H17. 8.31 東京地方裁判所 平成15年(ワ)第17363号  損害賠償請求事件

平成17年8月31日判決言渡 
平成15年(ワ)第17363号 損害賠償請求事件

判決

主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
 被告は、原告に対し、1557万9493円及びこれに対する平成15年9月3日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
 本件は、原告が、声が出しづらいとしてA病院(当時)を訪れ担当医師から甲状腺腫瘍と診断されて手術を受けたが、手術後に頸部の違和感及び圧迫感並びに甲状腺機能低下等の後遺症を発症し、これらは担当医師が穿刺吸引細胞診を実施して手術適応を判断することを怠ったことにより手術適応を誤った過失又は担当医師には原告に対して十分な説明をしなかった過失があるものと主張して、上記病院を管理する被告(上記病院は、本件の診療がされた当時は国が設置管理していたが、平成16年4月1日以降、被告が承継した。)に対し、診療契約上の債務不履行に基づき、損害賠償金及び訴状送達の日の翌日である平成15年9月3日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を請求している事案である。
1 前提となる事実(認定の根拠となった証拠等を()内に示す。直前に示した証拠のページ番号等を〔〕内に示し、さらに特定する場合は〈〉内に示す。以下同じ。)
(1) 当事者
ア 原告は、昭和25年2月1日生まれの女性であり、平成11年7月5日から、神奈川県相模原市所在のA病院(初診当時の名称。以下「被告病院」という。)の耳鼻咽喉科において甲状腺の診療を受けた(争いのない事実)。
イ 被告は、独立行政法人国立病院機構法(平成14年法律第191号)に基づき、平成16年4月1日に成立した機構である。被告は、同日当時国立病院であった被告病院を国から承継するとともに、同法附則5条及び独立行政法人国立病院機構法施行令(平成15年政令第516号)附則4条の規定に基づき、本件訴訟を国から承継した。(裁判所に顕著な事実)
(2) 診療経過の概略
 診療に関する事実経過は、別紙「診療経過一覧表」に記載のとおりであり(同表のうち、「診療経過」欄のゴシック体部分以外は当事者間に争いがない事実であり、診療経過に関する原告の主張は「原告の反論」欄に記載のとおりである。)、その概略は次のとおりである。
ア 原告は、声が出しづらくなったとして、平成11年7月5日、被告病院耳鼻咽喉科の診察を受けた。その際、B医師(以下「B医師」という。)が原告の診察を担当した。(争いのない事実)
 B医師は、問診及び触診を行ったところ、甲状腺腫瘍が疑われたため、血液検査、生化学検査、免疫血清検査、尿検査、聴力検査、頸部超音波検査及びX線検査を施行し、CT、MRI及び甲状腺シンチグラムの検査予約をした(乙A1〔1ないし5、10ないし17、35〕)。
イ 原告は、平成11年8月30日、被告病院に入院し、翌31日、B医師(術者)、C医師、D医師及びE医師の担当のもと、甲状腺亜全摘出術(以下「本件手術」という。)を受けた。この際、原告の甲状腺左葉全体(15グラム)が摘出され、右葉からは嚢胞性腫瘍1個が甲状腺実質をつけて摘出されたほか(5グラム)、硬い腫瘤2つを周囲の組織ごと(1グラム)が切除された。(争いのない事実、乙A2〔4、8、21、22、26、29ないし33〕)
(3) 手術後の状況
 原告は、被告病院を退院後も、体調の不良を訴えて被告病院を外来受診していた(争いのない事実、乙A1)。現在は、F医院に通院し、「腺腫様甲状腺腫・甲状腺右葉切除後」との同病院の医師による診断のもと、甲状腺ホルモン剤であるチラーヂンS錠50を服用している(甲A1、A2、原告本人〔31〕)。
2 争点
(1) 原告に対する甲状腺腫瘍摘出手術の適応の有無
(2) 原告に対する説明義務違反の有無
(3) 上記各過失行為と損害との間の因果関係の有無(判断する必要がなかった争点)
(4) 損害額(判断する必要がなかった争点)
3 争点についての当事者の主張
 別紙「主張要約書」(これは、平成17年9月13日の本件第6回弁論準備手続期日において当事者双方が陳述した争点整理案を基本とし、その後の当事者の主張を付加したものである。)記載のとおりである。
第3 当裁判所の判断
1 事実関係
 証拠等によれば、次の事実が認められる。
(1) 初診時(平成11年7月5日)の診察と検査
ア 原告の主訴
 原告は、問診票「3.声がかれる」の項目を丸で囲むとともに、B医師からの問診に対しても、3か月前からしゃべりすぎると喉が詰まったり声が嗄れると訴えた。(乙A1〔4、35〕、A15、証人B〔1〕)
イ 視診の実施
 これに対し、B医師は、内視鏡等により検査を行った。その結果、声帯の動きは正常であり、反回神経麻痺はなく、よって、反回神経に対する癌の浸潤は認められなかった(乙A2〔2〕、証人B〔25〕)。
ウ 触診の実施
 さらに、B医師は、原告の頸部の触診を実施したところ、甲状腺の左葉に嚥下とともに挙上する腫瘤に触れた(乙A1〔4〕、乙A15〔2〕)。
 この点に関し、原告は、B医師が触診をしようとはしたものの実際にはしなかった旨を述べる(原告本人〔16〕)。しかし、乙A第1号証・4頁には、首の付け根の当たりに丸印が付され、「?」との記載があることから、通常であれば医師が何らかの診察によって当該部位に異常の存在する可能性を認めたものと考えられるし、B医師が触診をしようとしたところ原告が「甲状腺」と発言したため結局触診をせずに他の検査をしたという原告の供述内容自体も、そのような発言自体が唐突で不自然であり、医師が原告の同発言のみを根拠に実施しようとしていた触診を省略したというのも不自然かつ不合理であって、結局、B医師が触診をしなかったという原告の供述は信用できない。
 なお、原告は、乙A第1号証・4頁の頸部の記載の直下にはエコーの記載があること、乙A第2号証・3頁に「喉の違和感のため、当科を受診した。エコーにて甲状腺腫瘍を指摘された」と記載されていることなどを根拠に、触診は実施せず、超音波検査(エコー)によって腫瘤を発見したものであると主張する。しかし、甲状腺の腫瘤の検査方法としては、検査のための器械・器具を何ら必要としない触診が最も容易な検査手段であるし、乙A第1号証・4頁におけるエコーに関する記載は頸部に関する記載の直下にあるとは言い難く、また、乙A第2号証・3頁の記載についても、超音波検査の結果として甲状腺腫瘍が指摘されたことをもって触診を実施しなかったということはできず、原告のこの主張は採用できない。
エ 血液検査等の実施
 そこで、B医師は、血液検査、生化学検査、甲状腺機能検査、尿検査、聴力検査並びに甲状腺及び喉頭のX線検査を施行した。これらの検査のうち、前五者(血液検査ないし聴力検査)については異常が見られなかった。
オ 超音波検査の実施
 B医師は、上記と同様に、原告の甲状腺について超音波検査を実施した。その結果、B医師は「甲状腺左葉の中ないし下極にかけて充実性の腫瘍を認める。内部は一部cystic(嚢胞性)になっている。また周囲には多数のcystic lesion(嚢胞性病変)あり。右葉中極から下極にかけて嚢胞性病変を認める。左葉の充実性の部分は血流に富んでいる」旨、すなわち、右葉中部に腫瘤を、左葉に嚢胞性部分及び充実性部分をそれぞれ認め、それぞれについて次の所見を示している。すなわち、右葉中部の腫瘤に関しては、内部エコーはほぼ均一で嚢胞性、境界は明瞭、底面エコーはやや増強、被膜は保たれており、被膜外への進展はない。左葉の腫瘤に関しては、内部に嚢胞を伴った左葉の大部分を占める充実性の腫瘍を認める、充実性部分には部分的に高エコー帯が認められる、正常甲状腺との境界はやや不明瞭、底面エコーは増強。(乙A1〔4、10ないし16〕、A6の1ないし5、A13〔1〕、A15〔2〕、証人B〔1ないし3〕)
(2) 2回目の診察日(平成11年7月26日)までに施行したその余の検査とその所見
ア 甲状腺シンチグラム検査(乙A1〔18、19〕)
(ア) 被告病院は、B医師からの依頼に基づき、原告について、平成11年7月12日、甲状腺シンチグラム検査(Tc-99m 04-)を施行した。この結果について、被告病院放射線科のG医師及び同H医師は、「甲状腺右葉中部から下極、左葉中部及び下極外側及び内側にcold nodule(コールド結節)を少なくとも4個認めます。左葉への集積は全体に右葉より低下しています。Tl-201 CIによる甲状腺scanも施行して下さい。」との所見を得、被告病院は「多発性甲状腺腫瘍」であるとの診断をした(乙A1〔18〕)。
(イ) 被告病院は、原告について、平成11年7月19日、甲状腺シンチグラム検査(Tl-201 CI)を実施し、この結果について、被告病院放射線科のG医師及び同H医師は、「甲状腺左葉中部から下極にかけてcold noduleを認めます。甲状腺右葉の上極、中部にcold noduleを認めます。左葉の中部(ほぼ左葉の正中)にはRI集積の高い部分を認めますが、明かなhot noduleは指摘できず、早期像と遅延像の比較でも洗い出しは均一と考えます。」との所見を得、被告病院は「甲状腺嚢腫疑い」であるとの診断をした(乙A1〔19〕)。
イ CT検査
 被告病院は、原告について、平成11年7月19日、頸部CT検査を実施し、被告病院放射線科のI、H及びJ医師は、「#甲状腺左葉中部に円形のmass lesion(腫瘤性病変、証人B〔28〕)が見られます。辺縁には充実成分がみられ、また内部に石灰化がみられます。明かな被膜外への進展はみられません。」、「#甲状腺右葉(乙A1〔20〕には「左葉」と記載されているが、右葉に関する記載がないことと乙A13の記載と対比すると、「右葉」の誤記と認める。)中部にもmass(腫瘤)がみられます。明らかな充実成分は見られませんが内部のCT値は水よりもやや高いです。明らかな被膜外への進展はみられません。石灰化(-)」、「#左後頸三角リンパ節、左項リンパ節がやや目立ちます。」との所見を得た。(乙A1〔20〕)
(3) B医師の所見
ア B医師は、上記(1)及び(2)の各検査の所見に基づき、次のように判断した。
(ア) 原告の甲状腺腫瘍は、多発性であることから、術前診断は線腫様甲状腺腫であるが、超音波検査で充実性の腫瘍を認めるとともに石灰化が疑われ、CTによって石灰化が確認されたことなどから甲状腺左葉の一部には悪性の疑いがある(乙A15〔4、7〕)。
(イ) 甲状腺腫瘍は悪性であったとしても、ほとんどが性質のおとなしい癌であり、腫瘍に切り込むことなく周囲組織ごと摘出できれば再発の危険性はごく僅かであり、術後の病理診断で仮に癌の合併があったとしても、腫瘍ごと腺葉を摘出すれば再発の危険性は少ない。(乙A15〔7〕)
(ウ) 癌であった場合、稀に反対側へ腺内転移を起こす場合もあるが、残存甲状腺からの再発防止という面から甲状腺を全摘することは、術後の患者の生活の質(Quality of lifeを指す。以下「QOL」という。)を考えると合理的でない。仮に全摘とした場合、術後に甲状腺ホルモン剤の補充が必須で、副甲状腺機能低下に対してはビタミンD、カルシウム製剤の補充も生涯にわたり必要になる。(乙A15〔8〕)
(エ) 甲状腺機能・副甲状腺機能低下症など、術後の患者のQOLの面から、できる限り正常甲状腺組織は残すべきである。良性である可能性もあり、甲状腺を大きく摘出すると一生薬を飲み続けなければならないことを考えれば、良性であった場合、QOLの面から非常に問題になる。他方、甲状腺の摘出範囲が小さいと、癌で再発を認めた場合、再手術が必要になるが、その可能性は低い。(乙A15〔8〕、弁論の全趣旨)
(オ) 手術の合併症については、腫瘍は被膜外への進展はなく、反回神経はまず問題なく保存できる。術後の甲状腺機能も3分の1は正常甲状腺が残るので、甲状腺機能はまず問題にならない。副甲状腺は右葉の2個を残せるので、術後の機能については問題ない。(乙A15〔8〕、弁論の全趣旨)
イ B医師は、上記アを根拠として、手術による治療を行うとの方針を立て、具体的には、次のような治療方針を立てた(乙A15〔8〕)。
(ア) 悪性の合併も考えられる左葉の腫瘍は左葉全体を完全に摘出する。
(イ) 右葉は、中部の嚢胞は核出し、下極の充実性の小さな腫瘍は部分切除とし、患者のQOL重視の立場から、極力保存する。
(ウ) 実際の術中所見で、腫瘍の被膜外への浸潤や癒着、リンパ節腫脹など悪性を疑う所見が見られれば、リンパ節を郭清する。
ウ B医師は、上記の方針に基づき、平成11年7月26日の診察日に、原告に対する甲状腺手術を施行する日として同年8月31日を予約し、同月11日に術前検査を行うこととした(乙A1〔5〕)。
(4) 本件手術が施行されるまでの経緯
ア MRI検査とB医師の判断
(ア) 被告病院は、原告について、平成11年7月29日、頸部MRI検査を施行し、被告病院放射線科のI、H及びJ医師は、「#甲状腺左葉は腫大し上極~下極にかけて内部に多房性のmass(腫瘤)がみられます。内部の隔壁様構造にはGd-DTPAによるenhance(増影効果)がみられます。明らかな被膜外への進展は見られないようです。」、「#甲状腺右葉中部にもmassがみられます。充実成分は内側にみられます。T1:low、T2:lowを示しています。明らかな被膜外への進展はみられません。」との所見を得た(乙A1〔21〕)。
(イ) B医師は、内部の隔壁様構造にはGd-DTPAによる増影効果がみられることから、悪性の可能性を考えなければならないと判断した(乙A13〔3、4〕、証人B〔8〕)。
イ 手術の決定と原告による手術の承諾
 B医師は、上記(3)及び上記アの判断のもと、手術を施行することとし、平成11年8月11日、画像上の検査等ですべてが明らかになるものではないため、上記(3)イ(ウ)の方針などを念頭に置き、手術承諾書に、手書きで「術中所見により、多少術式が変わる場合があります。」と記載した(乙A1〔5、37〕、A15〔5ないし8〕)。
 原告は、同日、上記承諾書の交付を受けて帰宅し、同月17日にこれに対して署名押印をした上、同月30日の入院時に提出した(乙A1〔37〕、A2〔29〕、A15〔8〕、原告本人〔8、24〕)。同承諾書には、「……手術、麻酔、検査及び処置等を依頼するにあたり、その内容、その必要性、その後の経過と予想される結果、起こりうる合併症などについて、担当医師から説明を受け、了解しました。よってその実施を承諾します。」との記載が不動文字で存在し、説明医師としてB医師の氏名が手書きで記載されている(乙A1〔37〕、乙A15〔8〕)。
ウ 原告の入院
 原告は、平成11年8月30日午前9時30分、被告病院に入院した(乙A2〔2、10〕)。
 入院に際し、原告は、「問診票」に必要事項を記入した。原告は、質問事項のうち、「3)医師からどのように説明されましたか」との項目に対する回答としては「大きな声でしゃべっていたので、そういう風になるとも…。腫ようがあるので手術が必要」と、「V. ご入院に際しまして、何か質問はありませんか」との項目に対する回答としては「手術は甲状腺の手術に慣れた専門の外科医がなさるのでしょうか‥‥」とそれぞれ記載した。(乙A2〔14ないし19〕)
 他方、被告病院の看護師は、原告から必要事項を聴取し、これを「入院時データベース」に記入した。そのうち、「医師から病気についてどのように説明されたか」の項目に「腫瘍があるのでとった方がいい」と記載されている。(乙A2〔10〕)
エ 穿刺吸引細胞診の不施行とB医師の認識
(ア) 原告に対しては、初診時から本件手術を施行するに至るまで、穿刺吸引細胞診は実施されなかった(争いのない事実)。
(イ) 穿刺吸引細胞診について、B医師は、次のような認識を有していた。
a 一般的に、甲状腺腫瘍において画像診断等により充実性、石灰化が認められる場合は、穿刺吸引細胞診を行う必要はない(乙A15〔14、15〕)。
b 穿刺吸引細胞診については、内頸動脈が近くにあり、誤って突いて大出血を起こして気道狭窄を来した症例など、出血の恐れや、気胸、播種の問題がある。播種は、臨床的に問題にならないだろうと文献には書いてあるが、実際にはそのような文献はごく僅かで、はっきりしたことは言えない。実際、特に耳鼻科の場合、扁平上皮癌という悪性度の強い腫瘍を扱うことが多く、安易な穿刺が播種や急激な腫瘍の増大や転移を促進することが経験的に判っている。したがって、甲状腺については問題がないとはいえないのであって、そうである以上、B医師が過去に所属していた北里大学の医局の方針と同様に、穿刺吸引細胞診は慎重に行うべきである。(証人B〔16〕)
 原告については、画像所見等で手術適応があると判断されるし、その上で侵襲を加えるような穿刺吸引細胞診を行う必要もないのであるから、穿刺吸引細胞診を実施する必要はない。(証人B〔15、16〕)
(5) 本件手術の施行
 原告は、平成11年8月31日午後2時10分、入院病棟から手術室へ出棟し(乙A2〔22〕)、次の手順により手術が施行された(乙A2〔30〕、乙A15〔8ないし10〕)。
ア 襟状切開による皮膚切開
イ 皮膚の剥離
ウ 甲状腺の露出
エ 甲状腺周囲の剥離
オ 反回神経の確認及び保存
カ 腫瘍の摘出
キ リンパ節の郭清
ク 縫合
(6) 原告の甲状腺腫瘍の状態(良性)
 被告病院のC医師は、本件手術において摘出された原告の甲状腺について、病理組織検査を依頼し、平成11年9月3日、同検査がされた。病理診断医であるK医師は、上記甲状腺について、「腺腫様甲状腺腫、良性」と診断し、「2.1×4.5×2cm大の甲状腺左葉内には結節性病変が多発している。これらはいずれも大小の濾胞の増生巣で、中心部には硝子様の小さな線維化巣がみられる。被膜形成は不完全で、腺腫様甲状腺腫と診断される。甲状腺右葉の3×1.5×1.3cm大と1.5×1.4×0.8cm大の2個の結節についても左葉とほぼ同様で、一部は嚢胞状に拡張した濾胞も含まれている。また、繊維化に加え石灰化を伴った部分も認められる。以上、全体として甲状腺全域の腺腫様甲状腺腫の存在が示唆される。悪性所見なし」との所見を得た。(乙A2〔36〕)
(7) 本件手術施行後の状況
ア 退院(平成11年9月24日)まで
 原告は、本件手術後、首が引きつれて重い感覚があるとの訴えがあった他は良好に経過し、2度の外泊を経て、平成11年9月24日、被告病院を退院した(乙A2〔2、24、25、45、46〕)。
イ 退院後の外来受診
 原告は、退院後も13回にわたって外来受診をし、そのうち、平成11年10月29日、11月29日、12月15日、平成12年2月16日、3月15日、10月19日には、医師の診察を受けた(乙A1〔5ないし9〕)。
 そのうち、平成12年2月16日には、原告は、D医師に対し、本件手術に関して質問をした。この点に関し、同日の外来診療録に、「私はセカンドオピニオンという単語は知っていたが素人なので手術と言われたらやるしかなかった」旨の記載がある。(乙A1〔7〕、原告本人〔10、11、32、33〕)
2 医学的知見関係
 証拠等によれば、次の医学的知見が認められる。
(1) 結節性甲状腺腫の種類と症状
ア 良性結節
 良性の結節には、腺腫と腺腫様甲状腺腫、濾胞がある。腺腫様甲状腺腫は、厳密には腫瘍とは言い難いが、診断上ないし治療上、良性結節に含めて考えられる。腺腫様甲状腺腫を過形成として分類する場合もある。(甲B4〔124〕、B6〔104〕、B8〔876〕、B9〔83〕、乙B2〔222〕)
イ 悪性腫瘍
 悪性腫瘍は、乳頭癌、濾胞癌、髄様癌、未分化癌、悪性リンパ腫に分類される(甲B4〔121ないし122〕、B6〔113〕、B8〔876〕、B9〔83〈表III・2〉〕)。
(2) 結節性甲状腺腫の診断法
 結節性甲状腺腫の診断をするためは、次の方法がある(甲B16〔96ないし102〕、乙B3〔488ないし494〕)。
ア 問診
 腫脹に気付いた時期や腫大の有無、随伴症状(嗄声や嚥下障害の有無など)の有無を聞き出す(甲B16〔96〕、乙B3〔488、489〕)。
イ 視診
 前頸部の皮膚の性状を診る(甲B16〔96〕)。嚥下運動により腫瘍が喉頭と共動することを確認する(乙B3〔489〕)。
ウ 触診
 硬さの程度とその均一性、波動の有無、結節の表面と境界の性状を診る(甲B16〔96、97〕)。
 腫瘍の表面の性状や硬さ、大きさ、波動の有無をみるだけでなく、喉頭、気管及び頸動脈などとの関係に注意することが重要である。気管はほとんど健側に曲がっていることも確認する。転移の有無も確かめる。良性の甲状腺腫は一般に弾性を有するが、癌では硬く周囲と癒着し、また転移を触れることがある。(乙B3〔489〕)
エ X線撮影検査
 気管の状態や石灰化像の有無とをみる。
 喉頭撮影正面及び側面を撮影する。気管の偏位と石灰沈着の有無が重要な所見である。乳頭腺癌に石灰化がみられることが多い。砂粒腫様小体がみられれば決定的である。触診で触れなくとも石灰化をみたら、甲状腺癌を疑って精査する必要がある。(乙B3〔489、490〕)
オ 超音波検査
 結節が充実性か嚢胞性かをみる。充実性であれば、たとえ良性のものであっても結節が徐々に大きくなる可能性があるほか(甲B4〔125〕)、腺腫や癌、腺腫様結節などが考えられる。嚢胞性であれば嚢胞あるいは嚢胞変性を起こした腺腫や腺腫様結節が考えられる。腫瘤の形態と内部構造の性状をみる。反射強度では特に悪性リンパ腫で細胞が均一に増殖すると内部エコーが帰ってこないため、嚢胞と見間違うような所見を呈する。石灰化は乳頭癌あるいは髄様癌を疑わせる。(甲B16〔97〕)
 水浸法で一般にI型、II型及びIII型の3パターンを示す。II型及びIII型は充実性の腫瘍であり、特にIII型は内部に石灰沈着や結合組織の増殖が強いものにみられ、癌の可能性が高いといえる。(乙B3〔491、492〕)
カ シンチグラム
 201Tl等によるシンチグラムでは、甲状腺結節性病変の良性・悪性の判定、悪性腫瘍の浸潤範囲や遠隔転移の検索ができる(甲B13〔84〕)。
 131Iによるシンチグラムは、一般に良性腫瘍ではcold noduleの境界が明瞭で、悪性腫瘍は境界不鮮明か全く欠損するといわれている。ただし、これには反論もある。(乙B3〔493〕)
キ 甲状腺機能検査
 大部分の甲状腺腫は、甲状腺機能は正常であって実際には機能検査の診断的価値は少ないが、他の甲状腺疾患を否定する意味で必ず行われている(乙B3〔493〕)。
ク 穿刺吸引細胞診・病理組織診
(ア) 直接、腫瘍に針を刺し、腫瘍細胞を採ってくる(甲B16〔97〕)。
 切開して切除する方法や、針による組織採取法や細胞診がある。これらの方法については、転移の問題があって論議の的になっている。22ゲージくらいの細い針で行うaspiraton biospy(穿刺吸引細胞診)なら転移や散布を生じないだろうという意見があるが、採取組織が少ないため誤診の可能性がある。(甲B17の2〔163〕、乙B3〔493〕、弁論の全趣旨)
(イ) 穿刺吸引細胞診の結果は、クラス1からクラス5の5段階に分類され、その内容は次のとおりである(裁判所に顕著な事実、弁論の全趣旨)。
● クラス1 正常(異型細胞を見ない)
● クラス2 良性異型(異型細胞はあるが悪性細胞を見ない)
● クラス3 良性・悪性の判定の困難な異型(悪性を疑わせる細胞を見るが確定診断できない)
● クラス4 悪性を強く疑う(悪性、極めて濃厚な異型細胞)
● クラス5 悪性(悪性と診断可能な異型細胞)
ケ CT、MRI
 腫瘍の進展度(周囲臓器、特に気管や前縦隔内への進展度)をみるのに有用である(甲B5〔38〕、B16〔102〕)。
(3) 穿刺吸引細胞診の一般的有用性と危険性
ア 一般的有用性
(ア) 甲状腺の触診や超音波などの画像診断で結節が認められたとき、それが悪性が良性かを診断するのに、穿刺吸引細胞診は最も優れているとされている(甲B2〔21〕、B3〔44〕、B4〔115〕、B5〔35、40〕、B10〔90〕、B11〔55〕、乙B4〔252〕)。触診の際、特に悪性が疑われる場合には必ず行うべきであるとの指摘もある(甲B13〔81〕)。
(イ) 特に、超音波ガイド下穿刺吸引細胞診には、針先が穿刺目的部位に到達したかどうかを画像上で客観的に確認でき、血管その他周囲臓器の副損傷を容易に避けることができる、触診や他の画像診断で検出できない小病変でも穿刺が可能であるなどの有用性があるとされている(乙B7〔16〕)。
イ 合併症
 穿刺吸引細胞診の合併症としては、出血、感染及び癌細胞播種の3つが考えられる(乙B7〔23、24〕)。
ウ 穿刺吸引細胞診に対する慎重な考え方
(ア) 穿刺吸引細胞診は、良性腫瘍の診断率は優れているが、本来の目的である悪性腫瘍の診断率については20%強の取りこぼし(偽陰性)があり、偽陰性の例では、嚢胞状変性の例で嚢胞液が穿刺され十分に細胞が採取されなかったものが多く、次いで乳頭癌に特徴的な石灰化のために細胞が上手く採取されなかったものが多かったとの指摘がある。(乙B4〔252〕)
(イ) 穿刺吸引細胞診では、濾胞腺腫と濾胞癌とは鑑別が困難であることは、その有用性を強調する文献も多くも認めているし(甲B2〔21〕、B3〔44、49〕、B4〔115〕、B5〔43〕)、むしろ充実性結節では濾胞癌の見落としが問題となるとの指摘もある(甲B11〔56〕)。また、濾胞が多い乳頭癌の診断が困難であって、実際、甲状腺癌の約9.5%を占めている濾胞癌が誤診される率は約75%から85%であり、乳頭癌でも濾胞構造を示す部分が多いものでは誤診率が25%程度になる。(乙B5〔1〕)
(ウ) 穿刺吸引細胞診については、腫瘍細胞の播種が起こりうることを重視し、その適応は慎重に決定されるべきであって、頭頸部領域に原発巣がある患者の転移と思われる頸部腫瘤に対する穿刺吸引細胞診は行うべきでないなどと考え、穿刺吸引細胞診の適応は①良性腫瘍の可能性も高いが悪性腫瘍である可能性も捨てきれない症例、②すでに全身転移を認める症例、③他科領域からの頸部転移、④OB(open biospy;切開して行う組織診)で腫瘍に割を入れざるを得ない症例にあるという指摘もある(乙B9〔272、273〕)。
(4) 腺腫様甲状腺腫と腺腫、癌の鑑別
 腺腫様甲状腺腫と腺腫、癌を術前に鑑別診断するために99mTc・201Tlシンチグラム、超音波検査、穿刺吸引細胞診などが駆使されるが、手術後の病理組織検査によらない限り、腺腫様甲状腺腫に癌や腺腫が合併していることの正確な判断は困難である(乙B4〔248〕)。
(5) 腺腫様甲状腺腫と癌の合併頻度
 腺腫様甲状腺腫の大半のものは腺腫様結節として出現し、その多くは増大せず、大きくなったものでもやがて二次性変性により自然退縮する傾向があるので、できるだけ手術をしないという考えも依然として根強いが、一方で、腺腫様甲状腺腫に癌が合併することは多くの報告にみられ、その頻度も近年増加してきているとの指摘がある(乙B4〔248〕)。
 腺腫様甲状腺腫は約20%に乳頭癌の合併があるので、要注意であるとの指摘があり(乙B4〔253〕)、これとほぼ同旨の指摘もある(甲B9〔87〕)。
(6) 甲状腺腫瘍の治療方針と摘出手術の適応
ア 悪性腫瘍の場合
 甲状腺腫瘍が悪性腫瘍である場合には、その治療は手術による腫瘍の摘出であり、手術の絶対的適応がある(甲B1〔184〕、乙B3〔494、495〕)。
イ 良性腫瘍ないし良性結節、腺腫様甲状腺腫の場合
(ア)a 良性腫瘍ないし良性結節の場合に考えられる治療法には、経過観察をして甲状腺刺激ホルモン(以下「TSH」という。)抑制療法を行うほか、手術がある(甲B1〔183〕、B4〔124〕、B17の2〔164〕、)。
b 良性腫瘍ないし良性結節の場合には、癌の合併等がない限り原則として手術は不要であるとの見解もあるが(甲B3〔43〕、B4〔124〕)、良性腫瘍の場合、一般に、手術適応については相対的適応であると考えられている(甲B16〔102〕)。また、相対的適応の基準については、それぞれの施設、それぞれの医師によってさまざまであるとの意見もある(甲B16〔103〕)。また、良性腫瘍であることがはっきりしている例でも、腫瘤がある程度大きいと抑制療法を行う例もあるが、経過観察よりは患者の希望を入れ、インフォームドコンセントの上、積極的に手術していることが多く、今日なお甲状腺良性腫瘍(非機能性)に対しての治療法は外科医、耳鼻咽喉科医に統一された指針は決まっていないとの意見がある(乙B8〔853〕)。
(イ)a 甲状腺良性結節の手術適応は次の6つであるとの意見がある(甲B9〔84〕)。
● 縦隔内甲状腺腫(周囲臓器への圧迫症状がある)
● 腫瘤内への出血がある
● 大きい腫瘤(径5cmを超えるもの)
● 悪性の可能性が否定できないとき(濾胞性腫瘍で径3cm以上、穿刺吸引細胞診でクラス3、次第に大きくなるもの(TSH抑制療法に反応しないもの)、細胞診で好酸性細胞腫瘍、超音波検査で嚢胞内に乳頭状の突起があるとき)
● 機能性甲状腺結節
● 美容上の問題
b 同様に、手術適応はむしろ厳しくしていると断った上、相対的手術適応は次の8つ及びその他であるとの意見がある(甲B16〔103〕)。
● 大きく硬い腫瘤(5cmを超えるもの)
● 次第に大きくなるもの(TSH抑制療法に反応しないもの)
● 嚢胞及び嚢胞変性を来たし穿刺吸引を繰り返しても縮小しないもの
● 超音波エコーで嚢胞内に乳頭状の突起物のあるもの
● 細胞診でクラス3のもの
● 好酸性細胞のもの
● 機能性結節(AFTN、TMNG)
● 社会的適応
(ウ)a 他方、原則として腺腫様甲状腺腫については手術は不要であるとしながらも、直径3cm以上あるいは4cm以上の結節があって、しかも超音波検査をして充実性の場合は、放置すると今後まだ大きくなる可能性があると思えるため、絶対的適応ではないとしつつも、手術を勧めていいとする見解がある(甲B4〔124、125〕)。
b L医師は、「多発結節性の腺腫様甲状腺腫で小さい明らかに良性結節と思われる場合は、しいて手術を施行しなくてもよいが、変化の著しいものは癌の合併がありうるし、腫大の傾向が強く、時に胸腔内に進展することがあるのでやはり手術すべきである」と指摘する(乙B4〔249〕)。
c 良性の腫瘍が大きくなるには20年、30年という長い年月がかかるが、かなりの高齢になって体力も弱り、持病を持つようになって気道閉塞になって苦しむことになる。持病の種類と程度によってはすぐに手術ができないこともある。したがって、それほど高齢であるとか病人でなくてもあまり大きなこぶを頸部に持っているのは美容的にも醜く、やはり切除した方がよい場合もあるとの指摘もある。(乙B5〔1〕)。
3 争点(1)(原告に対する甲状腺腫瘍摘出手術の適応の有無)について
(1) 認定事実に対する評価
ア 前記2(3)アにおいて認定したとおり、穿刺吸引細胞診は、甲状腺腫瘍が良性であるか悪性であるかを鑑別するのに有用な検査であり、広く実施されている検査であることが認められ、B医師もこれを認めている(証人B〔15、39〕)。これに対して、同ウにおいて認定したとおり、穿刺吸引細胞診には一定の限界があり、その有用性に対する懐疑的な見解も存在し、B医師は、基本的にこれに同調し、他の検査結果から手術適応があると認められる場合には、たとえ穿刺吸引細胞診を行って陰性の結果が出たとしても手術を実施するほかないのであるから、そのような場合には、これを行う必要はないと考えるものと認められる。
イ 他方、前記2において認定したところを総合すれば、良性腫瘍ないし良性結節の場合には、これを原則として経過観察とするとしながらも一定の場合には手術適応があるとするのが一般的見解であると認められる。しかし、結節等が良性か否かの確定診断は手術後の病理組織検査によるほかなく、穿刺吸引細胞診では一定割合の偽陰性があり、陰性であっても良性であるとの確定診断が下せないのであるから(なお、穿刺吸引細胞診を実施しても、クラス3の診断となった場合には、特に確定診断が下せないものである。)、他の検査結果から既に悪性であるとの疑いが相当程度認められる場合には、仮に穿刺吸引細胞診を行って陰性の結果が出ても、なお悪性の疑いを否定できないこととなるが、このような場合にも敢えて穿刺吸引細胞診を行うべきであると明示的に論じた文献は見当たらないし、むしろその結果いかんにかかわらず悪性の疑いが払拭できない以上、そのような検査は行う必要がないと考えるのが合理的である。
ウ 本件においては、前記1(3)及び(4)において認定したとおり、B医師は、原告の甲状腺の結節については、その形状が大きく充実性で石灰化が認められることから、癌である疑いがあるものの良性である可能性があると認識していたところ、前記2(2)オにおいて認定したとおり石灰化が乳頭癌あるいは髄様癌を疑わせる所見であること、同(4)及び同(5)において認定したとおり腺腫様甲状腺腫にも癌の合併があり得ることといった各医学的知見を考慮すれば、B医師の認識に誤りはない。また、本件において原告の甲状腺左葉の状態は前記1(1)オ及び前記1(2)イにおいて認定したとおり充実性部分が認められることから、次第に大きくなることが予想された上、前記1(6)において認定したとおり、摘出後においても長径4.5cm、短径2.1cmに達し、左葉の全部を占めており、摘出された甲状腺結節においては嚢胞成分が流出して縮小すると認められること(乙A16)を考慮すると、結節の大きさはさらに大きかったものと認められるのであるから、仮にこれが良性のものと認識し得たとしても、既に手術適応があったと認めることができる。
エ 以上からすれば、既に手術適応があると認められる本件においては、ことさら穿刺吸引細胞診を実施する必要性に乏しいものとB医師が判断したことに不合理な点は見当たらない。
 したがって、B医師が原告に対して穿刺吸引細胞診をするべき注意義務はないといえるのであって、B医師が原告に対して穿刺吸引細胞診を実施することなく手術適応があると判断したことについて過失があるとはいえない。
(2) 原告の主張に対する判断
ア これに対して、原告は、穿刺吸引細胞診の診断的意義について主張した上、甲状腺の腫瘤ないし結節が良性である疑いが強い場合には経過観察をすれば十分であって、手術は不要である旨主張する。
イ 確かに、原告が提出した書証によれば、一般的に、穿刺吸引細胞診が広く行われ、かつ、良性腫瘍ないし良性結節であるとの疑いが強い場合にはこれを経過観察に付すべきだという意見が強まっていることを推認することは可能である。しかし、前記1(3)ア(ア)において認定したとおり、原告の結節は多発性のものであるから、これに穿刺吸引細胞診を実施する場合には、相当回数の穿刺が必要となり、その危険性も無視できないし、結節に石灰化が認められたことから良好な細胞を吸引できるか否かにも不確かな点があったことと、充実性の結節が認められたことから濾胞癌の見落としも懸念されたことを考慮すると、仮に穿刺吸引細胞診によって陰性の結果が出ても、良性を強く疑い得る状況にはなかったと認められ、原告の主張はその前提を欠くといわざるを得ない。
 この点に関し、原告は、甲B第20号証を挙げて、穿刺吸引細胞診を実施して良性、悪性の鑑別をした場合の予後を根拠に、穿刺吸引細胞診の必要性と経過観察に付すべきこととを主張するが、甲B第20号証・2頁の記載及び同5頁の図2によれば、この研究は、細胞診上良性とされた患者1076人のうち臨床上悪性の疑いがある患者544人を除外してされたものであるし、臨床上悪性の疑いがあるとして手術を施行したが、結果として良性であった患者が上記544人のうち531人いたことが認められるのであって、むしろ臨床上悪性の疑いがある以上、細胞診の結果にかかわらず手術を行うのが実体であったことを示しており、甲B第20号証のみを以て経過観察に付すべきであるということはできない。
ウ したがって、原告の主張は採用できない。
4 争点(2)(原告に対する説明義務違反の有無)について
(1) 緒言
ア 原告のこの点に関する主張は、穿刺吸引細胞診を行うべきであったことを前提として、穿刺吸引細胞診自体の説明と、その結果が良性であった場合には経過観察をして大きくならないようなら心配しなくてよいと説明すべきであったというものである。
 しかし、前記3で説示したとおり、本件においては穿刺吸引細胞診を行う必要はなかったのであるから、この点を説明する必要は認められないし、仮にこれを実施して良性の結果が得られたとしても、手術適応がある以上はその旨を説明すべきであって、原告主張のような説明をする必要はない。
 したがって、原告のこの点に関する主張は、その前提を欠くものといわざるを得ない。
イ 上記のとおり、原告の主張はその前提を欠き、原告は、手術適応や穿刺吸引細胞診の必要性に関する被告の主張を前提として説明に不十分な点があったとの主張は予備的にもしていないから、本来ならばこれ以上説明義務違反の有無について認定判断する必要はないが、念のため、被告の上記主張を前提としてB医師の説明内容について検討する。
(2) B医師の説明内容について
ア B医師が実際にどのような説明を行ったかについては、当該双方の主張が大きく異なっているところ、診療録には説明内容に関する記載がなく、手術承諾書における説明内容に関する記載は非常に抽象的なものにすぎないから、被告主張のような詳細な主張がされたことを裏付ける証拠はないといわざるを得ない。
イ もっとも、原告は、B医師が、平成11年7月26日の診察時には、「たぶん良性でしょう。でも、1か所、内部の石灰化がちょっとね……」と説明をし、原告がB医師に対して「手術は、どうして受けなければならないのでしょうか」と質問したところ、同医師は「腫瘍が大きくなりますから」と答え、そのほか合併症についての説明をしただけで、同年8月31日に手術をすると決定されたと主張し、かつ、これに沿う陳述(甲A3〔2〕及び供述(原告本人〔2、5〕)をする。
 しかし、前記1(1)ウにおいて認定したようにB医師が触診しなかった旨の原告の供述が信用できないことに照らすと、原告が主張する内容以外の説明がされなかったとも認定できない。
 仮に、実際の説明が原告主張の限度にとどまるとすると、説明としてはいささか不十分との印象は免れないところであるが、腫瘍が良性である可能性があるにもかかわらず、石灰化が認められることと腫瘍が大きくなる可能性があることから手術を行うとの意図は十分に伝わっており、手術適応の判断の中核部分は説明されたと認めることができる。
 その上、原告は当該B医師を信頼しており(原告本人〔35〕)、手術適応があるとのB医師の判断に前記のとおり誤りがない以上、B医師が前記1(3)及び(4)の所見等を詳しく説明したとしても、それに加えて、手術を行うとの結論を示されれば、手術に応じたものと認められるから(原告本人の同頁の供述中には、他の病院では経過観察をしているところもあるとか、他の病院へ行って意見を伺ったらどうかと言われていれば、それに従ったとする部分もあるが、前記のとおり、手術適応に関するB医師の判断に誤りがない以上、同医師としては、そのような説明や慫慂を行う義務はなかったというべきである。)、仮に同医師の説明内容が上記のとおりであってそれが不十分であるとしても、これによって原告の自己決定権が侵害されたとは認められず、原告に何らかの請求権が発生するとは認め難い。
5 結論
 以上のとおり、争点(1)(原告に対する甲状腺腫瘍摘出手術の適応の有無)については、被告病院のB医師に過失があるとはいえず、かつ、争点(2)(原告に対する説明義務違反の有無)についても、これを認めることができないのであるから、その余の争点(争点(3)(上記各過失行為と損害との間の因果関係の有無)及び争点(4)(損害額))について判断するまでもなく、被告に診療契約上の債務不履行がなく、損害賠償責任が発生しないことは明らかである。
 よって、原告の請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第34部


裁判長裁判官 藤山雅行



裁判官 金光秀明



裁判官 萩原孝基

(別紙)
主 張 要 約 書

第1 穿刺吸引細胞診を実施せずに本件手術の必要性を判断した過失の有無
(原告の主張)
1 穿刺吸引細胞診の一般的有効性
 ①甲状腺の穿刺吸引細胞診、とりわけ超音波ガイド下の穿刺吸引細胞診は、安全性が高く、石灰化がみられるものも含めて良性・悪性の鑑別のみならず、腫瘍の種類についても診断率が極めて高い、他方で②悪性腫瘍が疑われる部位についての穿刺吸引細胞診で発見されないような微小癌は一般に経過観察で十分である、そして③甲状腺摘出手術は、そもそも侵襲的な治療法であり、甲状腺機能低下の危険性があるだけではなく、手術した皮膚の触覚知覚異常、感覚鈍麻、癒着によるひきつれ、さらには手術に伴う感染症等の危険がある。
 したがって、穿刺吸引細胞診を実施しないで実施する手術(診断的治療目的手術)に伴うリスクと穿刺吸引細胞診を実施したにもかかわらず悪性腫瘍を見逃した場合のリスクを比較した場合には、穿刺吸引細胞診自体の危険性は低く、仮に偽陰性であっても経過観察にとどめることによるリスクは低いことからして、前者(穿刺吸引細胞診を実施しないで手術を実施)のリスクの方がはるかに高いのであり、超音波ガイド下での穿刺吸引細胞診を実施して悪性腫瘍であることが強く疑われない場合には経過観察をすれば十分なのである。
 このようなことから、成書に甲状腺の結節性病変の診断プロセスに穿刺吸引細胞診が不可欠な検査であることが記述されているばかりではなく、医学生向けの教科書にすら穿刺吸引細胞診が「甲状腺腫瘍の診断に最も重要な検査」であることが指摘されているのである。
2 原告の甲状腺腫瘍についての手術の適否の判断
 ①甲状腺の結節はほとんど(90パーセント)は良性であり、腺腫様甲状腺腫の有無により癌の合併率は異ならないこと、②原告の結節が多発性のものであり、良性疾患である腺腫様甲状腺腫が最も疑われていたこと(実際術前診断、術後の確定診断のいずれも腺腫様甲状腺腫となっている)、③原告の結節に関し癌を疑う触診所見としてたとえば硬さ、周辺組織とりわけ気管への癒着の有無の可能性についての記載が診療録に無く、結節は可動性であったこと、④被告病院放射線科による画像診断の報告書にある診断名は腺腫様甲状腺腫とされていることなどから、原告の甲状腺の腫瘤は良性の可能性が極めて高かった。
 このような場合に、穿刺吸引細胞診、とりわけ、超音波検査ガイド下の穿刺吸引細胞診を実施することなく、悪性の疑いがあるとして甲状腺摘出手術をすることは許されない。
 この検査を実施せずに、結節の切除手術を行いうる条件を強いてあげるなら、腫瘍が大きくて周辺組織とりわけ気管への圧迫症状がある場合や、患者が結節の存在を嫌がり、自ら切除を望む場合くらいである。
 ところが、本件では、原告には結節による圧迫症状と思われる自覚症状はなく、甲状腺左葉の腫瘤の大きさも3センチメートルに達するものではなく、まして触診、超音波検査ではむしろ、良性の可能性が高かったものであり(悪性を示唆する記載は診療録に見当たらない)、穿刺吸引細胞診をせずに手術の適応を判断することはできなかった。にもかかわらず、被告病院は、平成11年7月5日の初診時に手術方針を決定し、その後も手術方針を変更せず、平成11年8月31日に手術を行った。
3 原告に対する穿刺吸引細胞診の要否
 原告の場合には、石灰化した部位等の悪性が疑われる部位について穿刺吸引細胞診を行えば、良性であると診断されたはずであり、穿刺吸引細胞診が必要であったことは明らかである。このことを言葉を変えて言うなら、穿刺吸引細胞診を行わず、あえて診断的治療目的で手術を行ったということになる。

(被告の主張)
1 原告の甲状腺腫瘍の性質
(1) 腺腫様甲状腺腫について
 原告の甲状腺腫瘍は、腺腫様甲状腺腫の疑いが強い病変であった。
 腺腫様甲状腺腫は、腺腫に似た大小種々の結節が多発性に生じるもので、結節内には出血、線維化、石灰沈着等の変化がみられるなど、組織所見は多様で、超音波検査の結果もそれに伴って多彩となる。腺腫様甲状腺腫は、臨床的に癌との鑑別が困難で、術後の病理組織検査によらない限り、腺腫様甲状腺腫に癌が合併していることの正確な判断は困難である。特に、画像診断により腫瘍に石灰沈着などの所見が認められる場合には、超音波ガイド下穿刺吸引細胞診によっても細胞の採取がより難しくなる。一方で、癌との合併は少なくなく、腺腫様甲状腺腫のうち約20パーセントに乳頭癌の合併があるとの報告がされている(乙B4〔248ないし249頁、253頁左〕、乙B6〔697頁〕、乙B7〔66頁〕、甲B9〔87頁〕)。したがって、通常の良性腫瘍と異なり、腺腫様甲状腺腫について、非侵襲的検査により悪性が疑われる場合に、誤診の可能性がある侵襲的検査を行うことなく、手術後の病理組織検査により確定的に鑑別する(診断的治療)ために、手術を行う必要性が高い。
(2) 一部に悪性が疑われたこと
 甲状腺の悪性腫瘍は、腫瘍の発育が緩徐なためか、繊維の増殖、硝子化、石灰化を示すものが多く、超音波診断法等の画像診断により充実性の腫瘍に、石灰化が認められる場合は、癌(乳頭癌等)の可能性が高い(乙B3〔486ないし493頁〕、甲B8〔877頁〕)。なお、充実性、石灰化などの腫瘍の形態、内部構造等については、超音波検査のみならずCTによっても診断できる(甲B9〔87頁〕)。
 原告については、上記頸部超音波検査及びCTの結果、甲状腺両葉に大小多数の結節が多発的に生じ、甲状腺左葉に存在した腫瘍につき、充実性及び石灰化が認められ、その大きさも長径4.5センチメートル以上、短径2.5センチメートルと比較的大きかったこと、嗄声が認められたことなどから、原告の甲状腺腫瘍について、悪性の疑いもあった。
 なお、腫瘍に可動性があり、多発性であることは、腺腫様甲状腺腫を裏付ける所見でもあるところ、腺腫様甲状腺腫は、一般的に相当の割合で悪性腫瘍の合併を伴うものであるうえ、原告については、上述のとおり、一部の腫瘍に充実性及び石灰化が認められるなど悪性が疑われる所見があった。したがって、本件においては、可動性、多発性との所見があることをもって、原告の腫瘍が良性である可能性が高いということはできない。
2 原告の甲状腺腫瘍についての手術適応
 悪性腫瘍(甲状腺癌)の場合は、未分化癌及び悪性リンパ腫を除き、治療法の第1次的な選択は手術である(乙B3〔495頁〕、B5〔2、3頁〕)。乳頭癌については、放射線療法や化学療法は効果がなく、また、リンパ節転移を高頻度に起こし、気管・食道等の甲状腺周辺臓器に浸潤増殖する例もあることなどから、進行すれば、組織又は臓器の摘出範囲が広がり(乙B3〔496頁〕)、術後合併症が重くなる(患者のQOLを損なう)ことは容易に予想される。したがって、術前の検査によって乳頭癌の疑いがある限り、経過観察を選択すべきだとはいえない(乙B2〔223頁〕)。
 また、良性腫瘍とされる腺腫様甲状腺腫であっても、上記1(1)のとおりの性質を有していることから、超音波検査・CT等の画像診断により、腫瘍に充実性、石灰化が認められるなど悪性腫瘍の疑いがある場合は、手術適応が認められる(乙B3〔494頁〈図2-13〉〕、B4〔253頁左〕)。
 本件においては、上記1のとおり、必要な術前検査を実施した結果、原告の甲状腺腫瘍につき腺腫様甲状腺腫が強く疑われ、その腫瘍の一部に悪性を疑う所見がみられたのであるから、本件手術の適応があった。
 特に、本件の場合、画像上、悪性の可能性が疑われる部位は反回神経に近接していたことから、経過観察中に反回神経に浸潤することもあり、その時点で摘出手術をするとすれば、浸潤した反回神経もともに摘出することとなり、一生にわたり、嗄声や嚥下障害を残すことも十分に考えられたのであり、悪性腫瘍の進度を考慮してもなお、早期に手術を行う必要性があったというべきである。
3 穿刺吸引細胞診の一般的な問題点
(1) 穿刺吸引細胞診の誤診率(補助診断法にすぎないこと)
 穿刺吸引細胞診は、採取し得る組織片が少ない、穿刺法・スライドガラスの上へののばし方・固定法・染め方・見方それぞれに高度の技量を要する(甲B4〔114、115頁〕)などの問題から、良性と診断されても誤診である可能性があり、甲状腺腫瘍について、穿刺吸引細胞診によって良性と診断された症例のうち、手術後の病理組織学的検査によって悪性と確定診断された例(偽陰性)が20パーセント以上あるとの報告もあり、偽陰性の例は、嚢胞状変性の例で嚢胞液が穿刺され十分に細胞が採取されなかったものが多く、次いで乳頭癌に特徴的な石灰化のために細胞がうまく採取されなかったものが多いとされている(乙B4〔252頁〕、B8〔848頁〕、甲B7〔9頁〕)。また、乳頭癌でも濾胞構造を示す部分が多いものでは誤診率が25パーセント程度になり(乙B5〔1頁〕)、画像診断により石灰沈着などの所見が認められる場合には、穿刺吸引細胞診による細胞の採取は難しくなる(乙B4〔253頁左〕)。
 したがって、穿刺吸引細胞診は、甲状腺腫瘍が良性であるとの鑑別診断において選択し得る補助診断の一つにすぎず(甲B4〔114頁〕)、確定診断法とはなり得ない。悪性腫瘍の合併が疑われる甲状腺腫瘍について鑑別診断を行う場合、確定診断は、摘出された腫瘍の病理診断によってのみ可能である(乙B4〔248頁〕)。
(2) 穿刺吸引細胞診の合併症
 穿刺吸引細胞診には、出血、感染、細胞播種などの危険もある。出血は、血管の誤穿刺と易出血性腫瘤穿刺の際に特に問題となり、血流の豊富な易出血性病変に対する穿刺そのものが禁忌であるとする意見もある(乙B7〔24頁〕)。また、穿刺吸引細胞診では、腫瘍細胞に汚染された針が腫瘍周囲、皮下、皮膚等の組織を貫通するので腫瘍細胞の播種が起こり得る。本件当時も、腫瘍細胞の播種は、以前より減少したとはいえ、皆無ではない。また、穿刺吸引細胞診は1回の検査で2、3回の試技が行われることが通常であることから、病巣に加わる機械的刺激によって、癌の転移を促進する可能性がある。したがって、予後への影響を考えれば、穿刺吸引細胞診の適応は慎重に決定されるべきである(乙B9〔272頁〕)。
4 超音波ガイド下穿刺吸引細胞診の実施状況
 「甲状腺腫瘍統計と癌治療(乙B8)」は、奈良県立医科大学における昭和60(西暦1985)年から平成9(西暦1997)年まで、病理組織診断がされた甲状腺腫瘍例について、平成10(西暦1998)年にその要旨が耳鼻咽喉科臨床学会で報告された臨床報告であるが、これによると、上記大学病院において、対象期間内に超音波ガイド下穿刺吸引細胞診が実施された形跡はなく、平成10(西暦1998)年に発行された医学文献においても、「最近」超音波ガイド下穿刺吸引細胞診も行うようになったと記載されていること(乙B4〔253頁〕)などから、頸部における超音波ガイド下穿刺吸引細胞診については、一部の積極的な施設によって実施されていたものの、本件当時において、全国的に一般的な検査方法であったとはいえない。
 このように、一部の積極的な施設によって実施されていたにすぎない検査方法について、医師にこれを実施すべき義務はない。
5 原告に対する穿刺吸引細胞診の要否
 原告についてみると、腺腫様甲状腺腫の一部に石灰化がみられることから、偽陰性の可能性が高まる。また、充実性、石灰化が認められる(悪性腫瘍の合併の可能性が高い)左葉の腫瘍は、内部の血流が豊富であることから、穿刺による出血の危険性も高まる。さらに、腫瘍が多様・多発性であり、上述のとおり一部に石灰化病変を伴っていたため、組織の採取が難しくなることなどから、複数回穿刺することが必要とされ、細胞播種の危険性が増大するなどの問題がある。
 他方、原告の甲状腺腫瘍は、腺腫様甲状腺腫の疑いが強く、かつ非侵襲的検査によってその腫瘍の一部に悪性を疑わせる所見が認められたことから、誤診の可能性がある侵襲的検査を行うことなく

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最終更新:2005年09月13日 15:48
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