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書物という異界3:狂っているのはどちらか

しりあがり寿
『“徘徊老人”ドン・キホーテ』(朝日新聞社)

(暫定稿)
周知のとおり2005年は節目の年で,終戦60周年,阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件から10年の年,そして「一石仙人」のところで述べたように世界物理年…などと様々な記念の年とされているが,もう一つ,セルバンテス『ドン・キホーテ』(前篇)の刊行から400年にあたる年でもある。
近代文学の曙にあって燦然と輝くこのセルバンテスの作品は,その内容の豊穣さのために様々な解釈に晒されてきたが,私はここでそれに立ち入ることはしない(できない…)。目下この大著を楽しんでいる最中である。

代わりにと言ってはなんだが,ここでは(またしても)しりあがりの漫画を取り上げたいと思う。舞台は現代社会。主人公は折り紙の兜をかぶった徘徊老人(ちなみにサンチョは介護士)。弱いものイジメや不正を許さぬ彼は,姿を消した妻を捜しながら,臆することなくヤンキーや世の堕落に立ち向かっていく。
しりあがりはドン・キホーテの舞台を現代へと移し変えることに見事に成功しているように思われる。馴れ合いと惰性を激しく批判し,現代に生きる人間の心の病理へと切り込むメスの鋭さは,読む者をドキッとさせるほどである(たとえば第五話「環状線」を見よ)。
社会の病理は全てドン・キホーテの眼を通して描き出されるわけだが,このとき読者は狂者という鏡を前にしてパラドクスの迷宮に入り込み,ドン・キホーテと我々,狂っているのは一体どちらなのか分からなくなってしまう(第六話・第七話)。正常/異常という規範が崩壊する。
しかし狂者を通して社会の病理を暴くというその手法は,恐らくはエラスムス『痴愚神礼賛』へと遡ることのできるもので,オリジナルの『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスもまたエラスムス主義者であった。しりあがりのドン・キホーテが,このルネサンス文学の豊かな伝統を現代に蘇らせたと言ったら言い過ぎであろうか。
ところがルネサンス期における諷刺の陽気さは,ここでは大きく失われている。エラスムスは愚者による愚者の「礼賛」(encomium)という巧妙な戯れの形式を採用したが,ここでは代わりに狂気は全てを喰らい尽くす津波となり,カタストロフのオブセッションが作品の基底を成しているように見える。しかしクライマックスにおいて我らがドン・キホーテが神と交わす対話は,矜持に満ちて崇高さすら感じさせ,妻を助けようとするその姿は,生きづらくなったこの世においても今なお,愛の可能性を追うことができた(それが実は逆説的で,もはや取り戻すことのできないなものであり,それ故に夢と狂気のなかでしか追えなかったというにせよ)ということを示しているのではなかろうか?

人間の歩みの背後にうず高く積まれた廃墟の山。歴史がカタストロフの連続であるとしても,「わたし」はその中で生きねばならない。その時どのように生きるべきなのか。「なんかいいようにしてください」,答えを安易な仕方で他者に求めてはならないだろう。
この本は,すべてのドン・キホーテたちに捧げられている(menocchio)
  

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