――四日目、朝 自宅――
花、鳥、風、月。
この世のものとは思えないほどに美しい夜景を見ている。
山紫水明、往く川の流れは絶えずして、千紫万紅、ただ春の夜の夢の如し。
景色は決まった形を持たず、ただ美しいという在り方だけを変えずに、変わり続けた。
――夢だ
誰が見たともつかぬ情景は、この世にあり得るはずもないもの。
そうだと理解した瞬間。
「……つ、ぅ」
目覚めは、左腕の筋肉痛から。
夢はどれほど続きを見たいと望んでも、夢だと理解した瞬間に覚めてしまう。
「は、……っ」
意識の覚醒と同時に、肺から息が零れる。
首から走るようにして、肩甲骨、肘、手首。腰を回って、太もも、ふくらはぎ。
体中の筋が、まるで針で刺したかのように、鋭い悲鳴を上げていた。
緊張状態での魔術の連続行使は、普段のそれの倍以上に負担をかけるもの。
ベッドから起き上がるのも億劫だけれど、やはり学校に行くために起きなければ。
腕を支えに起き上がろうとして、無様に崩れる。
左腕には、全く力が入らなかった。筋か腱かをおかしい方に捩じってしまったらしい。
最低限の治癒魔術は施したけれど、恒例ながらもそういう消極的な魔術行使は苦手。
どうにか酷い筋肉痛程度に収めることは出来たけれど、そこが限界だ。
アサシンはいつも通り、窓の外を見ているようだった。
自分が暮らしていた頃との風景の代り映えを、目に焼き付けているのだろうか。
あの情景は、誰が見た景色か。
「…まあ、あの化け物と二日連続で殴り合ったんだから、これで済んだのは僥倖よね」
声をかけてくれるな、と、背が語っているけれど、無視して声をかける。
なんというか、酷く寂しそうな背だったから。
「そう言うならば、渡り合っていたお主も十分化け物だがな」
「……」
返ってくるのは、いつもの軽口。
いつも通りで安心はするけれど、やっぱりいつも通りに腹が立つ。
花だなんだと騒ぐ割には、どうも私はアサシンに花扱いされていないんじゃないか。
「女の子を化け物呼ばわりするのが、貴方の武士道なの?」
「ふむ、花は花でも食人花というものがあってだな」
強化の魔術を込めて放った枕は、霊体化によって難なくかわされた。
――四日目、朝 通学路――
魔術で施錠して、自宅を後にする。
咥えたトーストを落とさないように、小走りに。
アサシンの挑発に時間を食ってしまったため、歩いていては遅刻する。
担任は冬木の虎。面倒は起こしたくない。
信号待ちのうちに、今後の展望を練る。
間桐桜。話したことはないけれど、見かけたことは何度もある。
それこそ相手は御三家、意識しないわけにもいかない。
藤色の髪をした、か弱そうな女の子だ。
お淑やかで、大人しくて。アサシンは女性を花に喩えたがるけれど、彼女はまさにそれ。
名前は桜だけれど、どちらかというと菫とか桐のように、ひっそりと咲く花の方が似合う。
ミス穂群原である遠坂凛の地位を脅かす存在として、密かに私が期待を送っていた後輩でもあったんだけれど。
彼女が囚われている。おそらくは、バーサーカーのマスターとして。
聖痕が残っているのなら、まだマスターとして聖杯戦争に復帰できる。
おそらくは間桐は、再び彼女を拠り所に、新たなサーヴァントを従えるのだろう。
死に際の雁夜の姿が脳裏を過ぎった。
皮膚の下で蠢くアレを、確か彼は『刻印虫』と呼んでいた。魔術回路を失った魔術師から、魔力を搾り取るモノ。
もし彼女も間桐の家系なら、魔術回路は存在しないはずだ。
バーサーカーを現界させるための手段は、それしかない。
ゾ、と嫌な予感が走って、振り払うように顔をあげる。
「……遠坂、さん?」
視線の先に見慣れた赤い外套を見て、私はもう声をかけていた。
此方に気付いた影が、振り返る。
「あら、おはようございます、文月さん」
「……ぅゎ」
「何か御用ですか?」
そうだ、猫被りモード。通学路には登校中の学生も居るから、彼女は優等生の皮を被るのだ。
けど、なんていうか、こう、不気味。
満面の笑みに、甘ったるい猫なで声。実の両親のラブシーンを見てしまったかのような、言葉にできない気持ち悪さ。
昨日の彼女を見てしまっているから、違和感が果てしないのだろう。
余計なことは言うなよ、と、笑顔で無言のプレッシャーを浴びせかけてくる。
別にその主義に口出しするつもりはないけれど、此方が合わせなきゃいけない道理だってないし。
「聖杯戦争の件なんだけど、桜って娘の体に刻印虫が仕込まふぁもが」
「ちょっとアンタ何考えてんのっ…!?」
ばちん、と音がするほどの勢いで口を塞がれる。
息を呑むほどの剣幕。一瞬で剥がれる化けの皮。
確かに、私も迂闊だったけれど。
「…場所を変えましょう」
口をふさがれたまま、こくこく、と頷く。あー、ビックリした。
通学路を逸れて、人気のない裏路地へ。
人一人がようやく通れるほどの細さの道に来てから、彼女は私をジロリと睨んだ。
「魔術の守秘は魔術師の最低義務でしょ。少しは考えなさい…次やったら、管理者として黙ってはおけないわよ」
「いや、その…ゴメン」
「…貴女、考えるより先に体が動くタイプじゃない?」
然り、と、後ろの方でアサシンが笑っている。
胸糞悪い、さっさと本題に入らなければ。
「…『刻印虫』」
凛は此方の言葉を繰り返す。
「そういう件なら、知り合いにそういうのを得意にしてる魔術師がいるわ」
「治療魔術?」
「毛色は同じね。大別すれば治癒だけれど、『傷を治す』のではなく『傷を開く』奴だから」
「…なるほど」
わずかなニュアンスの違いでも、魔術行使には大きな差異が伴う。
遠坂曰く、やっぱり間桐の『刻印虫』は魔術回路の代わりになる代物らしい。
とはいっても、魔術回路は神経と同じ。それを無理矢理作るのだから、想像を絶する感覚なのだとか。
ともかく、だから傷を開くのだ。
外科手術と同じで、体内に埋め込まれた異物は取り出さなければならない。
そういう意味で、遠坂の知人はうってつけ。
「なんとか頼みこんで、やってもらうしかないわ…頼りたくもないような奴なんだけど」
「…お願いするわ」
私じゃ、どうにもならないことだ。
魔力を込めた拳で殴る、力の蓄積の一段階上、『濃縮』。
私の単純な魔術特性では、間桐の娘は救えない。
実体・不実体を問わず殴ることは出来ても、体の中から虫だけを、なんて器用な真似は出来っこないのだ。
おそらく遠坂自身にしても、それは同じことなのだろう。
やり場のない悔しさに拳を握りしめているのは、私だけじゃない。
ぐ、と沈黙を噛みしめて、頭上に響く鐘音。
キーン、コーン、カーン、コーン
「……あ」
顔を挙げたのは、優等生の遠坂の方が早かった。
何のチャイムだろう、と、一瞬だけ迷う。
そもそも私は何のために、満身創痍の体を無理矢理に起こして来たんだっけ。
「…遅刻確定ね」
ぎこちなく笑いかける私を、遠坂は恨みを込めて睨む。
「……」
時間を忘れていたのは、遠坂だって同じだ。私一人のせいじゃない。
そりゃ、まあ、呼びとめたのは私だけど。
何か言いたげに睨んでくる彼女には早々に別れを告げて、私は路地裏を後にした。
そろそろ、悠長に学校に通っている暇もなくなってきたのだ。
実質、今日学校に行く目的は、遠坂に間桐の話を聞くためだけだったし。
もとより、真面目な学生じゃない。担任の虎には、やっぱりあとで仮病を使おう。
――四日目、昼 新都――
学校をふけった私は、そのままの足で新都に向かった。
補導されるのも面倒だし着替えようかとも思ったけれど、コートの前を全部締めれば問題ないだろう。
今日はかなり冷え込むし、特に不自然でもない。
指定の学生鞄は、コインロッカーにでも閉まっておくとして。
以前から感じていた、ちょっとした違和感。
おそらくは魔術行使の余波というか、残滓というか、その程度のものなんだけれど。
聖杯戦争が始まる少し前から、この近辺で感じていた違和感。
結界…ではないだろう。似て非なるモノ。どちらかというと、私を拒むよりも誘っているような気配さえ感じる。
私が抱えている問題は、間桐の件だけじゃない。
他のマスターに関しても、同等に注意を払っておかなければいけないのだ。
「…探るか」
(探る、とは?)
(魔術師が探るっていったら、使い魔とか、探知系の魔術とかでしょ)
(お主にも、そんな器用な真似が出来たとはな…)
あれ、不思議。手がグーになってる。
とはいってもアサシンの言う通り、探知系の魔術もからっきしだ。私の魔術特性は、攻撃に特化しすぎている。
使い魔の使役だって、遠坂を呼んだ時のような片道切符がせいぜいだ。
視覚を共有したり、向こうが伝える情報を読み取ったり、魔術の初歩の初歩が私には難しい。
そういえば、私はあくまで「特殊」なのであって「優秀」と同義ではない、と、魔術の師にも耳にタコが出来そうなほど言われたっけ。
――四日目、放課後――
予想を裏切らず、三十分、一時間。
昼食は近くのホットドッグの露店で済ませ、さらにもう一時間。
少しの魔力の綻びも見逃さないように、視覚には強化と広域化を施しても。
(…やはりな)
(やはりって何よ)
これだ、と思う発見は無かった。
なんとなく、把握はついているのに。
吸精行為でも行わない限りは、サーヴァントがこんな街中で魔術行使を行うメリットが無い。
十中八九、マスターの工房が近くにあるはず、なのだけど。
どうもあと一歩というか、灯台もと暗しというか、近くにあるのに見逃している感じがする。
こういう抽象的で漠然とした把握なら出来るのに。
わかっているのに見つけられない、というのであれば、どうにも相手が上手らしい。
(相手が上手というより、……いや、やめておこう)
こ、の、
ああ、ダメだ。アサシンのいつもの軽口も流せないほどに疲れている。
体力には割と自身はある方なのだけれど。
(日は暮れつつあるぞ。どうする、夏奈)
決まっている。
自分のサーヴァントにここまで馬鹿にされて黙っていては、マスターの名折れだ。
もう得手不得手なんて関係ない、探知の魔術でも何でもやってやる。
(まあ良い、現世の街を歩き回るのも、中々)
アサシンはどこ吹く風、完全に観光気分だ。
まるで初めから、私に見つけられるはずが無いとでも言いたげな。
頭に来た。その生意気な二枚目に吠え面かかせてやる。
魔術師の真骨頂、とくと見さらせ――
(物見遊山も堪能した。そろそろ帰ろうではないか)
違う。悪いのは私じゃない、相性だ。
夕日が沈み、人もまばらになった新都のど真ん中で、一人肩を落とす。
確かに戦闘に特化した魔術特性ではあるけれど、それ以外が出来ない、というわけでもないはずなのに。
結局は私の修練不足たるところなのだろうか。
成果…と呼べるものはないけれど、とりあえずわかったことだけでも遠坂に連絡しよう。
以前までとは違って、今は正式に同盟と呼べる仲だ。
――四日目、夜 新都――
『新都ニ魔術行使ノ気配。場所ノ詳細ハ特定デキズ。魔術師ニヨル工房作成ノ可能性アリ』
触媒には、血液と土、それから頭髪。
動物の死骸なんてあれば完璧なんだけれど、そんなものが都合よく街中に転がっているワケもなし。
魔力を込めると、ぼんやりと人魂のような燐光が宙に浮かぶ。
特定の形を持たない幽体。一方通行でメッセージを届けるだけの、最低ランクの使い魔だ。
ふよふよとシャボン玉のように浮いて揺れて、何とも頼りない速度でゆっくりと空へ上がっていく。
けれどもこれで十分。というか、今はこれしかできない。
暗号めいた手紙は、最低限の文字で済ませている。あまり容量が大きすぎると、調整が難しくなるからだ。
携帯電話のメールと同じで、重いものほど時間が掛かってしまうし、最悪辿り着く前に力尽きてしまう。
特に、繊細な魔術の操作が苦手な私は、よくその目安を測り間違えては師匠に呆れられた。
ものの数分で、遠坂のものと思しき使い魔が返ってくる。
紫水晶で作られた、例の梟だ。
(…お主が使い魔を作るより、返事が返ってくるまでの時間の方が早かったな)
「うるさい」
それにしても、なんで返事を返して来たんだろう。
特に返信を求める内容でも無かったと思うのだけど。
『遠坂邸マデ参ラレヨ』
これだけ綺麗で凝った使い魔を飛ばして来て、用件はそれだけだった。
――四日目、夜 遠坂邸――
煉瓦の敷き詰められた坂を登り、深山の住宅街の一番上を目指す。
幽霊屋敷とまで呼ばれている洋館は、遠くから見ても中々の迫力。
冬木広しといえども、玄関の前に門がある家なんて、此処を除けば衛宮と間桐の家くらいだ。
アサシンは霊化させたまま、周囲の警戒を頼んでいる。
時間も時間だし、残りのマスターの動向も未だ知れていない。
まだ油断のならないこの状況で、それでも私を呼びだしたということは、それなりの事情があるのだろう。
門前には、遠坂が一人で立っていた。ライダーは霊体化させているらしい。
別に、私を迎えるために待っていた、なんて気の利く女じゃない。
この手の魔術師の邸宅は、部外者が入るには難儀な結界が張られているのだ。
スムーズに入るには結界を取り除くか、家の主と共に入るか。
「あら、早かったわね」
「…用件は何?」
同盟を組んではいるものの、仲良しこよしという間柄じゃない。
私は彼女が苦手だし、彼女だって私が苦手なはずだ。そんなどうしようもない用事で、
「用件っていうか、直接話を聞いておこうと思っただけよ」
どうしようもない用事で、私は呼ばれてしまったらしい。
不満を隠さない私の表情を見て、遠坂が付け足す。
「…あんな不出来な使い魔で、伝わる情報なんて限られてるでしょ」
「明日学校でも会うのに」
「アンタが真面目に登校してくる保証が、どこにあるのよ」
う、と、言葉に詰まる。
いつもの調子で言い返せればいいのだが、なにぶん今朝は彼女の目の前で堂々とサボったのだから、言い逃れは出来ない。
「それにアンタのことだから、うっかり一般人の前でもそういう話とかしそうだし」
「…わかった、私が悪かった」
「わかればよろしい」
満足そうに頷いた遠坂に招かれるがまま、遠坂邸へと足を踏み入れる。
罠の可能性も捨てきれない、念のためにアサシンに探らせようか――
いや、やめだ。
同盟だと言ったら同盟なんだ。
招いた時点で遠坂だってかなりの割を食っている。それを更に疑ってかかっては、魔術師以前に人としての礼儀に悖る。
それでも裏切られたのなら、その時はこちらも容赦なく、全力で対応すればいいだけ。
それに、遠坂はそういう類の人間じゃない。
倒すなら正面から正々堂々と、圧勝で飾らなければ気が済まない奴だ。
バーサーカーも悠々と通れるほどの玄関を抜け、靴下が滑ってしまいそうな廊下を歩く。
通されたのは、赤で統一された居間。目にも鮮やか、というか鮮やか過ぎてちょっと目の奥が痛い。
レースのカーテン、毛布のように滑らかな絨毯、私のベッドよりもふかふかのソファー。
なんというか、雲の上に来てしまった気がする。
「何? 硬くなってんの?」
「…別に」
認めると、負けな気がする。
例によって霊化したままのアサシンが笑うけれど、今は無視。
さっさと帰りたい。なんというか、すごく居心地が悪い。
注がれた紅茶も、おそらくはかなりの高級品なんだろうけれど、味が全然わからない。
そもそもそういう高貴な文化とは縁遠いのだから、味の違いなんてわかるはずもないけれど。
美味しいです、と、一応でも褒めておいた方がいいのだろうか。
「…新都の魔術師、ね」
「え?」
急に遠坂の声に引きずられたので、思考が一瞬混乱して聞き返してしまった。
何それ、紅茶の銘柄? とでも口走ってしまった日には、この女なら同盟破棄も辞さないだろう。
「確かにあそこに工房を構えている魔術師はいるわ」
「…知ってたの?」
「聖杯戦争が始まる前から、見周りはしていたもの。異変があれば、すぐ気付くわよ」
当然の準備でしょ、と、優雅に紅茶を啜りながら言われて、返す言葉はない。
どうせ小細工が苦手な猪突猛進女だ、私は。
それにつけても、遠坂は冬木の管理人。
自分の土地で起きている異変は、逐一管理するのが彼女の仕事でもある。
やはり同盟を結ぶにおいて、これ以上頼りになる相手はいない。
「正体とか、どこの家系とかはわかる?」
「それを簡単に此方にバラすような手合いだったら、苦労はしないんだけどね」
苦々しげに溜息を吐く。かなり苦労しているようだ。
「とにかく、私の方に情報が無いってことは、外来の魔術師ってことよ。間桐とは関係ない」
なんで、ここで間桐が? わからず、遠坂を見る。
まるで聞き分けのない妹を嗜める、姉のような視線。
「だから、くれぐれも特攻することは無いように。攻めるにしても、もう少し情報を探ってみましょう」
「…余程に信用ないのね、私は」
「ええ、そりゃもう。英霊に殴りかかるような気狂いだもの、安心して見てられますかっての」
背中を預けるこっちの身にもなれ、と、責めるように睨まれる。
そんなこと言われても、本当に私にはあれしかないのだ。
みんながみんな、遠坂のように何でもできるわけじゃないんだから。
「新都のにしても、間桐にしても…魔術師の工房に攻め込むって、そういうことよ」
再三の注意に、肩を竦ませる。
特攻するしないは、私の勝手だ。言われたこと全てを鵜呑みにする義理はない。同盟とは言っても、仲間ではないのだから。
ただ彼女に最低限迷惑はかけない。それだけは誓おう。
頷き返し、紅茶を飲み干した。
時刻は十二時を過ぎている。そろそろ帰らなければ。
玄関先で、ふと、結局何のために遠坂は私を呼んだのだろうか、と思い至る。
新都の魔術師の情報は、彼女は元から持っていたのだから。
まさか私に忠告するためだけに、わざわざ呼んだということもないだろう。
(…お主が独り身なのも、頷けるな。友達甲斐の無い奴だ)
アサシンの皮肉の意図もわからず、私はそのまま遠坂邸を後にした。
最終更新:2012年04月28日 02:43