――三日目、朝――
日常を犠牲にしない。
士郎の決意は固いものだったらしく、居間に降りていけば既に朝食は完成していた。
仄かに鼻孔をくすぐる、香ばしい焦がし味噌の匂い。
今朝は、士郎の和食のようだ。
「おはよう、五鈴」
「おはようございます」
「ええ、おはよう」
皿を並べる桜、料理を盛る士郎に挨拶して、席に着く。
二人を手伝いたいが、生憎そこまで手際が良い方じゃない。
「「「いただきます」」」
味噌汁を喉に流し込む、五臓六腑が歓声を上げる。
魚を一口、口の中でほろりと解れる、最高の焼き加減。
これだけ美味しい食事を毎朝食べられる自分は、相当幸せ者だ。
「…唯一困るのは、舌が肥えてしまうことね」
割と本気で悩んでいたのに、士郎と桜は顔を見合わせて吹き出した。
――三日目、昼――
「…遠坂さん」
購買に向かう様子だった彼女を、私は呼びとめた。
「お昼、よかったら一緒に」
少し大きめのランチボックスを示す。
中には、桜に無理を言って詰め込んでもらったサンドイッチ。
「味は保証します」
凛は少しだけ、驚いたような表情を見せる。
「…珍しいですね、衛宮さんから誘ってくださるなんて」
突然の提案で、不躾だとは自分でも分かっている。
それでも優雅な所作を崩さないのは、流石遠坂家だ。
「そうですね…」
逡巡した凛が言葉を反すのを、少しだけ緊張して待つ。
変わらず優雅な微笑みのまま、凛はこちらに向き直った。
「いい場所があるんです、一緒に行きませんか?」
誘われたのは屋上だった。
漫画などでは定番の昼食場で、とりたてて穴場というわけではない。
しかし今日は、珍しく人がいなかった。
人払いの魔術か、と勘繰る。
彼女はこの街の管理者で、私はモグリの魔術師だ。
その私の方から食事に誘うということを、ただ事じゃないと彼女も汲み取ったのだろう。
聖杯戦争に際して、その土地の管理者から情報を得るのは、かなり有効な手段だった。
もし彼女自身がマスターなら、此方側は無関係を装い、その情報を引きだせる。
そう企てた上での、昼食の誘い。
「……まさか、学園にマスターが居たなんてね」
唐突だった。
唐突過ぎて不意を突かれ、思わず腕の令呪痕を押さえてしまう。
そういえば霊化しているとはいえ、今もライダーは隣にいる。
迂闊だった、と、ランチボックスを強く握る。
「…昼間、それも校内での戦闘は、」
「わかってるわよ、仮にもこの街の管理者よ?」
釘を刺そうとして、馬鹿ね、と肩を竦められる。
そんな言葉が彼女の口から出るのが予想外で、面喰ってしまった。
というか口調だけじゃなくて、かなり普段とは性格が違う…?
「けれど…あなたが私の敵となり得るなら、話は別」
見たこともない鋭い目つきで、凛が睨んでくる。
「今は見逃してあげる。戦う気が無いなら、令呪とサーヴァントを放棄して教会に逃げ込みなさい」
敵対する魔術師に対して出来る、最大限の譲歩だった。
名家の魔術師としては、かなり甘い考えだろう。
それとも冬木の管理人という立場を意識しているのだろうか。
「残念だけど…私に戦う気が無いのなら、初めからサーヴァントを呼んではいないわ」
「…それもそうね」
言葉を返し、対峙する。
同年代の少女から感じるプレッシャーが、酷く鋭く私を穿つ。
御三家の当代で、冬木の管理人。それも、かなりの天才肌。
けれども私とて、衛宮の魔術と自分の実力には自信を持っている。
互いの実力差は、どれほどか。
ライダーならあるいは、実力差などを無視して、一瞬で彼女を討ち取れるかもしれない。
騎乗兵のクラスは、強力な宝具を持っていることで知られている。
しかし、私を一瞬で葬り去ることが出来るのは、彼女の方とて同じだ。
口ぶりからして、凛も何かしらのサーヴァントを引き連れているのだろう。
先制を打ってこないのは冬木の管理人だからか、それとも私と同様、相手を見定めているのか。
仮に私から仕掛けて生き残れるのは、どれくらいの確率だろう。
いや、それ以前に此処は学校だ。事を起こせば、生き残っても今後の展開は確実に不利になる。
互いに互いの銃口を突き付けた状況で、
私は自分が、酷く魔術師的な考え方になっていることに気が付いた。
「……とりあえず、お昼を食べませんか」
「…は?」
なぜ、彼女を倒すことを前提に話を進めてしまっているのか。
彼女はクラスメイトで、それなりに友好な関係を築いている。
それを躊躇なく壊せるのは、士郎の言うような、悪人の魔術師に他ならない。
「この話の流れで、お昼、って…」
「桜、…後輩の間桐さんが作ったんです。味は保証します」
「……間桐さんが?」
先に一口食べて、毒なんぞ入っていない、と示す。
私の一時休戦の提案に、渋々凛も付き合ってくれた。
――三日目、放課後――
放課まで、凛と顔を合わせることは無かった。
今後も私は学園に通うし、聖杯戦争を放棄することもない。
凛との議論は、恐らく平行線だろう。
さて、と、放課の予定を決める。
士郎は生徒会の用事があり、桜は部活。
特に用事が無いのは私だけだ。
ただ真っ直ぐに帰宅するのもつまらないので、商店街に寄ってみる。
何かしらの暇つぶしにはなるだろう。
運が良ければ、昨日のようにマスターを発見できるかもしれない。
が、そうとんとん拍子で進むワケもなく。
マスターに遭遇しないどころか、自分がいかに無趣味な人間か思い知る。
欲しい本は購入済みで、欲しい服も特にない。ブランド物にだって興味はない。
食材でも買って帰ろうかとも思ったが、昨日これでもかというくらいに買い漁ったのを忘れていた。
これは士郎のことも馬鹿に出来ないな、と、軽くへこんで帰路に着く。
――三日目、夜――
ただいま、とは言わなかった。
玄関の扉を開けた瞬間に、違和感に気付いたからだ。
外の日は暮れているのに、廊下も居間も、電気が消えていた。
咄嗟に五感を研ぎ澄ますが、何の匂いも、光も、音も存在しない。
「…ライダー」
縋る様に、彼女を呼んだ。
実体化したライダーが、私を庇うように一歩前へ出る。
「はい、マスター…戦闘の形跡や魔力の残滓は感じられません」
では、一体彼の身に何があったというのか。
昨晩、見たはずじゃないか。
彼の手に刻まれた、聖杯戦争に巻き込まれたという、その証を。
「…士郎!」
思わず叫んだ。
脱いだばかりの靴を履き直し、閉めたばかりの玄関の扉を力強く開ける。
と、
「お、何だ五鈴。帰ってたのか」
間の抜けた少年の顔が、扉の向こうから現れた。
血相を変えた私を見るなり、なんだなんだと困惑する。
「……どこに、行ってたの?」
「悪い、一成の家でお茶を御馳走になってたら、遅くなった」
どっと力が抜けた。
こんな、時間まで。
聖杯戦争のなんたるかを、本当にこの少年は理解しているのか。
危機感が足りないにもほどがある。
どこぞの主人公みたいに、自分は死なないとでも思っているんじゃないか。
腕に令呪を携えてのこのこ歩きまわれば、殺してほしいと言っているようなものだ。
そもそもあなたが正義の味方を望んだから、私だってその渦中に身を投じたのに、私を放り出してどういうつもりなんだ。
いつもスラスラと口をついて出てくるはずの文句は、喉の奥でつっかえてしまった。
膝から崩れ落ちそうになるのを誤魔化して、前のめりに倒れ、そのまま士郎の胸板に腕を叩きつける。
「…心配、させないで」
なんとか絞り出した言葉は、少しだけ震えた。
士郎は頬を掻いて、顔を伏せる。
「……ごめん」
ライダーの気まずそうな咳払いが、やけに大きく響いた。
――召喚の儀、士郎版――
「…サーヴァント」
「今日みたいなことが二度と無いように、召喚してほしい」
語気をいつもより強めると、士郎が身じろいだ。
どれほど私が言い聞かせても、彼はその場の思いつきや勢いで行動する癖がある。
然るべきボディーガード…いや、お守が必要だ。
それにサーヴァントを二人も召し抱えているとなれば、単純な戦力としても心強い。
「ライダーはいいのか、それで」
「構いません…マスターの意向なので」
イエスマン、というわけではなく、彼女は本当に私の意見を尊重してくれているらしい。
先程事前に確認を取れば、ほんのうっすらとだが、微笑みでもって返してくれた。
一昨日交戦は確認しているが、まだ聖杯戦争は正式には始まっていない。
全てのサーヴァントが召喚されたわけじゃないのだ。
言うなれば今は、準備期間。
「私が使った魔法陣もあります…触媒は、用意できないけど」
「大丈夫なのか? とんでもなく凶悪な英霊が出たら、手に負えないんじゃないか」
「偶発的に召喚される英霊は、召喚主の素養に強く影響を受けます」
要は、似た者同士が引かれやすいのだ、ということ。
「士郎の素養なら、反英霊が現れるなんてことはまずあり得ない」
「そうか…」
少しだけ、士郎は考える素振りを見せる。
私としても、この提案は苦渋だった。
これでもう、後には退けない。
魔術師としてはまだ半人前な彼を、過去のトラウマでもある聖杯戦争に引きずり込んでしまう。
それでも、衛宮士郎は『正義の味方』だと、信じたからこその提案だった。
「そうだな、わかった」
士郎は立ち上がり、土蔵へ向かう。
私とライダーは、土蔵の外でその結末を待った。
「…告げる。えーっと…汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に…」
土蔵の壁の奥から、拙い暗唱が聞こえる。
私は誰にともなく祈り、ライダーは霊体化したまま一言も発さない。
そして、
眩い光が扉の隙間から漏れだし、次いで爆音。
何かが転がる音。
一度経験しているためか、思ったほど衝撃は来なかった。
恐る恐る、土蔵の扉を開くと、室内に月の光が挿しこむ。
「――問おう。貴方が私のマスターか?」
金髪碧眼の、幼い少女。
しかし名のある英霊であるだろうことは、その彼女が放つ圧倒的な魔力から感じて取れた。
夜に映える、青の装束。月に見合う、静謐たる気品。
息を呑んでいるのは、士郎も同じだったようだ。
少女が首を傾げるのを見て、慌てて肯定する。
「サーヴァント『セイバー』、召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり、我が運命は貴方と共にある」
「えっと、『セイバー』って呼べばいいのか? とにかく、宜しく」
「はい、宜しくお願いします、マスター」
「…マスターっていうのは慣れないな。名前でいい。俺は衛宮士郎」
「では、シロウと」
その和やかな会話を持って、契約が無事に完了したことを理解する。
ホッと胸を撫でおろしたのも束の間、次の瞬間、矢のように鋭い眼光がこちらを捉えていた。
「…シロウ、一つ質問が。そこにいるマスターとサーヴァントは何なのでしょうか」
当然の疑問と敵意だ。
聖杯の依る辺に従ったのなら、他のサーヴァントは全て敵。
寄らば斬る、と、セイバーの瞳は言っていた。
自分よりも小柄なはずの少女に、気圧される。
「いや、俺の妹みたいなもので、同盟を組んでるんだ」
慌てたように、士郎が説明した。
同盟、という言葉に、セイバーの眉がわずかに動く。
確かに、急にこの場に呼び出された彼女からしてみれば、不可思議だろう。
一組しか勝ち残れない聖杯戦争で、同盟に何の意義があるだろうか。
けれども、彼女は目を細めて頷いた。
「…シロウがそう言うのでしたら」
「…ライダーは?」
こちらから敵意が無いことを証明するのに、さり気にクラスを明かしてみる。
「問題ありません。私はマスターのために戦うだけですから」
いつものように、機械的にライダーは返事をした。
私がライダーを呼びだした時も、触媒は手に入らなかった。
今回同様に、性質の近しい英霊が呼び出されたはずなのだが、はて、私はこんなに味気ない人間なのだろうか。
「なあ、セイバーも…その、英霊なんだろ?」
悩んでいると、至極当然のことを士郎が尋ねた。
セイバーが頷いて返すと、彼は質問を続ける。
「なら、その本名っていうか…真名っていうのか? 出来るなら、教えてほしいんだけど」
「…申し訳ありません、シロウ。教えることは出来ない」
武装を解除しないまま、セイバーはこちらを睨みつける。
関係上は同盟にあっても、心を許したわけではないらしい。
「貴方を通じて、彼女たちにも伝わってしまう。私はまだ、敵対する可能性のある彼女たちに、そこまでの信頼を置けません」
「セイバー、それは、」
「いいの、士郎。当然の判断だから」
反論しようとした士郎を、なんとか抑えつけた。
セイバーは正しい。私たちの方が異端なのだ。
無理にこちらのルールを押し付ければ、ますます心を許してはくれなくなるだろう。
「ご理解感謝します…ライダーのマスター」
「五鈴です。衛宮五鈴」
「では、五鈴と呼んでも?」
「構わないわ」
こちらからだけ名前を告げて、三日目が幕を閉じた。
最終更新:2012年01月15日 15:06