hanrei @Wiki H18. 1.26 名古屋地方裁判所 平成14年(ワ)第5603号 損害賠償請求事件



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 被告病院の薬剤師が,原告らの被相続人(患者)に対し誤って血糖降下剤を渡したためにこれを服用した患者が低血糖症により重い意識障害を起こし,また,その約1年11か月後に同病院に入院した患者が同病院内で4回の転倒事故を起こし,その後肺炎により死亡したため提起された損害賠償請求事件につき,同病院医師らに過失があったものと認められ,これらの過失と患者の死亡との間に因果関係があるということはできないものの,上記の過失がなければ患者が死亡当時生存していた相当程度の可能性があるとして,被告に対し,慰謝料など合計660万円余りの支払が命じられた事例


平成18年1月26日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官
平成14年(ワ)第5603号損害賠償請求事件

口頭弁論終結日 平成17年11月17日

判決
主文

1 被告は,原告らに対し,それぞれ220万円及びこれらに対する平成13年2月9日から支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告らのその余の請求を棄却する。

3 訴訟費用は,これを10分して,その1を被告の負担とし,その余を原告らの負担とする。

4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由
第1 請求
被告は,原告らに対し,それぞれ8756万9146円及びこれらに対する平成13年2月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2 事案の概要

A(昭和2年3月10日生)は,被告が設置しているB病院(以下「被告病院」という。)において前立腺肥大症の治療のために経尿道的前立腺切除術を受けるため入院したところ,退院する際に本来交付されるべき薬であるグリチロンではなく,グリミクロンが交付され,グリミクロンを服用後,低血糖性昏睡となり,被告病院に入院し,退院後,会社で転倒して,被告病院に再度入院した後,更に病院内で転倒し,平成13年2月9日,肺炎によって被告病院において死亡した(当事者間に争いのない事実)。

本件は,Aの相続人である原告らが,被告病院には誤投薬,低血糖性昏睡の原因究明義務違反及び付添看護義務違反があるとして,医療契約の債務不履行又は被告病院医師らの使用者としての不法行為責任に基づき,損害賠償及び平成13年2月9日(Aの死亡した日)からの民法所定の年5分の割合による遅延損害金を求めた事案である。

1 前提事実


当事者間に争いのない事実,乙A1ないし4号証,乙B1ないし3号証,原告C本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によると,次の事実が認められる。
(1) 当事者等


ア 原告D及び原告Cは,A及びE(平成16年1月2日死亡。)夫婦の実子である。
イ 原告Fは,原告Cの実子であるが,平成5年1月18日,A及びEの養子となった。

ウ 原告D,原告C及び原告Fはそれぞれ,EとともにAを相続し,更にEを相続した。


(2) 誤投薬による入院から退院に至る経過

ア Aは,平成10年11月12日から,前立腺肥大症の治療のため被告病院に入院した。その際,生活行動等について聴取されたAは,日常及び入院時における食事,排泄及び移動等は自立して行うことができ,理解力及び記憶力は良く,視覚障害及び言語障害等の障害は無い旨答えた(乙A1号証74頁)。

同月19日に手術が施行され,同年12月2日,被告病院を退院した。その際,被告病院担当医師は,Aに対し,前立腺肥大症に対する治療薬である「グリチロン」を投薬する必要があるとして,処方箋に「グリチロン」と記載したところ,薬剤師は,誤って糖尿病の治療薬である血糖降下剤の「グリミクロン」を交付した。

イ A(当時71歳)は,平成10年12月5日(土曜日)午後6時45分,意識障害のため救急車で被告病院救急外来に搬送され,同病院を受診した。

Aは,血液検査の結果,低血糖性昏睡であると診断された。G医師はEから,Aには脳卒中,心筋梗塞,狭心症及び糖尿病はなく,降圧剤は飲んでいるが,糖尿の薬は飲んでいないことを聴取した。Aの服用している薬については持参していないということでG医師は確認することができなかった(乙B1,2号証)。
同日,G医師は,Aの頭部CT及び心電図の検査を施行したが,明らかな異常を認めず,バイタルサインも一貫して安定していた。50%ブドウ糖液を静脈注射及び点滴したところ,Aの状態は改善した。

G医師がAに対し,家に帰れるか尋ねると,Aは帰れますと言ったが,その時点でAの足取りはややよろけていた(乙B2号証)。

同日の時点では,Aが低血糖性昏睡となった原因は判明せず,G医師は,低血糖の原因が不明であるから月曜日に内分泌内科を必ず受診するよう指示した(乙B1,2号証)。


ウ Aは,平成10年12月6日午前11時,再び低血糖性昏睡により救急車で被告病院に搬送され,そのまま被告病院に入院した。入院後,上記のとおり,グリチロンを交付すべきところ,実際にはグリミクロンが交付されていたことが判明した。
エ 平成10年12月7日,H医師は,「意識levelが不可逆的なものになってしまう可能性大」と診療録に記載し,同日,I医師も,「約5日間の低血糖状態が持続していたと考えられ,脳細胞の不可逆的な障害が起きている可能性あり」と診療録に記載した。

オ 被告病院医師は,平成10年12月8日,原告Cに対し,「12月2日から同月6日まで遷延性低血糖があり,期間が長くグリミクロンの作用も強力であった可能性がある。今後少しずつ意識レベルは改善していくと思われるが,最悪の場合,前と同じレベルまで戻らない可能性はある。何らかの後遺症の残る可能性がある。」旨説明した(乙A2号証14,15,18頁)。


同日の脳のCTの結果,脳溝は,軽度から中等度開大していた。また,同日のMRIの結果,年齢相応程度の萎縮と軽度の小梗塞巣を認めるのみで,低血糖によって生じ得る皮質,海馬,大脳基底核の信号変化は認められなかった(乙A2号証20頁,5ないし8号証,B4,8号証)。同月9日の脳波検査でも,基礎波は10Hz,40-50μvと良好で,全般性の徐波,三相波,棘波等を含む低血糖の悪影響としての異常所見は認められなかった(乙A2号証21頁,B4,8号証)。

カ 長谷川式簡易知能スケールでAを検査したところ,同月9日は30点満点中6点,同月18日は22点,同月22日には19点であった。なお,長谷川式簡易知能スケールは,30点満点中30~25点が正常,19点以下が痴呆(軽度~高度),24~20点が境界とされている。
キ Aは,平成11年1月11日に被告病院を退院した。


(3) 平成11年2月9日,Aは被告病院の神経内科を受診した。Aの主訴は,書字がスムーズにできないこと及び,着衣動作が鈍くなったことであった。実際にAは誤投薬前と同程度には文字が書けなくなっており(乙A1号証17頁,3号証5,6頁),左手の振りが少し少なかった(乙A3号証3頁)。その際診療に当たったT医師は,左上肢の振戦について老年性振戦と診断し,また,着衣動作などの動作緩慢があること及び左上肢に軽微な歯車様固縮が認められたことから,パーキンソニズムと診断した(乙A3号証3頁,B3号証)。
(4) 転倒による入院とその後の経過(原則として,(4)項においては,平成12年については月日のみで表示する。)


ア 11月16日,A(当時73歳)は,会社の階段で転倒し受傷したとして,被告病院救急外来に搬送され入院し,頭部,顔面部打撲挫創,上口唇切創及び右手擦過と診断された。検査所見では,頭部単純X線には異常なく,頭部CTによれば,上顎洞付近の出血と骨折が見られた。

当日の看護記録には,「夜間トイレ等覚醒時1人で動かれる可能性あり。転倒や,末梢抜去おこらないよう頻回な訪室心がけ,注意していく。」との記載がされた。

イ 11月17日午前0時,Aからナースコールがあり,看護師が訪室したところ,Aはベッドの足下側にたたずんでおり,点滴本体からルートが抜けていた。Aは「トイレに行こうと思ってベッドから降りた。その後でナースコールを押した。ご迷惑をおかけしました。」と言った。看護師は,再度,トイレに行きたい等ベッドから動きたいときは体を起こす前にナースコールを押すように説明した。Aは「転倒など何もなかった。」旨話した(乙A4号証122頁。以下,フまで乙4号証とする。)。
ウ 11月18日午前6時に至るまでの深夜帯に,Aから3回ナースコールがあり,その際,看護師は,ラジオを消してほしいと言われたが,実際にはラジオのスイッチは入っていなかったり,また,テレビのリモコンがない,尿器を片づけてほしいとも言われたが,実際には尿器内には何も入っていなかった。さらに,一人でトイレに行った様子で,閉まっていたトイレのドアが開いていたので,Aに問うと「行っていない。」と答えた(126頁)。

エ 11月20日,抜糸が終了したら退院の予定となった。Aは自力で起き上がることができない様子であった。看護師は,一人での歩行はまだふらつきがあるため,起き上がるときはナースコールをするよう説明した(130頁)。


また,Aは高血圧及び振戦と診断された(11頁)。

オ 11月22日午前0時ころ,看護師がAの病室を訪れると,出血汚染が,病室のベッドサイド及び床並びに包布寝衣にあり,更に鼻腔,両手先及び右前腕にも見られた。ソファーの上には血液のついたタオルがあった。看護師がAに聞くと「転んではいない。転んだようなもの。頭は打っていない。」と答えた(132頁)。

この当時,Aには,多少痴呆の症状もみられた(14頁)。

カ 11月23日午後11時,看護師が訪室するとAが壁にもたれて床に座っており,左後頭部からの出血が見られ,左頚頂部に35mmほどの挫滅創があり,骨膜に達していた。床には200ml近い血液があった。Aは,「トイレに行こうと思って。どこを打ったのか分からない。痛みとか吐き気はない。」と言った(136,137頁)。

頭部CT所見では,両側の硬膜下水腫が存在し,11月17日と比べ増加しており,薄いくも膜下出血の疑われる箇所もあった(13頁)。
11月24日午前1時5分,看護師が訪室すると,Aは覚醒した。看護師の問いに対し返答があった。看護師は,Aに対し,起き上がるときはナースコールを押すよう説明し,枕元にナースコールを置いた(139頁)。

午前1時20分,介護員からナースコールがあり,看護師が訪室するとベッド柵がおりており,Aがベッドサイドで床に倒れていた。床灯台に血液が少量付着していた。Aは「飴が取りたかった。」と話した(137頁)。


キ 同日,担当医師から原告Cに対し,CT上は硬膜下水腫が増加してきており,これについては11月16日の転倒が原因と思われること,16日,17日,23日と徐々に硬膜下水腫が増加してきていること及び今後慢性硬膜下血腫に移行することもあるが,現在は様子を見るしかないことを説明した。また,頭蓋X線で骨折と思われる所見があったが,J医師は,今すぐ何かするという必要はなく様子を見るしかないこと,後頭部の傷が治るのに一週間かかるとしてそれまで入院を延長することが決まったこと及び転倒などの事故のないように注意しつつ,離床をすすめる必要があるので,来週からリハビリを依頼することを説明した。

午後4時,看護師は,排泄希望時は必ずナースコールするよう説明し,ナースコールについて説明したがAは返答のみで押す様子はなかった。
午後5時40分,Aがベッドの柵を倒す動作をしていた。Aから,トイレに行くときはどうしたらいいのだろう,と聞かれ,看護師はナースコールについて説明し,Aは納得したが,ベッド柵をおろす動作を繰り返した。


ク 11月26日午前9時30分,Aから徘徊コールがあり,看護師が訪室するとベッドの抑制がはずれており,柵も下がっていた。Aは床に正座し前頭部から倒れていて,鼻出血がみられた。午前9時40分の回診時には止血されていた。このまま様子を見ることとなった。Aは,「飴を取ろうと思った。私が勝手にやりました。すみません。」と話した。その後,Aを詰所へ移動させた(147頁)。
ケ 11月28日,頭部CTの所見から,硬膜下水腫の状態であり,手術適応はないとJ医師は判断した。左前頭葉基底部に一部吸収の高めの所があるのでMRI検査を行うことになり,その結果脳溝内にわずかにくも膜下出血を思わせるところがあった。


夕方,Aの酸素飽和度が低下したので,酸素吸入を経鼻で2リットル行ったが酸素飽和度が上昇しなかった。AはICU(集中治療室)に収容された。
この時点で,胸部レントゲン上は明らかな肺炎像はなかったが,左肋骨に骨折があった。この骨折については,入院時の胸部レントゲンでは見られないものであった。

聴診上は呼気,吸気両時期にわたる湿性ラ音があったところ,のどの奥の痰を吸っても改善しなかった(22頁)。


コ 11月30日,AはICUから帰棟した。ICUで気管内挿管により十分な吸痰と加圧を行い,血液ガスのデータは著明に改善した。

誤嚥性肺炎を併発していたと診断され,抗生剤を投与して経過観察することとなった。
J医師から原告Cに対し,痰が詰まった原因としては,①脳の表面に水がたまっていることによる軽度の意識レベルの低下(ボーっとしている),②ベッドに長期に寝ていることによる肺の働きの低下(十分せきをして痰を外へ出せない)及び③高齢などが考えられる,との説明があった(31頁)。


サ 12月1日,呼吸音は左側で減弱していた。検査の結果,11月28日のAの咽頭液よりMRSAの陽性反応があった。ただ,肺炎の原因がMRSAかどうかは不明であった(25,26頁)。

頭部打撲後の硬膜下水腫について,入院後より徐々に硬膜下腔は拡大してきていた。この時点で,硬膜下腔の拡大が入院前の転倒によるものなのか,それとも,入院後の転倒によるものであるのかは不明だったが,11月23日午後11時前の転倒直後に撮影したCTでは既に存在していた。J医師は,右側の少量のくも膜下出血は上記の転倒によるものではないかと判断するとともに,これが意識低下の原因かどうかは不明と判断した。

シ 12月2日,熱が上昇したが意識はしっかりしていた。腹部膨満が見られた。抗生剤はメロペンに加え,バンコマイシンの投与も開始した(28頁)。
ス 12月3日,発熱が続いていた。

セ 12月4日,意識は傾眠傾向であった。被告病院は,当時の意識低下は低ナトリウムが直接の原因ではないと認識していた。治療の方針として,①脳病変に関して,硬膜下水腫,一部脳挫傷が意識障害の原因と考えられるが手術の適応はないので,週1回のCTで経過観察するとされ,②肺炎に関しては,痰多量で,MRSA及び肺炎桿菌が陽性反応を示していたので,バンコマイシン,メロペンの投薬を続行した(35頁)。

ソ 12月5日,Aは名を呼ぶとやっと開眼した。頭部CTにより硬膜下水腫はやや増加しているのが認められた。K医師は,J医師及びL医師立会いの下,原告Cに対し,転倒による硬膜下水腫があるが現在手術適応がなく,保存的に見ていく方針であり,肺炎などの内科的管理が必要と説明した(36,39頁)。

タ 12月12日,熱が上昇した。痰は,白色から黄色になり頻回吸引された。頭部CT画像所見は変わらなかった。胸部レントゲン画像によれば,肺の影は拡大はないがよりはっきりしてきていた(41頁)。

チ 12月14日,頭部CT画像からは相変わらず硬膜下水腫であると判断された(42頁)。

ツ 12月15日,CRP値が低下し,痰が黄色から白色になった。熱は39.2度であった(42頁)。腹部CTによって,肝右葉に腫瘤が認められたため,消化器科に相談がなされた(45頁)。

テ 12月18日,痰が増量しており,肺炎が悪化していた。K医師は,電話で原告Cに対し,肺炎が悪化したこと,肝臓内に病変があり,癌や膿瘍の可能性もあること等を説明した(45頁)。

ト 12月19日,簡単な言語指示に応じなかったので,念のため,ICU管理となった。


胸水を800cc以上抜いたが,余り酸素化は改善しなかった。血液ガス検査の結果が悪化していたので挿管をした(342頁)。

ナ 12月22日,胸部レントゲン画像には両側擦りガラス影がみられた(345頁)。

ニ 12月24日,肺炎像が悪化していた(347頁)。

ヌ 12月25日,K医師から,原告Cに対し,肺炎が重症化しており危篤状態で,呼吸状態がかなり悪く,昼にはそのストレスのため重症の不整脈が一過性に出現しており急変する可能性があるとの説明がされた。

右胸水を500cc採取された(348頁)。

ネ 12月26日,K医師から原告Cに対し,肺炎から全身状態が更に悪化しており,肝臓,腎臓の障害が出現していて,急変する可能性があるとの説明がなされた(350頁)。
ノ 平成13年1月9日,痰が多く,状態はよくなかった。気管切開がされた(362,363頁)。

ハ 平成13年1月30日,尿量を維持できず,腎機能障害が進行していた(375頁)。

ヒ 平成13年2月4日,尿量は10cc/h程度であり,四肢末梢の浮腫が著明にみられた(377頁)。

フ 平成13年2月6日,K医師から原告Cに対し,Aの腎不全が進行し尿毒症状態でピクつきが起こっており,数日以内に急変する危険性があると説明された(378頁)。

ヘ 平成13年2月9日午後1時23分,Aは,肺炎を直接の原因として被告病院において死亡した。

(5) 低血糖症等について
ア 低血糖症について

(ア) 低血糖症とは,種々の原因により血糖値が著しく低下した状態(一般には血糖値50mg/dl以下)をさす(甲B6号証)。
(イ) 低血糖の大部分は,糖尿病治療によって引き起こされ,中でもインスリンによるものが最も多く,その他にβ-遮断薬及び抗不整脈薬が原因となるほか,飲酒による場合,内分泌疾患,肝腎疾患などが原因として挙げられている(甲B1号証)。

(ウ) そして,血糖値が約60mg/dlになると,発汗,振戦,動悸,不安感,顔面蒼白,強い空腹感などの自律神経症状がみられるようになり,約50mg/dl以下になると,落ち着きのなさ,人格変化,記銘力低下などの精神症状,及び,複視,失語などの神経症状が生じるようになり,約40mg/dl以下になると,昏睡状態を呈するようになる。低血糖昏睡を放置すれば死に至ることもあり,また,昏睡のまま数時間経過すると血糖が回復しても植物状態に陥るなど不可逆性の中枢神経障害をもたらすことがある。のみならず,意識が回復しても,後遺症に苦しむことがあり,低血糖自体が新たな脳血管障害を誘発する場合もある(甲B6,7号証)。

(エ) そのため,低血糖の原因や誘因が不明である症例では,原因精査と低血糖の再発防止のために入院が必要であるとされ(甲B6号証),昏睡で来院した患者は,意識が回復したからといってすぐに帰宅させず,血糖値及び全身状態の安定が得られるまでは入院等の経過観察が必要であるとされている(甲B7号証)。


イ グリミクロンについて

グリミクロンは血糖値を降下させる作用がある。また,劇薬指定された薬である。副作用として,低血糖,集中力低下,精神障害,意識障害等の症状が現れるとされている。

ウ 低酸素脳症について(甲B5,8号証)

酸素の欠乏による症状である低酸素脳症の後遺症としては持続性昏睡,痴呆,視覚性失認,錘体外路症候群(パーキンソン症候群)といった様々な症状がある。

エ パーキンソン病及びパーキンソニズムについて

「難病の診断と治療指針」(乙B3号証添付)には,「パーキンソン病の診断基準としては,①パーキンソニズムがある,②脳MRI又はCTに特異的異常がない,③パーキンソニズムを起こす薬物・毒物への曝露がない,④抗パーキンソン病薬にてパーキンソニズムに改善が見られる,以上4項目を満たした場合,パーキンソン病と診断する。」及び「パーキンソニズムの定義は次のいずれかに該当する場合とする。(1)典型的な左右差のある安静時振戦(4~6Hz)がある。(2)歯車様固縮,動作緩慢,姿勢歩行障害のうち2つ以上が存在する。」旨の記載がある(204頁)。
2 本件の争点及び争点に対する当事者の主張
(1) 被告病院の医師らの注意義務違反の有無

原告らは,被告病院の医師らには,①処方すべき薬を誤った点(以下「過失①」という。),②低血糖性昏睡の原因究明を怠った点(以下「過失②」という。)及び③付添看護義務を怠った点(以下「過失③」という。)の3点において注意義務違反があると主張する。
上記過失①については,被告は明らかに争わない。過失②及び同③に対する当事者の主張は次のとおりである。

ア 過失②(原因究明義務違反)の有無
(原告らの主張)

(ア) 低血糖性昏睡は,長時間継続すれば,植物状態に陥る可能性や死亡する可能性もある重篤な状態であり,特に,高齢者の場合,ブドウ糖投与を行っているにもかかわらず低血糖が遷延したり,血糖値がいったん上昇しても糖質の投与を中止すると低血糖が再燃することがあるため,低血糖の原因又は誘因が不明である場合には,原因精査と低血糖の再発防止のため,入院の絶対適応となる。
(イ) Aは,平成10年12月5日に被告病院へ救急搬送された際,ブドウ糖投与によって意識を回復したが,糖尿病の既往歴はなく,低血糖に陥る原因が不明であった。

(ウ) したがって,被告病院の担当医師としては,Aを入院させて低血糖の原因を精査すべきであったが,これを怠った。

(被告の主張)
(ア) 被告病院の担当医師は,平成10年12月5日にAが救急外来を受診した際,Eから,Aに糖尿病の既往歴のないこと及び循環器科で高血圧の薬を処方されて服用していることなどの情報を得たことから,血糖降下剤の内服による低血糖の可能性を原因から除外したのであり,内服薬の提示もなかったために,現物を確認することもできなかった。以上の状況からは,休日夜間の救急医療現場である同日の時点で,担当医師がAの低血糖症の原因が誤薬であることを確認することは困難であった。
(イ) 担当医師は,血液検査の結果,低血糖性昏睡と診断されたことから,Aに対して50%ブドウ糖液の静脈注射等を行い,その後,Aが,医師らの説明を十分理解できるまでに意識が回復し,自立歩行も可能となったために,入院適応ではないと判断し,精密検査のために月曜日である同月7日に内分泌内科を受診すること及び症状が現れた場合には直ちに救急外来を受診することを指示した上で,Aを帰宅させたものであり,以上の処置に過失はない。

イ 過失③(付添看護義務違反)の有無
(原告らの主張)

(ア) 一般に,入院中の患者に一定の結果の発生することが予測される場合において,病院が結果発生防止のためにいかなる義務を負うかについては,病院には医師の専門的判断を基礎とする裁量があることを前提に,結果発生の蓋然性,予測される結果の重大性,結果の発生を防止するための措置の容易性及び有効性並びに当該措置により医療上又は看護上生じ得る弊害等を総合考慮して判断すべきである。
(イ) 本件においては,Aが高齢であることに加えて,①被告病院の担当医師は,平成12年11月16日にAが入院したときに,Aの家族から,Aが自宅や会社内で度々転倒していたことを聞いていたこと,②入院中のAの言動には,不審な点が認められたことから,Aが病院内で転倒して頭部打撲の傷害を負ったり,それによって死亡したりする蓋然性は相当程度あったというべきであり,被告病院は,病院内でAが転倒して上記の重大な結果を生じることを予測できたというべきである。そして,Aは覚醒時には一人で動く可能性のあったこと,実際に不穏な行動を取っていたことからすると,転倒事故を防止するためには,付添看護措置を執らなければならなかったというべきである。

(ウ) 一方,被告病院は,Aの家族から家族による付添看護の申出を受けていたのであるから,被告病院でこれを受け入れ,Aに対して付添看護することは容易である上,受け入れたとしても医療上及び看護上の弊害が発生することは考えられない。

(エ) そうすると,本件において,被告病院の担当医師には,Aが病院内で転倒することによって重大な結果が生じることを防止するために,Aに対して付添看護を講ずべき注意義務があったというべきであるが,被告病院の担当医師はこれを怠った。

(オ) 被告病院では一般に付添看護をしていないからといって,被告に過失がないことにはならない。また,ナースコールによって排泄時の介助を得ることについても,患者は忙しい看護師に手間をかけさせることに躊躇するものであり,加えて,排泄を他人に介助されながら行うことは人間の尊厳にかかわる最も避けたいことであって,患者は自分で何とか排泄をしようと試みるものであるから,単にナースコールをするように指導するだけでは不十分である。

(被告の主張)
(ア) 原告Cは,家族による付添看護を申し出たのではなく,病院負担での有料介護員による付添看護,それができない場合には個人負担での有料介護員による付添看護を求めていたのである。
(イ) この点,被告病院では,排泄希望時には患者にナースコールをしてもらい介助することとしており,Aには,排泄希望時にはナースコールをすることを繰り返し指導していた。また,Aが入院していた病棟には,午後5時から翌朝午前9時まで介護目的の職員(介護員)を交代で配置しており,Aのもとへは,介護員を介護のために頻繁に訪室させるよう指示していた。

Aが,上記の指導に従わないで,ナースコールをしなかったのは,同人に過失があったものというべきである。

(ウ) 被告病院では,患者負担による付添看護は禁止しており,家族による付添いも原則として禁止している。ただし,①家族などが側にいないと精神的に不安定の状態に陥る場合,②病状が極めて重い場合,③ターミナル患者(終末期患者)の場合には,医師の許可により患者の負担によらない付添いを認めることがあるが,Aの場合は,ふらつきがあっても一人で歩ける状態だったので,上記②には当たらなかった。

(エ) したがって,Aに付添いを付けなかった被告病院の措置に過失はない。

(2) 因果関係について
ア 過失①及び②と転倒との因果関係

(原告らの主張)

(ア) Aは,グリミクロンの服用後,低血糖症による昏睡状態に陥り,被告病院の処置によって意識は回復したが,以後,手の震え,声の震え,歩行のふらつきが生じ,自宅や会社で度々転倒するようになった。被告病院の担当医師が,低血糖症の原因を解明する義務を尽くし,平成10年12月5日の時点で誤投薬に気付き,適切な対処をしていれば,Aが,グリミクロンの副作用により歩行障害を起こすことはなく,平成12年11月16日以降の入院時に,歩行障害によって転倒することはなかった。
(イ) Aは,誤投薬事故以前は全くの健康人であり,Aの声の震え,手の震え,歩行のふらつき,記憶力及び判断力の低下は,誤投薬事故後に一度に発症したものであって,平成11年1月11日の退院時にも存在し,その症状は変わることなく残存し続け,平成12年11月16日の転倒事故に至ったものである。

(ウ) 糖分は脳にとって酸素と同様重要な成分であるから,低血糖症は,低酸素脳症と同様,脳に不可逆的損傷を与え,持続性昏睡,痴呆,視覚性失認,パーキンソン症候群などの後遺症を発症すると考えられる。実際,被告病院の担当医師は,平成10年12月8日,原告Cに対して,後遺症が残る可能性がある旨説明している。

(エ) 本件において,誤投薬による低血糖性昏睡以外にAの脳にダメージを与える事情は全くなかったこと,及び誤投薬事故前後のAの症状の変化を考慮すると,誤投薬事故後のAの症状は低血糖症による脳の障害に起因して引き起こされたものというべきである。

(被告の主張)
(ア) 低血糖性昏睡の後遺障害として運動機能の障害が生じることはまれである。Aの場合,平成10年12月8日等の神経学的診察でも,運動失調や歩行障害は見られず,ふらつきを示す失調性歩行もなく,医師や看護師の観察によっても歩行時の顕著なふらつきは認められなかったのであり,急性期の頭部CT及び頭部MRIでは加齢による脳萎縮のみで大脳皮質病変も浮腫の所見も認められず,脳波は正常であったから,Aの感じたふらつきは,自覚的症状が主体の軽度なものであったと考えられる。このようなふらつき感は,加齢に伴う平衡障害,パーキンソニズム傾向(疑い),又は脳底動脈不全症などによるものと考えられ,また,不眠のために常用していた睡眠薬が一因になっている可能性もある。
(イ) Aには,誤投薬事故以前から,身体のふらつき感がみられ,誤投薬事故後の2年間で徐々に症状が進行しているところ,低血糖性昏睡の後遺障害は一般に進行性経過をとらないことによると,Aのふらつきは誤投薬事故の後遺症ではないと考えるべきである。

(ウ) Aの手の震えは,平成11年2月9日の診察時には,両手の姿勢振戦が軽度に見られたが,静止振戦はなく,筋の拘縮,広開脚位の歩行もほとんど見られず,麻痺,感覚障害及び深部腱反射も認められなかったことによると,老年性振戦と診断すべきである。これは,高齢者によくみられる一般的な疾患であり,誤投薬以前からAにあったものが増強したものと考えられるのであり,誤投薬事故との因果関係はない。

(エ) 平成12年11月16日の転倒は,誤投薬事故から2年経過した時期における転倒であり,誤投薬事故との因果関係はない。

イ 過失③と被告病院入院後の転倒との因果関係
(原告らの主張)

(ア) 平成12年11月16日以降の入院において,被告病院がAに付添いを付けていれば,病院内での転倒は防止できた。
(イ) Aの入院後の言動には不審な点があり,一人でトイレに行った様子がうかがわれるのに「行っていない。」などと自分の行動を把握できない状態であったこと,平成12年11月20日にはAの症状は「振戦」と診断されていることから,手足の震えがあってこの時点で思うように行動できなかったことが予測されること,また,同日には,Aが自力で起き上がれない事実を被告病院は把握していること,さらには,1回目の病室内での転倒があった平成12年11月22日にはAには「多少痴呆」の症状が現れていたというのである。

(ウ) 加えて,Aが救急外来を受診した際に被告病院は頭部CTを撮影し転倒による脳への影響を懸念していること,及び同日の看護日誌には「夜間トイレ等覚醒時1人で動かれる可能性あり。転倒や,末梢抜去おこらないよう頻回な訪室心がけ,注意していく。」と記載されていることからすると,被告病院はAの転倒事故を十分予測していたものである。

(エ) 転倒事故防止のために採るべき措置について,入院当初からAは覚醒時に一人で動く可能性があったこと,実際Aは,訳も分からずベッドでたたずんでいる等不穏な行動を取っていたのであるから,付添看護措置を採らなければ,転倒事故は防止できなかったのである。

(被告の主張)
(ア) 被告病院では,そもそも患者負担による付添看護は禁止しており,家族による付添いも原則禁止している。ただし,特に医師の許可により患者の負担によらない看護を認める場合があるが,①家族等が側にいないと精神的不安定の状態に陥る場合,②病状が極めて重い場合,③ターミナル患者(終末期患者)の場合である。病状が極めて重い患者とは,生死の境目にあるような重体の場合であって,Aは,ふらつきがあっても一人で歩ける状態であり,上記の場合には当たらない。
(イ) 被告病院は,Aに対し,トイレに行く際にはナースコールをしてもらうよう指導し,また,Aを重点的にチェックしていたのであるから,転倒したのはA自身の過失によるもので,被告病院とは関係ない。

ウ 上記の転倒と死亡との因果関係

(原告らの主張)
(ア) Aは,平成12年1月16日以降の転倒により,硬膜下水腫となり,全身状態が悪化し,肺炎を起こして死亡した。
(イ) 仮に,転倒によって死亡が生じたとの高度の蓋然性がないとしても,転倒事故がなければ,Aは,平成12年11月16日の入院から約1週間後の同月23日ころには退院している予定だったのであり,同年12月ころに被告病院内において肺炎を併発することはなかったのである。被告がAの転倒事故を防止するために,十分な注意義務を尽くすなど,医療水準にかなった医療を行っており,本件転倒事故が発生していなかったとすれば,Aが,平成13年2月9日死亡時以降も生存していた相当程度の可能性が存在する。

(被告の主張)
死亡の直接の原因が肺炎であることは認め,その余は否認ないし争う。


(3) 損害額
(原告らの主張)

ア 被告の上記の注意義務違反により,Aは,以下のとおり,合計2億6270万7438円の損害を被った。

(ア) 逸失利益 計2億2070万7438円
a 6200万円(Aが平成10年に取締役を務めていたM株式会社,N株式会社,O株式会社,P株式会社,Q株式会社及びR株式会社から受け取った報酬の合計額)×0.7(労働対価部分)×5.076(平均余命11.52年のライプニッツ係数)×0.9(生活費控除1割)
=1億9826万8560円
b 300万1696円(Aが平成10年に支払を受けた年金)×8.306(ライプニッツ係数)×0.9(生活費控除1割)

=2243万8878円
(イ) 慰謝料 2500万円
(ウ) 葬儀費用 300万円

(エ) 弁護士費用 1400万円


イ E,原告D,同C及び同Fは,上記損害に対する賠償請求権について,Eが2分の1,原告D,同C及び同Fがそれぞれ6分の1ずつ相続した。

さらに,Eが死亡し,Eの相続した損害賠償請求権につき,原告D,同C及び同Fがそれぞれ3分の1ずつ相続した。
(被告の主張)
原告らの主張は争う。


第3 当裁判所の判断
1 過失①(処方すべき薬の誤り)について


被告は,過失①について明らかに争わないところ,過失①は,Aにつき,前立腺肥大症の治療のため「グリチロン」を服用させる必要があると判断した医師がその旨を処方箋に記載したにもかかわらず,薬剤師が誤って血糖降下剤である「グリミクロン」を交付したというものである。これは,処方箋に記載された薬剤名をきちんと確認すれば容易に避けることのできたものということができる。当該薬剤師は,薬剤師に求められる最も初歩的な注意義務に違反したものであって,注意義務違反の程度は大きいというべきである。

2 過失②(原因究明義務違反)について

(1) 前記前提事実(第2の1の(2)イ),乙A2号証(7ないし10頁),B1,2号証及び弁論の全趣旨によると,次の事実が認められる。

ア Aは,平成10年12月5日午後6時ころ,Eが呼びに行ったところ,いびきをかいて寝ていて応答しない状態であり,同日午後6時45分,被告病院に救急車で搬送された。
イ Aに対する治療等
(ア) 被告病院において,直ちに,血管の確保,血液検査がされ,酸素投与が開始された。また,心電図も撮られた。当時,重症の意識障害にあり,血圧は147/74㎜Hg,脈拍は84/分,酸素飽和度は91ないし95%であった。
(イ) 午後7時12分,名を呼んでも反応しない状態で,血糖値が28㎎/dlであったことから低血糖であることが判明し,50%ブドウ糖20ccの静脈注射及び同量の点滴がされた。その後,強い刺激に反応するようになった。

(ウ) 午後7時15分,血糖値は257㎎/dlに上昇し,眼球を左右に動かすようになった。

(エ) 午後7時30分,自ら排尿を訴えた。このころの血圧は,169/92㎜Hg,脈拍は90/分,酸素飽和度は97%であった。

(オ) 午後8時に頭部CTを撮影したところ,明らかな異常所見は認められなかった。このCT撮影中にも尿意を訴えた。

(カ) 午後8時20分,ベッドサイドに起立して排尿し,午後8時25分及び同35分にも自力で排尿した。

(キ) 午後8時45分ころ,意識レベルが回復し,自力で歩行することが可能になった。

ウ Eへの問診等
G医師は,Aに同行していたEに問診し,意識障害の原因になり得る脳血管系等の既往歴,糖尿病の有無,アレルギー及び内服薬について尋ねたところ,Eは,Aにつき,(a)被告病院において前立腺肥大の手術をし,退院したばかりであるが,高血圧で同病院循環器内科に,左眼底出血で同病院眼科にそれぞれ受診中であること,(b)既往歴として,結核はあるが,脳卒中,心筋梗塞,狭心症及び糖尿病はないこと,(c)内服薬については,降圧剤を飲んでいるが,糖尿の薬は飲んでいない旨答えた。G医師は,EがAの服用している薬を持参しているかどうか確認したところ,Eは所持していなかった。
エ G医師は,Aの上記の状態,殊に心電図及び頭部CT検査の結果から明らかな異常が認められず,バイタルサイン(血圧,呼吸及び脈拍)が安定していることなどから,切迫した緊急性はないと判断した。そして,同医師は,Aの意識が回復し,同人に対して帰れるかどうか尋ねると,帰ると答えたので,帰宅させることにした。同医師は,呼吸器内科の上級医にコンサルトした上で,A及びEに対し,(a)内分泌疾患などが疑われるので早急に内分泌内科を受診すること,(b)冷や汗や立ちくらみなどの症状があれば直ちに救急外来を受診すべきことを説明した。Aは,午後8時45分に帰宅することになったが,当時,よろけながらも自力で歩行することができた。

(2) 前記前提事実(第2の1(5)ア)のとおり,一般的には低血糖の原因が不明である症例においても,原因精査と再発防止のために入院させることが必要であるとされている。この医学的知見に照らすと,G医師が,低血糖の原因が不明であるにもかかわらず,Aを帰宅させたことについては,慎重さを欠いた面があったと解される。

しかし,Aが被告病院の救急外来に搬送されたのは,土曜日の午後6時45分であり,搬送された後,同人は,上記のとおり,心電図及び頭部CTの各検査を受けたが明らかな異常が認められず,ブドウ糖液の静脈注射等を受けるなどした後,午後8時45分ころには症状が相当程度改善して,自力で歩行することができるようになったというのである。これに,Aを帰宅させるに際し,同人及びEに対して上記のとおりの説明をしていることを考え併せると,G医師が,Aを入院させて低血糖の原因を精査すべき注意義務に違反したとまで解するのは困難であるというべきである。
3 過失③(付添看護義務違反)について

(1) 前記前提となる事実(第2の1(4))及び乙A4号証によると,Aは,平成12年11月16日(以下,3項においては,平成12年については月日のみで表示する。)に被告病院に入院した後,(a)11月22日午前0時前,(b)11月23日午後11時前,(c)11月24日午前1時20分ころ及び(d)11月26日午前9時30分前と,短期間の間に続けて転倒事故(以下,上記の被告病院内における転倒事故を「本件転倒事故」という。)を起こしており,上記(a)の際には病室のベッドサイド及び床並びに包布寝衣に出血汚染が見られ,本人の鼻腔,両手先及び右前腕にも血が見られ,(b)の際には左後頭部から出血し,左頚頂部に35mmほどの挫滅創を負い,それが骨膜に達しており,(d)の際にも鼻出血が見られたというのである。
(2) 被告は,本件転倒事故について,被告病院においては,家族による付添い及び患者負担による付添看護はいずれも原則として禁止しており,Aに対しては排泄希望時にはナースコールをすることを繰り返して指導し,更に午後5時から翌朝午前9時まで介護員を交代で配置し,頻繁にAのもとに訪室させるように指示していたのであるから被告病院の措置に過失は存せず,むしろ,上記の指導に従わないでナースコールをしなかったAに過失が存する旨主張する。


確かに,前記前提事実(第2の1(4))のとおり,看護師がAに対し,排泄をする場合はナースコールをするように繰り返して指導していたことが認められ,また,被告病院では,平成12年11月ころ,Aの入院していた病棟においては,午後5時から午前9時までの間,介護員一人が勤務し,(a)不穏患者の監視,話相手,(b)ナースコールに対応して看護師に要件を連絡するなどの業務についていたことが認められ(乙B7,11号証),また,患者の負担による付添看護は禁止し,家族などによる付添いも原則禁止とする方針を採っていたことが認められる(乙B7号証)。

(3) しかし,以下に検討するところによると,上記の被告の主張を採用することはできない。

ア 本件においては,前記前提事実(第2の1(4)),乙A4号証及び掲記の各証拠によると,次の(ア)ないし(オ)の事情が認められる。

(ア) Aは,11月16日に勤務先の会社の階段で転倒して受傷したことから被告病院に入院したものであり,看護師は,Aについて,夜間トイレ等に一人で行く可能性があるので,転倒が起こらないように注意していく必要のあることを認識しており,その旨を看護記録(乙A4号証122頁)に記載していた。また,診療録中に,「日中,夜間問わず,排泄希望時ナースコールしていただくよう説明していますが,ナースコールされない場合もあるため頻回に訪室してください。夜間介護員の協力を得てください。夜間は,徘徊コールと抑制を行ってください。」との記載(同113頁)も見られる。
(イ) 前記前提事実のとおり,(a)11月18日には,Aが深夜帯に看護師に対し,ラジオのスイッチが入っていないにもかかわらず,消してほしいと言ったり,尿器に何も入っていないのに尿器を片づけてほしいと言い,(b)11月22日には,多少痴呆の症状があると診断されている。これによると,被告病院の医師及び看護師は,Aには痴呆の症状が見られ,不審な行動をとることもあるのを十分に認識していたものと認められる。

(ウ) 前記前提事実のとおり,看護師は,Aにつき,(a)11月17日午前0時ころ,ベッドの足下側にたたずんでおり,トイレに行こうと思ってベッドから降りた旨を聞き,(b)11月18日午前6時前には閉まっていたトイレのドアが開いており,一人でトイレに行った様子であったことを知り,(c)11月24日午後5時40分には,ナースコールについて説明しても返答するだけで押す様子がなく,ベッドの柵をおろす動作を繰り返しているのを見ているのである。これらの事実によると,看護師は,ナースコールするように指導しても,Aがこれに従わないで,一人でベッドから降りてトイレに行くことを認識していたものと認められる。

(エ) 11月23日の転倒事故後,担当医師は,原告Cに対し,後頭部の傷が治るまで入院を延長させることにしたこと及び転倒などの事故のないように注意する旨説明した。

(オ) 原告Cは,被告病院の担当者に対し,Aが入院するに際し,同人がトイレに頻繁に行くが,足が弱っていて平衡感覚も大分衰えているので,ベッドの乗り降りや一人歩きで転倒するのが心配なので,家族が付き添うなり,常時の付添看護とすることの希望を伝えたところ,担当者は,完全看護であるから心配は要らない旨を答えた(甲A3号証)。しかし,この完全看護というのは,被告病院の看護体制に関する説明として誤りであった(この点,基準看護であったものを完全看護と誤って説明した点については被告も認める。)。

被告病院においては,上記のとおり,患者の負担による付添看護は禁止し,家族などによる付添いも原則禁止する方針を採っていたことが認められるが,(a)病状などにより,家族などが側にいないと精神的不安定の状態に陥り,療養の妨げになることが考えられる場合,(b)病状が極めて重く,かつ,患者家族から付添いの許可を求められた場合などにおいて,医師の許可を得て,患者の負担によらない付添いを認めることがあるとし,こうした付添看護に対する基本的な考え方と並んで,夜間の看護体制の検討も併せて十分に行い,昼夜を問わず,どうしても補助者が要る場合は,被告病院として補助者の確保をすることにしている(乙B7号証)。こうした方針を立てていた被告病院において,原告Cの上記の希望を拒絶しつつ,Aが4回も転倒する事態を招いたのは,看護体制の検討を十分に行っていなかったことを示すものといわざるを得ない。


イ 上記の事情を総合して検討すると,看護師は,Aに対しナースコールをするように何度も指導していたことが認められるが,上記のAの状況,それに対する医師及び看護師の認識に照らして検討すると,被告病院の医師及び看護師は,ナースコールをするように指導しても,これに従わない,又は従うことのできない理由について十分に探索した上で本件転倒事故を防止するよう的確に対処すべきであったというべきである。そして,Aの入院している病棟に夜間,介護員が勤務していたとしても,一人の介護員が病棟全体を担当しているのであって,当時のAの状況に照らすと,これをもって適切な措置が採られていたものということはできない。

上記の経過に照らすと,被告病院はAについて付添看護の措置を講ずべきであったと解するのが相当である。それにもかかわらず,この措置を講ずることなく,本件転倒事故を生起させた被告病院の医師及び看護師の責任は大きいといわざるを得ない。
被告は,ナースコールをするように指導した以上,それに従わなかったAに過失がある旨主張するが,上記に検討したところによれば,到底採用することはできない。

4 因果関係について
(1) 過失①及び同③と転倒事故との因果関係について

上記のとおり,本件においては,被告病院には過失①及び同③が認められる。過失③と本件転倒事故との間に因果関係が存することは明らかであるというべきところ,原告は,過失①とAがその後に転倒したことについても因果関係が存する旨主張するので,この点について検討する。
ア 前記前提となる事実(第2の1(2)),甲A1ないし3号証及び原告C本人尋問の結果によると,Aは,平成10年12月6日から平成11年1月11日まで被告病院に入院したが,同病院を退院した後,以前と比べて歩幅が小さくなっただけでなく,歩く際にふらつくことがあったので,原告Cは,Aの住んでいた自宅の門から道路に出る7段程度の階段に手すりをつけたことが認められる。


これによると,Aは,上記退院後,歩行が不安定になることがあったと認められる。S医師は,低血糖症による脳に対する影響については,酸素の欠乏した低酸素脳症を参考に推論ができるとし,低血糖症はその後のAの精神面,身体面及び生活面に様々な影響を与えたということができ,同人に生じた歩行障害もその一つである旨指摘する(甲B5,8号証)。

イ しかし,前記前提事実,掲記の各証拠及び弁論の全趣旨によると,次の事情が認められる。

(ア) 低血糖昏睡は,身体症状として急性期にけいれんや片麻痺を呈することはあるが,植物状態や高度の痴呆状態にない状態において,後遺症として運動機能障害が生じることはまれであるとされている(乙B4,8号証)。そうすると,低血糖症に陥った者がその後に転倒しやすくなると認定することは困難である。この点について,S医師は上記アのとおり低血糖症により歩行障害が生じた旨指摘するが,同医師の指摘する内容は,推論が目立ち,その根拠は必ずしも明確でないことによると,採用することはできない。

(イ) 被告病院における経過等

a Aは,誤ってグリミクロンを処方された事故以前から,排尿困難及び頻尿に対して安定剤を,また,うつ病について抗うつ剤を服用していたことから,多少,手の震えや体のふらつきが見られた(乙B9,10号証)
b 平成10年12月6日の入院時における意識レベルは,意識障害として最も重いものであった(乙A2号証3頁)。その後,長谷川式簡易痴呆スケールを見ると,同月8日には6点(30点満点)であったが,同月10日には18点,同月18日には22点,同月22日には19点と改善が進み,歩行についても,同月8日時点では,足をやや左右に開き,少し小股に歩いていたが,同月22日には,軽度の開脚歩行を示すものの,歩行自体はスムーズになった。同月28日には,看護師が「どうですか。」と尋ねると,「もう元通りです。」と答えている。


平成11年1月4日にはふらつきも少なくなり,その後,歩行時に広く開脚することもなくなり,腕の振りも良好で歩行は相当回復した(乙B8号証)。
なお,原告Cは,Aの回復ぶりを示す被告の診療録の記載内容は信用できない旨述べる(甲A1号証)。しかし,他に原告Cの述べる事情を認めるに足りる証拠は存しないことによると,直ちに上記の原告Cの述べるところを採用することはできない。


c Aは,平成11年1月11日に被告病院を退院した後,同年2月9日,同月23日に被告病院神経内科を受診した。その際,上記2月9日には「退院後,両手が震え書字がスムーズにできないのに気付いた。ボタンをはめたり,ベルトを締めるなど着衣動作も鈍くなった。不眠が増悪した。」旨を訴えているが,歩行については特段述べていない(乙A3号証3頁)。

そして,Aは,つえを使うことはなかったところ(原告C本人尋問の結果),平成12年11月16日以前に,自宅においてけがを伴うような転倒をしたことがあったことを認めるに足りる証拠は存しない。
(ウ) 勤務状況等
a Aは,平成10年12月6日に入院した当時,M株式会社(甲C2号証の1),N株式会社(同2号証の2),O株式会社(同2号証の3)及びP株式会社(同2号証の4)の代表取締役を務めていたところ,死亡するまでその地位にあった。
b 原告Cは,誤薬を処方された事故の前,Aは役員会を切り回し発言も活発であったが,同事故後は人が変わったような感じで,役員会に出席してはいたが,座っているだけで,全く発言しなくなった旨述べる(甲A1号証,原告C本人尋問の結果)。


しかし,Aは,平成11年3月ないし4月ころから出勤するようになったものであり,M株式会社の執務室は2階にあったが,援助を受けずに階段を歩いていたのであって(原告C本人尋問の結果),これにaのとおり,4つの会社の代表取締役の地位を務めていたことによると上記の原告Cの供述のみから,直ちに上記事故の前後における会社でのAの状態の変化を的確に認定することはできない。
ウ 上記イに認定した事情によると,低血糖症によって運動障害が残ることはまれであると解されるところ,Aについても,平成11年1月11日に被告病院を退院したころには,相当程度回復しており,同年3月ないし4月ころからは会社に出勤するようになり,平成12年11月16日の転倒に至るまでの間,自宅又は会社において上記のような転倒を起こすおそれがあったことをうかがうことはできないのである。したがって,過失①によって生じた低血糖症によって平成12年11月16日の転倒及びその後の入院中における本件転倒事故が発生した高度の蓋然性があるものと認めることはできない。
(2) 本件転倒事故とAの死亡との間の因果関係について
ア 本件転倒事故が起きてからAが肺炎を直接の原因として死亡するに至る経過は,前記前提事実(第2の1(4))のとおりである。
イ 前記前提事実によると,Aについては,平成12年11月20日の時点では,抜糸が終了したら退院する方針とされたが(乙A4号証12頁),同月23日午後11時前ころに転倒事故が起きた後,同月24日にはこの転倒事故による後頭部の傷が治るまでの約1週間,入院を延長することとされた(同15頁)。ところが,その後,同月28日には,Aは,酸素飽和度が低下したことからICUに収容され,同日,同人は肺炎及び糖尿病等の内科的な合併症を起こすリスクが高いと思われる旨診断されている(同21頁)。同日には,胸部X線上,明らかな肺炎像は認められなかったが,同月30日には意識障害に伴い誤嚥性肺炎を併発しているものと思われる旨の診断がされている(同24頁)。


そして,本件転倒事故の影響として,くも膜下出血を起こし(同21頁),左肋骨を骨折した可能性があり(同22頁),硬膜下腔が拡大された可能性もある(同27頁)とされているところであり,平成12年12月4日には,硬膜下水腫及び一部脳挫傷が意識障害の原因と考えられる旨(同35頁),その後も,頭部外傷,硬膜下水腫のため意識低下が見られる(同52頁)と診断されている。また,Aの死亡後,被告病院においては,同人につき,「頻回の頭部打撲により,硬膜下水腫が貯留。それに伴って肺炎などを併