「書物という異界5」(2005/10/09 (日) 22:08:31) の最新版変更点
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**書物という異界5:バナナ・パースペクティヴ
『at』1号
(編集パラグラフ/オルター・トレード・ジャパン,太田出版)
香山リカが『いまどきの「常識」』(岩波新書)という本のなかで,「現実には従うしかない」という意見が最近世の中の趨勢になってきているのではないかとし,これに違和感を表明していた。「現実にそぐわない理念は,現実に合わせて変更するしかない」,こういうのを難しくいうと「事実性の優位」という。
こうした考え方は,一歩間違えると無批判な現状追認主義に堕する危険を孕んでおり,それに対しては僕自身も違和感を覚えているが,しかしそうは言っても実際のところ,この世界の「あるべき姿」を模索し,それを現実の社会のなかで実現させていく,というのはどのようにすればできるのだろうか。これは別に革命云々ということではないが,我々が生きていく上で大きな問題であり,また実に困難なことでもある。つまりオルタナティヴという問題である。
『at』という雑誌が創刊された。春に出た創刊準備号は「いかつい」イメージを受けて買わなかったのだが,今回は面白そうなので買ってみた。特集のタイトルが「バナナから見える世界」,小特集が「オルタナティブをはじめよう!」とあるからだ。「バナナから見える世界」というと鶴見良行『バナナと日本人』(岩波新書)を思い出す方もいるかもしれないが(実は僕自身は前々からいつか読もうと思いつつ未だ読んでいない。この機会に読んでみたいと思う),実にこの特集は,23年前に鶴見が提起した問題の構造が根本的には現在も変わっていないということ,そしてそれに対する取組みとこれまでの経過を詳細にレポートするものとなっている。編集をしたオルター・トレード・ジャパン(ATJ)は,日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)の活動を基盤に生協や産直団体・市民団体が共同出資して立ち上げた貿易会社で,バナナやエビ,コーヒーなどを取り扱っている。設立のもとには,生産と消費をつなぐ交易のオルタナティヴな在り方を模索しようという試みがあり,生産者とのフェア・トレードの取組みがある。
なぜバナナなのか。この特集の冒頭の言葉を引けば,
>バナナ―私たちの生活にいつも身近にある,親しみやすい果物。日本では一人につき年間7キロ,世界では平均10キロ以上食べられているという栄養価が高く,きわめて「庶民的」なフルーツ,世界最古の栽培作物の一つとしても知られる,このバナナは,しかし,私たちが暮らすこの世界を,何よりも的確に映す「鏡」でもある。バナナ市場を独占する多国籍企業による,供給過剰と熾烈な低価格競争がもたらす弊害,農業使用による環境汚染や健康被害,生産現場での労働者たちへの権利侵害など,「敷居の低い」果物ゆえにか,世界経済/貿易のあらゆる問題点が一本のバナナに集約されているように見える。…(中略)…堀田正彦らのオルター・トレード・ジャパンがこの十五年,挑んできたのは,そんな「構図」の国境を越えた打破である。それがいかに困難な挑戦であったか,以下に続く彼ら自身による「泥まみれ」の軌跡が語ってくれるだろう。…(中略)…さあこれから,バナナとともに,見えなかった「世界」を立体的に眺めていこう!
実際に記事を読んでみると,バナナをめぐってこれほど多くの問題と,人々の労苦の汗があったことに驚く。
しかし普段バナナを食べる時には,私たちはそんなことを考えたりしない。けれども考えれば当たり前な話だが,我々は様々なモノを通じて(この場合はバナナ),様々な人々と関係を持っている。ただいつもは見えていないだけなのだ。残念なことに,この関係はしかしいつも喜ばしいものだとは限らない。日々の我々の生活が知らず知らずのうちに遠く離れた人を苦しめているかもしれない。
だがグローバル化とかITとか言われて,世界はどんどん狭くなりお互いに関係し合うようになってきているのに,我々はかえって/そのおかげか,どんどん物事の表層しか見なくなってきているのではないか。これは近頃あちこちで聞かれる指摘であり,ここにおいて想像力の欠如,そして「距離が感情を薄める」という問題に再び出会うことになる。
さて,これは一つの株式会社の取組みの報告である。その手探りでの活動は,「世界のオルタナティヴ」を模索する仕方について一つの具体例を提供している。我々は「世界のあるべき姿」をどのように思い描き,それをどのように実行していくべきなのか,この実践記録を前に考えさせられる。
だがこれは,ある立場からの理論と運動の雑誌であって,それに対しては違う意見の人もいるだろうし,「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか」という人もいるだろう(えなりかずきじゃないよ)。でも少なくとも言えるのは,見てみようということ。物事の上っ面だけ見てそれを「現実」として受け容れてしまっているのを,ちょっと立ち止まって見てみようということ。あまりにも貧困になってしまった我々の想像力をたまには使ってみること。バナナを通して(per)見た(spectare)世界は,これまでとは異なる姿をしているだろう。
今度バナナを食べるときは,バナナを覗きこんでみてください。色んなものが見えるかもしれません。
コラムのバナナ情報もまたおもしろい特集。
ちなみに僕は,ちょっと青いくらいのバナナが好きです。
●ブックガイド
-鶴見良行『バナナと日本人』(岩波新書)
-ギンズブルグ『ピノッキオの眼』(せりか書房)
第八章「中国人官吏を殺すこと」はアリストテレス,ディドロ,サドなどに言及しながら道徳的想像力と距離の問題を扱い,あまりにも遠い距離は人間的感情を鈍らせてしまうということが分析されている。ギンズブルグはこの点,経済についてはそこまでシリアスにとっていないようにも見えるが,それについては各々考えてもらいたい。
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**書物という異界5:バナナ・パースペクティヴ
『at』1号
(編集パラグラフ/オルター・トレード・ジャパン,太田出版)
香山リカが『いまどきの「常識」』(岩波新書)という本のなかで,「現実には従うしかない」という意見が最近世の中の趨勢になってきているのではないかとし,これに違和感を表明していた。「現実にそぐわない理念は,現実に合わせて変更するしかない」,こういうのを難しくいうと「事実性の優位」という。
こうした考え方は,一歩間違えると無批判な現状追認主義に堕する危険を孕んでおり,それに対しては僕自身も違和感を覚えているが,しかしそうは言っても実際のところ,この世界の「あるべき姿」を模索し,それを現実の社会のなかで実現させていく,というのはどのようにすればできるのだろうか。これは別に革命云々ということではないが,我々が生きていく上で大きな問題であり,また実に困難なことでもある。つまりオルタナティヴという問題である。
『at』という雑誌が創刊された。春に出た創刊準備号は「いかつい」イメージを受けて買わなかったのだが,今回は面白そうなので買ってみた。特集のタイトルが「バナナから見える世界」,小特集が「オルタナティブをはじめよう!」とあるからだ。「バナナから見える世界」というと鶴見良行『バナナと日本人』(岩波新書)を思い出す方もいるかもしれないが(実は僕自身は前々からいつか読もうと思いつつ未だ読んでいない。この機会に読んでみたいと思う),実にこの特集は,23年前に鶴見が提起した問題の構造が根本的には現在も変わっていないということ,そしてそれに対する取組みとこれまでの経過を詳細にレポートするものとなっている。編集をしたオルター・トレード・ジャパン(ATJ)は,日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)の活動を基盤に生協や産直団体・市民団体が共同出資して立ち上げた貿易会社で,バナナやエビ,コーヒーなどを取り扱っている。設立のもとには,生産と消費をつなぐ交易のオルタナティヴな在り方を模索しようという試みがあり,生産者とのフェア・トレードの取組みがある。
なぜバナナなのか。この特集の冒頭の言葉を引けば,
>バナナ―私たちの生活にいつも身近にある,親しみやすい果物。日本では一人につき年間7キロ,世界では平均10キロ以上食べられているという栄養価が高く,きわめて「庶民的」なフルーツ,世界最古の栽培作物の一つとしても知られる,このバナナは,しかし,私たちが暮らすこの世界を,何よりも的確に映す「鏡」でもある。バナナ市場を独占する多国籍企業による,供給過剰と熾烈な低価格競争がもたらす弊害,農業使用による環境汚染や健康被害,生産現場での労働者たちへの権利侵害など,「敷居の低い」果物ゆえにか,世界経済/貿易のあらゆる問題点が一本のバナナに集約されているように見える。…(中略)…堀田正彦らのオルター・トレード・ジャパンがこの十五年,挑んできたのは,そんな「構図」の国境を越えた打破である。それがいかに困難な挑戦であったか,以下に続く彼ら自身による「泥まみれ」の軌跡が語ってくれるだろう。…(中略)…さあこれから,バナナとともに,見えなかった「世界」を立体的に眺めていこう!
実際に記事を読んでみると,バナナをめぐってこれほど多くの問題と,人々の労苦の汗があったことに驚く。
しかし普段バナナを食べる時には,私たちはそんなことを考えたりしない。けれども考えれば当たり前な話だが,我々は様々なモノを通じて(この場合はバナナ),様々な人々と関係を持っている。ただいつもは見えていないだけなのだ。残念なことに,この関係はしかしいつも喜ばしいものだとは限らない。日々の我々の生活が知らず知らずのうちに遠く離れた人を苦しめているかもしれない。
だがグローバル化とかITとか言われて,世界はどんどん狭くなりお互いに関係し合うようになってきているのに,我々はかえって/そのおかげか,どんどん物事の表層しか見なくなってきているのではないか。これは近頃あちこちで聞かれる指摘であり,ここにおいて想像力の欠如,そして「距離が感情を薄める」という問題に再び出会うことになる。
さてATJの取組みに戻ろう。これは一つの株式会社の実践の報告である。その手探りでの活動は,「世界のオルタナティヴ」を模索する仕方について一つの具体例を提供している。我々は「世界のあるべき姿」をどのように思い描き,それをどのように実行していくべきなのか,この実践記録を前に考えさせられる。
だがこれは,ある立場からの理論と運動の雑誌であって,それに対しては違う意見の人もいるだろうし,「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか」という人もいるだろう(えなりかずきじゃないよ)。でも少なくとも言えるのは,見てみようということ。物事の上っ面だけ見てそれを「現実」として受け容れてしまっているのを,ちょっと立ち止まって見てみようということ。あまりにも貧困になってしまった我々の想像力をたまには使ってみること。バナナを通して(per)見た(spectare)世界は,これまでとは異なる姿をしているだろう。
今度バナナを食べるときは,バナナを覗きこんでみてください。色んなものが見えるかもしれません。
コラムのバナナ情報もまたおもしろい特集。
ちなみに僕は,ちょっと青いくらいのバナナが好きです。
●ブックガイド
-鶴見良行『バナナと日本人』(岩波新書)
-ギンズブルグ『ピノッキオの眼』(せりか書房)
第八章「中国人官吏を殺すこと」はアリストテレス,ディドロ,サドなどに言及しながら道徳的想像力と距離の問題を扱い,あまりにも遠い距離は人間的感情を鈍らせてしまうということが分析されている。ギンズブルグはこの点,経済についてはそこまでシリアスにとっていないようにも見えるが,それについては各々考えてもらいたい。
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