――二日目、朝――
昨日の今日だが、学校には変わらず通う。
士郎が決めたルールの一つがそれだった。
聖杯戦争に参加するにあたっても、日常生活を犠牲にしないこと。
彼らしいと言えば、彼らしい。
「おはよう、五鈴」
「ええ、おはよう。ごはん、何?」
寝巻から制服に着替えて居間に降りれば、当たり前のように朝食が用意されていた。
士郎曰く数少ない趣味らしいので、特に手を出す事はしない。
出来るのはせいぜい、皿や箸を並べるくらいだ。
しばらくして、玄関の方で戸を引く音がした。
出迎えようと椅子を引けば、それよりも早く駆け足が近づいてくる。
「おはようございます、先輩、五鈴さん。すみません、準備手伝えなくて…」
藤色の髪の少女が、ふわりとした笑顔で居間に入ってきた。
走ってきたのだろうか、少しだけ髪が乱れている。
そういえば、今日は部活の関係で朝は余裕がない、と嘆いていたっけ。
「…桜」
何の気なしに台所に向かう彼女を呼びとめる。
「料理は、士郎の数少ない趣味だから、やらせてあげて」
『数少ない』を強調していうと、台所から不平の声が飛んできた。
くすり、と朗らかに笑って、桜が返す。
「私の趣味でも、あるんですよ」
「…そうね、忘れてたわ」
二人並んで台所に立つ、これ以上に無い我が家の日常を、私は居間でのんびりと眺めていた。
夜になれば、殺し合いが始まる。
今のうちに、日常を噛みしめておかなければ。
――二日目、学校――
少しばかり早く来すぎたせいか、することがない。
時計をじっと眺めて、クラスメイトの実のない会話に耳をそばだてていた所で、
印象的な赤いコートの少女が、気だるそうに教室に入ってきた。
「おはよう、遠坂さん」
クラスメイトの誰かが掛けた声に、凛は優雅に返す。
そのままツカツカと、一限目の予習を初めていた私の机の前に立つ。
「衛宮さん、おはようございます」
「…ええ、おはよう」
軽く挨拶を返すと、満足したのか、そのまま彼女は自分の席へと向かう。
遠坂家は冬木の管理者。
対してこちらは、モグリの魔術師。
父が何を意図してこの街に居を構えたのかは知らないが、その関係がある以上、私は彼女の前で大きな顔は出来ない。
少ししてチャイムが鳴り、ホームルームが始まった。
――二日目、昼――
特に退屈な授業だったわけでもないが、あっという間に昼休みに突入する。
私は弁当箱を引っ提げて、隣のクラスに顔を覗かせた。
「…お、衛宮妹」
掛けられた声に、曖昧に反応を反す。
士郎との関係は、姉弟でもあり、兄妹でもあり、複雑なのだ。
加えて言えば、『衛宮士郎の妹』という称号ばかり先走って、五鈴という名前を覚えてもらえないのは、ちょっと切ない。
「五鈴? どうしたんだ」
「…お昼。弓道場でどうかな、と思って」
士郎の反応を待たず、彼の腕を取る。
そのまま、強引に教室から連れ出した。
後ろから冷やかす声が掛かったが、聞こえないフリ。
「お、おい…何なんだよ」
腕を振りほどき、顔を真っ赤にした士郎から抗議の声があがる。
「…こうでもして教室から連れ出さないと、お弁当をたかられるんでしょう」
「それにしたって、強引過ぎやしないか…後でからかわれるの、俺なんだけど」
ぶつぶつ不平を洩らされたが、それは私の知るところではない。
もう一度腕に組みつこうとしたが、逆らわないから止めてくれ、と嘆願されたので諦める。
向かうは弓道場。この時間なら、誰かしらはいるはずだ。
「先輩、五鈴さん…どうしたんですか?」
「お昼、同席しても構わない?」
「あ、はい、喜んで。えっと、お茶淹れますね」
弓道場の門を開けば、居たのは桜一人。
桜が言うには、先程まで居た虎は、職員室に連行されてしまったらしい。
「いいよ、桜。こっちが押し掛けたんだし、お茶は俺が淹れるから」
「ここは弓道場で、先輩たちはお客様です。もてなす意味でも、私が淹れますから」
目の端に映るお人好し合戦に吹き出せば、士郎が私の方に向き直った。
一瞬の隙を突いて、桜が急須を奪い取る。
逞しくなったものだ。
「それにしてもどうしたんだよ、珍しいな」
「私が士郎をご飯に誘ったことが?」
「いや、それは割と頻繁だろ。そうじゃなくて、学園でこの三人であつまるのがさ」
「…それは」
私は、ちら、と桜を一瞥した。
「士郎に…聞きたいことが、あったから」
「…桜がいないと駄目だったのか?」
私の仕草で察したのだろう。
桜本人も、その言葉で姿勢を正した。
この三人で、はっきりさせなければいけないこと。
聖杯戦争という、下手をしたら命を失う戦に向かう前に。
けれども家では気まずくて聞けないこと。
不思議そうに首を傾げる士郎に、口端を上げて、私は切り出した。
「桜の事、どう思っているんですか?」
ゴト、と重い音を立てて、桜の手から湯呑が滑り落ちた。
「す、すみませ…」
どもりながら顔を真っ赤にして、桜が雑巾を取りに走る。
一方で士郎は、驚いたような瞳でこちらを見返していた。
桜の士郎への好意は傍から見てもあからさまで、気付いていないのは本人たちだけ、と言ったほど。
かけがえのない兄弟と可愛い妹分のため、ここらで私が一肌脱ごう、と、意気込んだのだが、
「あー…いや、俺には勿体ないぐらい出来の良い妹分だよな、うん」
ハハハ、と、空笑い。
それだけか、と視線で問うても、士郎自身が視線を反らしてしまう。
「もう、先輩ったら…」
それだけでも十分だったのか、桜も頬を染めて、満更でも無い様子。
どうやら二人には、まだ早かったのかもしれない。
溜息を吐けば、桜がお茶のお代わりを注いでくれた。
――二日目、放課後――
日常を犠牲にしない、その宣言通り。
士郎は、学校終わりに買い物に行くと言いだした。
「…私もついていきます」
「いいけど、特に面白いもんじゃないぞ?」
一瞬、頭を抱えそうになる。
彼の頭には、本当に日常生活のことしかないのか。
「今は聖杯戦争中でしょう、士郎」
出来るだけ声を潜め、注意する。
どうも彼には危機感が足りていないようだ。
「魔術師であるあなたが、迂闊に外を出歩いて良いと思っているの? 軽率すぎるわ」
「いや、だけどさ…晩飯のネタが」
「二人揃って行動をしないと危険だということを、理解しなさい」
二人なら、敵も的を絞りにくい。
それに、いざとなればライダーもいる。
彼女に時間を稼いでもらえば、容易に逃げることは出来るだろう。
「…二人で普通に買い物をする分には、問題無いんだろ」
「ええ」
「よし、わかった。じゃあ、買い物に付き合う代わり、今夜のメインディッシュは五鈴が決めてくれ」
胸の奥から溢れ出るため息を、堪えることは出来なかった。
「こんなところかな」
両手の買い物袋には、数日は出歩かなくてもいいように、山ほどの食材が詰め込まれている。
彼なりに、聖杯戦争を考えての買い物だったのだろう。
片方持つと言っているのに、彼は頑なに、男だから俺が持つんだ、と言って効かない。
こういう頑固なところは、誰に似たんだろう。
「お茶請け、好きなの買っていいぞ」
ぽい、と、胸元に財布を投げられる。
任されたところで、困ってしまう。これと言った好みもないのに。
ふわ、と香ばしい匂いに気付き、顔を上げる。
江戸前屋の大判焼き。
以前、桜が太鼓判を押していたのを思い出す。そういえば士郎も、ここの粒あんが好きだったっけ。
「いらっしゃい、何にしましょうか」
「粒あん、五つ」
士郎の好きなものは、ならば私の好きなものだ。
名前にちなんで、五個ほど頼んでみる。
処理しきれなければ、桜や虎を呼べばいい。
「はい、お待ちどうさま」
ほどもなく、紙袋を手渡された。
好みは無い、とは言ったものの、腕の中でほかほかと湯気立つ生地の香ばしさ。
見ていると、無性に食べたくなってきた。
袋に腕を突っ込んで、かぶりつこうとすると、士郎が笑う。
「あんまり食べると夕飯入らなくなるぞ」
ごもっともだ。
「じゃ、はんぶんこ、ですね」
「え?」
笑いを止めた士郎の口元に、半分に割った大判焼きを突き付ける。
彼は両手が塞がっているので、食べるなら私の手ずから、ということになるのだ。
「…あーん」
茶化して言ってみれば、頬を染める。
彼とは数年来だが、こういうところは未だに可愛らしく思える。
「いや、歩きながらは…」
拒もうとする士郎に、全力の笑みで以て返す。
「あーん」
「…、いえ、頂きます」
観念した士郎の口の中に、大判焼きを押し込んだ、その時だった。
「サーヴァントです」
頭の中に、ライダーの凛とした声が響く。
「――…!!」
条件反射で身構えた。
蕩け切った頭に喝を入れる。
大判焼きを咥えたままの士郎も、察してか神経を尖らせる。
一瞬でも気を抜いていた自分を責めた。
日常生活を犠牲にしないとは言ったが、それは日常に溺れるという意味じゃない。
ここはまだ家の外、言うなれば交戦区だというのに。
「教えてくれてありがとう、ライダー」
「いえ。五軒向こうの店…マスターは金髪の女性のようですね」
ライダーの言葉に従い、見やる。
「これを売ってほしいとお願いしていますのに、何故出来ないんです!」
大仰に構えたことを、激しく後悔した。
金髪のロールに高級そうな青のドレスは、商店街のど真ん中で、その女性は明らかに浮いていた。
年は自分たちと同じほどだろうか。
忍ぶ気もないその立居振舞い、正規の魔術師だとは思いたくない。
「あいつ…ポンド札で買い物しようとしてんのか」
金髪ロールは、その手に札束を握り締めていた。
随分な富豪だが、日本の田舎まで来てそれは、阿呆丸出しだ。
「融通が利きませんわね、これだから日本は!」
とはいえ、マスターであることに変わりはない。
となれば近くに、サーヴァントも潜んでいることだろう。
向こうは気づいた様子は無いが、警戒は必要だ。
気付かれないうちに去るべきか、と、隣の士郎を見やって、
隣にいたはずの士郎は、金髪ロールに話しかけていた。
「…なあ、此処は俺が建て替えようか?」
「あら、日本にも親切な方は居るのですね」
開いた口が塞がらない。
敵マスターだ、というライダーの忠告は、士郎にも伝わっていたんじゃないのか。
霊体化中のライダーも、言葉に詰まっている。
あのクールビューティーですら反応に困るんだから、余程のことだ。
いや、或いは、敵マスターでも、ということか。
誰かが犠牲になるのを止めたい、それが士郎の参加理由だ。
それはつまり、誰かを犠牲にする悪人以外は、彼の敵にはなりえないということ。
例え相手が争うべきマスターだとしても、困っているなら手を差し伸べる。
実に士郎らしい思考だった。
「助かりましたわ、シェロ。何かお返し出来るものがあれば…」
「気にすんなって、立て替えただけだし」
士郎らしい思考、だが。
私をほったらかして、打ち解けすぎじゃないだろうか。
困っている人を助ける正義の味方、結構なことだ。
しかし、鼻の下を伸ばした正義の味方なんて、私は知らない。
どうせいつも見慣れた貧相な私よりも、外国育ちの豊かな美女の方がいいんだろう。
「…あの、マスター」
「何?」
「よろしいのですか、彼らは」
帰ろうとする私に、さすがに気遣ってか、ライダーが提言する。
「大丈夫でしょう。少なくともあの金髪ロールに悪意は感じないし」
むしろ、マスターである私が軽々しく近づく方が危険だ。
聖杯戦争に参加したと言っても、サーヴァントを呼んでいない士郎はあくまで一般人。
それを傷つけるような相手でも無いだろう。
それに、まだ日は沈んでいない。
魔術の心得があるものなら、こんな時間から戦争を始めようとはしない。
私としたことが、失念していた。
士郎を守ろうと着いてきたのに、どうやら要らぬ世話だったようだ。
逃げ出すようにその場を去って、制服のまま自分の部屋のベッドに潜り込んだ。
――二日目、夜――
士郎が帰宅した、その物音で目覚めたのは、三時間後。
日はとっくに暮れている。
随分と楽しんできたようだ。
「悪い悪い、すぐ晩飯作るからさ」
「…大判焼き食べたから、いらない」
士郎のために残してなんかやるものか、と、五個ともやけ食いだった。
正直、ちょっと胸やけがする。
唇をわざとらしく尖らせると、士郎が頬を掻いた。
「…ずいぶん遅いお帰りで」
「いや、ルヴィアがお礼だって…色々あってさ」
「ルヴィア?」
「ルヴィアゼリッタ、っていうんだ、彼女」
「…へえ。あだ名で呼ぶ仲になったんですね」
今度、桜あたりにでもチクっておこうか。金髪美女に見惚れていました、と。
士郎は困ったように目をうろつかせ、とにかく荷物置いてくる、と自分の部屋へ向かった。
私は後を追い、そのまま一緒に彼の部屋に入る。
殺風景な部屋だ。趣味娯楽と呼べるものが、何一つない。
「どうした?」
「…話しませんか、少しだけ」
「ああ、いいぞ」
けれど夕飯の支度もあるから、少しだけな。
付け加えて、士郎は私に座るように促した。
聖杯戦争、二日目、夜。
勝ち残るために、情報は一つでも多く必要だ。
手始めに、ルヴィアとかいう外人。
彼女のマスター像を、士郎から聞きだしたかった。
「あの後、何をしていたんですか?」
「あの後って…五鈴が拗ねて帰ってからか?」
「……そうです」
かなり物申したかったが、本題から反れてしまいそうなので、止めておく。
「いや、お礼だって商店街を回ってたんだけどさ…ルヴィアが持ってるのはポンドだけで、俺が払ったよ」
なんでさ、と、溜息と共に肩を落とす。
「ただ、両替して返してくれるってさ」
意外と律義な性格だ。
自分のことしか考えていない魔術師連中にしては、珍しい。
魔術に関わりの薄い、半ば巻き込まれた一般人に近いマスターなのだろうか。
それともあの富豪っぷりだ、単に箱入りなだけだろうか。
いや、先に私に気付いて、演技でこちらを泳がせているだけかもしれない。
いずれにせよ、一考の価値はあるだろう。
この話題は、ここまで。
本題は、次だ。
「……士郎」
シャツの袖を捲り、私は令呪を見せた。
これがなんなのか、という知識は、昨晩のうちに教えてある。
「あなたには、ある?」
「…令呪、か」
無ければいい、と思った。
同時に、ありますように、とも願う。
これ以上、聖杯戦争に巻き込まれてほしくなかった。
それは確実に、彼の心を抉る。
けれども士郎は、もうこの冬木で聖杯戦争が起きていることを知ってしまった。
彼が彼として在るなら、誰かを犠牲にするこの戦争に、手を出さずにはいられないだろう。
そうなった時に、彼を守れる存在が欲しい。
悔しくも、私一人では守れない。
「これのことか」
士郎は手をかざした。
血でも皮膚でも無い、赤い傷跡が、しっかりと刻まれていた。
「そうか…これが、令呪なんだな」
頷いて返す。
「士郎…サーヴァントを呼ぶかどうかは、貴方の判断に任せます」
よかった、と思う。
そして、酷い脱力感と眩暈を感じた。
矛盾する二つの感情が、私の中で悲鳴をあげている。
立ちあがり、戸を開く。
「晩飯、食うだろ」
「…ええ」
「出来たら呼ぶから」
いつもよりも少しだけ重い互いの声とともに、聖杯戦争の二日目が幕を閉じた。
最終更新:2012年01月15日 15:05