院医師がその診断をしたのは,前記のとおり,平成11年1月に至ってからであった。
2 子宮全摘出術に係る義務違反について
(1) 医療行為,特に手術は,患者の身体に侵襲を加えるものであり,生命・予後に影響を与えるものであるから,医師がこれを行うに当たっては,患者の同意を得なければならない。
しかし,医師は,患者が,子供や高齢者,精神疾患を有する者等であって,自己の疾患の内容やそれに対する治療方法を的確に理解して治療方法の選択や同意をすることが期待できない場合には,緊急の場合でない限り,少なくとも,患者の家族等のうち連絡が容易な者に対しては接触し,同人又は同人を介して更に接触できた家族等に対する説明の適否を検討し,説明が適当であると判断できたときには,その治療内容等を説明して同意を得る義務を負うものというべきであり,逆に,かかる家族からの同意があれば,患者本人から同意を得る必要は必ずしもないというべきである。なぜならば,このようにして治療方法等についての説明を受けて同意をした家族等の側では,医師側の治療方針を理解した上で,物心両面において患者の治療を支え,また,患者の闘病生活が充実したものとなるように家族等としてのできる限りの手厚い配慮をすることができることになり,患者本人にとって利益であるというべきであるからである。
(2) この点,Cは,上記1(1),(2)アのとおり,統合失調症のため昭和57年から精神病院に入院していた患者であって,子宮癌という病気に対する理解に乏しく,手術という言葉に対して不穏が見られたのであり,自己の疾患の内容やそれに対する治療方法を的確に理解して治療方法の選択や同意をすることが期待できない患者であったと認められる。一方,前記前提事実(1)ア,上記1(1)のとおり,原告は,Cの子で,唯一の相続人という立場にある家族であって,Cの入通院に付き添ってもいた。
しかして,E医師は,上記1(2)アのとおり,平成10年7月6日,原告に対し,Cの子宮癌について,子宮及び両卵巣摘出手術を実施すること,手術の合併症として,腸管損傷及び尿管損傷の可能性があること,輸血を行う可能性があることを説明した上で,原告から同手術(同月7日実施予定)についての同意書(乙A第2号証11頁)を受け取り,また,上記1(2)イのとおり,同月7日に予定していた手術を中止した後も,同月8日の緊急開腹手術の直前に,原告に対し,同手術は子宮と卵巣の摘出手術と同一視野になるため,同時に子宮等の摘出を遂行できるので,全身状態が許せば,子宮等の摘出も併せてする方が,後日に改めて開腹手術をする必要がなくなり,侵襲による負担が少なくなるので,できれば子宮等も一緒に取る旨説明し,原告の同意を得た。
以上の事実によれば,本件の子宮等摘出術については,上記(1)のような意味において必要とされる患者側の同意があったものと認めるのが相当であり,この点に関する原告の主張は理由がない。
3 体幹不自由等の障害をもたらした義務違反(義務違反1)について
(1) 前記前提事実(3)(別紙医学的知見3(2))のとおり,急性腹症及び重症硬結便の患者については,マグコロールの投与は禁忌とされているところ,前記前提事実(2)(別紙診療経過一覧表)のとおり,平成10年7月6日午後3時ころ,Cに対してマグコロールが投与されている。
この点,前記前提事実(2)(別紙診療経過一覧表),上記1(2)のとおり,Cは,同月3日の被告病院への入院前から腹部緊満の症状があったこと,その入院後も腹膨緊満の症状が見られ,下腹部痛の訴えもあったこと,同月8日,急性腹症(S状結腸軸捻転症)のため緊急開腹手術を受けていることのほか,上記1(3)に認定した同手術の際の腹部所見に照らすと,同月6日時点においても,客観的には急性腹症(S状結腸軸捻転症)の状態に陥っていた可能性を否定することはできない。しかし,他方,前記前提事実(2)(別紙診療経過一覧表)のとおり,同月3日の被告病院への入院から同月6日まで,G音は正常であって,腸の蠕動運動が確認されていたこと,同月7日に,初めてG音が聞こえず,ややメタリックな音が聞こえたこと,同月6日には,便失禁や下痢が見られ,腹痛を訴えつつもパンを摂取していたことに照らすと,仮に同月6日の時点において急性腹症(S状結腸軸捻転症)の状態に陥っていたとしても,同日時点で,被告病院の医師において,急性腹症の状態に陥っていると診断することができたとはいえない。
また,本件全証拠によっても,同時点においてCに重症硬結便の症状があったと認めるに足りない。
したがって,被告病院の医師が同月6日にマグコロールを投与したことに,診療上の過失ないし義務違反があるということはできない。
(2) しかも,原告主張の如くマグコロールの投与があったために結腸全摘出術を免れない状態に至った(マグコロールの投与がなければ,S状結腸の摘出のみで足りた。)とも認められない。その理由は,以下のとおりである。
  前記前提事実(3)(別紙医学的知見3(2))のとおり,急性腹症が疑われる患者については,激しい腹痛とともに,腹部臓器の損傷・穿孔や急性腹膜炎症状を伴っていて,マグコロールの投与による腸管の膨張や蠕動運動促進がこれらの症状を増悪させるおそれがあるため,その投与は禁忌とされている。
この点,前記前提事実(2)(別紙診療経過一覧表)のとおり,Cは,平成10年7月6日の時点においては,G音が正常であったが,マグコロールが投与された翌日である同月7日には,腹膨緊満が悪化し,G音が聞こえず,ややメタリックな音がして,緊急開腹手術を受けた。
しかし,これらの事実によっては,マグコロールの投与を受けた結果,消化管蠕動運動亢進によって腸閉塞状態が増悪し,結腸全摘出術を免れない状態に至ったとまでは認められず,他に原告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。
かえって,前記前提事実(2)(別紙診療経過一覧表)及び上記1(1)のとおり,Cは,同年4月23日ころの時点において,腹部緊満が著明であり,同年5月21日にも腸内に大便が充満していたほか,同年7月3日の入院後も腹膨緊満が強く,同月8日に実施された本件開腹手術の際の腹部所見では,S状結腸が全域に渡って黒くなり,完全に壊死していて,下行・横行・上行結腸全域が著しい拡張と結腸壁肥厚を伴って巨大結腸化していて,結腸内腔にも多量の便が残っており,結腸全域を含む腸管の蠕動は非常に弱かったことに照らすと,もともとCの結腸の状態は悪化していて,マグコロールの投与の有無に関わらず結腸全摘出術を受ける必要があった可能性が十分にあるといえる。
(3) いずれにせよ,この点に関する原告の主張は理由がない。
4 体幹不自由等の障害をもたらした義務違反(義務違反2)について
(1) 義務違反について
化膿性関節炎に関する医学的知見は,前記前提事実(3)(別紙医学的知見4)のとおりである。
この点,前記前提事実(2)(別紙診療経過一覧表)のとおり,Cは,平成10年7月25日から,たびたび,下肢痛ないし左大腿部痛,左股関節痛を訴えるとともに,発熱があったり(特に,7月25日,27日には39℃を超える高熱があった。)や白血球が10000を超えることがあった(特に,7月25日には13400,同年8月5日には14800,同月11日には14500であった。)ほか,同月17日撮影のX線写真では左大腿骨頭の萎縮が見られたのであるから,被告病院の医師は,遅くとも,直近に連日下肢痛の訴えがあった同月17日ころには,化膿性股関節炎を疑って,整形外科を受診させ,左股関節に焦点を当てたX線検査や関節穿刺による関節液検査を実施すべきであったというべきである。
しかして,前記前提事実(3)(別紙医学的知見4(4))のとおり,関節液検査の細菌培養の陽性率が100%ではなく,細菌が検出されない場合があることを考慮しても,上記の臨床所見に加え,上記1(4),(5)のとおり,同年7月25日ころには左股関節において化膿性関節炎を発症していて,同年8月17日にはX線写真において左大腿骨頭の萎縮が見られたことに照らすと,被告病院の医師が同日ころに上記のような各検査を実施していれば,上記の臨床所見のほか関節液検査の結果やX線検査の所見(健側との比較)により,速やかに化膿性股関節炎を診断することができたといえる。
そして,その診断ができた以上,①副木(添え木)や牽引などで関節を固定して全身の安静を保ち,②原因菌を同定する前からすぐに抗生物質(抗生剤)を点滴で静脈に注入し(関節穿刺による関節液検査をし,細菌培養をして,原因菌の同定に努め,その同定ができたときは最も有効で安全な抗生物質に切り替える。),③関節に損傷を与える膿の蓄積を予防するために,針又はチューブで膿を排出し,④関節鏡視下にて関節内を十分に洗浄し,炎症の沈静化が得られない場合には,切開,病巣掻爬,ポビドンヨード液による関節内洗浄,それに続く閉鎖式持続洗浄を行い,さらに,⑤化膿菌が検出できたときは,少しでも早く化膿菌を殺し,関節内の破壊を最小限に止めるために,関節を切開してチューブを挿入し,洗浄液を常に注入して関節内を洗うとともに,関節内に抗生物質を注入する措置を取るべきであった。
しかるに,被告病院の医師は,かかる検査や措置を怠って,Cの化膿性股関節炎を平成11年1月まで診断しなかった(なお,抗生物質の静脈注入は行っていた。)。
(2) 義務違反による結果について
前記前提事実(2)(別紙診療経過一覧表)及び上記1(4)のとおり,平成10年8月31日撮影のX線写真では,未だ左股関節の脱臼は認められなかったが,同年9月2日撮影のX線写真では,左大腿骨骨頭は,縦方向に骨折して,骨頭の3分の1を臼蓋に残して外側上方に転位し,左股関節脱臼骨折を呈していたのであり,その後,徐々に骨融解が進行して,平成11年1月8日ころには骨頭壊死に陥っていた。
しかして,平成10年8月17日ころに化膿性股関節炎を診断して,副木(添え木)や牽引などで関節を固定して全身の安静を保つなどしていれば,Cが左股関節の脱臼骨折を起こすことはなく,したがってまた,抗生物質の関節注入を困難ならしめるような関節胞の断裂が生じることもなかった。そして,化膿性関節炎を発症してからの期間,X線写真における大腿骨頭の骨萎縮・融解の程度等に照らすと,排膿,関節内洗浄,的確な抗生物質の投与を実施していれば,化膿性股関節炎の進行による骨頭壊死によって左下肢5cm以上の短縮が生じなかった蓋然性が高いというべきである。
  なお,原告は,化膿性股関節炎によって左大腿骨頭が変形した結果,自力歩行が困難で介助が必要な状態になって,左下肢の短縮のほか,体幹不自由及び右手関節機能障害という障害が残ったと主張する。しかし,化膿性股関節炎による左大腿骨頭の変形及び左下肢の短縮から,直ちに体幹不自由や右手関節機能障害につながるとは認められず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(3) 上記(1),(2)の認定,判断について
ア 被告は,Cに対し,平成10年7月下旬に5種類の抗生剤(PIPC,クラフォラン,ビクシリン,パンスポリン,ゲンタシン)の全身投与(点滴投与)をしているほか,その後も抗生剤(セフメタゾン)を同年8月14日まで点滴投与し,同月下旬及び同年9月下旬にはペントシリンを点滴投与しているから,抗生剤の投与は十分であり,また,抗生剤の全身投与が行われていたから,関節穿刺をしても起炎菌を検出することは困難であった可能性が高いと主張する。
しかし,細菌を同定しないまま抗生物質を投与するよりも,細菌を同定した上で抗生物質を投与した方がより治療上の効果が期待できるから,細菌の同定のため,関節穿刺をして,関節液を採取し,その細菌培養をする義務はあったというべきである。
他方,一般的に細菌が同定されないこともあること,また,抗生剤の性質上,一般的にその投与がされた場合は細菌の同定はより困難と推認できることからすると,本件で上記のとおり細菌培養をしたとしても,その同定がされなかった可能性もあり,そうすると,この義務違反は,これを独立にみると,本件の化膿性股関節炎の進行ないしこれによる下肢短縮という結果との間に因果関係を認めることはできない。
しかし,細菌の同定ができず,それを踏まえた抗生物質の注入ができなかったとしても,化膿性関節炎を発症してからの期間,X線写真における大腿骨頭の骨萎縮・融解の程度等に照らすと,従来の抗生物質の静脈注入を継続するとともに,関節の固定,膿の排出,関節内の十分な洗浄を実施していれば,化膿性股関節炎の進行による骨頭壊死によって左下肢5cm以上の短縮が生じなかった蓋然性が高いというべきであるから,他の義務違反と結果との間の因果関係は否定されない。
イ また,被告は,Cについては,精神疾患があったことから,治療についての理解や協力を得にくく,体を動かしたり,チューブを自ら抜いたりする危険性があるなど,チューブを入れた状態で長期間安静を保つことが極めて困難な患者であったと主張する。
確かに,上記1(1)のとおり,Cは,統合失調症に罹り,昭和57年からその治療等のために入院していたが,本件全証拠によっても,Cが,体を動かしたり,関節内洗浄のためのチューブを抜いたりして,治療目的を達成できない状態にあったとまでは認めるに足りない(なお,前記前提事実(3)(別紙医学的知見4(5)イ)のとおり,関節内洗浄や抗生物質の投与は患者が子供の場合にも実施されている。)。
さらに,被告は,患者の全身状態が衰弱した状態でドレナージを行うと,様々な合併症(肺炎,膀胱炎,腎盂炎,褥創の悪化,下肢静脈血栓等)の重症化のおそれがあったほか,チューブの刺入部感染をもたらしたりCの精神状態に影響を与える可能性があったし,持続洗浄ドレナージの手術で大量の出血が生じることが予測され,体力的に非常に困難であったと主張する。
しかし,本件全証拠によっても,ドレナージの実施によって,被告主張の合併症が生じる可能性が高く,Cの精神状態にも悪影響を与えると認めるに足りない。また,持続洗浄ドレナージの手術によって,その治療目的を達成できないほど大量の出血が生じると認めるに足りる的確な証拠はない。
5 被告の責任
以上の次第で,Cに生じた左下肢5cm以上の短縮という身体障害による損害について,被告病院の医師には過失による不法行為が成立し,被告は,使用者責任(民法715条)に基づいて,その賠償をすべき責任を負う。
6 損害
(1) Cに生じた損害
Cには左下肢5cm以上の短縮という後遺障害が生じたのであり,これは,自動車損害賠償保障法施行令別表第2の8級に相当する。この後遺障害に対する慰謝料は800万円をもって相当と認める。
原告は,Cの唯一の相続人であって,Cの被告に対する損害賠償請求権を相続した。
(2) 原告に生じた損害
原告は,固有の慰謝料を主張しているが,被害者の子が自己の権利として慰謝料を請求し得るのは,不法行為によって被害者の生命が害され,又は生命が害された場合に比肩すべき精神上の苦痛を受けたときに限られるというべきであり,本件については原告固有の慰謝料を認めることはできない。
(3) 弁護士費用 50万円
本件訴訟の経過,難易度及び原告が本件訴訟の途中で弁護士を解任していること等一切の事情を勘案すると,本件不法行為と因果関係のある弁護士費用としては50万円をもって相当と認める。
(4) したがって,原告は,被告に対し,850万円の損害賠償請求権を有する。
7 以上の次第で,原告の請求は,被告に対し,850万円及びこれに対する平成11年4月29日(症状固定日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから,その限度で認容し,その余は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。

    東京地方裁判所民事第14部

    裁 判 長 裁 判 官  貝阿彌   誠


          裁 判 官 水 野 有 子


          裁 判 官 堀 内 元 城






















別紙 医学的知見

1 解剖学的知見等(乙B3)
大腸(結腸を含む。)の位置関係は,別紙解剖図のとおりである。
2 急性腹症等
ア 急性腹症(乙B4)
急激な腹痛を主症状とする腹部疾患にして,早急に手術を行う必要がある疾患を総括して急性腹症という。
主な症状は,自発痛(持続痛,仙痛,放散痛など),圧痛,腹壁緊張,鼓腸,腸管硬直,蠕動不穏などである。
急性腹症として取り扱われている主な疾患は,①腹膜炎,虫垂炎,胆嚢炎,膵炎,子宮付属器炎,②胃十二指腸穿孔,胆嚢穿孔,子宮外妊娠,外傷による腸管穿孔,肝腎損傷,③閉塞性イレウス,絞扼性イレウス,腸管膜血栓症,卵巣・S字状結腸の茎捻転などである。
イ G音(証人E)
G音(グルー音)は,腸蠕動の際に聴診できる音である。
3 マグコロール(甲B9ないし11)
(1) 一般名を「クエン酸マグネシウム」といい,商品名を「マグコロール」という。
マグコロールは,塩類下剤であり,循環器系より腸管内に水分を移行させ,腸内容物を膨潤し,腸の蠕動を促進して下痢作用を発現する。そこで,腹部外科手術時における前処置用下剤として,また,大腸検査前における腸管内容物の排除のために使用される。検査予定の10~15時間前に服用する。
(2) 急性腹症,重症硬結便,腎障害の患者については禁忌である。
すなわち,急性腹症が疑われる患者については,激しい腹痛とともに,腹部臓器の損傷・穿孔や急性腹膜炎症状を伴うため,マグコロールの投与による腸管の膨張や蠕動運動促進がこれらの症状を増悪させるおそれがある。また,重症硬結便の患者については,大腸が閉塞しているので,マグコロールの投与による排便効果はなく,腸管内の増大と腸管の蠕動運動により腹部膨満をもたらす結果となる。
(3) 副作用として,腹痛,悪心,嘔吐及び熱感等が生じる場合がある。
4 化膿性関節炎(感染性関節炎)(甲B5,6,8,15,乙A7,乙B1,証人K)
(1) 意義
化膿性関節炎とは,細菌感染による(急性の)関節炎をいい,ぶどう球菌や連鎖球菌等の化膿菌の感染で関節の中が化膿する病気である。
(2) 感染原因
ア 感染は,細菌が関節の中に達する深い大きな傷から直接入ったり,敗血症や猩紅熱などの感染の原因となっている細菌が血流とともに関節内に流れてきたりして起こる。
また,化膿性の骨髄炎が関節に近い部位に起こることが多く,この膿が入るために関節が化膿することもある。ときには,病気の治療のために,関節内に薬を注射したり,針を刺して関節内にたまった液を抜いたり(穿刺)した際に感染することもある。
感染因子は,①直接的侵入(外傷,手術,咬傷,注射),②隣接した感染部から関節への侵入(骨髄炎,軟部組織膿瘍,感染創),③遠隔の関節部位から血流(菌血症)を介して滑液膜組織へ運搬(皮膚,呼吸器,尿管,呼吸器管,尿管又は消化管)に整理することができる。
イ 化膿性股関節炎の場合
特に,化膿性股関節炎の感染経路としては,血行性感染,次いで挫滅創による関節損傷や術中合併症,さらには股関節周辺の軟部組織の感染巣や大腿骨頚部の骨髄炎病巣からの炎症の波及があげられる。股関節は深部に位置するため関節包に到達するような外傷は少なく,また関節腔内注射もあまり行われないため,それらを感染経路とする頻度は膝関節に比べて少ない。また,血行性転移として化膿性関節炎が発症する頻度は,骨盤内臓器や後腹膜の感染巣から起こってくるものが多い。
起炎菌は,一般の骨関節感染症と同様に黄色ブドウ球菌が大半を占めるが,MRSAによるものも増加している。その他,グラム陰性桿菌や嫌気性菌によるものが増加している。
(3) 症状及び病態
ア 関節が,腫れて(腫脹),激しく痛み(急激な疼痛),熱感を持ったり(局所熱感),赤くなったり(発赤)するが,股関節など体の深いところにある関節の場合には,腫れなどの炎症症状が外見からは分かりにくいこともある。動かすと痛みが強くなるため,関節を動かすことができなくなる。
化膿菌や化膿に伴って出現する多核白血球,炎症性肉芽といった病変の破壊力は大きく急速で,関節軟骨を始めとする関節の重要な部分が破壊され,このためにも関節の動きやその他の機能が失われる。
高齢者が発症した場合には,臨床症状が軽微で,早期発見が困難な場合もある。
イ 化膿性股関節炎の場合
典型的なものでは,高熱や悪寒,戦慄などで発症し,間もなく,あるいは同時に,股関節痛と運動制限が出現する。股関節は深部に位置するため局所の発赤や熱感,腫脹などの所見に乏しい。股関節は疼痛のために屈曲外旋位をとる。慢性化して診断されることもあるが,その場合の症候は疼痛と跛行である。
(4) 検査・診断
成人の場合,白血球の増多,多形核白血球の左方偏位を示す場合もあり,CRPの変動は良い指標となる。赤沈値は,急性期には数値の変動を示さない場合が多いが,経過の推移を観察するのに重要である。
化膿性関節炎が疑われる場合,直ちに関節穿刺による関節液検査が必要である。関節液は,塗抹,グラム染色,起炎菌培養及び細胞成分の検索を行う。関節液において,白血球数を50000/mm3 以上認め,そのうち好中球が90%以上確認されれば感染と考える。細菌培養で菌が検出されれば診断は確定する。しかし,細菌培養の陽性率は100%ではなく(50~85%とする文献(乙B1)や70%とする文献(乙B2)がある。),細菌が検出されない場合があることを認識しておかなければならない。
X線所見としては,関節包の拡大,関節内陰影の増加,周囲筋の転位,関節裂隙の拡大が認められる。健側と比較することが重要である。
化膿性股関節炎のX線所見は,発症初期には,限局性又は関節周囲の骨萎縮,それに関節面の朦朧とした破壊像が認められる。炎症が更に進展すると,関節裂隙の狭小化や虫食い状の関節破壊が認められるようになる。MRIは,深部に位置し表面から把握しにくい股関節の状態を調べるのには有用であり,関節液の貯留や滑膜の増生,骨髄の異常信号を認める。
成人では,痛風,擬性痛風などの結晶誘発性関節炎との鑑別を要し,関節液中の結晶成分の検索が重要である。
(5) 治療
ア 抗生物質の静注
感染が疑われると,原因菌を同定する前からすぐに抗生物質(抗生剤)療法を開始する。副木(添え木)や牽引などで関節を固定して全身の安静を保ち,点滴で静脈に抗生物質を注入する。
抗生物質の投与については,培養同定が得られない時点では,第1世代セフェム系耐性ブドウ球菌用ペニシリンを使用する。原因菌が同定されれば,最も有効で安全な抗生物質に切り替える。
ペントシリン,クラフォラン,ビクシリン,パンスポリン,ゲンタシン,セフメタゾンは,いずれも抗生物質(抗生剤)である。
イ ドレナージ・関節内洗浄・抗生物質の関節内注入
関節に損傷を与える膿の蓄積を予防するために,針又はチューブで膿を排出する。
関節鏡視下にて関節内を十分に洗浄し,炎症の沈静化が得られない場合には,切開,病巣掻爬,ポビドンヨード液による関節内洗浄,それに続く閉鎖式持続洗浄を行う。
化膿菌が検出できたときは,少しでも早く化膿菌を殺し,関節内の破壊を最小限に止めるために,関節を切開してチューブを挿入し,洗浄液を常に注入して関節内を洗うとともに,関節内に抗生物質を注入する(股関節の脱臼骨折によって関節胞の断裂があると,関節内への抗生物質の注入は困難になる。)。この治療は子供の場合にも行われる。
治療の開始が遅れたときは,手術をして関節の中を大きく開いて,炎症性肉芽組織などをできるだけ除去した後,洗浄液で関節内を洗い続ける。
ウ 補液等
多くは菌血症や脱水症状など全身状態の悪化を来していることが多く,術前,十分な補液,電解質の補正を行う。
(6) 予後(化膿性股関節炎の場合)
股関節局所の炎症の程度,発症から治療までに要した期間,起炎菌の種類や薬剤耐性の有無,全身状態などが股関節の機能的予後に関与する。
診断,治療が遅れた場合は,炎症が沈静化したとしても,軟骨破壊により変形性関節症が必発し,疼痛や機能障害などの後遺症を残すこととなる。また,線維性,骨性の強直に至ることもある。