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「マンガスタイル」を考える

 ホントはもう少しあとで書くつもりだったのだが、 竹熊健太郎さんのblogちょうどよいエントリ があったのでそれに便乗して書かせてもらうことにする。
 以前にも触れたようにいまやアメリカのコミックス界には「マンガスタイル」と呼ばれるアーティストがたくさんいる。
 基本的には UDON Entertainment Corp.やDreamwave Production (サイトにアクセスできなくなっているがどうかしたのだろうか?)に代表される中国系、韓国系の作家たちがこう呼ばれることが多いが、チャイナ・クラグストン=メジャーやレア・ヘルナンデスのような少女漫画の影響を受けた作家も、アダム・ウォーレンやジョー・マドレイラのようなアニメの影響の強い作家も、同様に「マンガスタイル」と呼ばれることがあり、じつは人種も絵のスタイルもはっきり決まった「これ」という定義があるわけではなくまちまちである。だから、実質的にはこの言葉は「日本マンガの影響を色濃く受けたコミックアーティストの絵のスタイル」を便宜的にこう呼んでいるに過ぎないようだ。たぶん中国系や韓国系が多いのも日本の影響が強い東アジアの出身だから、という結果論でしかないだろう。
 最近は厳密に学問としてアメリカンコミックスとマンガの比較をする論文も増えていて、いまちょっと Google Scholor で検索をかけただけで Comic Studio: Research Paper とか A Language by Any Other Name とかって論文が見つかる(こういうときにGoogle Scholorはとても便利だ)くらいだが、そういうこととはあまり関係なく「マンガブーム」のおかげでアメリカの市場にはいま「一見するとマンガっぽいコミックス」が急激に増えている。
 こうした「マンガっぽい」といういわれ方を疎ましく思うアーティストもいるし、そういう表現の増加は特に保守的なスーパーヒーローコミックスの読者には反発されている面もあるのだが、その一方で流行であるこの現象をプロモーション的に利用しようとしている向きもあって、アメリカでのマンガ出版最大手である東京ポップは「マンガアーティストの新人コンテスト」( TOKYOPOP - NEWS - TOKYOPOP Manga Talent Competition )なんてものまで開いている。
「コミックスではなくてマンガなんだ」と謳うこのコンテストの趣旨はもはや日本人にはなんだかわからないものような気もするが、マンガと欧米のコミックスの表現上の文法の差というもの自体は存在しているとは思う。それが竹熊さんも前述のエントリで指摘されている「アメコミの読みにくさ」というものだろう。たとえば私はチャイナ・クラグストン=メジャーの『BLUE MONDAY』(Oni Press刊、サンプルhttp://www.onipress.com/graphicnovels/page1.php?id=9)に対しては偏愛といっていい愛着があるが、絵柄は日本のマンガ的であるにもかかわらず(話だって割りとベタなラブコメだ)、なぜか読みにくさを感じる。個人的にはこうした「読みにくさ」の存在こそが文化的なものに裏打ちされた絵柄の問題ではない「日本人固有のマンガ文法」の存在を証明するものではないかと考えていて、欧米と日本でどう文法が異なるのかに関しても漠然と仮説はあるのだが、とりあえず長くなるので書かない。
 ただ、この「マンガ固有の文法」や絵柄としての「マンガスタイル」を考える上で先日大変興味深いblogエントリを発見したのでそれをここで紹介しておく。珍しく作者本人と接触して翻訳転載許可をもらったので全文翻訳だ。途中のリンクがかなり問題あるといえばあるのだが、そこがこの話の肝ではないし、彼女自身のサイトのものでもないのでどうかご容赦願いたい。

「大きな目、小さな口」、だからなに? それが私のスタイルなの!

 西洋人がアニメやマンガを取り上げると、必ずといっていいほどその絵のスタイル、目が大き過ぎるって話と他にあってせいぜい口が小さいってことばかり指摘する気がする。他の顔の特徴は取り上げられもしない。鼻がどうなってるかなんて定義はないし、シンプルな顔の輪郭線や陰影の省略も同様だ。
 もちろん私たちが知っているアニメやマンガの「少女マンガ」アーティストの中にもコーヒーカップのお皿みたいな目を描かないアーティストはたくさんいる、けれどはっきりと定義はできないにせよ、似たようなアートスタイルを持ったアーティストも十分ピックアップすることができる。大部分の西洋のコミックス(特にスーパーヒーローコミックス)の場合、ひとはその絵のスタイル(様式)より写実的な細部の描写に目を奪われることが多い。
 いっぽう非伝統的な作家の作品でさえもマンガの顔の造形は単純化されている。新しい西洋の「マンガアーティスト」たちはこの事実を受け入れることをひどくイヤがるが、キャラクターの顔の造形はマンガのビジュアルスタイルを構成する重要な要素のひとつだ。そのすべてでないことは確かだけれど(それは本棚にあるたくさんの出来の悪いタイトルを見ればわかる)。
 ではいったい何が問題なのだろう? まず以下のリンク先にある絵を見てほしい。
第一群:
http://cyberspace-market.com/xtremexmen/gallery/X-Treme-X-Men-36.jpg
http://cyberspace-market.com/xtremexmen/gallery/X-Treme-X-Men-46.jpg
http://cyberspace-market.com/xtremexmen/gallery/X-Treme-X-Men-5.jpg
http://www.gavroche.org/vhugo/images/lmx.jpg
http://www.gavroche.org/vhugo/xmen.shtml
http://www.blue-elf.com/comic.jpghttp://www.blue-elf.com/nightfactoidshistory.html
(参考:http://cyberspace-market.com/xtremexmen/story.html
第二群:
http://cupped-expressions.net/rod/die/manga2/manga01_page093.jpg
http://cupped-expressions.net/rod/die/manga2/manga03_page154.jpg
http://cupped-expressions.net/rod/die/manga2/manga03_page088.jpg
(参考:http://cupped-expressions.net/index2.php
 もし顔だけしか見なかったとしても、私たちが一般的に「マンガ」と呼ぶものと「コミックス」と呼ぶものは見ればすぐにわかると思う。それじゃ教えてください……どちらのキャラクターがあなたは物語に入り込みやすいですか?
 スコット・マクラウドは『マンガ学』(美術出版刊)の中で多くの人々がコミックスに入り込みやすいと感じるのは顔の表現が抽象的だからだという主張をしている。彼はそのことで私たちが自分自身をキャラクターと同じ立場に置き変えやすくなるというのだ。よりシンプルな表現は、私たちをキャラクターと同一化しやすくするし、キャラクターを印象的なものにしてくれる。
 共通した特徴である「大きな目と小さな口」は適切なアーティストはニュアンスを描き出すことを簡単にしてくれる。伝統的な西洋のコミックスにおけるそれはもっと難解だ。双方にはそれぞれの長所と短所がある。伝統的な西洋のアートスタイルではアーティストはほんの少しキャラクターをどんなときでもファンが理解できるような特徴を持たせてつくりやすいかもしれない。しかし、西欧のアートスタイルはキャラクターの靴の中まで描きこむような写実性によって、また同時に多くの人々をキャラクターに入り込みにくくもしている。マンガの場合、その意匠の共通性と顔のディティールの単純化のために読者はよりキャラクターに入り込みやすいが、キャラクターに特徴的なトレードマークを与えるのは難しい(だからマンガについてよくいわれる「登場人物がみんな同じに見える」という批判は正しい)。たぶんそれが彼らのとんでもない髪型、コスチューム、マンガ/アニメにおける鮮やかな色使いの理由なのだろう。それはアーティストたちが彼らのキャラクターが自分のものであると示すためにしなければならないマーキングのようなものだ(そしてそれは「キャラクター」という言葉の意味そのものじゃないの?lol)
 この両者の違いを実感したいのなら、サンデイストリップを見てみるといい。『Peanuts』、『Calvin and Hobbs』、『For Better For Worse』、『Family Circus』などなど。新聞の日曜版のストリップコミックスはキャラクターを単純化していることが特徴だが、それは読者が登場人物の生活に深く入り込み、ギャグに集中しやすくするためではないかと思う。たぶん、それとマンガのユーモラスなシーンにおいてチビバージョンのキャラクターが登場するのは同じ理由なのだろう。アートよりそのシーンやギャグに焦点を絞るために。
 多くのアーティストが受け入れたがらないが、顔の造形は特定のイラストレーション/コミックスのスタイルにおいて重要な要素を占めている。あなたは表現とリアリズムのどちらを気にかける? 私がこれまで見た多くのインディーコミックスはより表現に焦点を合わせたものだった。スーパーヒーローコミックスはリアリズム(もしくは誇張されたリアリズム)に傾く傾向がある。マンガは細部を強調することで表現と単純化を志向する。コミックストリップは単純化によって週末に落ちをつけてくれる。
 もちろんこれは私がその日の仕事を始める前にちょっと考えてみただけのことだ(そう、私は休日も仕事をしているんだ)。私は「大きな目、小さな口」を描く、それは私がそれを豊かで有効なアートフォームだと感じるからだ。それに私はそれだけが私のキャラクターをつくりあげているものではないことを知っている。性格、ボディランゲージ、服装、スタイル、そして動き、こうしたものすべてが私のキャラクターをつくりあげている。あるものは誇り高く胸を張って歩き、またあるものは背中を丸め自分自身から身を隠している。顔は感情を表す恰好の道具だけれど、手や胴のくびれ、つま先のねじれ、乱れた髪の毛も同じように感情を表すものだ。あなたはピンナップを描いている訳じゃないし、彼らが生きて動き出すように考えなきゃいけない。その目の後には歴史があるし、彼女がその服を選んだのにも理由がある。彼女はなぜスカートとハイヒールをはかないで、スウェットとテニスシューズを身に着けることのほうを好むのか、彼はなぜ片目が隠れるように髪をとかすのか、彼女はなぜナーヴァスになったとき髪をかきあげるのか、そしてなぜ彼は怒ったときに突然静かになるのか。キャラクターは私たち自身の混合物だ。あなたはできるだけ長く彼らが生きているように振舞わなくてはならない、でないと彼らは決してリアルな存在にはなってくれない。
(「Big Eyes, Small Mouths. It's a style, baby.」、Rivkah Greulich、http://www.livejournal.com/users/lilrivkah/39473.html

新世代アメリカ女性マンガアーティスト

 この記事の作者リヴカ・グルーリック(と読むのか?)は05年に東京ポップから『Steady Beat』という作品でのデビューが決まっている新人アーティストだ。
 年齢はまだ23と若く、マンガを描き始めてからの経験も浅いが、オフィシャルサイト『<a href="http://www.rivkah.com/">Steady Beat</a>』のギャラリーページなどを見る限り、現時点で「絵のうまさ」だけならレアやチャイナより上だろうと思う。好みの問題もあるだろうが、「マンガスタイル」を自分なりに消化してちょうど絵のスタイルが固まりかかっている時期で、サイトで読めるコミックスのほうはまだ荒削りだが、作家としても十分今後を期待させるひとだと思う。
 この記事を読んで私が驚いたのは、なによりも「アメリカのマンガ系アーティストがロジカルに様式としてのマンガの実効性を論じている」ことだった。こういうひとは(特に女性では)かなり珍しい。アメリカのマンガ系のアーティストは様式そのものへの愛着が強すぎる場合が多く(有体にいうとファンなので)あまり対象を分析的に語らない場合が多い。アダム・ウォーレンのようにかなりシビアに「図像としてのマンガ」の特徴を分析して描いているひともいるが、こういうひとは逆に屈折が強すぎて彼女が論じているような「(マンガという図像表現が持つ)プラクティカルな実効性」にはほとんど言及しない。
 彼女が提起している「単純化、様式化によって読者の感情移入を促す」からこそマンガの技法は有効なんだ、という議論はアメリカの「マンガ」アーティストの中から様式を様式として実利的に使いこなそうとする新しい世代が登場したという点でもきわめて興味深いものだ。 また、おもしろいのは彼女に対し「私はアメリカのマンガを読むと読みにくいと感じるのだが、あなたは日本のマンガに対し読みにくさを感じたことはないのか?」と尋ねたところ、彼女からは「スーパーヒーローものもそれ以外のものもアメリカンコミックスはコマ割りが細かく、台詞が多くて読みにくい。日本のマンガのほうがペースが緩やかで読みやすい」「たぶん日本のマンガはダイアローグがトラディショナルなアメリカンコミックスの70%程度の分量なんじゃないか」とまるで日本人のような返答が返ってきたことだ。
 もちろん彼女はあまりきちんとスーパーヒーローコミックスを読んでいるわけではないようなので、ある程度割り引いて考えなければならないが(最近のスーパーヒーローものでもダイアローグは減少傾向にある)、もし本当に日本人でもアメリカ人でも「日本マンガのほうが読みやすい」のであれば「様式としての志向性の違い」をマンガとアメリカンコミックスの違いとしてあげる彼女の論点もより大きな説得力を持ってくる。
 また欧米のマンガ系のアーティストは「絵柄」をマンガに似せることに腐心する割りにコマ割りやスクリプトの処理は旧来のコミックスのまま、という作家が意外と多く、この点がおそらく「読みにくさ」につながっているのではないかと思うのだが、彼女はこうした点にも自覚的で「アメリカのアーティストはコマ割りや物語のペース配分にもっと気を遣うべきだ」とも語ってくれた。
 こういうファニッシュにではなく、分析的にマンガを捉えて、そのスタイルを消化しつつ自分の作品を描こうとするアーティストの登場は「アメリカンマンガ」がいま急速に成熟しつつある証なのだろうと思う。
 他にも今回彼女と対話してみた過程で副産物的に見えてきた、「アメリカの女性マンガ読者」の問題とかディープな「アメリカ版腐女子」の実態とかもいろいろあるのだが、それはそれで別な話なのでとりあえず書かない。
 ちなみにこのリヴカちゃん日本でもデビューしたいらしいので、もし関心のある出版編集の方がおられれば連絡を取ってみてはいかがでしょうか?

ポッキーと謎(?)の日本人アーティスト

 ちょっと前にここの「マンガブーム」話にリンクを貼ってくれた『ムーンライト・ファンタジア』(http://www.tekipaki.jp/~moonlight/)というCGアーティストの方のサイトで、欧米のオタクコミュニティーにおける『ポッキー』の持つ象徴的な意味(wについての記述を読んでちょっと思い出したことがある。
 最近では『Teen Titans Go!』(DC Comics刊、CN放映のアニメ版のコミカライズ)の脚本なんかやってて「出世したなあ」という感じのJ.トレス。彼がメジャーから注目されるきっかけになった作品が『SIDEKICKS: THE TRANSFER STUDENT』(ONI Press刊、オンラインでサンプル(http://www.onipress.com/graphicnovels/page1.php?id=76)も見られる)なのだが、この話の中で主人公テリーの隣室の少女が出てくるたんびにポッキーを食べていて「誰かポッキー食べる?」とやる。この作品はヒーロー志願の特殊能力者の少年少女ばかりを集めた全寮制学校での彼らの生活を描いたもので、件のポッキー少女は物質透過能力(シャドウキャットみたいな力)を持っていて、毎回いきなり壁からニュッと出てきては「ポッキー食べる?」という……まあ、どうでもいいギャグなのだが、これが繰り返しギャグであることもあって妙に印象に残り、当時「なぜにポッキー?」と思っていたわけだ。でまあ、このほどようやく「そう、ポッキーこそがアニメの公式お菓子なのです」という話(http://www.tekipaki.jp/~moonlight/misc/give_us_a_ride.html)を読んで、その胸のつかえがとれ、「なるほど」と思った次第。
 この『SIDEKICKS』、基本設定を見てもわかるようにスーパーヒーローもののバリエーションの一種であり、カート・ヴュシークの『Astro City』以降急増した「日常ヒーロー」路線の青春ドラマバージョンといったコンセプトの作品。かつてのスーパーヒーローの娘である主人公テリー・ハイランドが「その手の生徒」ばかりを集めて創立された学校「シャスターアカデミー」に転校してきてからの奮闘の日々を描くストーリーには、知ってるひとはかつての『New Mutants』や現在の『New X-Men』辺りも思い浮かぶだろう。
 しかし、実際に読んでみると、この作品はこれら既存のスーパーヒーロージャンルのコミックスとはかなり毛色が違っている。
 なんというかアメリカのスーパーヒーローコミックス特有の「あくの強さ」のようなものが希薄で、言葉の問題を除けば日本人にも、というよりは日本人にこそ読みやすいコマ運び、演出になっている。キャラクターもコスチュームをつけたスーパーヒーローではなく、普段着の少年少女たちで、むしろ劇中でのコスチュームドヒーローは妙にかっこ悪い。ノリがまんま日本マンガのSF学園ものなのだ。
 これはどう見ても脚本のトレスのセンスではない(彼はこの作品に先行して発表した自伝的な作品『Copy Book Tales』(Oni Press刊)でスーパーヒーローコミックスのマニアックな読者であることを明かしている)。いったい何者だ、このアーティストは?……と思ってアーティストを見ると「Takeshi Miyazawa」と書いてある。
「ミヤザワタケシって……それ、日本人じゃん」
 以後、このアメリカデビューの日本人アーティストのことを微妙に注目してきたのだが、このひとはその後若干の空白期間はあったものの『SIDEKICKS』のコミックブック版の版元であった「Fan Boy Entertainment」のC.B.セブルスキ(C.B. Cebulski)がマーヴルに移籍したこともあって(このセブルスキは一時活発にやっていたマーヴルの日本人作家誘致運動の中心人物でもある)同社で順調にキャリアを重ね、現在はマーヴルで『Mary Jane』(脚本は『Waiting Place』(SLG/Amaze Inc.刊)のシーン・マッキーバー(Sean Mckeever))のレギュラーアーティストになっている。
 しっかし、このひと、確実に知名度は上がってるのにあんまりプロフィール面での情報がない。『Newsrama』などのインタビューを見ると「日本にいってた」とかいう話もしてるので日系人ではなく日本国籍もあるひとなのだろうが、日本での活動はまったく見たことがないから、麻宮騎亜や天野喜孝と違って完全なアメリカ発の日本人作家である。こないだ出た『Mary Jane』のTPBに、マーヴルには珍しくスタッフのプロフィールが載っていたので、これでようやくおぼろげにそのひととなりが見えてきた感じだ。
タケシ・ミヤザワ-ペンシラー
 カナダ生まれで、カナダのトロントで育つ。彼はオンタリオのクィーンズ大学キングストン校で美術を専攻し、画家を目指した。彼はいまでもその夢を追い続けているが、現在は多くの時間をコミックスの作画とCBCラジオを聴くことに費やしている。彼はUFOを見たことはないが、見たいとは思っている。ピザははじから食べるのが好きだ。
(『Mary Jane』、Marvel Comics刊)
 最近オフィシャルサイト(http://miyazawa_t.tripod.com/skgoodies/)もつくったようだが、ここにもプロフィールについてあまり詳しく載っている訳ではない。
 ただ、インタビュー類を読むと、いわゆる「アメコミ」のファンでないのは確実なようで「スーパーヒーローものはほとんど読んでこなかった」らしい。日本語よりは英語が得意だというが、マンガに関しては日本マンガを主に読んできたようで影響を受けたマンガ家としては沙村広明、望月峯太郎などの名を挙げている。
 いっぽうで自分のアートスタイルを「マンガスタイル」といわれるのにはいい加減辟易しているらしく、あるインタビューではこんなことをいっている。
 ほとんどのミヤザワの作品は間違いなく見た目も描き方もマンガを感じさせるものである。彼がこのシリーズ(訳注:ゲストペンシラーをつとめたマーヴルの『Runaways』のこと)でその自分のスタイルを変えるつもりかとたずねたとき、彼はこう答えた。
「どう答えればいいかわからないよ。僕の描いたページが他と違って見えたとして、その理由は僕にはよくわからない。僕はスタイルとか様式とか全部ひっくるめて「西と東の違い」に帰結させるような類の議論には興味がないんだ。僕は自分が正しいと思ったようにイメージを形にしているだけさ」
(「TAKESHI, CLOAK, DAGGER, & RUNAWAYS」、JENNIFER M. CONTINO、http://www.comicon.com/cgi-bin/pulse.cgi?http%3A//www.comicon.com/cgi-bin/ultimatebb.cgi%3Fubb%3Dget_topic%26f%3D36%26t%3D001796
 これは『Scoop』に掲載された『Runaways』にゲストで入ったときのインタビューだが、プロフィールにもあるように、彼自身は画家志望でそもそもマンガ家になるつもりはなかったことが別のインタビューの答からは察せられる。
 なにがあなたに「マンガアーティスト」になることを決意させたのですか?
「僕は自分が「マンガアーティスト」とかそういう風に呼ばれるべき存在だとは思ってないよ。これは僕にとってずっと趣味みたいなものだったし、いまでもちょっとこれをフルタイムの仕事にすることにはためらいがあるんだ。僕には将来こうなりたいというはっきりした計画があるんだけど、ただいま現在はこの『SIDEKICKS』みたいな奇妙な仕事をするのもいいんじゃないかって思ってるんだ」
(「Ladies and Gentlemen: Takeshi Miyazawa」、Kristin Getsee、http://www.google.co.jp/search?q=cache:HagKJ43U_yIJ:www.dade.k12.fl.us/hml/TT-Feb2002-Site/anime1.htm+TAKESHI+MIYAZAWA+Artist+Comics&hl=ja
 こちらは『The Trojan Times』という学生新聞の記事らしい。元記事が消えているようなのでGoogleのキャッシュだ。
 他にざっと探して見つけたネット上のインタビューとしては『Newsrama』に
http://www.newsarama.com/forums/showthread.php?s=&threadid=7164
http://www.newsarama.com/forums/showthread.php?s=&threadid=11109
の二本があった。ただ、上記二本に比べると恐ろしく内容がない(どうでもいいよ、「MJのキャラクターデザインにキルスティン・ダンストを意識したか」なんて話は)。
 一応このひと、今後はオリジナル作品も考えているようなので、このオルタナティブ系の作家ともまた違ったほとんど「コミックス業界の異邦人」というべきスタンスがより前面に出てくるとおもしろいと思うのだが、本人がいくら嫌がっても「マンガスタイル」云々といわれる中での仕事をせざるを得ないだろう。
 アメリカでの「マンガスタイル」とは日本で「アメコミ風」というのと同レベルの絵柄の流行程度のものとして捉えられており、学術研究レベルでもなければその文法的な差異まで踏み込んだ議論にはならない(それでも学術研究レベル「でも」そこまで踏み込んだ議論を「しようがない」日本よりはるかにマシだが)。しかも、アメリカでは本物のマンガの翻訳を除けば「マンガスタイル」と呼ばれているのは、ほとんどが中国系か韓国系の作家である。そんな中で、明確に日本マンガの文法を内面化させながら「アメリカ人のスクリプト」を作品化している彼は日本でも注目に値する存在だと思う。




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