H17. 6.30 名古屋地方裁判所 平成15年(ワ)第5296号 損害賠償請求事件(医療)

判示事項の要旨:
突発性難聴の患者に対してステロイド療法が実施されなかった事案において,突発性難聴については確立された治療法がなく,治療法の選択は医師の合理的裁量にゆだねられているとして,ステロイド療法を実施しなかったことに過失はなく,同療法を実施している医療施設への転医義務も認められないなどと判断された事例


平成17年6月30日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官
平成15年(ワ)第5296号 損害賠償請求事件  
口頭弁論終結日 平成17年4月13日
判決
主文
1原告の被告らに対する請求をいずれも棄却する。
2訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告らは,原告に対し,連帯して2200万円及びこれに対する平成14年9月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
原告は,突発性難聴に罹患しA病院(以下「被告病院」という。)に入院し,主治医である被告Bの治療を受けた。本件は,被告B医師が突発性難聴に関する確立された療法であるステロイド療法を行わなかったために高度難聴等の障害が固定した等と主張して,原告が国に対しては不法行為責任(民法715条)又は債務不履行責任に基づき,被告Bに対しては不法行為責任(民法709条)に基づいて,損害賠償及び原告が被告病院に入院した日である平成14年9月4日から支払済みまでの民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案(内金請求)である。なお,本件訴訟の係属中に本件に関する国の権利義務が被告独立行政法人国立病院機構(以下「被告機構」という。)に承継された。
1前提事実
以下の事実は,当事者間に争いがないか,括弧内に摘示する証拠及び弁論の全趣旨によって容易に認めることができる。
(1)原告は,平成14年9月3日(以下「月日」は断らない限り平成14年である。)夜に耳鳴りが始まり,その後耳が聞こえなくなり,続いて激しいめまいと嘔吐に襲われた。
(2)原告は,翌9月4日午前0時24分ころ被告病院に救急搬送され,被告病院に入院し,被告病院との間で診療契約を締結した。原告は,同日,ステロイド剤であるリンデロンの投与を受けた。
(3)原告は,突発性難聴との診断を受け,9月17日に被告病院を退院したが,9月4日を除きステロイド剤の投与を受けていない。また,その間,原告に対し,治療方法の選択肢及び専門施設への転医についての説明はなされていない。
被告Bは被告病院の耳鼻咽喉科の医師であり,原告の主治医である。
(4)原告は,9月18日,C病院に入院し,突発性難聴であるとの診断を受けた(甲A1号証)。C病院では,突発性難聴の患者に対し,ステロイド剤の投与を行っており,また,高圧酸素療法を行っていた。
(5)原告は,平成15年3月3日,D病院に入院し,右突発性難聴に伴うめまい,平衡障害の後遺障害との診断がされた(甲A2号証)。また,原告には複視の障害がある(甲A7,8号証)。
2争点
(1)ステロイド療法等を行わなかった過失の有無
(2)転医義務違反の有無
(3)説明義務違反の有無
(4)予後見込みについての発言についての過失の有無
(5)過失と原告の症状との間の因果関係の有無
(6)損害額
3争点に対する当事者の主張
(1) 争点(1)(ステロイド療法等を行わなかった過失の有無)について
(原告の主張)
ア多くの文献が突発性難聴に対する治療法の第一選択肢としてステロイド療法を挙げ,その治療効果が高いとする報告例も多数存すること,被告B医師は,C病院の医局に所属しておりC病院では突発性難聴に対してステロイド療法を第一選択として行っていたこと等からすると,平成14年9月当時,突発性難聴に対するステロイド療法は医療水準に属する,しかも標準的な治療法であったといえる。
また,C病院では突発性難聴に対して高圧酸素療法を行っていたこと,医学辞典においても突発性難聴に対する治療法として高圧酸素療法が挙げられていることなどの事情に照らせば,高圧酸素療法も突発性難聴に対する治療法として医療水準に属するものであったということができる。
イ被告らは,厚生省が実施した他剤との比較試験で有意差がなかったことを根拠にステロイド療法が確立された療法でない旨の主張をしているが,厚生省研究班の調査結果で,当時,公表されていないデータは,医療水準の構成要素として考慮すべきではない。むしろ,診療当時の時点において,厚生省から正式に公表されていないデータ,すなわち患者が知る由もないデータを病院や医師が勝手に医療水準の構成要素として考慮し実践することは,患者に不意打ちを与えるもので,患者の人格権としての自己決定権を侵害する違法な行為ともいえる。
また,同研究における調査方法に対する問題点も指摘されており,突発性難聴に対する治療薬として使用されている諸種の薬剤間の優劣,差異については,臨床試験で明確に確認されたことはないといって差し支えないのであって,ステロイドが他の薬剤に比して有効でないということはできない。
ウ被告らは「 突発性難聴では自然治癒も多いこと,薬物治療には常に副作用を引き起こす危険性があることから,被告病院では極力副作用の少ない薬剤を投与する方針を採っている。」旨主張しているが,副作用は,①必要十分量を投与し速やかに漸減中止すること,②効果不十分であってもいたずらに投与を継続しないこと,③ホルモンの日内変動を考慮して朝を多めに投与することなどの方法により,その危険を回避・低減させることができるし,また,慎重な経過観察により副作用の予兆の早期発見に努め,迅速な予防・回避措置を講ずることもできる。またステロイドを使用するか否かの判断は,投与による有益性が副作用の危険性を上回ると考えられるかどうかにより決定されるべきものであり,特に突発性難聴(しかも高度難聴)のように時機を逸すると効果を期待することができない疾病の場合には,疾病の新鮮な時機における投与を躊躇すべきではないとされていることからすると,被告らの主張は理由がない。
また,自然治癒例については,医師が患者を治療しないで放置することは医療倫理として許されないことであるから,そもそも自然治癒例というものが本当に存在するのか疑問であり,本当に治療なしに自然治癒したかどうかの検証の方法についても疑問が多いことからすると,この点の被告らの主張も理由がない。
エまた,被告らは,ステロイドの効果機序が不明であると主張するが,ステロイドの効果機序としては,内耳あるいは蝸牛神経において有害な事象が起こった場合に,ステロイドの強力な抗炎症・抗浮腫作用が,その有害事象が不可逆的に進行するのを抑える働きを発揮するものと考えられており,ステロイドの効果機序は不明とはいえない。仮に,その効果機序が完全に明らかになっていないとしても,確立された治療法とは被告らが主張するように効果機序までも確定されている必要はなく,現実に効果を上げているかが最も重視されるべきである。
オ以上のように,ステロイド療法,高圧酸素療法は高度難聴に対する確立された一般的治療法であり,本件ではステロイド療法又はステロイド療法と高圧酸素療法,星状神経節ブロック療法とを組み合わせた療法による治療をなすべきであるが,被告B医師はこれを怠った。
カ被告病院では,9月4日に原告に対しステロイド剤であるリンデロンを投与しながら,これを中止しており,リンデロン投与の無断中止も,原告の聴力の改善可能性を奪った違法な行為として債務不履行又は不法行為となる。
(被告らの主張)
ア科学的知見に基づいた治療という観点から有効性の認められている治療法が存在する場合においては,医師がその治療法を実施しなかったことについて特段の事情のない限り,医師は注意義務に違反したという評価を免れない。しかし,科学的知見に基づいた標準的な治療法が存在しないが,経験等によってある程度有効性が認められた治療法が幾つか存する場合に,そのいずれの治療法を選択するかについては,医師が各治療法のメリット,副作用の程度,頻度等のデメリット,当該患者の病状,既往症,年齢,全身状態等の個別的具体的事情を総合的に考慮し,かつ,医師としての専門的経験的医学的判断に基づいて最も適切な治療法を選択するよりほかはない。そして,その選択については医師の裁量が認められるべきであり,その選択に合理性がある限り,医師の裁量の範囲内であり,注意義務を尽くしたといえる。
イ突発性難聴の原因は確定されておらず,内耳循環障害説,ウィルス感染説が有力であるが,自己免疫病態が関与しているという考えも存する。そして,その治療法に関しても有効な治療法は確立していないとされている。突発性難聴の投薬治療についても,薬剤間で有効性に差がなく,発症から治療開始までの期間の早い方が聴力改善効果がよいかどうかについても統計的には確認されていない。このことは厚生省特定疾患急性高度難聴研究班が実施した多施設臨床試験の結果によって裏付けられている。
ウ被告病院では,原告が治療を受けていた平成14年9月当時,当時の最新の上記臨床試験の結果等を踏まえて,突発性難聴の基本的治療方針を定めていた。その基本方針は,急性期の治療として,まず精神的肉体的な疲労を取り除くために心身の安静を図り,薬物療法については,突発性難聴が多くは片耳にとどまり,自然治癒する例も多いこと,薬物療法をした場合としなかった場合とに差がないとの報告例もあり,突発性難聴自体に致死性はない一方,薬物を投与すれば,思わぬ副作用を引き起こす危険性があることから,極力副作用の少ない薬剤を投与する方針を採り,循環改善薬,末梢神経の回復効果のあるビタミン剤を中心とする治療法を採用していた。突発性難聴の原因が内耳の感覚細胞自体の障害であり,その障害の基になるのは循環障害であるということを考えれば,循環改善薬を最初に選択すべきであるとの判断に基づき,循環の改善を図って自然治癒を促すのが最も適切な治療法であるとの判断から,このような方針が採られたものである。そして,この治療方針は,①上記の厚生省の臨床試験結果という最新の医学的知見を踏まえたものであること,②突発性難聴が内耳の感覚細胞の循環障害が原因であるという
突発性難聴の機序に関する知見にかなったものであること,③医師の治療経験を踏まえた上での判断であり,医師の裁量における判断として合理的なものである。
エ被告病院医師は,被告病院の上記基本的診療方針に沿って,9月4日の入院時から,代謝賦活性剤であり血管拡張作用もあるATP(アデホスコーワ)及び末梢神経障害治療薬であるメチコバールを投与し,聴力改善が見られないことから,9月7日から若干効果の強いパルクスを投与した。
その後も聴力の回復が認められなかったので,9月14日ステロイド投与も検討したが,ステロイドは中等度難聴に限定されているという報告もあり,原告が高度難聴であったことからこれを投与しなかった。
このような原告に対する治療内容は,上記の被告病院の方針に沿ったも
のであり,注意義務違反は認められない。
オ原告が主張するステロイド療法は,かつては広く行われていたが,その効果機序は明らかになっておらず,平成14年9月当時は,その有効性が否定されつつあったのであり,もはや一般的治療法とはいえない状況にあった。
すなわち,(ア)前記のように厚生省の臨床結果によれば,ステロイドも他の薬剤と同様,統計学的に有効性が確認されていないこと,(イ)ステロイドの有効性は中等度難聴に限られ,中等度難聴は現在では突発性難聴の概念からはずされていること,(ウ)他方,突発性難聴の治療法としてステロイド療法を挙げる文献等の中には中等度難聴を含めた治療法として紹介している場合があること,(エ)ステロイド療法の有効性については意見が分かれており,以前は第一選択薬として広く行われていたものの,科学的統計的見地から治療効果を検討する研究が進むにつれてその有効性が否定されつつあったこと,(オ)ステロイド療法が効果があるとの医学的な根拠が明らかでないことからすると,ステロイド療法は平成14年9月当時既に一般的な治療法ではなかったし,ステロイドには多くの副作用がある。
また,原告の主張する高圧酸素療法は,循環機能の改善を目指すものであるが,現在では,理論的にもその有効性は認められておらず,他に治療法がなくなったときに行う程度である。星状神経節ブロック療法は,頚部交感神経節を麻酔薬でブロックしてその支配領域の血流を増加させるものであって,副作用が多く効力はなく,あまり行われていない。そして,ステロイド療法と高圧酸素療法の組合せ,ステロイド療法と星状神経節ブロック療法の組合せは,いずれも全くメカニズムの異なる二つの療法を組み合わせるものであり,理論的とはいえず,他の治療法と比較して有意差はない。
カ原告は,被告病院に搬送された際,夜間当直医から応急措置としてステロイド剤の一種であるリンデロンを投与されたが,翌朝,被告病院耳鼻咽喉科がその治療を引き継ぐと同時にリンデロンの投与を中止したが,オで述べたようにステロイド療法が当時一般的な治療法であったとは認められず,突発性難聴治療の薬剤選択は,医師の裁量によるものであり,被告病院耳鼻咽喉科は上記のとおり,合理的判断に基づきステロイドを使用しない治療法を選択していたものであるから,何ら注意義務違反はない。
キ原告が入院中の9月14日にそれまでの治療で聴力改善が見られないことからE医師がステロイドの使用を提案し,担当医であった被告B医師はその指摘を受けて,先輩医師らに相談したが,副作用の点などを考えて投与しなかった点にも注意義務違反はない。すなわち,上記のようにステロイド療法を実施したとしても症状が改善した可能性は認められないこと,原告の症状が重く改善が難しい症例であったこと,その後C病院において原告にステロイド療法が実施されているが改善されていないこと等からすると注意義務違反はないし,結果との間の相当因果関係もない。
(2)争点(2)(転医義務違反の有無)について
(原告の主張)
原告は,当初から高度難聴であり,その治癒改善にはステロイド療法と併用して高圧酸素療法,星状神経節ブロック療法が必要であったところ,(ア)被告病院には高圧酸素療法の設備がなく,星状神経節ブロック療法の臨床経験もなかったこと,(イ)原告は当時転院に耐えられる健康状態であったこと,(ウ)近辺にC病院があったこと,(エ)同病院は高圧酸素療法や星状神経節ブロック療法につき熟練した経験を有し,同病院で治療を受ければ改善の見込みがあったことからすると,被告B医師には早期に同病院へ転院するように原告に勧告する義務があった。なお,同義務は原告に特有の症状があったから認められる義務ではなく,高度難聴の患者一般について当てはまる義務である。
(被告らの主張)
高圧酸素療法はごく限られた施設で行われている治療法であり,一般的な治療法ではないし,原告のようにめまいを伴う症例では,実施するとしても発症後直ちに行うのではなく,めまいが軽減ないし消失した7ないし14日後に開始すべきであるので,入院直後に,被告病院耳鼻咽喉科から高圧酸素療法施設を有するC病院に転医させるべき義務があったとはいえない。また,被告病院耳鼻科は厚生省特定疾患急性高度難聴研究班に参加しており,難聴(突発性難聴)の臨床に関して,東海地方における有力な専門病院の一つであり,むしろ他の病院や開業医から突発性難聴の患者を紹介され受け入れている施設であるから,突発性難聴の治療に当たる適切な施設である点からしても転医させる義務はない。
(3)争点(3)(説明義務違反の有無)について
(原告の主張)
アステロイド療法等についての説明義務について
医師は,医療水準として一般的に実施されている治療法については,患者が他の代替的治療法について関心を表明したかどうかを問わず,当然のこととして,患者に対して説明する義務を負う。突発性難聴に対するステロイド療法は,(1)に述べたように,従前から突発性難聴に対して第一選択として実施されてきた治療法であって,特に高度難聴に対して有効であることのデータも多くあるので,これについて原告に対する説明を省略することは許されず,これを省略することは人格権としての自己決定権を侵害するものと評価される。すなわち,患者は,病院で治療を受ける際には,診療契約上,第一次的には最も普及している治療法による治療を受けることを期待する権利があるというべきであるから,当該患者に対して最も普及している治療方法を選択しないで,別の治療方法を施行する場合には,当該患者に対して,最も普及している治療方法とその病院でこれから当該患者に対して実施しようとしている治療方法の各内容及び各治療方法の利害得失,最も普及している治療方法を排除して別の治療方法を選択する理由などについて分かりやすく説明した上で,患者の同意と承諾のもとに治療を施行すべき注意義務があるというべ
きである。
高圧酸素療法も(1)で述べたように,医療水準に属する治療法といえるが,特殊な施設が必要なため,どこの医療機関でもできるという治療法ではないから,標準的治療法とはいえないとしても,被告B医師が所属するC病院で以前から行われており,特に高度難聴に対して有効であるとのデータもあり,被告B医師は,C病院のF教授とも面識があって,その知見を保有していた,もしくは容易に保有し得たはずであるから,被告B医師には近隣のC病院で実施されている高圧酸素療法が存すること,その利害得失などの説明をすべき義務があったというべきである。
それにもかかわらず,被告病院医師は,これらの説明をしなかっただけでなく,そもそも処置及び治療の指針すら説明することもなかった。
被告らは,患者のクオリティ・オブ・ライフを左右しない選択肢については説明義務がないとも主張するが,患者にとって症状が改善するか否かは重要なことであり,クオリティ・オブ・ライフに影響するものといえるし,患者の自己決定権が最も確保されなければならない分野である 。
イリンデロンの投与及び投与中止時における説明義務について
被告病院では9月4日にリンデロンを原告に投与しているが,その投与の際及びこの投与を中止する際に,リンデロンがステロイド剤であること,その薬理作用,効果,副作用,投与目的,投与方法,投与量,予後及び代替治療について説明すべきであるのに,被告病院医師はこれを怠った。
医師が患者に対して医療水準に属する標準的治療法を開始した場合には,その治療法を中止するかどうかも,患者の人格権に属する自己決定権にかかわるから,その治療を中止するには必ず患者の承諾を要するというべきであって,患者に無断で中止することは患者の自己決定権を侵害する違法な措置である。
(被告らの主張)
アステロイド療法等についての説明義務について
(1)で述べたようにステロイド療法ないしステロイド療法と高圧酸素療法の組合せ等が有効な確立した治療法であったとは認められないし,高圧酸素療法が高度難聴治療において必須のものとは到底いえないから,原告の主張は前提を欠くものである。
この点をおくとしても,医師の説明義務の範囲は,医師がその裁量により行おうとしている治療法の概要,副作用,注意事項,その予後見込み等が中心であるべきであり,医師が実施することを予定していない他の治療法については原則として説明義務の対象とはならない。突発性難聴における標準的治療方法は存在せず,ある程度有効な方法がいくつか存するにすぎない。そして,これらのうちどの方法を選択するかは,患者の病状,年齢等を総合的に考慮し,医師が自らの経験に基づいてその裁量によって決定すべき事項であり,原告が主張するような事項を患者に説明しその自己決定権にゆだねる義務はない。仮に原告のようにこれを患者にゆだねるとした場合,患者は何を基準に判断すべきか苦慮することになり,かえって治療が混乱することになりかねないからである。
医師に説明義務が生じるのは,通院になるか入院になるか,手術を受けるかといった患者のクオリティ・オブ・ライフを左右する選択肢がある場合や,患者が特に他の治療法について関心を有しており説明の希望を表明した場合だけであり,本件ではそういった状況にもないし,原告から説明を求められてもいない。
原告は,治療内容について何ら説明を受けなかったと主張するが,被告B医師は,上記の説明義務の対象となる事項についてはこれを説明している。
イリンデロンの投与及び投与中止時における説明義務について
原告が9月4日午前0時24分ころ被告病院に搬送された際,耳鼻科専門医でない夜間救急外来担当の医師が,めまい,耳鳴りといった原告の症状から(この症状だけでは突発性難聴以外のメニエル病などの可能性もあり,専門医でなければ診断は難しい。) ,朝には耳鼻科専門医による診察治療を受けることを前提に,それまでの間の応急措置として,このような症状の耳鼻科疾患に使われる薬として挙げられているリンデロンを投与したにすぎない。したがって,この段階では突発性難聴の治療としての投薬を始めたとはいえない。そして,9月4日朝になり被告B医師が診察し聴力検査をした結果,突発性難聴であるとの診断ができたのであり,突発性難聴の治療を開始することとし,投薬内容を変更した。
したがって,リンデロン投薬開始時の説明,投薬中止の説明をしていたとすれば,開始時には「今は,耳鼻科の医師がいないので,病名がはっきりしませんから,とりあえずめまいや耳鳴りのお薬を入れておきます。」との説明,中止時には「突発性難聴だと診断がつきましたので,救急外来で入れたお薬は中止して,突発性難聴の治療のお薬にします。」との説明になったであろう。そのような説明を怠ったからといって患者の自己決定権や法益侵害を生じたとはいえないし,以上の説明を受けても突発性難聴治療としてのステロイド療法の存在を知り得たともいえない。
(4) 争点(4)(予後見込みについての発言に関する過失の有無)について
(原告の主張)
ア突発性難聴の患者は発症前に精神的・肉体的ストレスを感じていることが多いので,突発性難聴に対する治療の基本として患者の心身の安静を図り,ストレスから解放することが重要とされている。
イしかるに,被告B医師は,入院当日の9月4日午前に原告に対し,「年齢的なこともあるし,状態が重いので,治るのは難しい。」と告知して,原告に大きな不安と絶望感を与えた。また,被告B医師は,9月11日又は同月12日に原告に対し退院勧告した際にも,同様の配慮に欠けた予後見込みの告知をして再度,絶望感を与え,不安とストレスをもたらした。
ウ被告らは,予後の告知は医師としての正当な行為であると主張するが,突発性難聴のように,患者に心身の安静を確保し,ストレスを与えないようにすることが治療上の重要な内容として含まれている症例においては,予後が確定する前,特に症状の改善可能性が否定できない治療初期においては,悲観的な予後の告知は差し控えるべき注意義務があるというべきである。しかも,原告の年齢層が他の年齢層に比べて予後が悪いという明確な証拠がないのにもかかわらず,被告B医師が原告の年齢を強調して悲観的な予後を告知したのは統計的根拠に基づかないものであって,その点でも違法性が高い。
(被告らの主張)
ア被告B医師は,原告から質問を受け,原告に対し,症状と今後の見通しについて,難聴の程度がひどく,発症後すぐ治療を開始しても元どおりに治らない可能性が高いと説明した。
イ聴力障害については,全く改善しない場合もあり,予後不良の原因としては,一般的に,①発症後2週間以上を経過した症例,②発症後の平均聴力レベルが90デシベル以上の高度難聴例,③回転性めまいを伴う症例,④高齢者などが定説となっている。原告については,受診当初より②③の症状が明らかであり,特に発症直後③の症状がある場合の予後は悪いとされている。
ウ現在の症状,予想しうる症状の経過,予後について患者に的確に伝えることは医師の説明義務の重要な内容であるところ,上記の説明内容は正確であり,またその説明方法等にも不適切な点はなかった。
(5)争点(5)(過失と原告の症状との間の因果関係の有無)について
(原告の主張)
被告病院医師が上記(1)ないし(4)の注意義務に違反したため,(ア)原告の右耳が全く聞こえない(高度の難聴),(イ)突発性難聴による平衡機能障害及び複視という障害が固定した。複視についても,突発性難聴の発症以前に原告には複視の持病がなかったことからすると,突発性難聴に随伴する平衡障害と関連するものと考えられる。同各障害は自動車損害賠償保障法施行令2条別表第2の第9級に相当する。
なお,説明義務違反の主張と上記障害との因果関係については,説明義務を尽くせばステロイド療法を行っている医療機関において適正な治療を受けることができ治癒に至った高度の蓋然性があるから,説明義務違反との間にも相当因果関係がある。また,原告の予後に関する不用意な発言によって精神的ショックを受けたことによって難聴の改善可能性が減じたので上記障害との間に相当因果関係がある。
(被告らの主張)
原告の主張は争う。
適正な治療をしても高度難聴の完全治癒は困難である。
(6)争点(6)(損害額)について
(原告の主張)
ア後遺障害慰謝料 680万円
被告病院の過失と原告の障害との間の相当因果関係が認められない場合にも,自己決定権侵害,予後説明に関する精神的損害に対する慰謝料として同額を請求する。
イ逸失利益 1579万6605円
原告は上記障害によってその労働能力の35パーセントを喪失した。その逸失利益は,次の計算式のとおり1579万6605円を下らない。
計算式 386万1000円(平成13年の49歳女子労働者の平均年収)×0.35(労働能力喪失割合)×11.6895(就労可能年数18年に対応するライプニッツ係数)=1579万6605円 
ウよって,原告の損害は2259万6605円を下らないが,その一部として2200万円の支払を求める。
(被告らの主張)
原告の主張は争う。
第3裁判所の判断
1認定事実
甲A1ないし8号証,甲B1ないし27号証,乙A1ないし9号証,10号証の1ないし20,11ないし17号証,乙B1ないし9号証,10号証の1及び2,証人Gの証言,原告本人尋問の結果(後記採用できない部分を除く),被告Bの本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると,次の各事実が認められる。
(1)突発性難聴の病態
突発性難聴とは,生来健康で耳の病気をしたことのない人が明らかな原因もなく,あるとき突然に通常片側の耳が聞こえなくなる病気であり,厚生労働省が指定する難病の一つである。
その主症状は,①突然の難聴(文字どおり即時的な難聴又は朝目が覚めて気づくような難聴),②高度の感音難聴,③原因が不明又は不確実であること(音響外傷とか外部外傷とかの明らかな外因や,中耳炎,糖尿病等の原因となり得る疾患がないこと)とされ,副症状として,難聴の発生と前後して,耳鳴りやめまい,吐き気,嘔吐を生ずることがあるとされている。そして,これらの主症状と副症状のすべてを満たすものは,確実な突発性難聴と診断される。
突発性難聴は片耳だけに生じることが多く,めまいは約半数の患者に認められる。聴力の改善.悪化を繰り返さないのが特徴的であり,また,耳以外の神経症状(四肢の麻痺や意識障害など)が認められないのも特徴である。(乙B1号証,乙B2号証,乙B3号証850頁)
(2)突発性難聴の原因等についての医学的知見
ア突発性難聴の原因は現在も明確になっていない(甲B22号証54頁,乙B1号証,乙B2号証,乙B3号証849頁)。
H大学医学部I教授は,後記(4)の厚生省の実施した臨床研究の結果を踏まえて「エビデンスに基づいた突発性難聴の治療」という論文(乙B3号証)を発表したが,I教授は,突発性難聴の原因について次のように指摘している(同849,850頁)。突発性難聴の原因として,蝸牛循環障害やウィルス性内耳炎が提唱されてから久しいが,いまだにその原因は明らかではなく,その診断法も原因の明確な急性感音難聴を除く除外診断が基本となっている。確かに,突発性難聴と類似した症状を呈する突発性外リンパ瘻や一部の自己免疫難聴などが新しい疾患概念として突発性難聴から独立するようになったが,突発性難聴自体の病態に関しては30年来同様の仮説が提唱されているのが現状であり,様々な疾患の病態が遺伝子レベルで解明されている現在も,突発性難聴に関してはこれらの仮説から脱却できるような新しい知見は得られていない。・・・・・これまでの臨床的,基礎的研究によりいくつかの病因が考えられており,現時点では,循環障害とウイルス感染が最も有力な病因として支持されている。・・・・・最近の疫学調査でも,突発性難聴の罹患率が西洋式食事習慣やアルコール摂取,睡眠時間などに影響されること
が示されており,循環障害が突発性難聴の発症に関係していることは異論がない。しかし,突発性難聴の多くは循環障害を生じるような背景因子のない健康者であり,また高齢者のみならず20~30歳台の若年者にも多いことから血栓,塞栓,出血などを主病因と考えるには問題がある。突発性難聴が働き盛りの中年層に多くみられることから,ストレスや過労などの心身的背景により血管攣縮やスラッジが生じるとする説は説得力があるが,突発性難聴の多くが再発しないという事実を説明するには難がある。一方,ムンプス(お多福風邪)で一側の高度難聴をきたすことはよく知られており,突発性難聴発症時に感冒に罹患していた症例も多いことからウイルス感染説も有力である。実際に突発性難聴の約7パーセントはムンプスの不顕性感染であるとする報告もある。しかし,突発性難聴は不完全であっても可逆性であることが多く,ムンプス難聴のように高度で不可逆的な障害とは一致しない。実際に突発性難聴の多くでは原因となるウイルスを特定するまでには至っていないのが現状である。また,突発性難聴に自己免疫的な病態が関与しているとする考えもいまだ少なくない。
イ突発性難聴の予後については,厚生省特定疾患調査研究班の中の難病の疫学研究班の1993年の調査では,突発性難聴の患者は年間で約2万4000名と推定されているが,そのうちおよそ3分の1は完治し,3分の1は回復するが,3分の1は治らないとされている(乙B1号証2頁)。また,特に発症時の平均聴力レベルが90デシベル以上の高度難聴例,回転性めまいを伴う症例,高齢者などが予後不良とされている(甲B18号証83頁,乙B1号証3枚目,乙B2号証1362頁)。
ウ突発性難聴には自然治癒例があることが報告されており,「治療を受けなかった28例のうち10例が自然治癒した」「妊娠中などの理由で薬物治療が受けられなかった118例中38例が自然治癒したこと,薬物治療を行った症例と比較して聴力回復に明らかな差はなかった。」「63例の突発性難聴の自然経過を観察し,89パーセントが何らかの聴力改善を示し,68パーセントが完全治癒した。改善率は若年ほど高い。」旨の報告例がある(乙B3号証851頁)。
(3)突発性難聴の治療法等について
この点に関する文献の記載は,次のとおりである。
ア「救急診療のすべて」(甲B1号証)には,「突発性難聴の治療原則は安静とステロイド治療である,耳鼻咽喉科受診を勧める。」旨の記載がある(203頁)。
イチャート医師国家試験対策「耳鼻咽喉科」(甲B2号証)には,「突発性難聴に対する治療として安静とステロイド,ビタミン剤,血流改善薬などの内服」との記載がある(62頁)。
ウ「今日の診療プレミアム・急性感音難聴」(甲B5号証)には,「突発性難聴についてはウイルス感染,循環障害などが原因として想定され,種々の治療法が行われているが,真の治療法は確立していない。内服療法として,血管拡張を目的とした薬剤としては血管拡張薬,血栓により内耳循環障害が生じていると考えられる場合には抗凝固薬が用いられる。代謝賦活薬や向神経ビタミン製剤も併用されることが多い。ウイルス感染による難聴発症を念頭において,副腎皮質ステロイド薬が広く用いられる。免疫的な作用機序や循環障害で生じる活性酸素を抑圧するなどの循環系に対する機序も想定されている。」旨の記載がある。
エ「今日の診療プレミアム・突発性難聴」(甲B6号証)には,「抗ウイルス薬が有効という報告があるが,今後のエビデンス情報に注目しておくべきであろう。原因不明の疾患で薬剤の添付文書で適応と認められた薬剤がない。したがって,適応外で処方せざるを得ない。しかし,経験的に効果のある治療法がある。通常はよいといわれている治療を複数組み合わせて治療する。」旨の記載がある。
オ「今日の診療プレミアム・突発性難聴」(甲B7号証)には,「薬物療法としてステロイドが主に用いられる。そのほかに,低分子デキストラン,プロスタグランディンE1,ビタミンB12,代謝改善剤などが用いられている。」旨の記載がある。
カ大阪労災病院耳鼻咽喉科ホームページ(甲B8号証)には,「原則として入院してもらってステロイドなどを点滴し,星状神経節ブロックを行ってさらに高気圧酸素療法をもあわせて行う。場合によってはデフィブラーゼ療法も併用する。」旨の記載がある。
キ東京慈恵会医科大学ホームページ(甲B9号証)には,「循環改善剤やステロイド投与などの治療を行っている。」旨の記載がある。
ク日本赤十字社医療センターホームページ(甲B10号証)には,「ステロイド剤の投与と麻酔薬による星状神経節ブロックを行う。」旨の記載がある。
ケ館林厚生病院のホームページ(甲B11号証)には,「ステロイド大量療法,プロスタグランジン療法,高圧酸素療法,星状神経節ブロックを麻酔と共同で行っている。」旨の記載がある。
コ川崎病院ホームページ(甲B12号証)には,「ステロイドや循環改善剤,ビタミン剤などの点滴治療を行う。」旨の記載がある。
サ埼玉医科大学ホームページ(甲B13号証)には,「治療としてステロイド剤の点滴あるいは内服治療,ビタミンB12,ATP,循環改善剤,プロスタグランジン製剤などの投与,高圧酸素療法,さらに星状神経節ブロックなどがある。」旨の記載がある。
シ医療法人財団神尾記念病院のホームページ(甲B14号証)には,「混合ガス療法を行っている。患者さんによっては内耳性難聴に有効といわれているステロイドホルモン剤や神経賦活剤などの薬物の点滴を同時に行う場合がある。耳鳴りがある場合にはマスカー治療も併せて行う。」旨の記載がある。
スJ医学部F教授の著作に係る「突発性難聴に対する正しい取り扱い」(甲B18号証)には,「我が国における主な治療について,新しい治療を含めてとりあげてみると,血管拡張剤,ATP,ビタミンB群,SGB,ステロイド,ウロキナーゼなどの方法が比較的以前より行われ,昭和47~49年ころより,ウログラフィン,極超短波療法,高気圧酸素治療法がとりあげられ,それぞれの症例に対する適応や使用法が報告され,また追試も行われてきた。これらの多くは,なお現在も使用されており,薬剤は大量使用の傾向にある。その後もL―V療法(ループ利尿剤+ビタミン,ATP),Ca拮抗剤,脱線維素原療法のBatrox-obin(DF),プロスタグランディンE1(PGE1)などの治療法が発表され,報告者によっては好成績であったと述べている。以上が,現在に至るまでの主な治療法であるが,ビタミンB,ATP,血管拡張剤,ステロイドなどについては,以前より現在に至るまで広く使用されている。」(62~64頁)「Iにおいては,ステロイドは主として高度の難聴に第一選択として適応し,漸減法にて発症後3週間以内で終了する。HBO(OHP)は巨大な高気圧治療室を使用し2絶対気圧(ATA),
60分を1回の治療として10~14回を1クールとしている。他の治療で効果のない高度難聴に,またscale out症例には最初から併用することが多い。」(69頁)「ステロイドの作用機序としては個体レベルでは抗炎症,抗免疫,抗アレルギー,水分・電解質代謝,糖質・蛋白質・脂質代謝,細胞レベルではDNA合成抑制,リソソームの安定化,膜の透過性の変化が考えられているが,なお十分明らかではない。ステロイド治療に関して神崎のアンケート調査(1988年)では内服静注いずれにおいても,極めて多くの人が使用すると答えており,薬剤はプレドニゾロン,デカドロン,リンデロン,ハイドロコーチゾンが多く使用されている。ステロイドの効果に関する報告は,現在まで多くみられているが,その評価は早期より積極的に使用する方がよいとするもの,早期には抑制的に働くので使用せず発症後5~7日を過ぎてから積極的に使用すべきであるとするもの,一方ステロイドは効果がないとする報告もみられるようになり,その評価はまちまちである。」(71~73頁)旨の記載がある。
セ「めまい・難聴・耳鳴」(K教授L著)(甲B19号証)には,「プレドニゾロン,ビタミン剤(VB12製剤が主),ATPなどを用いている。」旨の記載がある(170頁)。
ソ難病情報センター作成のホームページ(乙B1号証)には,「突発性難聴に対しては様々な治療法が検討されているが,どのような治療法が最も有効であるかは未だ明らかではない。(a)内耳循環障害改善を目的とする治療としては,血管拡張を目的とした薬剤として血管拡張剤が用いられる。また,血栓により内耳循環障害が生じていると考えられる場合には抗凝固剤が用いられる。代謝賦活剤や向神経ビタミン製剤が使用されることもある。?ウイルス性内耳障害改善を目的とする治療としては,ウイルス感染に対してはステロイド剤が広く用いられる。ステロイド剤の持つ強力な抗炎症作用がウイルス性内耳炎を軽快させると考えられるが,免疫的な作用機序や循環障害で生じる活性酸素を抑制するなどの循環系に対する機序も関与している。」旨の記載(3頁)がある。
タI教授は,前記論文(乙B3号証)において,「突発性難聴における科学的裏付けを持った証拠(エビデンス)に基づいた医療を考えると,最も重要な問題は突発性難聴が原因不明な症候群的要素の強い疾患であり,かつ有効な治療法が確立していないということである。」,「情報化社会の今日,突発性難聴の治療法に関しても一般に多くの情報が氾濫しており,第一線で突発性難聴の医療に携わる医療者も,治療を受ける患者も混乱しているのが実情である。」旨指摘している(858頁)。また,上記論文は各薬物療法について,「ステロイド薬は,突発性難聴に対して従来第一選択薬として用いられていたもので,ステロイド薬が有する強力な抗炎症,抗免疫作用による効果が期待され,さらに細胞レベルでは抗酸化作用や細胞保護作用が治療効果を発揮すると考えられる。しかし,突発性難聴をウイルス性内耳炎と考える場合は,発症早期から大量のステロイド薬を投与することによる免疫抑制が逆効果になる可能性も考えなければならない。ウイルソンらによる研究の結果,ステロイド薬の有効性が証明されたが,その有効性は中等度難聴症例に限定されていた。」,「循環改善薬については,古くから内耳の微少循環改善
を目的として様々な循環改善薬が突発性難聴の治療に用いられている。」旨を指摘している(852~854頁)。
チI教授は,「耳鼻咽喉科薬物療法マニュアル」(甲B22号証)において,「突発性難聴が原因の明らかな疾患を除外して診断される症候群であることは,その診療方針を考えるうえで極めて重要である。言い換えると原因の明確でない突発性難聴ではエビデンスに基づいた根本的治療方針は確立されていないともいえる。しかし,これまでの臨床的観察より突発性難聴の発症には感冒や肉体的疲労,精神的ストレスなどが関与していることは明確であり,急性期の治療として安静が重要であることに異論はない。安静のみで内耳循環障害はある程度改善すると考えられ,難聴の程度にもよるが,できれば入院治療が望ましい。治療としては現時点では内耳循環障害とウイルス性内耳炎を想定したカクテル療法を行うのが一般的である。突発性難聴に用いる薬剤は大きく①循環改善薬,②抗炎症薬,抗ウイルス薬,③細胞代謝賦活薬,細胞保護薬の3群に分類される。」旨述べている(196~198頁)。
(4)厚生省の調査
平成6年度の厚生省特定疾患急性高度難聴研究班では,主として我が国で突発性難聴の治療に用いられてきた薬剤の有効性を検証する目的で,各薬剤を単独投与することによりおのおのの突発性難聴に対する有効性を多施設臨床試験として比較検討した(以下「本件厚生省研究」という。)。
検討の対象となった薬剤は,adenosin3phosphate(ATP),betamethasone(BM),hydrocortisone(HC),prosta-cyclin(PGI2),alprostasil(PGE1),amidotrizoate(AT)であり,それぞれが単剤で投与された。うちATPは後記(5)の商品名アデホスコーワに当たり代謝賦活剤,PGE1は後記(5)のパルクスに当たり血管拡張剤であって,BM,HCはステロイド剤であり,それぞれが単剤投与された(乙B3号証856頁,5号証7,10頁)。
平成13年4月をもって本件厚生省研究に対する症例の登録を終了した。本臨床試験では,突発性難聴新鮮例に対する単剤治療効果を6つの薬剤間で検討したが,単剤治療終了時及び聴力固定時の聴力改善に各薬剤間で有意の差は認められないとされた。ただし,本研究の結果を検討するに当たっては,①薬剤を各施設に振り分ける際に,途中で施設間での調整を行う作業をしたことで,完全な封筒式の形式になっておらず,各施設間でのバイアスを生じさせた可能性があり,②結果的に目標症例に達することができず,各薬剤投与群間で対象者数に偏りが生じたこと,③単剤治療終了後の治療法については規定を設けなかったことから,各施設で様々な治療が施行されており,聴力固定時の聴力に単剤治療がどの程度影響したかが判定できないこと,④単剤の中に内服薬と注射薬が混在することから,治療中の安静度に違いが生じた可能性があること(少なくとも点滴施行中は安静が保てる。)や,内服薬がきちんと指示どおり服用できたかどうかの確認ができていないこと等の問題が指摘されており,上記検討結果の解釈にはこれらの条件下で得られた結果であることを念頭に入れる必要があるとの指摘がなされている(乙B3号証8
56~858頁)。
本件厚生省研究の結果は英語の論文でまとめられ,平成15年に公表されたが,被告病院の耳鼻科医長であったG医師は共同執筆者という立場にあったことから,平成14年9月以前にその内容を知っていた(G調書6~8頁)。
(5)被告病院の突発性難聴に対する基本的診療方針
被告病院耳鼻咽喉科は,本件厚生省研究において研究協力機関として参加しており,また他院から突発性難聴の患者を多数紹介され,これを受け入れていた。同耳鼻咽喉科では,G医師を中心に突発性難聴に対する基本的な治療方針を決めるにあたって,突発性難聴の原因は明らかではないものの,睡眠時間,過労,心理的ストレスが発症に影響していると考えられていることから,急性期の治療として,まず精神的肉体的な疲労を取り除くために心身の安静を図ることとした。薬物療法については,突発性難聴が多くは片耳にとどまり,自然治癒する例も多いこと,薬物療法をした場合としなかった場合とに差がないとの報告例もあり,突発性難聴自体に致死性はない一方,薬物を投与すれば,投与された薬物は疾患のある片耳だけでなく,全身を循環する以上,思わぬ副作用を引き起こす危険性があることから,突発性難聴の治療では,重篤な副作用を生じる治療方法は適切ではないとの立場に立ち,副作用を極力避ける方針を採っていた。
ステロイド剤については,強力な抗炎症,抗免疫作用による効果などが期待されるが,突発性難聴に対する効果機序が明らかになっていないという立場から,発症早期から大量のステロイド剤を投与することによる免疫抑制が逆効果になるという可能性があり,実際にG医師において糖尿病等の疾患が潜んでいた場合にそれが発症するというような副作用が出現した経験もあったことから基本的に採用すべきでないとの考えに立っていた。そして,突発性難聴の薬物療法は,飽くまで自然治癒を促進するためのものとの考えに立ち,突発性難聴が何らかの循環障害が原因であると考えられており,循環を改善する薬剤がしばしば有効であると報告されていることから,循環障害の改善,細胞の代謝促進を図るため,血管拡張剤,代謝賦活剤等の薬剤を使用するとの基本方針を採っていた。具体的には,代謝賦活剤であり,血管拡張作用もあるATP(一般名アデノシン3リン酸2ナトリウム。商品名アデホスコーワ),末梢性神経障害治療薬であるメチコバール(一般名メコバラミン)など,いずれも副作用の少ない薬剤を投与し,原則として1週間これらを投与して効果が現れない場合には,やや効果の強い血管拡張作用もあるパルクス
(一般名アルプロスタジルalprostasil)を併せ投与することとしていた。そして,上記基本方針の採用に当たっては,本件厚生省研究の報告も参考に入れられていた。(乙A16号証1,2頁,G証人の証言,被告Bの本人尋問の結果)
(6) 治療内容及び原告の症状の推移
ア原告は,9月4日0時24分,被告病院に救急搬送された。宿直医は眼科レジデントのM医師,臨床研修医のN医師及び内科当直のO医師であった(乙A1号証の4,13頁,乙A16号証3頁)。
なお,原告は,入院当時の担当医が被告B医師であった旨供述するが(同調書3頁),上記各証拠に照らし採用できない。
原告は,身体的,一般的所見では聴力のほかには特段の異常は認められなかった。また,頭部CT検査,血液検査を実施したが,血液検査において一部(ナトリウム,カリウム,クロール,白血球数)に若干の異常値が認められたが,特段の異常は認められなかった(乙A1号証6,12頁)。
イ同日1時05分ころ,静脈注射(プリンペラン1A,メイロン20ml),点滴注射(ソリタT3を500ml,メイロン30ml)が投与されたが,回転性のめまい,嘔吐が生じた。 同日2時ころ,上記点滴注射にメチコバール0.5㎎,パルクス10μg,ステロイド剤であるリンデロン4㎎を混入し,継続投与された(乙A1号証5,6頁)。
ウ原告は,同日2時40分ころ,被告病院に入院したが,入院時に体動にて回転性のめまい,軽度の耳鳴りがあった。原告に対し,ラクテック500ml,プリンペラン1Aの点滴(以下「点滴注射①」という。)がなされた(乙A1号証6頁,乙A2号証2,16,24頁)。
エ同日午前中に,被告病院の耳鼻咽喉科の医師であり原告の主治医である被告B医師が原告を診察し,標準純音聴力検査を実施し,その結果等から右突発性難聴と診断した。そして,点滴注射としてソリタT3を500ml(以下「点滴注射②」という。)及びソリタT3を200ml・アデホスコーワ120㎎,メチコバール1V(以下「点滴注射<A>」という。)がされた。また,内服薬としてアデホスコーワ(60㎎)1日当たり3錠,メチコバール(500㎎)1日当たり3錠,カルナクリン(50㎎)1日当たり3錠の内服を指示した。被告B医師は,原告に対し,治療方針の説明をした。その説明内容は安静を保つため入院の必要があり,点滴と内服薬を使用すること,神経の代謝をよくする薬を用いる等のものである(乙A2号証4,16,17,24頁,被告B調書4頁)。
なお,原告は,この点について,診療方針の説明は退院時まで一切なかった旨供述するが(同調書4頁)上記各証拠に照らし採用できない。
オ原告は,同日,看護師に対し,頭を右側に向けるとめまいが出るため,上か左側しか向けられないと訴えた(乙A2号証17頁)。
カ9月5日,点滴注射①,②,<A>及び内服薬の服用にて経過観察とされた(乙A2号証17,24頁)。
キ9月6日,点滴注射①,②を中止し,点滴注射<A>のみ実施し,内服薬服用にて経過観察とされた(乙A2号証17,18,24頁)。
ク9月7日,点滴注射<A>にパクルス10μgを追加し(以下「点滴注射<A>’」という。),内服薬服用にて経過観察とされた(乙A2号証18,25頁)。
ケ9月8日ないし10日にかけて,点滴注射<A>’及び内服薬服用にて経過観察とされた(乙A2号証18,19,25頁)。
9月10日,原告は診察の際,ふわふわ感,耳閉感,難聴はまだ持続しており,時々耳鳴りがあると訴えた(乙A2号証の19,25頁)。
コ9月11日,点滴注射<A>’及び内服薬服用にて経過観察とされた。同日,原告は診察の際,右下頭位で落下感(ジェットコースターで落ちていく感じ)があり,耳鳴りは右下頭位にて増悪する等と訴えた(乙A2号証19,20,26頁)。
サ9月12日,点滴注射<A>’及び内服薬服用がなされた。同日,被告B医師が標準純音聴力検査を行い,原告を診察したところ,原告はまた浮遊感はあるが,昨日よりも軽減していると述べた。この際,被告B医師は,回復の見込みは薄い旨を説明した(乙A2号証の20,26頁)。
シ9月13日,点滴注射<A>’及び内服薬服用で経過観察となった(乙A2号証20,26頁)。
ス9月14日,点滴注射<A>’が点滴注射<A>に変更投与され,内服薬服用で経過観察となった。同日標準純音聴力検査(PTA)の結果,右聴力の改善は見られなかった。
E医師は,ステロイドの使用を被告B医師に提案した。被告B医師は,他の先輩の医師と相談した結果,副作用の点を考えて投与する必要はないと判断した。(乙A2号証21,27頁,被告B本人調書6頁)
セ9月15日及び9月16日には,点滴注射<A>及び内服薬服用で経過観察となった(乙A2号証21,22,27頁)。
ソ9月17日,点滴注射<A>が施行された後,原告は被告病院を退院した。退院に際して入院期間中に服用していた内服薬(アデホスコーワ(60㎎),メチコバール(500㎎),カルナクリン(50㎎)が1週間分処方された(乙A2号証5,7,22,27頁)。
タ上記治療によっても原告の聴力の改善はみられず,右高度難聴が現在も継続している。
2争点(1)(ステロイド療法等を行わなかった過失の有無)についての判断
(1)上記認定事実(特に1(2),(3)のウ,エ,ス,ソ,タ,チ)によれば,突発性難聴の原因は確定されておらず,その治療法も確立していないと認められる(I教授が指摘するように(1(3)チ),原因が不明である以上,治療法が確立しないのは当然ともいい得る)。
この点について,原告は,ステロイド療法が標準的治療法として確立している旨主張しているところ,確かに,原告が指摘する多くの文献等にステロイド療法が記載されていることは認められるが,他方,多くの文献がステロイド療法と並んで循環改善剤,代謝賦活剤等を挙げ,薬物療法としてステロイド剤の投与だけを限定的に述べている文献や循環改善薬,代謝賦活剤の投与等に積極的に否定的見解を述べている文献も見当たらない。そして,前記認定事実(特に1(3)ウ,ソ,チ)によれば,ステロイド剤が突発性難聴の原因についてのウイルス説に対応するものであり,循環改善薬を中心とする療法が循環障害説に対応するものであることからすると,ステロイド剤の投与の方が多くの文献において挙げられていることが,ステロイド剤が主位的であり,循環改善薬が副次的なものであることを意味すると認めることもできない(全国の病院でステロイド療法を中心とする療法と循環改善薬を中心とする療法のいずれが多いかという問題としてとらえるべきではない。)
このように,確立された治療法が存在しないが,ある程度有効性が認められた治療法が幾つか存する場合に,そのいずれの治療法を選択するかについては,医師が当該疾病の原因についてどのように考えるのかという問題のほか,各治療法のメリット,副作用の程度,頻度等のデメリット,当該患者の病状,既往症,年齢,全身状態等の個別的具体的事情を総合的に考慮し,医師としての専門的判断に基づいて最も適切と考える治療法を選択するよりほかはない。そして,このような判断過程を経た選択については,その選択に合理性がある限り,医師の裁量の範囲内であり,注意義務を尽くしたといえるとするのが相当である。
(2)被告病院では,原告が治療を受けていた平成14年9月当時,当時の最新の本件厚生省研究の結果をも踏まえて,突発性難聴の基本的治療方針を定めたものであり,その基本方針は,突発性難聴の原因が内耳の感覚細胞自体の障害でありその障害の基になるのは循環障害であるという医学的知見に従ったものであると認められる。そして,この治療方針は,本件厚生省研究という最新の医学的

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最終更新:2005年08月05日 11:33
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