Navigation





※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

コミックブック誕生に関して

Birth of Comic Book

 アメリカン・コミックスの元祖は新聞の連載マンガだ。新聞の1ページを横に何段にも区切り、1本を4コマとか5コマに割り、ほんのみじかいものだけど、何種類かが日曜日ごとに連載になっている。読み切りのギャグものから、えんえんとつづくストーリーものまで、いろいろだ。
 この新聞連載のマンガを1冊にまとめたものが、コミック・ブックスのスタートだった。いちばん最初は1897年なのだが、本格的にコミック・ブックスがはじまったのは1930年代だった。大不況とその後遺症の日々に、新聞の連載マンガは、大人も子供も楽しめる娯楽としてたいへん人気があった。1933年、新聞連載マンガをいまのコミック・ブックスの大きさで32ページにまとめた『ファニーズ・オン・パレード』が、ギヴアウェイとして製作された。特定の商品を買ってたとえばそのボックストップを送ると、ひきかえに『ファニーズ・オン・パレード』が景品としてもらえるのだ。
 これはとても人気があった。こんなに人気があるなら値段をつけたって売れるのではないかと思ったウィリアム・ゲインズという男は、自分が製作したギヴアウェイ用のコミック・ブックスに10セントの値段を貼りつけ、ニューススタンドに置いてみた。あくる日にいってみると、みんな売り切れていた。これがきっかけになって『フェーマス・ファニーズ』という月刊のコミック・ブックスが刊行された。1934年の5月のことだった。
(『ブックストアで待ち合わせ』、片岡義男、「スーパーヒーロー、怪奇恐怖コミックス、そして『マッド』へ」、角川文庫)

 ここでの「ウィリアム・ゲインズ~の記述は間違い。実際にはマックスウェル・C・ゲインズ。ウィリアムはコミックスコード制定時のECコミックス社主で、マックスは同社の創業者であり、ウィリアムの実父。

 アメリカにおける最初の近代的な「コミックブック」、『ファニーズ・オン・パレード(Funnys on Parade)』は一九三三年プロクター&ギャンブル社の宣伝用の無料冊子として登場した。翌一九三四年五月にはイースタン・カラー・パブリッシング社が月刊で新聞のコミックストリップを再録した初の商業的な(販売された)コミックブック『フェイマス・ファニーズ(Famous Funnys)』を発売している。さらにこの翌年、最初のコミックブックオリジナルの作品を収録したコミックブックが誕生した、『ニュー・ファン(New Fun)』というこのタイトルの収録作品はすべてユーモアものだったが、ストーリーものが登場するまでにそう長い時間はかからなかった。そして、ストーリーマンガのこの新しいフォーマットでの成功はほぼ約束されていた。一九三七年一月に創刊された『ディテクティブ・コミックス(Detective Comics)』は一冊のコミックブック全体を単一のキャラクターの物語のみで構成して当たりをとった。一九三〇年代の末にはコミックブックははっきりとヒーローを求めるメディアになっていた。そして待望のヒーローが一九三八年六月、『アクション・コミックス(Action Comics)』の創刊号に登場した。彼の名はスーパーマン、彼が現在のコミックスの歴史をつくったといっても過言ではない。
(「Comics of the World: A Short History」、Maurice Horn、『 The World Encyclopedia of Comics 』、Chelsea House Publishing刊)

 ブリティッシュコミックスの物語は長く、豊かで、多様で、いらだたしく、そしてほとんど語られてこなかったものだ。イギリスは、アメリカンストリップの何年も前にコミックストリップが今日知られているような形へと発展した最初の国のひとつだ。実際、コミックストリップの本当の故郷はイギリスだと信じているひとは何人もいる。その最初の何十年かのあいだ、1890年代から少なくとも1930年代までは、ブリティッシュストリップは他の場所の伝統、発展、改革などとはほとんど無縁に、独自の発展を遂げていた。イギリスとアメリカのストリップはともに『Punch』や『Puck』といったヴィクトリア朝時代のユーモアタイトルにルーツを持ち、それがそれぞれ異なった出版フォーマットに融合したものだ。ブリティッシュストリップはまずコミックブックの形態であらわれた。新聞の紙面にはっきり定着するのは1920年代のことである。いっぽう合衆国ではこの逆だ、ニュースペーパーストリップにインスパイアされてコミックブックスタイルのカウンターパートがあらわれるのが30年代半ばのことだ。事実として「私たちが今日知っているような形」でのコミックストリップを世界に持ち込んだのは、多くの批評的観点からいってイギリスなのだ。コミックブックの形態ではじめて定期的に出版された(『Comic Cuts』1890)のも、はじめて特定のレギュラーキャラクターが登場するようになった(「Weary Willie」と「Tired Tim」、『Illustrated Chips』、1896)のも、最初のアドヴェンチャーストリップ(『Rob the Rover』、1920)も、すべてイギリスだ。
(「The History of British Comic Art」、David Roach、『 TRUE Brit: A Celebration of the Great Comic Book Artist of UK 』、George Khoury編、TwoMorrows Publishing刊)

 '30年代初頭、若きシーゲルとシュスターが数学や科学の授業を受けながらスーパーマンや彼らの手になるファンマガジンの創刊を夢想していたころ、M.C.ゲインズという名の男がコミックブックを発明していた。
 それは『ファニーズ・オンパレード(Funnies on Parade)』と題された本で、のちに大成功する『フェイマス・ファニーズ(Famous Funnies)』の原型となったものだ。7×10インチサイズで、新聞用紙にカラー印刷され、中味はもっぱらポピュラーな新聞の日曜版に掲載されたコミックストリップの再録。この本ではだいたい1ページに1回分が載せられていた。
 ゲインズは日曜版のコミックスが印刷される場所をちょっと変えてやっただけだ。彼の本は、紙の版型に合わせただけで、新聞とまったく同じカラー印刷機を使い、掲載したコミックス自体サンデイコミックス・パブリケーションに用意してもらったものだ。これは常識に対する反抗には程遠い行為である。
 『ファニーズ・オンパレード』は完全な試作品であり、『センチュリー・オブ・コミックス(Century of Comics)』がこれに続いた(このタイトルはこの本が100ページあったことから来ている、ちなみにこの本は雑貨店のためのフリーペーパーで値段はつけられていない)。そして、これにもう1、2冊のワンショット(そこには定期刊行化される前の『フェイマス・ファニーズ』が含まれる)が続き、このアイディアとフォーマットが成功であることが証明された。すぐに『フェイマス・ファニーズ』は定期刊行物になり、他の出版社からもこれをマネた出版物が出るようになる(『フェイマス・ファニーズ』はその競争相手たちよりも長命だった、このタイトルは'50年代なかごろまで出版されていたのだが、このころには他のリプリントもののコミックブックタイトルはとっくの昔に音をあげていた)。
 当時のコミックスは新聞社やパルプ出版社(たとえばデル社がそうだ)から出版され、その流通網を利用して売られた。そうしたディストリビューター(流通業者)のひとつにインディペンデント・ニュース社(Independent News Co.)がある。彼らのトレードマークである「IND」のロゴは何年ものあいだたくさんのコミックスや雑誌のカバーを飾っていたものだ。このインディペンデント社がディティクティブコミック社(Detective Comics, Inc.)を所有していた。この会社が『ディティクティブコミックス(Detective Comics)』(ま、当然だが)、『モア・ファン・コミックス(More Fun Comics)』、そして『アドベンチャーコミックス(Adventure Comics)』の出版元である。
 このコミックブック草創期にM.C.ゲインズが出版社から出版社へと渡り歩いたその足跡をきちんと辿っていくのはひどく困難である。ある人物は彼が出版社のあいだを動き回り、行く先々でコミックブックを立ち上げていった姿を評して「コミックブックのジョニー・アップルシード」と呼んだ。その放浪は彼が『フェイマス・ファニーズ』の人々と袂を分かったことによってはじまり、1935年に彼はデル社に身を落ち着けている。特にここで触れておきたいのは、この時彼は『スーパーマン』の原稿を見て、そして編集者としてこの原稿をはねているということだ。1938年になると、今度はディティクティブ・コミックス社と提携関係を結んだが、あきらかにこれは彼自身の出版ラインを持つためのパートナー契約であった。
 私自身はあまり気軽に彼のことを「コミックブックのジョニー・アップルシード」などと呼ぶ気にはなれない。彼は一種の原理主義者としてコミックブックのコンセプトに身を捧げた男であり、彼の情熱はほとんど宗教的なものだった。この時代、コミックスはべつに子供向けに特化した媒体ではなかった。コミックスは新聞から生まれたものであり、それゆえにおそらくは家族全員が読んでいたものだったはずである。それは理解しやすい表現形態であったし、そこにはまた熟考に値するだけの情報量を盛り込むだけの余地もあった。「一枚の絵は千文字の言葉に匹敵する」というのがゲインズがもっとも好んだ言葉である。また、これはマスメディア全体が革命的にヴィジュアル志向を強めていった時期に起こっていたことでもあった。1936年に私たちは『ライフ(Life)』誌と彼らの掲げる「フォト・ジャーナリズム」の誕生に立ち合っている。おそらく当時言葉と画の結合はそれ自体が新しい民主主義の表現のように感じられていたに違いない。なんにせよ、ゲインズは大金持ちになるための手っ取り早い方法を探す詐欺師からは程遠い人物だった。彼はむしろ殉教者だった――のちに私たちが確認するように。
(「The Spawn of M. C. Gaines」、Ted White、『 ALL IN COLOR FOR A DIME 』、Dick Lupoff & Don Thompson編、Krause Publication刊)




| 新しいページ | 編集 | 差分 | 編集履歴 | ページ名変更 | アップロード | 検索 | ページ一覧 | タグ | RSS | ご利用ガイド | 管理者に問合せ |
@wiki - 無料レンタルウィキサービス | プライバシーポリシー