書物という異界8:チェルノブイリ後の神
スベトラーナ・アレクシェービッチ
『チェルノブイリの祈り 未来の物語』(岩波書店)
『チェルノブイリの祈り 未来の物語』(岩波書店)
[随時更新]
今日(2006年4月26日)でチェルノブイリの原発事故からちょうど20年になる。未曾有の惨事は今なお様々なところに禍根を残したままであるが,それのみならず本書の作者によれば,<チェルノブイリ>以後の世界はそれ以前とは全く別の世界になってしまったという。チェルノブイリ,それは一体何をもたらしたのか。
今日(2006年4月26日)でチェルノブイリの原発事故からちょうど20年になる。未曾有の惨事は今なお様々なところに禍根を残したままであるが,それのみならず本書の作者によれば,<チェルノブイリ>以後の世界はそれ以前とは全く別の世界になってしまったという。チェルノブイリ,それは一体何をもたらしたのか。
本書はチェルノブイリ原発事故に遭遇した様々な人の生の声を集めたインタビュー集である。事故直後に処理に駆けつけた消防士の妻の声に始まり,「サマショール」と呼ばれるチェルノブイリ30km圏内の立入禁止汚染地域に住む人々の話などが続く。
チェルノブイリは全てを汚染し,破壊し,奪い去ってしまう。事故処理に駆けつけた夫は,高濃度に汚染された放射性物体と化し,妻は夫を抱いてあげることもできない。遺体は「国家的英雄」として家族から取り上げられ,亜鉛の棺に納め,ハンダ付けをし,コンクリート板を乗せて埋葬された。
また広範な大地が汚染され,多くの人々が故郷を奪われた。強制疎開の際は,大事なものも思い出の品も持ち出すことは叶わなかった。
さらにチェルノブイリは未来にも翳を落とす。母体を通して次の世代にも災いが受け継がれる。事故を直接知らぬ子どもたちの人生をも変えてしまうのである。
また広範な大地が汚染され,多くの人々が故郷を奪われた。強制疎開の際は,大事なものも思い出の品も持ち出すことは叶わなかった。
さらにチェルノブイリは未来にも翳を落とす。母体を通して次の世代にも災いが受け継がれる。事故を直接知らぬ子どもたちの人生をも変えてしまうのである。
「チェルノブイリは戦争に輪をかけた戦争です。人にはどこにも救いがない。大地のうえにも,水のなかにも,空のうえにも」
重大な困難や災いに遭ったとき,ひとは神に対し疑義を抱くようになる。なぜ神はこの世の悪を見過ごされるのだろうか。なぜ神は「沈黙」を守られるのか。
月並みな弁神論も,あまりにも災いが甚大な場合には詭弁に聞こえてしまう。やがて神などいないと思うようになる。
しかしチェルノブイリはさらに新たな事態を引き起こしたように見える。あるサマショールの口から出た言葉は暗示的である。
月並みな弁神論も,あまりにも災いが甚大な場合には詭弁に聞こえてしまう。やがて神などいないと思うようになる。
しかしチェルノブイリはさらに新たな事態を引き起こしたように見える。あるサマショールの口から出た言葉は暗示的である。
「…いまじゃ,新しい世界なんだね。なにもかも昔とはちがう。この放射能が悪いの,それともなにが悪いの?放射能はどんなものなの?もしかしたら,いつかそんな映画があったの?あなたは見なさった?白いの,それともどんなの?どんな色?色がないんなら,神さまのようなもんだね。神さまはどこにでもいなさるが,だれにも見えない。おどかすんだよ…」
神も放射能も遍在し,不可視である。チェルノブイリによって,神の座は放射能という新たな神に取って代わられた。今やこの忌々しい神が,誰にも姿を見せることなくこの世界を支配しているのである。
[つづく]
本書の作者は一貫して,<国家>に翻弄されてきた<小さき人々>の声を丹念に拾い集めているベラルーシのノンフィクション作家である。国家という<大きな歴史=物語>の背後に埋もれている複数の声を再構築するというこの作業は,僕に<歴史>というものの別の可能性を感じさせた。
ちなみに現在,ポレポレ東中野で,サマショールの人たちの村の生活を描いた映画≪ナージャの村≫≪アレクセイと泉≫(本橋成一監督,それぞれ1997・2002)がアンコール上映中。原発事故には直接触れずに,汚染され消滅した村に住む人々がそれでもなお大地と共に生きていこうとする姿を描いたこの作品は,『チェルノブイリの祈り』とはまた異なる印象を受けた。しかし映画撮影から時を経て昨年(2005年)再び村を訪ねたショートフィルムは,村や家族の崩壊がさらに進行している様子を伝えており,やはりチェルノブイリの影を落としているのが窺える。