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アニメ人気の分裂

 マスメディアにおける欧米の「アニメ人気」報道で必ずといっていいほど無視されている……というよりはそもそも理解されていない点がひとつある。
 それは欧米におけるアニメの人気、評価がじつは二極分化していることだ。
 これは東海岸と西海岸の差ともパラレルなものなのだが、アメリカのメインストリームメディアにおけるクリティカルな「評価」と子供を中心とした一般ユーザーのコマーシャルな「人気」がはっきり分裂しているのである。
 たとえば同じ『New York Times』のフィルムレビューでも宮崎駿や押井守のような作家の作品と『ポケモン』や『遊戯王』のようなマーチャンダイズがらみの作品ではその語られ方自体がまったく異なっている。

 押井守の幻惑的な機械世界の影にある生の瞑想『Ghost in the Shell2: Innocence』の中ではアンドロイドは機械羊の夢など見ない。そこで彼らが夢見るのは自殺である。あるアンドロイド、この世界では「ガイノイド」と呼ばれる能面のような顔を持ち、悲しみにくれる未亡人のような人工的な外見を裏切る不気味に折れ曲がる四肢を持った性的愛玩物がプログラム上ありえない暴力事件を起こす。この哀切で、しばしば驚くほど美しいアニメではセックスドールがフィルムノワール風の陰謀の渦に巻き込まれてバーチャルなセップクを試みる。哲学的な考察と目を奪うイメージとシリアスなサイエンスフィクションが持つクールネス、その中毒性の霧は明日のパーティーすべてで漂っているだろう。
(「FILM REVIEW; Philosophizing Sex Dolls Amid Film Noir Intrigue」、MANOHLA DARGIS、『New York Times』09.17.04、http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9904E1DD1639F934A2575AC0A9629C8B63

 この情報番組とカタログ雑誌に溢れた時代にあってエンターテインメントとアドバタイジングの境界はどんどん曖昧になっている。本日全国公開される日本のアニメ映画『遊戯王』においてはこの境界線はきっぱりと消し去られている。
(中略)
 ここ数年日本のアニメは宮崎駿の『千と千尋の神隠し』、今敏の『千年女優』など、息を呑むほど美しい映画を何本も送り出してきた。しかし『遊戯王』は土曜の朝、ディズニーチャンネルでやっている『ピノキオ』のようなカートゥーンとたいして変わらない代物だ。キャラクターデザインは平坦かつみな似通っていて、背景はお粗末で魅力がない。そして動きはといえばギクシャクして最低限だ。これらは映画としては悲しむべき欠点だが、ただひとつの点によってそんなことは問題ではなくなる。これは入場料の必要なコマーシャルなのだ。
(「FILM REVIEW; For Movie and Its Marketing, A Marriage of Convenience」、DAVE KEHR、『New York Times』08.13.04、http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9A01E0DC173FF930A2575BC0A9629C8B63

 個々の記事は評価としてそれぞれけっこう妥当なことをいっているような気がしないでもないが、単純にいって「高尚」と「俗悪」とでもいうべきくっきりした評価の違いがすでにそこにはある。
 こうした評価の分裂自体は実際には国内のマスメディアの報道にも存在するものであり、よほどのアニメマニアでもなければ作品的なレベルでポケモンと宮崎アニメを同列に語ったりはしないし(たぶんやろうと思ってもできない)、マーケットが巨大化したために最近は希薄になった気はするが、80年代くらいまでは日本にも「よいアニメ」、「悪いアニメ」といった漠然とした区分けはあった。
 にもかかわらず海外での日本アニメ受容の場合には、こうした側面がほとんど語られないのは、報道レベルでは批評的な評価とビジネス上の成功の切り分けがほとんどなされないことに主原因があると思う。ざっと検索したらたまたまちょうど上記2作品の世界配給を報じた朝日新聞の記事が見つかったので引いておく。

 封切り前の日本製のアニメ映画「イノセンス」(押井守監督)と「遊戯王」(高橋良輔監督)の2本が、年内にも欧米で公開されることが26日、明らかになった。アニメ映画が相次いで、製作段階のうちに世界規模で配給決定されることは極めて珍しい。宮崎駿監督を始めとする日本アニメへの高評価が後押しした。
 「イノセンス」は、米国のビデオ販売チャートで1位を記録した押井監督のアニメ映画「攻殻機動隊」(95年)の続編。スティーブン・スピルバーグ監督率いる米映画製作会社大手「ドリームワークス」が、12月にも全米や欧州で配給する予定。
 製作費は約20億円で、大手アニメ制作会社「プロダクションI・G」(東京・国分寺市、石川光久社長)が製作。宮崎監督のスタジオジブリが宣伝や配給に協力している。日本では3月6日に全国公開される。
 「遊戯王」(米国名は「Yu-Gi-Oh!」)は、テレビ東京系で放送中の人気アニメの映画版。テレ東の番組は米国でも土曜日午前に全国ネットで放送中で、小中学生の支持が高く、ディズニーアニメなど米国製アニメを上回る視聴率を稼いでいる。
 製作費は3億5000万円で、テレビ東京や出版社の集英社などが出資。日本での公開予定はなく、ワーナーブラザーズが8月にも、全米3000館以上で配給する予定。英国やドイツ、フランスなどでも公開される。
 海外で過去最大の興行収入をあげた映画は99年の「ポケモン ザ・ファースト・ムービー」(日本名「ミュウツーの逆襲」)。北米、欧州などで約170億円に達したが、98年の日本公開時に海外配給はまだ決まっていなかった。
 ベルリン映画祭金熊賞とアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した宮崎監督の「千と千尋の神隠し」を始め、日本製アニメの評価は国際的に高い。
 世界のアニメ放送量の6割が日本発と推定されている。テレビ局制作のアニメ番組も年々増えており、NHKも4月から放送する手塚治虫原作「火の鳥」の海外販売を表明。アニメは、日本のコンテンツビジネスの中核となっている。
(「日本製のアニメ映画、封切り前に世界評価 海外配給決定」、『朝日新聞』02.26.04、http://www.asahi.com/culture/update/0226/011.html

 一目瞭然、見事なまでに「国際的な評価」と「ビジネス的な成功」がひとつの記事の中で混同されている。ほとんどワザとなんじゃないかとも思ったりするのだが、まあこの字数の新聞記事でそんなことまで言及する余裕がなかったのだろうととりあえずは解釈しておく。
 ただ、こういう報道が困るのは往々にして「評価」が「成功」を生んでいるというひどく短絡的な因果関係を読者に植え付けてしまうことである。実際にはそれは無関係とはいえないが、ほぼべつな現象であり、しかも価値観としてはほとんど対立しているとさえいえる。
 前述したようにこの対立は私たち自身も無意識に共有しているはずのものだが、なんで海外の場合に限ってこんな倒錯したことになってしまうのだろう。

マンガへの反発

……という疑問の答が12月28日付けの『New York Times』に載った記事「Girl Power Fuels Manga Boom in U.S.」とそれに対するコミックス系のBlogの反応を見てちょっとだけわかった気がした。
 NYTの記事自体は「マンガブーム」がそれまで欧米のコミックスの読者としてはほとんど存在していなかった大量の女性読者を新たに呼び込んでいることを目新しい現象として論じたもので、これまで報道された「マンガブーム」関連の同種の記事と比較してさほど論調が異なる訳ではない。ICv2のミルトン・グレップ(Milton Griepp)のコメントではじまっているのもいかにもだ。
 では、どこいら辺がコミックス系のBlogで反響を巻き起こしているのかといえば、問題は記事の冒頭部分にすでに集約されている。

 気をつけたまえ、坊やたち。街には新しい子供がやってきている。
 MANGA(MAHN-gaと発音する)という呼び名で知られる日本のコミックスのセールスが合衆国で上昇している。このブームの大きな原因となっているのがコミックパブリッシャーの若い男性読者を超えた読者層を取り込もうとする取り組みである。そして、それは実際「男性」を超えた広がりを見せている。
「アメリカのマンガプロデューサーたちはコミックスに新しい読者を呼び込んでいる、それは女性読者だ」小売店向けのポップカルチャー情報サイトICv2の創立者兼パブリッシャーであるミルトン・グレップはいう。
 書店ではカラフルなダイジェストサイズ(訳注:日本の単行本サイズのペーパーバック)のマンガコレクションが国内の古典的なキャラクター、バットマンやスパイダーマンをフィーチャーしたグラフィックノベルの棚の横に並べられている。マンガはしばしば強い女性キャラクターを冒険物語の中で肯定的に描き、あるいは少女たちの恋愛関係にスポットを当てる。これらのタイトルは少女向け(少女マンガ)、少年向け(少年マンガ)に分類されている。
(「Girl Power Fuels Manga Boom in U.S.」、GEORGE GENE GUSTINES、『New York Times』12.28.04、http://www.nytimes.com/2004/12/28/books/28mang.html?ex=1261976400&en=aeb6fc3571ef551d&38;ei=5088&38;partner=rssnyt

 原文冒頭の「Look out boys」とか「New Kids in town」(イーグルスだ)とかいう言い回しはそれ自体が慣用的なもので、訳しにくいことこの上ないが、これはそれぞれ元からのコミックス読者である少年層(boys=コミックブックファン)と新規読者である女性層(new kids=マンガ読者)をあらわしている。一読するとなんでもないような表現だが、この辺の書き方にはそれ自体「古いドメスティックなアメリカンコミックス」と「新しいコミックス、マンガ」とを対比的に扱おうとする無意識の身振りがよくあらわれている。
 私がこの記事を知ったのは「New York Times shocker: GIRLS LIKE MANGA」というMile High ComicsのBlog『the Beat』(http://www.comicon.com/thebeat/)でのエントリ経由でのことだが、記事でもコメントでもアメリカのコミックファンたちはこうした報道姿勢への反発を隠していない。特に反発を買っているのはアーティストでコミック史家のトリナ・ロビンスのコメントだが、この辺は読んでいてかなりおかしい。

 不幸にも新聞記事の例に漏れず、馬鹿げた無意味な犯人探しがここでもおこなわれている。たとえばトリナ・ロビンスによるこんな糾弾がそれだ。
(「New York Times shocker: GIRLS LIKE MANGA」、http://www.comicon.com/thebeat/archives/2004/12/new_york_times.html

 で、NYTの記事のロビンスのコメントはこんな感じ。

 アメリカンコミックスにおいては50年代末以降少女向けのコミックスはマイナーな存在になったのだと『From Girls to Grrlz: A History of Women's Comics』(Chronicle Books刊、1999年)の著者、トリナ・ロビンスは語る。少女たちもかつては『Millie the Model』、『Patsy Walker』、『Betty & Veronica』のようなタイトルを楽しんでいた。
「マンガはそれらと同じ主題を、ただ21世紀の日本の繊細さでアレンジして語っているのです」彼女はいう「少女たちはキュートで、決して性差別的に扱われたりしません、そしてバストばかりが強調された描きかたもされないのです」ロビンス女史はスーパーヒーローコミックスにおける若い女性の描かれ方と比較してこう語る。
(「Girl Power Fuels Manga Boom in U.S.」、GEORGE GENE GUSTINES、『New York Times』12.28.04、http://www.nytimes.com/2004/12/28/books/28mang.html?ex=1261976400&en=aeb6fc3571ef551d&38;ei=5088&38;partner=rssnyt

 「バスト」のくだりでロビンスのマンガ認識が間違っていることがよくわかるが(w、要するにこの記事では「マンガ大国ニッポン」を偶像化するかわりに既存のアメリカンコミックスを貶める構図が出来上がっているのである。これは普通に考えてみればわかるだろうが、向こうのコミックファンは怒る。
 記事後半でもマーヴルのパブリッシャーの「(マンガ人気は)女性もグラフィックフィクションを求めている証拠だ」という発言や、DCが新たにはじめたマンガライン(『SWAN』や『エロイカより愛をこめて』など秋田書店系の少女マンガを含む)副社長の「(マンガ出版によって)これまでの自社コミックスでは取得できなかった新たな読者に到達できる、これはすごいことだ」という発言などが続き、完全に「女性読者が得られるのはマンガだけ」というプロパガンダになっている。腹をたてた『the Beat』の記者はこの記事の書き手を「こいつはパラレルワールドに住んでいるとしか思えない」とこき下ろしている(実際にコミックファンダムが女性にやさしくしてこなかった面もあるので、この態度はこの態度でどうかとも思うが)。
 これは「女性読者」の存在によって「マンガ」を特別扱いしている例だが、もともとファン層が微妙に異なっていることもあり、アメリカのコミック業界ではもっと一般的にコミックスとマンガを区別している面がある。この「区別」に対して反発しているのが、これもNYTの記事と同じタイミングで見つけたカナダのコミックショップ店員のBlog『comics.212.net』(http://comics.212.net/)の12月28日付けのエントリだ。
 こちらの背景としてはメインストリームメディアである『TIME』のアンドリュー・アーノルド(Andrew. D. Arnold)によるオンラインコラム「TIME.COMIX」でのコミックスの扱いと専門誌である『Wizard』のようなメディアでのコミックスの扱いの乖離の問題がある。これは事情としてはより複雑(というほどのこともないが)で、そもそもの遠因はアーノルドが年末ベスト10に選んだ作品(http://www.time.com/time/bestandworst/2004/comics.html)がメインストリームのコミックスファンの嗜好とかけ離れたオルタナティブ系の作品ばかりだったことにある。べつに年末ベストなんて個人の趣味なんだから、なに選んだっていいじゃないかとも思うのだが、このBlogの書き手であるクリストファー・ブッチャー(Christopher Butcher)という青年はそこから敷衍して現在のアメリカにおけるコミックスメディアがコミックスの全体像を見ようとせず、ある種のセクショナリズムに閉じこもっている現状を批判している。そんなこといっても、アメリカンコミックスはその構造自体が重層的で、訳わからないんだから仕方ないじゃないかと私なんかは思わないでもないが、その問題意識はわからなくはない。
 で、そういう問題意識があったうえで彼は「マンガの特別扱い」を批判する。

 なんで議論になると「レビュワー」や「評論家」はみんなマンガを特別なものとして扱いたがるんだろう。問題はマンガ(ここでいうのは「日本か、せいぜい韓国で描かれたコミックス」って意味だけど)が異なった文化と歴史によってつくられた独自性を持つものだ、ということであって、全体としてのコミックスを考えた場合にその特殊性を気にする必要なんかないじゃないか。
(「I had a thought」、Christopher Butcher、http://comics.212.net/2004_12_01_archive.shtml#110425500214476479

 彼は返す刀でスーパーヒーローコミックスの話ばっかりするのに対しても批判の目を向けているが、このテキストはあくまでも「同じコミックスなのにマンガだけ別扱いする批評家」に対する批判が主目的である。
 彼は続けて「吉本ばななや村上春樹の本を文学の棚とは分けて置いたりしないじゃないか?」とも書いていて、この辺も別な意味で興味深かったりするが、それはともかく。必ずしもブームのためばかりではないこうした「マンガの特別扱い」は『the Comics Journal』の常連寄稿者であるトム・スパージオン(Tom Spurgeon)なども自身のBlogで少し触れている。

 私が依然として奇妙に思うのはマンガが議論の的になってからすでに3年が経つのに、なぜアメリカのコミックス業界の誰かが特定のマンガ出版社の戦略などよりもっと分析に値するものとしてうまく扱えないのだろうということだ。90年代の一時期DCは「マーヴルではない会社」としてしか扱ってもらえない時期があった。同様に私たちはマンガを「コミックスでないもの」として扱おうとしてはいないだろうか?
(「Apparently, 2004 Kind of Sucked」、Tom Spurgeon、http://www.comicsreporter.com/index.php/apparently_2004_kind_of_sucked/

 ブッチャーはこれと似たような意味合いで「よくてゼノフォビア(異文化恐怖症)、悪くとればレイシズム(人種差別)ではないか」といっているのだが、いくらなんでもこれはいいすぎだろう。単にコミックスファンのあいだでもマンガと既存のアメリカンコミックスの関係性はうまく整合性がとれていないのだ。
 それに『TIME.COMIX』のアーノルドのスタンスにも多少の疑問はあり、彼がベスト10に挙げているのは手塚の『火の鳥』なのだが、これは書店やコミックショップの売り上げとはなんの関係もないチョイスなのだ。
 もともとアーノルドは東海岸的なアート志向の強いレビュワーだから個人の趣味としてこういうチョイスをするのは理解できるのだが、そういう個人の嗜好の枠を超えてメインストリームメディアによって受け売り報道がなされると、今後アニメ同様の「よいマンガ」、「悪いマンガ」という暗黙の価値観が出来上がっていく可能性はある(すでに前述したロビンスの例にはその萌芽が見られるといえるだろう)。べつにアーノルドのせいではないが、それが現在すでに見られるような「マンガ大国ニッポン」幻想と混在することを考えるとちょっと気が遠くなる気がするのだ(断っておくがアーノルド自身は非常にバランス感覚の優れたライターである)。
 個人的にはこういう形でコミックファンの側からマンガ(というよりはその報道)に対する反発が出てきたのはけっこう意外だったのだが、これは私自身が考えていたより一般のアメリカ人の自国のコミックス文化(というかコミックブック文化)に対する軽視の念がはるかに強いということなのだろうと思う……どうも「ダメなはずのもの」がなぜか売れているからその原因を「日本製」の部分に求めている匂いが強烈にするのである(なんとなくかつての「Japan as No.1」報道などとも共通するものを感じる)。
 これを翻って、日本のアニメやマンガの海外人気報道や政府のコンテンツ産業育成政策などに当てはめて考えると、共通していえるのは「市場や海外で報道する側がなにが評価されてるんだかよくわかっていない」という部分である気がする。もともとアメリカのコミックスファンにしろ、日本のアニメ、マンガのファン(オタクといってもいいが)にしろコミュニティー的に閉じたカルチャーであったのであり、マーケット規模が大きくなったことによってその価値観をオーバーグラウンドな「社会」が共有しようとしたときにまず社会通念とのギャップが生じているのである。
 そのギャップが解消されないうちに輸出産業になったりしているから報道にも混乱が生じているわけで、なんとなく海外のアニメ・マンガ人気に喜ぶ日本のファンとマンガの特別扱いに怒るアメリカのファンはほとんど合わせ鏡のような関係にあるのではないかと思った訳だ。
 まずこういう価値観レベルでの混乱が解消されないと、個人的な経験から考えても、日本のマンガと欧米のコミックスとの表現レベルでの文法の違いやテマティックなレベルでの比較研究などは今後もなかなかキチンと成立していかないのではないかと思う。

追記:かなり適当に読み飛ばして書いていたので、まともに読み返してみたらまるでニュアンスが違っていた『comics.212.net』と『TIME.COMIX』のくだりをあとから修正した。ちゃんと読んだらブッチャーはべつにアーノルドに否定的でもなかった。皮肉っぽい部分はあるが「『TIME』の読者に勧めるなら僕もこの10冊を選ぶ」と書いている。『the Comics Journal』に関してはもっとひどくて「新編集長になってから目配りが効いてよりよくなった」という趣旨で挙げている(個人的には前任者の編集方針も好きだったんでそうかなあという感じだが)。ただ、セクショナリズム批判のニュアンスはあるのでそこは残した。

追記2:id:lovelovedogさんの指摘を受けてさらに修正。女性読者に関する記述を追加。頭がおかしくなっているので、欧米に女性読者がいなかったことを常識扱いしていた。




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