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書物という異界9:異界を旅した航海者の末路

ジョナサン・スウィフト
『ガリヴァー旅行記』(平井正穂訳,岩波文庫)

誰もが知っている『ガリヴァー旅行記』(Gulliver's Travels,1726)は,イギリス人航海者のレミュエル・ガリヴァーが小人国(リリパット国),巨人国(ブロブディンナグ国),飛行島(ラピュータ),馬の国(フウイヌム国)など,奇想天外な国々を巡るという点で,典型的な異界についての物語である。それもそのはず,作者のジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift,1667-1745)は,ヨーロッパ文学に綿々と伝わる「メニッポス的諷刺」の伝統を汲んでこの傑作を書き上げたのだが,有名なバフチーンの分析によれば,「夢や未知の国への旅」がメニッポス的諷刺と呼ばれる諸文学の主要な構成要素となっているのである。
では,そのガリヴァーにとって異界とは何だったのか,少し考えてみることにしたい。

ガリヴァーと言えば,リリパット(小人国)に流れ着いたガリバーが目を覚ますと,雁字搦めに縛られて大勢の小人に囲まれているという場面を思い出す人が多いかもしれない。しかしガリヴァーはリリパットから無事故国に帰った後も,さらに様々な国を航海し,様々な経験をする。むしろ物語の真髄は,旅を重ねるうちにガリヴァーの考えがどのように変容を遂げていくのかというところにあるのだと思う。

小人国航海の次に出た旅でガリヴァーが辿り着いた先は,巨人国だった。小人国では<巨人>として扱われ,その大きさと力の強さ故に得意になることも多かったガリヴァーだが,ここでは巨人たちに囲まれ,<小人>として自らの非力を思い知る。

…こんな風に心が動転しているさなかに,どうしたわけか私はふとあのリリパットのことを思い出していた。そうだ,私はあそこの住民たちからは,この世界では空前絶後の奇怪な巨人だと見做されていた。片手で全艦隊を引っぱることもできたし,…その他さまざまな偉業もなしとげたものであった。それが今,この巨人族の間に紛れ込んで,全くとるに足らない虫けらのように見做されるとすれば,それこそ何たる屈辱であろうか…。しかし,なおよく考えてみると,そんな屈辱など大したことではないように思われた。なぜなら,人間という奴はその図体が大きければ大きいほど野蛮で残酷だといわれているので,この途方もなく巨大な野蛮人のうちの誰かにもし捉ったら最後,そいつに一口で食われてしまうにきまっているからだ。それも要するに比較の問題にすぎない,と哲学者たちは言うが,誠に至言という他はない…
        「第二篇・ブロブディンナグ渡航記」より

ここでは,<人間>観念が相対化されている。偉大であったり,矮小であったり,「それも要するに比較の問題にすぎない」のである。
さらに追い討ちをかけるように,メニッポス的諷刺,そしてスウィフトならではの冷徹な眼差しが<巨人>に注がれる。それは人間の美醜に対する相対化の視線であり,人間の汚さを注視することである。

…私は有体に告白するが,何がぞっとするほど嫌らしいといっても,彼女[赤ん坊に授乳する巨人の乳母のこと]の巨大な乳房に匹敵するものを私は知らない。物好きな読者にその大きさ,恰好,色合いが大体どんなものであったかを伝えたいのだが,残念ながら何にたとえたらよいのか,私には未だに見当もつかないのだ。…その際,私はふとわがイギリスの女性たちの白い肌のことを考えた。つまり,彼女たちがわれわれにひどく美しく見えるのは,要するにわれわれと体の大きさが同じであるからにすぎず,拡大鏡を通してでなければ,その欠点は見られない,ということなのだ。拡大鏡を用いて実験すれば分ることだが,彼女たちのどんなにすべすべした白い肌でも実はでこぼこで粗く,不気味な色をしているのである。
        「第二篇・ブロブディンナグ渡航記」より

ガリヴァーは小人国と巨人国を訪れて,<人間>を相対化する視点を手に入れた。鏡の前に立っているがごとく,彼は小人と巨人のうちに自己を見出したのである。二つの異界で彼が出会ったのは,紛れもなく自分自身,<人間>であった。
旅の過程で<異界>に出会うなか,そこで問い直されるのは<自己>である。旅にはアイデンティティの動揺が伴う。
<異界>を巡る他の様々な物語と同様,『ガリヴァー旅行記』は,<自己>,あるいは<人間>そのものを巡る物語なのである。

そうした観点から言えば,その掉尾を飾る「フウイヌム航海記」が決定的な重要性を持っている。ガリヴァーが最後に訪れたフウイヌム国,そこは完璧な理性を持った馬と,人間そっくりな外見を持つ野蛮な獣ヤフーとが住む国だった。
「フウイヌム航海記」において,理性的なフウイヌムと野獣ヤフーは二つの極を構成している(この二つの極は,単なる善‐悪の対立ではなく,それぞれが両面価値性を持った相補的な二極となっているのだが,それについては後に掲げた文献を参考していただきたい)。人間ガリヴァーは,この二つの狭間,どちらともつかぬところに位置している。
しかしユートピア的なフウイヌムのあり方や忌むべきヤフーの振舞いを観察し,そしてフウイヌムの主人との会話において人間やその社会・国家の様子を報告するうちに,理性的人間としての<人間>が強く問われ(これまでまず何よりも理性を持った存在として定義されていた<人間>が,はるかに優れた理性を持つ馬の出現によって問われる),その結果人間や人間社会の堕落と病弊が明らかとなり,さらに人間とヤフーの類似を否応もなく思い知らされることになる。
そして哀れガリヴァーは,人間を相対化する視点を喪失し,フウイヌムを理想と仰ぎ,人間をヤフーと同一化して激しく嫌悪するに至る。
だが,この際有体に白状するが,人間の腐敗と余りにも違う,この優秀な「四足獣」の美徳の数々を見て,私の目は豁然として開け,理解も急に深く広くなり,そのため,人間の行動や感情を今までとは一変した角度から眺め始め,自分と同類の者たちの名誉なんか考慮する必要はない,と私は思い始めた。…この国に来てから一年もたたないうちに,私はここの住民に対する愛情と尊敬を心の底から覚えるにいたった。その結果,もう二度と人間の世界には帰るまい,そして,およそ悪というもののない…この素晴らしいフウイヌムの世界に留まり,ひたすらあらゆる美徳について思索し,かつそれを実践しつつ余生を送ろうと,固く決心するにいたった。
         「第四篇・フウイヌム航海記」より

フウイヌム国を追放され,いやいやながらも帰国したガリヴァーは,再会した妻の抱擁と接吻に耐えられず卒倒してしまう。帰国して五年経ってもなお人間への生理的嫌悪を消し去ることができず,二頭の馬を大事に飼って,毎日話し合うのを楽しみにしている。これが物語のエンディングである。

(作成中)


●参考文献
『ガリヴァー旅行記』の持つ作品の豊かさは,これで汲み尽くされるものではない。四方田犬彦『空想旅行の修辞学』(七月堂,1996)は,『ガリヴァー旅行記』をメニッポス的諷刺の系譜上に位置づけ,作品テクストの構造を精緻に分析している。ずいぶん前に読んだので,中身をちゃんと覚えていないが,お薦めの一冊。
  

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