There is abosolutely no mention of Vivian Wilson's family history written in Japanese newspaper and magazine articles in 1956. Whether they knew the fact is yet to be discovered. ちょっとここで1956年代に日本のマスコミには取り上げられていない事実を書こうと思う。果たして金子フミなる人間もその事を知っていてマリアンヌちゃんを育てていたのかは不明。 

詳しい話はWikiに記載されているが、マリアンヌちゃんの母、ヴィヴィアン・ジョイ・ウィルソンは日清戦争の有名な戦い、黄海海戦で活躍した外国人御雇い軍人ジョン・ウィルソン大尉の孫にあたる。 この黄海海戦は日清戦争において主力艦を含む艦隊同士の海戦として知られており、ジョン・ウィルソン大尉は沈みそうになった西京丸(樺山中将)を助け明治天皇から1895年に勲章を貰っているのである。 さて、この事実が少しでも知られていたらヴィヴィアン・ウィルソンの待遇はこれまで記述した通りであったかは神のみぞ知る。個人的な考えでは、だ~~~~~れも知らなかった事だと思うが、一応ヴィヴィアンは横浜の外人墓地に埋葬されているのだが、曽祖父の墓地と一緒ではないと思われる。

日清戦争後、ジョン・ウィルソン大尉は日本に残り、日本郵船会社の設立等にも関与しており、現在でも日本郵船歴史博物館には展示物もあるとのこと(未確認・・・ここも行かなければ・・・)

ウィルソン大尉は1883年1月11日に日本人女性(山崎ナカ)と結婚し、ナカの息子を養子にする。ナカはソフィア・ウィルソンと改名し、息子はニールス・ウィルソンと改名する。その後この2人には7人の子供が生まれオーガスト、フレドリック、マリア、クリスティーナ、ヒルダ、ハナ、そしてジョンがいる。子供たちはウィルソン大尉の死後も日本に留まり、神戸、横浜、東京などに居住し、戦後スウェーデンに移住している。義理の息子ニルスは後に日本に帰化しウズキ名を名乗り、オーガストはアネシマ名を名乗り、フレドリックもアサコシ名を名乗った。マリアは東京に派遣されていたルモンドの記者と結婚、クリスティーナはロシア大使館の駐在武官と結婚、ハナに関しては情報はないが、一番末っ子のジョンは東京で経済学の教授になった。(英語教師と言う話もある・・・どっちなんだ。)

ここで大きな疑問が噴出:  何故ヴィヴィアンの死後日本に残った叔父達は手を差し伸べなかったのか? まず、ヴィヴィアンは一体誰の娘なのか・・・最後の最後までマリアンヌちゃんを探していたのがジョンだとすると、彼の娘だったのか???謎は深まるばかりである。(1956 年3月26日発行の『週刊新潮』創刊号ではジョンは父となっている。)

余談だが、以上はマリアンヌちゃんの曽祖父と曾祖母の話になるわけだが、曾祖母のソフィア(山崎ナカ)はプッチーニのオペラ『マダムバタフライ』で世に知られるツル・グローバーの隣人で友人でもあり、この友人の話を当時のイタリア大使が聞き、プッチーニが2人の外人と結婚した女性の話をオペラにしたと言われている。 マリアンヌちゃん、ある意味マダムバタフライの曾孫なのだ。
最終更新:2006年08月06日 15:12