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「9-11」以降のアメリカンコミックスの変化から学ぶべきこと


 そのようなぼくらの眼中には「まんがと社会」や「まんがと戦後」や「まんがと文学」「まんがと映画」「まんがとTV」「まんがと思想」その他もろもろの、まんがと他の物を対立させて展開するまんが論など、入っては来なかった。ぼくらにとっては、まんがはまんがとしてそのまま社会であり歴史であり、あるいは社会や思想すらがぼくらのまえにはまんがとしてしか存在せず、そのなかで、自身がそれにどうかかわるかについて思いめぐらすしかなかったのだ。
(『イッツ・オンリー・コミックス』、「まんが評論になにが可能か」、村上知彦、廣済堂文庫)

現実が表現を浸食する


 先日、ひさしぶりにTVアニメ『機動戦士ガンダムSEED』(サンライズ、TBS系)を見ていたら、いつの間にか主人公たちをとりまく物語の構図が「軍組織から切り捨てられた主人公たちが逃げ込んだ平和中立国で、それまで所属していた大国が戦争協力を迫ってくる様を見せつけられる」というものになっていて大変ビックリした。
 この番組の開始当初の構図は「戦争に巻き込まれた少年少女が生き延びるために戦争の当事者になっていく」というシリーズ第一作の構図をかなり忠実に踏襲したものだったはずで、それが現在のような物語に展開していった背景には、なにをどう考えても「アメリカに自衛隊のイラク派遣を要請されている」この国の現実があるとしか思えない。
 誤解して欲しくないのだが、私はそのような作劇の是非を問いたい訳ではない。
 その物語の内容について論評したい訳でもない。
 もっと単純素朴なレベルで「9-11」以降のアメリカの対中東政策、そして、そこから派生したイラクとの戦争がここまであからさまな形で日本のポップカルチャーに影響を及ぼしていることに驚いたのだ。

 私は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロからきっかり一年後に発売された雑誌(『本とコンピュータ』2002年秋号、トランスアート刊)に「9-11、そのときアメリカンコミックスになにが起こったか?」(その後『本とコンピュータ別冊:アメリカンコミックス最前線』に収録)というタイトルの文章を書いている。
 この文章は、主にテロ後に事件被害者支援のために発売されたチャリティーコミックアンソロジーの収録作品を中心にテロ以前/以降のアメリカンコミックスを紹介し、テロ事件が「アメリカンコミックス」という表現ジャンルに与えた影響について個人的な考えを述べたものだ。
 これは具体的な作品の翻訳を含めた「9-11以降のアメリカンコミックス」という特集の一貫として掲載されたものなのだが、この特集の企画自体が私の持ち込みである。翻訳作品のチョイスから、掲載されなかったものを含めたその下訳、企画内容のプレゼンから、アンケート項目の作成まで、ほとんどを自分でやっている。
 断わっておくが、私は立場的にはただのフリーランスのライターであり、学者でもなければ、評論家でもない。ただ、ここ10年ほどのあいだ継続して雑誌媒体などにアメリカンコミックスの紹介記事を書いてきただけの人間に過ぎない。だから、私がそこでやろうとしたのは「アメリカ帝国の変化」や「グローバリズムの影響」といったことを批判し、論じることではなかった。
 飽くまでもアメリカンコミックスの継続的な読者として「アメリカンコミックスという表現」に起きた変化をレポートすることにその主眼があった。
 ここではその変化の「意味」について若干論じてみたいと思う。

 私は「9-11」という事件自体に対してははっきりと「他人事」だと思っている。
 事件現場に自分や親しい人間が居合わせた訳でもなく、アメリカ人でもなければアラブ人でもない。原則的にはそんな人間が「あの事件」に対して政治的な、あるいは感情的なコメンテーションをできるような当事者性など持ち得る訳がないだろうと思う。
 にも関わらず「9-11」以降発表されたアメリカンコミックスを眺めていて、私はそこに展開された「変化」に対し、ある種のショックを受けざるを得なかった。特に事件直後に発表された作品群は作品そのものが一種のパニック状態の中で描かれており、その変化がじつに直接的に作品に反映していた。

 世界貿易センタービルで救助活動する消防士たちの姿を見て自分たちの無力を嘆くスーパーヒーロー、現政権への批判や核戦争の恐怖を訴え続けてきた作家の自己批判、ポップでオシャレなコミックスを描いてきた作家が露にしたアラブ人差別への怒り、コミックカルチャーを脱/構築してきたと嘯いてきた作家が事件に対して見せた失語症状態……そこに見られたのはあからさまな現実の事件のフィクション世界への浸食であり、私がその時アメリカンコミックスを通して見ていたのは、描かれている物語やメッセージの内容ではなく、現実が表現をドラスティックに変えてしまう、その瞬間の風景だったのだ。

「他人事」という距離感


 当時、私がその一連の読書体験の中で考えたのは、事件の悲惨さに悲憤慷慨することや、作家たちのパニックに感情移入し、その感覚に同調することではなかった。また、逆にそうしたアメリカのクリエイターたちを皮肉っぽく、あるいは正々堂々と批判することでもなかった。
 チョムスキーやマイケル・ムーアが見せた批判的な態度が有効なのは、彼らが「アメリカ」の内部で発言するという当時者性を引き受けているからである。「9-11」以降のアメリカの政治的/社会的な行動がどれほどヒステリックで常軌を逸して見えようと、それに対する自己の当事者としての立場を想定して発言しない限り、それは無責任な印象批評にしかなりえない。
 ただ、この問題が「他人事」であるうちに「表現が現実によって変形していく」この事態を紹介し、その現象の意味を考えてもらう必要はあるのではないかとだけは考えていた。

 「9-11」という事件自体は大多数の日本人にとっては他人事だろう。 だが、この「現実の事件によって表現が浸食されていく」事態は決して他人事ではない。いまはアメリカの悲劇に無邪気に涙し、皮肉っぽくアメリカを批判できたとしても、いつアメリカと同様な状況が日本に訪れないとも限らないのではないか?
 そして、アフガニスタン空爆、北朝鮮による日本人拉致問題を経て、イラク戦争に至ったいま、私は日本の社会もこの種の問題がはっきりと「他人事とは言えなくなった」と感じている。
 わかりやすい例を挙げれば「殺すな!」などのアーティストやクリエイターによる反戦運動は私にはほとんど「9-11」に対するチャリティコミックの向こうに見えた風景と同質なものが感じられるし、前述したように現在もっともプログラムピクチャーに近いTVアニメである『機動戦士ガンダムSEED』にすら「現実のアメリカの政策」が影響を及ぼしている。

アメリカンコミックスの持つ政治性


 もともとアメリカンコミックスは、手塚治虫の存在によって文学的な作家主義の色合いを濃く持って発展した日本のマンガと比較すると、はるかに作品に対する政治的な影響に自覚的なメディアである。
 第二次大戦中のスーパーヒーローコミックスはそのほとんどが体制翼賛的なプロパガンダの側面を持っていたし、50年代のコミックコード(大手コミック出版社共同による自主規制コード)導入以降はメインストリームのコミックスが発する政治的なメッセージはほとんど保守反動の見本のようなものばかりだった。70年代になって、それまでタブー視されていたベトナム戦争問題やドラッグ問題が劇中にとりいれられた時でさえ、そのドラマは結局は単純な勧善懲悪の構図に回収され、ヒーローが代表する「アメリカの正義」は傷つかない仕組みになっていた。
 第二次大戦時の悪役はナチスドイツや大日本帝国だったし、戦後は当然共産主義者がその跡を継いだ。しかし、そんなことをやっていれば、デタントやペレストロイカが起こればそれらのニュースはリアルタイムで劇中に反映されざるを得ない。逆にいえば、そもそもがメインストリームのアメリカンコミックスは単独の作家の作品という自意識の希薄なジャンルだったから、常にその時その時の政治的に正しい意見を反映しているだけで、作家側も特にその付和雷同的なスタンスを悩んだりもしなかったのだ。
 こうした傾向が変わってくるのは、80年代にフランク・ミラー(『バットマン:ダークナイト・リターンズ』)やハワード・チェイキン(『アメリカン・フラッグ』)といった新しい作家が作家性の強い作品の発表をはじめ、これを受けるようにアラン・ムーア(『ウォッチメン』)やグラント・モリソン(『ドゥームパトロール』)といったイギリス人ライターたちがテーマ性の強い脚本を引っ提げてアメリカに乗り込んできて以降のことだ。彼らはそれまでの場当たり的なライティングと異なり、はっきりした政治的な主張を持ち、ヒーローたちに「アメリカの正義」を否定させるような作品も平気で(むしろ好んで)描いた。
 いっぽう60年代にはこれとは別にカウンターカルチャーとしてコミックスを描く一群の作家がアメリカにあらわれている。いわゆる「アンダーグラウンドコミックス」の作家たちがそれで、彼らは当時のロックやファッション、アート、反戦運動などの色濃い影響のもとに、こちらは反体制に特化したようなスタンスでコミックスを描いていた。この「メインストリーム」に対して「インディーズ系」といわれるコミックスのラインがこうした政治的な主張を薄めていくのもまた80年代以降のことで、大御所たちは一種のサブカルチャーのスターになって『ニューヨーカー』などの高級な一般読者向けスリック雑誌の紙面などに活動の舞台を移し、以降の若手作家たちもより作家色の強い作品を発表するようになっていく。
 つまり、日本的な「作家」、「作品」に近い意識の持たれ方でコミックスが読まれるようになったこと自体がアメリカでは80年代以降のことだと言っていい。
 メインストリームのコミックスは戦後も戦意高揚マンガの尻尾をひきずり続けていたし、アンダーグラウンドコミックスはヒッピーたちのアジビラのようなものだった側面がある。
 日本に比べ、その意味でアメリカンコミックスはメディアとしての自意識が希薄であり、その中で自分たちの作家性を主張してきた作家たちは日本よりはるかに表現に対する政治的な影響力の存在に自覚的だったはずなのだ。
 にも関わらず、彼らのほとんどは「9-11」の同時多発テロに対するとパニックを起こした。

パニックとナショナリズム


 はっきり言えば、メインストリーム、インディーズを問わず、彼らの多くはテロを期に「アメリカ礼賛」に近い作品を描いている。しかもその多くが、政治的な抵抗や批判をもその内部に含んでいたはずの自分たちの「マンガを描く」という行為自体の意味や有効性への根本的な疑念を表明しており、その反動のような形で無邪気に謳いあげられた消防士や警官たちのヒロイックな姿は、結果的に以後のブッシュ政権の強硬政策を間接的に支持するような意味合いを持つことにもなった。
 たとえば前述の『本とコンピュータ』誌の特集で私が翻訳したジェニー・ゴンザレスというニューヨークの女性アーティストの『崩壊』という作品は、自傷癖があり、パンクバンドのボーカルでもある彼女の事件当日の悪夢的な体験を描いたものだが、あきらかに反体制であるはずの彼女がこの作品の最後のコマでははっきりとアメリカによる報復攻撃を暗示している。
 彼らはマンガやアートなどよりはるかに重要な「アメリカンウェイ」にじつに唐突に目覚めてしまう。

 私がその意味で象徴的だと思ったのは、ダニー・ドノヴァンという若いライターが自分の体験をコミック化した「FICTION IS BETTER THAN REALITY」(『9-11: EMERGENCY RELIEF』、Alternative Comics)という作品の中に描いているこんなエピソードである。
 彼は一時期イギリスに住み、IRAのテロも現実の問題として知っていた。それでも彼は「でも、あの頃は家にさえ帰ればそんな現実とはおさらばだと思っていた」と書く。彼にとってIRAやPLOによるテロはその現場近くに住んでいてさえ「他人事」だったのだ……アメリカ本国がその対象となるまでは。
 90年代のコミックブームの影響で新しく登場したコミックスライターやアーティストはそのほとんどが幼少期からコミックブックに親しんだ経験を持つコミックファンである。彼らの多くはコミックスというメディアを主要な関心の対象とし、「まんがはまんがとしてそのまま社会であり歴史であ」るようなメディアへの接し方をしてきている。
 これは日本でわかりやすい言い方をすれば「おたく」だろう。
 政治的な現実と格闘してきた先行する世代の作家たちと違い、彼らの多くはそうした現実に無関心だった。そうした作家たちが「9-11」以降じつに簡単かつ無自覚にナショナリスティックなメッセージを発するようになっていく。
 おそらくそのもっともグロテスクな例は、グレイグ・ウェイというコミックコンベンションでスポーンのコスプレをしていた青年が「第二のトッド・マクファーレン」になることを夢見て発表した『Civilian JUSTICE』という作品が提示した問題だろうと思う。「アラブ人テロリストをアメリカ国旗のポールで刺し貫こうとする覆面がわりに国旗を被った男」が表紙に描かれたこの作品の持つ政治的な意図について、ウェイ青年はほとんど無邪気に「ここにいるのはモンスターだよ、だから怪物じみた描き方になってるだろ。彼らはアラブ人じゃない、モンスターなんだ、アラブ人テロリストというモンスター。アラブ人じゃない」(『The COMICS JOURNNAL』#247、「9/11,Benefit Comics and Dog-Eat-Dog World of Good Samaritanism」、Michael Dean、Fantagraphics)と語る。
 当然この作品は激しい物議を醸し、その後彼はこのイラストの修正を余儀なくされるのだが、それにしても多民族社会のアメリカでのこの無神経さは驚嘆に値する。
 逆に言えば、「9-11」以降のアメリカではこうした作家個々の政治的なバランス感覚が常に試されている。
 イラク戦争の開始を受け、『Xメン』や『スパイダーマン』で有名なマーヴルコミックスは「反戦平和アンソロジー」と銘打った『4-11』という作品集を発刊しているのだが、これは「非暴力、平和主義をテーマにクリエイター個々が自由に作品を描く」というコンセプトでつくられており、そのぶん作者個々の問題意識が直接的に反映したものになっている。このアンソロジー巻頭に収録された本自体の企画者でもあるマーヴルコミックス社長ビル・ジェーマスとまだ20代はじめの若いライター、チャック・オースティンの共同脚本による「Blow Up」という作品はまさにそのことを象徴したものだ。 この作品ではパレスチナ人の自爆テロによって娘を失ったイスラエル空軍の兵士がおこなった「非暴力・平和主義活動」が描かれている。怒りに燃えたこの男は戦闘機を持ちだし、パレスチナ、イスラエル両方のエリアでビラを蒔く、表には自分の娘の写真と「オレはお前らに娘を殺された」という文字、裏にはたくさんの子供たちの写真とそれに附した「オレはお前らの子供を殺すことができる、オレと同じ痛みを感じる前にこんなことはやめなければならない」というメッセージ……一読して「いったいこれはなんなんだ?」と思わざるを得なかった。これが果たして「非暴力・平和主義」なのだろうか。
 もちろん、この作品集に収録されているのはこんな作品ばかりではない。大半はこれよりはるかに政治的なバランス感覚に優れた主張で反戦・非暴力を謳っている。
 しかし、この作品は集中に収録された他のどの作品よりも現在のアメリカにおける「反戦・非暴力」というメッセージの在り方のグロテスクさをそのまま反映したものだとも言える。なにしろ、まさに「そういうものを反戦・非暴力と捉える人間」によってこの本は企画されているのだ。言うまでもなく、そこにほの見える主張はブッシュの「安全保証のための先制攻撃」というロジックのあまりにも無邪気な追認である。

マンガは「マンガとしてしか存在しない」のか?


 私はここでそのようなアメリカの状況を受けて、「クリエイターは反戦や政治的なステイトメントを折り込んで表現をおこなうべきだ」と主張したい訳ではない。
 言いたいことはむしろ逆だ。
 私は、クリエイター(そして作品の受け手)は戦争やテロといった表現を浸食してくる現実に対し、もっと意図的に線を引くべきではないのかと考えている。
 70年代以降、日本におけるマンガやアニメに対する言説はマンガ評論やオタク論の形式を通して、主としてその「同世代的な体験」としての価値を強調し、その独自の文化的な価値を主張する方向で発展してきた。それらを現実から切り離し、コンテンツそれ自体の価値の重要さ「のみ」を意図的に見ようとしてきた、と言ってもよい。
 そのこと自体の是非はともかく、そのような態度でマンガやアニメに接していて、たとえば拉致に、たとえばテロに、あるいはそれらを報じるマスメディアの論調やそれを受けた世論に、果たして引きずられずにコンテンツの製作をおこない、またそのコンテンツに対する適切な評価ができるかが私には疑問なのである。
 「アラブ人ではなくモンスターだ」と語る青年の姿や「反戦平和」のレッテルのもとに主張されるブッシュドクトリンのプロパガンダを、シニカルに「他人事」として笑い飛ばすことは簡単だろう。しかし、フランク・ミラーやアート・スピーゲルマン(『マウス』)に代表されるここで紹介した若い作家たちよりはるかに鋭敏な政治意識を持つアメリカの先行世代の作家たちでさえ、「9-11」以降は事件そのものを対象化することに苦慮し、あるいはそれに関する作品発表の場を奪われている。このアメリカの現実は、たとえば拉致問題発覚以降の日本での北朝鮮報道などを考えれば、もはやまったく他人事ではない。
 マンガもアニメも「それ自体としてしか存在しない」ものなどではなく、簡単に現実に引きずられ、変質するものなのだ。だからこそ作家はそのような現実から一線を引き、「自分が描くべきこと」を明確にした上で表現活動をおこなうべきではないのか。また、その上でこそ、作家論や作品論も成立し得るのではないか。
 すでに新古書店や海外進出、規制問題などを巡り、既存のアニメやマンガに対する言説の在り方は揺れ動いている。「マンガをマンガとしてしか存在しない」ものと捉えるのでは、いつまでたってもマンガやその読者は現実からスポイルされ、現実とメディアの相関もまた見えないままだ。
 作品はコンテンツとしてもプロダクツとしても決して現実から自由なものではありえない。
 そして、現実が作品を浸食するからこそ、その作品としての内実が試されるのだ……私たちがいまアメリカの表現を覆う変化から学ぶべき問題はそこにこそあるのではないかと思う。




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