書物という異界2:とある異界の百科事典
クラフト・エヴィング商會
『すぐそこの遠い場所』(ちくま文庫)
『すぐそこの遠い場所』(ちくま文庫)
「とある世界についての百科事典」という体をなした小説と言えば,ベオグラード出身の文学者・作家であるミロラド・パヴィチの『ハザール事典』[男性版/女性版](東京創元社)が有名だが,それについてはまたの機会に譲るとして,ここでは日本の作者による,ささやかな事典小説を一つ。作者(ら)はブックデザインにも定評があり(先ごろ創刊された「ちくまプリマー新書」の装丁も手がけている),視覚的にも楽しい一冊である。
読者が手にするのは,『アゾット事典』。それは子どもの頃に祖父から話を聞きながらも読むことの叶わなかった事典である。しかし祖父の亡き後,作者は祖父の書棚の最上段から探し出してきたのであった。
それは「アゾット」(AZOTH)という名の「世界」についての事典である。事典はまず「AZOTHという名前について」から始まり,「アゾットの「21のエリア」について」,「世界の回転について」,「アゾットの言語について」と続く。さらに進むと読者の耳慣れない項目が現れる。「忘却事象閲覧塔」,「雨師」,「残像保管庫/残響音保管庫」,「哲学サーカス団」などなど。登場する物事はどれも,これまで出会ったことのない新奇なものであるが,妙に懐かしい心地を呼び起こすものばかりだ。なぜだろうか。思うにそれは,そうした物事のすべてが「この世のものでありながらこの世のものでない」,あるいは「異世界のものでありながら異世界のものでない」ものだからなのではないだろうか。まさにアゾットとは,タイトルの示す如く「すぐそこの遠い場所」なのだ。
ここで特別に,お気に入りの一項を丸ごと御紹介しよう。
読者が手にするのは,『アゾット事典』。それは子どもの頃に祖父から話を聞きながらも読むことの叶わなかった事典である。しかし祖父の亡き後,作者は祖父の書棚の最上段から探し出してきたのであった。
それは「アゾット」(AZOTH)という名の「世界」についての事典である。事典はまず「AZOTHという名前について」から始まり,「アゾットの「21のエリア」について」,「世界の回転について」,「アゾットの言語について」と続く。さらに進むと読者の耳慣れない項目が現れる。「忘却事象閲覧塔」,「雨師」,「残像保管庫/残響音保管庫」,「哲学サーカス団」などなど。登場する物事はどれも,これまで出会ったことのない新奇なものであるが,妙に懐かしい心地を呼び起こすものばかりだ。なぜだろうか。思うにそれは,そうした物事のすべてが「この世のものでありながらこの世のものでない」,あるいは「異世界のものでありながら異世界のものでない」ものだからなのではないだろうか。まさにアゾットとは,タイトルの示す如く「すぐそこの遠い場所」なのだ。
ここで特別に,お気に入りの一項を丸ごと御紹介しよう。
●夕方にだけ走る小さな列車
エリア7「パープル・エッジ」は,実に広大なエリアである。というより,ここでは何もかもが長く引き伸ばされているかのように見える。
この現象を象徴するものとして,このエリアの夕方の「長さ」がある。このエリアで流れる時間のほとんどが「ひき伸ばされた夕方」のように感じられるのだ。
夕方の始まる,とろんとした眠たさに始まり,夜がおりてくる一瞬手前の最後の青い光芒まで。夕方特有の数時間が,ここではほぼ一日を費やし,蜜が充たされるようにゆっくりと過ぎてゆく。
この時間の中では誰もが輪郭を失い,人のみならず,語られる言葉すらぼんやりとして,すべてが長く影をひいている。
このエリアでは,このようにいつでも10月であるような時間たちのことを,いつからか「彼は誰の刻」と呼びならわしてきた。
実際ここではそんな夕方的憂愁の力に丸めこまれ,誰ひとりとして「彼方の人物」の正体を見極められない。その「彼は誰か?」といぶかる時間さえ,どこまでも長く影をひいている。
このエリアには「夕方にだけ走る小さな列車」(正式名称はダンテズ・イヴニング・レイルロード)の停車場があり,ここはすべての列車の発着駅でもあるため,駅舎は列車の小さな車体に反し,とてつもなく大きい。プラットホームは両端が確認できぬほどで,どこまでも永遠に続いている。そこへ,わずか2両編成の小さな車両が到着するのだから,いったい,この滑走路のように長いホームのどこで列車を待てばよいのか,途方に暮れること必至である。
「そんなこと駅長に訊けばよい」
と思うかもしれないが,ここは「彼」がどこにいるか確認できないことで有名な場所なのである。駅長とてすぐに見つけられるものではない。駅長を見つけられるくらいなら,列車の方がよっぽど見つけやすい。
それだけではない。
この列車は「夕方にのみ走る列車」なのである。したがって,乗車するためには,一日中夕方であるようなとりとめのない時空の中から「本物の夕方」を的確に感じとらなければならない。それゆえ「夕方音痴」の乗車希望者は,どこまでも乗り遅れることになる。
だが,そうあわてることもないのだ。
ここには夜は来ないし,もちろん朝だって来ない。
ここでは,ただひたすらの夕方が永遠に繰り返されているだけだ。
永遠の夕方の中で,永遠に乗り遅れるがよろしい。
それは,ほとんど天国に来てしまったかのような,心地よくも憂鬱な開放感である。
この現象を象徴するものとして,このエリアの夕方の「長さ」がある。このエリアで流れる時間のほとんどが「ひき伸ばされた夕方」のように感じられるのだ。
夕方の始まる,とろんとした眠たさに始まり,夜がおりてくる一瞬手前の最後の青い光芒まで。夕方特有の数時間が,ここではほぼ一日を費やし,蜜が充たされるようにゆっくりと過ぎてゆく。
この時間の中では誰もが輪郭を失い,人のみならず,語られる言葉すらぼんやりとして,すべてが長く影をひいている。
このエリアでは,このようにいつでも10月であるような時間たちのことを,いつからか「彼は誰の刻」と呼びならわしてきた。
実際ここではそんな夕方的憂愁の力に丸めこまれ,誰ひとりとして「彼方の人物」の正体を見極められない。その「彼は誰か?」といぶかる時間さえ,どこまでも長く影をひいている。
このエリアには「夕方にだけ走る小さな列車」(正式名称はダンテズ・イヴニング・レイルロード)の停車場があり,ここはすべての列車の発着駅でもあるため,駅舎は列車の小さな車体に反し,とてつもなく大きい。プラットホームは両端が確認できぬほどで,どこまでも永遠に続いている。そこへ,わずか2両編成の小さな車両が到着するのだから,いったい,この滑走路のように長いホームのどこで列車を待てばよいのか,途方に暮れること必至である。
「そんなこと駅長に訊けばよい」
と思うかもしれないが,ここは「彼」がどこにいるか確認できないことで有名な場所なのである。駅長とてすぐに見つけられるものではない。駅長を見つけられるくらいなら,列車の方がよっぽど見つけやすい。
それだけではない。
この列車は「夕方にのみ走る列車」なのである。したがって,乗車するためには,一日中夕方であるようなとりとめのない時空の中から「本物の夕方」を的確に感じとらなければならない。それゆえ「夕方音痴」の乗車希望者は,どこまでも乗り遅れることになる。
だが,そうあわてることもないのだ。
ここには夜は来ないし,もちろん朝だって来ない。
ここでは,ただひたすらの夕方が永遠に繰り返されているだけだ。
永遠の夕方の中で,永遠に乗り遅れるがよろしい。
それは,ほとんど天国に来てしまったかのような,心地よくも憂鬱な開放感である。
「夕方」と「永遠」と言えば,ボルヘスの哲学的エッセイ「永遠の歴史」(『永遠の歴史』,ちくま学芸文庫)に,この上もなく美しい箇所があったではないかと思い出し,久しぶりに書棚から取り出しその本を開いてみた。しかしボルヘスの「永遠」は,「静穏な月夜」であったことが判明した。人の記憶など頼りにならないものだ。
『アゾット事典』の編者は冒頭でこう述べている。「世界はどこまでも混沌とし,そして,本当に大切なことは次から次へと忘れ去られているように思えてならない。にもかかわらず,私たちはよほど重大な謎でも生じない限り,「はてな?」と首をかしげることもなく日々をやりすごしている。しかしそもそも私たちは,この世界をどれほど理解しているというのだろう?」。さらに言うには,「私は物忘れのひどい「記憶係」であり,「そもそもこれって,どうしてなんだっけ?」とつぶやき続ける事典編集者である。それでも,なんとか「忘却の谷」の崖っぷちまで,そろりそろりと出かけてゆき,ひっそりとつかみ取ってきたものだけを,そのまま編集したのが,この「事典らしきもの」だ」。
我々は「物忘れのひどい動物」である。果たしてそのことは不幸なことなのか幸福なことなのか。たとえば本を読んでもすぐに内容を忘れてしまう。しかしそのお蔭かどうか,その同じ本を読み返そうと思い立ち,また新たな発見が生まれることになる。書物は出会いを与える。それは新しい出会いでもあり,同時に懐かしい旧友との再会でもあるのだ。
書物を読むことは逆説的にも,ぽっかりと開いた「忘却の谷」の存在を指し示す。しかしその「忘却の谷」こそ,「すぐそこにある遠い場所」であり,それがまさに異界なのかもしれない(menocchio)
『アゾット事典』の編者は冒頭でこう述べている。「世界はどこまでも混沌とし,そして,本当に大切なことは次から次へと忘れ去られているように思えてならない。にもかかわらず,私たちはよほど重大な謎でも生じない限り,「はてな?」と首をかしげることもなく日々をやりすごしている。しかしそもそも私たちは,この世界をどれほど理解しているというのだろう?」。さらに言うには,「私は物忘れのひどい「記憶係」であり,「そもそもこれって,どうしてなんだっけ?」とつぶやき続ける事典編集者である。それでも,なんとか「忘却の谷」の崖っぷちまで,そろりそろりと出かけてゆき,ひっそりとつかみ取ってきたものだけを,そのまま編集したのが,この「事典らしきもの」だ」。
我々は「物忘れのひどい動物」である。果たしてそのことは不幸なことなのか幸福なことなのか。たとえば本を読んでもすぐに内容を忘れてしまう。しかしそのお蔭かどうか,その同じ本を読み返そうと思い立ち,また新たな発見が生まれることになる。書物は出会いを与える。それは新しい出会いでもあり,同時に懐かしい旧友との再会でもあるのだ。
書物を読むことは逆説的にも,ぽっかりと開いた「忘却の谷」の存在を指し示す。しかしその「忘却の谷」こそ,「すぐそこにある遠い場所」であり,それがまさに異界なのかもしれない(menocchio)