書物という異界4:世界の切り取り方,さまざま
- 川内倫子『Cui Cui』(フォイル),『花子』(リトル・モア)
- 『childlens』(リトル・モア)
【留保つきエッセイ】
僕は写真を撮るのも,写真に写るのも苦手な方だ。写真について考えたこともこれまで殆どなかった。それゆえ写真論を講じたり,写真を批評したりする資格など全くないのだが,それでも今回は,気まぐれに買った写真集をいくつか取り上げてみたい。写真については,色々考えてからまた稿を改めて書くとして,今日のところは勉強不足をお許しいただきたい。
川内倫子は,『うたたね』と『花火』で第27回木村伊兵衛写真賞,この『花子』で2002年度写真協会賞新人賞を受賞した新進気鋭の写真家。『花子』は,京都に住む今村花子とその家族の変わらぬ日々を追ったドキュメンタリー映画『花子』から生まれた写真集で,『Cui Cui』は1992年から2005年までの13年間,彼女自身の家族の風景を撮影したものである。他方の『childlens』は,2歳から6歳までの子どもたち75人がカメラマンとなって撮影した写真を集めた奇抜な作品。タイトルには,もちろん「チルドレン」と「レンズ」がかけてある。
川内と子どもたち,専門家や玄人に言わせれば,それはもちろん全く異なる写真であろうが,そういったことは門外漢の僕にはよく分からない。しかしこの相異なった写真が,素人の僕には似た感覚を呼び起こした。それは何なのだろうか。どの写真も珍しいものとか,雄大な自然風景とかが写っているわけではない。写っているのは,どれも取るに足りぬもの,日常の風景などばかりだ。それなのに,一枚一枚の写真が,かくも清新な印象を受けるのは何故なのだろう。
その理由を自分でうまく説明するのは難しいが,思うに写真は何重もの意味で他なるものであるから,ということが考えられる。
第一に,写真に収められているものは,おしなべて過去に属するものであるということ。それは誰かの生の証であり,我々が我々自身の前/後に連綿とつづく長久な歴史(過去は我々の前にあるのか,後ろにあるのか,これ自体非常に重要な問題である)に触れたときに感じる畏敬の念にも似たような感興を引き起こす。西瓜の皮と種の写真,それは紛れもなく,かつて誰かが西瓜を食べたという証なのだ。足元が絶えず忘却の淵へと崩れ去っていく我々の生にあって,それはある場合には一つの生きる縁(よすが)・避難所になったり,ある場合には忘れてはならないものに対する倫理的義務が彫り込まれた刺青のようにもなる。
第二に,撮影者にとって被写体は他なるものであるということ。当たり前のことだが,基本的には撮影者が同時に被写体にもなることはできない。写真を撮るということは,世界を切り取るということで,そのとき写真家は世界に対峙せざるをえない。「主体‐客体」の「見る‐見られる」,というこの問題は,哲学的に言っても大きな論争を呼んできたもので,私には論ずることも容易ではないが,そうした問題群が写真のなかには先鋭化したかたちで表れているのではないかということだけ,ここでは示唆しておこう。たとえば,『Cui Cui』のなかには,祖父が生き,床に臥し,命が召される,その始終が収められている。そこでは写真家の眼差しは,心の揺れを持つ一方で,仮借ない厳しさをも持っているように思える。写真を撮るには,対象との距離を保たねばならない。何人かで遊びに行って記念写真を撮ろうとしても,誰か一人がシャッターを押さなくてはいけない。「すいませーん,写真撮ってもらってもいいですか?」と言っても同じこと。写真には他者の目を必要とする。何かを犠牲にしなければ,何かを残すことはできない。証を残す時点で,既にその証は真正ではないのかもしれない(証言の困難さ,それはアウシュヴィッツを生き残った者たちに重たい影を落とした)。
そして第三に,これが最も端的であるが,写真を撮る眼差しと,写真を見る私の眼差しは異なるということ。それを最もはっきりと認識させてくれるのが『childrens』だ。例えば3歳のみわちゃんが見ているものと,僕の見ているものがたとえ同じであっても,その「見え」は異なっているということ。このことは,ライプニッツの有名な比喩を想起させる。
僕は写真を撮るのも,写真に写るのも苦手な方だ。写真について考えたこともこれまで殆どなかった。それゆえ写真論を講じたり,写真を批評したりする資格など全くないのだが,それでも今回は,気まぐれに買った写真集をいくつか取り上げてみたい。写真については,色々考えてからまた稿を改めて書くとして,今日のところは勉強不足をお許しいただきたい。
川内倫子は,『うたたね』と『花火』で第27回木村伊兵衛写真賞,この『花子』で2002年度写真協会賞新人賞を受賞した新進気鋭の写真家。『花子』は,京都に住む今村花子とその家族の変わらぬ日々を追ったドキュメンタリー映画『花子』から生まれた写真集で,『Cui Cui』は1992年から2005年までの13年間,彼女自身の家族の風景を撮影したものである。他方の『childlens』は,2歳から6歳までの子どもたち75人がカメラマンとなって撮影した写真を集めた奇抜な作品。タイトルには,もちろん「チルドレン」と「レンズ」がかけてある。
川内と子どもたち,専門家や玄人に言わせれば,それはもちろん全く異なる写真であろうが,そういったことは門外漢の僕にはよく分からない。しかしこの相異なった写真が,素人の僕には似た感覚を呼び起こした。それは何なのだろうか。どの写真も珍しいものとか,雄大な自然風景とかが写っているわけではない。写っているのは,どれも取るに足りぬもの,日常の風景などばかりだ。それなのに,一枚一枚の写真が,かくも清新な印象を受けるのは何故なのだろう。
その理由を自分でうまく説明するのは難しいが,思うに写真は何重もの意味で他なるものであるから,ということが考えられる。
第一に,写真に収められているものは,おしなべて過去に属するものであるということ。それは誰かの生の証であり,我々が我々自身の前/後に連綿とつづく長久な歴史(過去は我々の前にあるのか,後ろにあるのか,これ自体非常に重要な問題である)に触れたときに感じる畏敬の念にも似たような感興を引き起こす。西瓜の皮と種の写真,それは紛れもなく,かつて誰かが西瓜を食べたという証なのだ。足元が絶えず忘却の淵へと崩れ去っていく我々の生にあって,それはある場合には一つの生きる縁(よすが)・避難所になったり,ある場合には忘れてはならないものに対する倫理的義務が彫り込まれた刺青のようにもなる。
第二に,撮影者にとって被写体は他なるものであるということ。当たり前のことだが,基本的には撮影者が同時に被写体にもなることはできない。写真を撮るということは,世界を切り取るということで,そのとき写真家は世界に対峙せざるをえない。「主体‐客体」の「見る‐見られる」,というこの問題は,哲学的に言っても大きな論争を呼んできたもので,私には論ずることも容易ではないが,そうした問題群が写真のなかには先鋭化したかたちで表れているのではないかということだけ,ここでは示唆しておこう。たとえば,『Cui Cui』のなかには,祖父が生き,床に臥し,命が召される,その始終が収められている。そこでは写真家の眼差しは,心の揺れを持つ一方で,仮借ない厳しさをも持っているように思える。写真を撮るには,対象との距離を保たねばならない。何人かで遊びに行って記念写真を撮ろうとしても,誰か一人がシャッターを押さなくてはいけない。「すいませーん,写真撮ってもらってもいいですか?」と言っても同じこと。写真には他者の目を必要とする。何かを犠牲にしなければ,何かを残すことはできない。証を残す時点で,既にその証は真正ではないのかもしれない(証言の困難さ,それはアウシュヴィッツを生き残った者たちに重たい影を落とした)。
そして第三に,これが最も端的であるが,写真を撮る眼差しと,写真を見る私の眼差しは異なるということ。それを最もはっきりと認識させてくれるのが『childrens』だ。例えば3歳のみわちゃんが見ているものと,僕の見ているものがたとえ同じであっても,その「見え」は異なっているということ。このことは,ライプニッツの有名な比喩を想起させる。
「同じ都市でも,異なった方角から眺めるとまったく別の都市に見え,眺望としては幾倍にもされたようになるが,それと同じように,単純実体が無限に多くあるので,その数だけの異なった宇宙が存在することになる,ただしそれらは,それぞれのモナドの異なった観点から見た唯一の宇宙のさまざまの眺望に他ならない」(『モナドロジー』)
同一の世界の異なる切り取り方,もしかしたら異界とはこういうものなのかもしれない。写真もライプニッツも知らないので,ものすごく的外れなことを言っているのかもしれないけれど。
下らなさと無知はご容赦いただいて,みなさまいろいろお考えをお聞かせください。