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「通訳残留　１1-③」(2008/11/11 (火) 15:47:44) の最新版変更点

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<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> </span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt 60pt;text-indent:-18pt;" align="left">
<span style="font-size:10pt;">◇<span style="font:7pt 'Times New Roman';">     </span></span> <span style="font-size:10pt;">◇　◇</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">ほんの少しだけ顔をあげて、視線を前に向ける。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">すると、人形みたいな顔立ちの少女が、瞳を濡らしながら静かにこちらを注視しているのが見えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">こいつがここまで食い下がるとは思わなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">あの日、男と決別したあの校舎裏で。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">俺が通訳と呼ぶ、目の前の少女に現場を目撃されて。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">俺も馬鹿じゃあない。あれで男とは、何もかも完全に切れてしまっただなんて考えていない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その後に誰かが動くであろうことは薄々わかっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">半ば衝動的に絶交してしまった事を後悔した男か。或いは、事情を知ってしまった、男とごく親しい間柄にある人間か。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">誰であるかは別としても、俺と男の関係を修復しようとする誰かが説得を試みるであろうことは予想済みだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">もちろん、偶然にもあの場に出くわした通訳も含めて、だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">人との繋がりを失ってしまった人間を前にすれば、普通は誰であれ、それを見なかった事にはできないのだから。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">鼻水をすすりあげる鈍い音がした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">目の前の少女は泣きそう、というよりは、ほとんど泣いている状態でありながら、視線だけは決して反らそうとしない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">誰かが説得にくるのは判っていたし、その『誰か』の中には確かに、通訳も含まれていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">含まれてはいた、けれども、こんなに、こいつが、ここまで深く俺の心の中に入ってくるなんて予想だにしていなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">『普段と同じように』こいつに対する苛立ちを持って接すれば、おのずと雰囲気に耐えきれず簡単に引き下がるはず。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そう高をくくっていた。彼女が、俺と男の仲を修復しようと動くのを予測できていたにも関わらず、実際にはほとんど眼中になかったと言って良い。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">だから、こうやって必死になって俺を説得しているのが『あの』通訳だと言う事実は意外過ぎて、当事者でありながら未だに現実の出来事だという感覚が希薄だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">息だけで会話をしているような周囲の人間のヒソヒソといった声が、次第に止んでいく。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">先ほどまでの怒鳴りあいで、こちらを注視し邪推していた他の客は、静かになったのを受けて最悪の事態を脱したと考えたのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">店内のＢＧＭや遠く離れて俺達の事に気付かない人々の話し声。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そこに微かに聞こえるか聞こえないかの形で混じっていた小声が消え、代わりに普通の大きさと内容の会話が戻ってきた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼等は今までのただならぬ雰囲気なんて忘れたみたいに。いや、初めからそんな事は無かったみたいに、笑い合い、お互いの世界に浸っているようだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">俺達の言い争いを見て好き勝手に内実を推測していたって、結局の所は、彼等は真実を知りたいわけじゃない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">当事者でない彼等にとって本当に重要なのは、どれほど早く俺達二人が、自分達に影響を及ぼさない状態へと移行するかなんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その証拠に誰一人としてこちらに直接的な接触を図ろうとしていない。真相を知りたかったら、なにかしら手段を講じてこちらに聞けばいいだけの話なのに。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">確かに喧嘩の最中に近づくなんて、気まずくて出来ないけど、勝手に推測する意味もない筈だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">―――まあ、だからどうと言う訳でもないのだけど。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな事は随分昔に分かっていた事で、気にかける程でもない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">『他人』は自分の利になることしかしない。何か、ためになる事をしてくれるにしても、それはあくまで自身の善意と保身を天秤にかけ、吊りあった場合に限る。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">他人はわざわざ危険や苦痛を犯してまで助けてはくれないし、それを望んではいけない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">恐らくは人生において、出来るだけ早い段階で理解しておかなければいコトだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それを理解し納得した上で、人は生きていくべきなのだと思う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">結局は、そこが境界線なんだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">危険を冒すか否か。それが、『他人』か否かの境界線なんだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">自分のためにどれほど危険を冒し苦痛に耐えるかで、相手が自分をどう思っているかが分かる筈だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">・・・・・だとすれば。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">だとすれば、こいつは一体なんなのだろうか？俺にとって『他人』だった筈のこいつは一体なんなのだろう？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">今、目の前にいる少女は、普段の反応やそれに基づいた俺の予想を大きく上回って、食い下がっている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">涙を流し、鼻や目のあたりを真っ赤にしながらも尚、感情の読みにくい貌を背けることをしない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">さっきまではこちらも熱くなっていたせいで意識していなかったけど、今になって女の子を泣かせてしまったという事実に、胸がチクリと痛んだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">なんだろうね。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">言い訳は好きじゃないけど、普段はあんなにオドオドしていると見せかけて、ここ一番の所で頑として引き下がろうとしないなんて反則だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">こっちもそんなつもりは無かったのに涙線のラインを見誤って、泣く所まで追いつめてしまった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">いつかテレビのワイドショーで、暴行を加えていたら相手が歯向かってきて、誤って殺してしまった暴走族の話をやっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">例えは悪いけど、相手を殺めてしまったと気付いた瞬間の彼等は、もしかしたら今の俺と同じ類の気分だったのかもしれない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">通訳は、まだまだ先ほどのショックが抜けきらないと見えて、口をつけた飲み物に軽くむせていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">遠慮勝ちに『ケホッ・・・』と僅かに喉を鳴らしている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その姿に、『こんな修羅場は未経験』というイメージが今度はちゃんと当たってくれた安堵と、『可愛らしいな』という想いが、同時に湧き上がる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">想いの方は完全に不覚で、意味もなく顔が熱くなった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">じっと見続けていると、通訳もこちらに気づいたのか、口を開いて何かを言おうとしてきた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺が顔を逸らすと、相手は僅かな戸惑いの後、言葉を飲み込んで口を閉じる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">―――全く。こいつを『可愛い』なんて思う日が来るなんて。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう、思う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">初めて会った時は確かな嫌悪を抱いていた相手だと言うのに。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　◇</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺が初めて通訳と会ったのは、毎月飼育委員会が開かれている一年五組の教室で。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">もともとクラスが同じなのだから、実際にはそれ以前の、年度の初めも初めに教室でクラスメイトとして顔を合わせてはいた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど本当の意味で『会った』というのであれば、恐らくこの日と言う事になるのだろう。俺にとって。そして多分、通訳にとっても。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">飼育委員として担当する仕事と曜日を割り振られ、これから仕事をともにする相手として俺達は対面した。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">一目見て、気に入らないと思った。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">まだ年度の始めでクラス替えが行われたばかりと言う事もあり、お互いに『クラスで見た顔』程度の認識だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">相手のことなんて、ほんの僅かな情報でしか知りえないのに。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺は、あいつを嫌いになってしまったのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どこがどう嫌いなのか、と問われれば、その時点では『なんとなく』とか『物腰や雰囲気が』と言った抽象的な答えしか用意できなかったろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ただ、今ならはっきりと言える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺は、あいつの取り澄ました態度が気に入らなかったんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">何事にも興味をもっていない、まるで俺達とは別の空気で生きているような、傍観者でも気取っているかのような無表情。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">世間知らずのお嬢様みたいな、どこか一般的な人間のそれとは乖離した物腰と反応。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺にはそれが人を見下しているように感じられて、知らず反感を抱いていたんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">初めは無意識的なモノだったかも知れない。けど、何度も顔を突き合わせていれば嫌でも気づかざるを得なかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">こちらが話していても別の場所を見ているような瞳や、ワンテンポ遅れて返ってくる要領を得ない返事。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どこかこの世の物事全般に対して本気になっていないような、超然的な態度。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">通訳にとって、人間を相手にするのは、木石に喋りかけるのと大差ない行動なのではないか？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんな妄想めいた考えを抱くほど、あいつの無感動は著しかった。木石、と言うのであればむしろ、通訳こそが木石のような物だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あいつを前にしていると時折自分が、人間ではなく人形かロボットを相手にしているような錯覚を覚えてしまう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">不出来なワンパターンな答えしかできない、中身は血や肉でなく無機質な何か別の物が詰まった人造物。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">感情の乏しい貌は均斉がとれていたが、それが余計に俺の、『わざとらしく美女に作られた人形』というイメージを掻き立てた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">人間なのに人間らしくない。そんな通訳を前にすると起こる、何か、何か人間の姿をした別の物を相手にしているよう気味の悪さ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それは、酷く不安定な気分を催してきて、飼育委員の仕事の時は、胸の奥がムカムカと崩れ落ちて抑えが効かなくなりそうな感覚に晒されていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">加えて決定的だったのは、あいつが俺に対して怯えを抱いているって事だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そもそも、通訳に人間味がなかったとしても、それは相手の人間性の問題であって、俺がとやかく言う話ではない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">いくら不安定な気分になろうとも、あいつを視界から締め出して、それこそ木か石のように背景に溶け込ませればいくらでも我慢は効いた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けど、あいつのオドオドとした態度だけはどうにもならない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">普段は無表情で無機質な雰囲気にも関わらず、俺に対する時だけはその中に、紛れもない『怯え』のような物をにじませていたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どこか視線は泳いでいてはっきりと俺を見ようとはしないし、こちらから話しかけると必ずピクリと肩を震わせる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">白状すると、それはひどく俺の嗜虐心を煽るような反応で・・・・・・・・・・・・・・・・・そんな気持ちになってしまう自分がたまらなく嫌だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">通訳を虐待したい気分を耐える事で神経をすり減らし、知らず俺の言葉は刺々しくなり、その所為で相手は余計怯えを強める。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">結局唯一の解決方法は、お互いにできるだけ距離を置く事だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">飼育小屋では自分一人の仕事に専念して相手を見ない。会話も極力避けて必要最低限に抑える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">結果として俺達は、間に流れる重苦しい空気に耐えながら黙々と仕事をこなすだけの間柄になってしまった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それで良かったとは思うけど、少し、残念な気もした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">いや・・・違うな。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『残念』というのも適切ではない、有るか無いかも定かではない一種の後悔だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">飼育小屋で、虎吉の相手をしている通訳を見ているといつも、それが胸の隅の隅、先っぽの僅かな位置に生まれるのを自覚していた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">普段は無機質で俺に対する時だけ怯えている通訳は、その瞬間だけ無邪気な子供のような笑顔を浮かべる事があった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">多分それは、唯一俺が通訳を認められる瞬間だったんだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">相手も自分と同じ動物が好きなのだという安心感。そして何より、多分、あいつの笑顔はとてもとても奇麗に見えたから。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">なんとなく『普段からそんな風に笑えばいいのに』と思う事がよくあった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そいつが俺に向けられないのは、まあ別に気にならないことだったけど、そういう奇麗な物を見る機会が少ないというのだけは、やっぱり残念だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">きっと俺の態度もあいつの笑顔を奪っているのかもしれない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">通訳に関して、そう考える事もあった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんな時、決まって俺の心は、彼女を泣かせてしまった今と同じ、チクリとした痛みを覚えていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　◇</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そして今、あいつは俺の前にいる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">いつもなら絶対にこちらを見据えようとはしないのに、今は、涙を流しながらも目を逸らそうとしない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">無機質であるが故に心を奥まで見透かされているような瞳に、うっすらと光る物を携えながら、ただじっと俺を見ている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ここまでする理由はわからなかったけど、きっと大変な想いをして、その状態を保っているに違いない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">普段は怯えていて、交わす会話と言えば事務的な物をほんの少し。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あとは逃げるように二人の時間を終わらせ、虎吉か仕事に向かう通訳。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そいつが必死になって真剣そのものの表情で俺を説得しようとしている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺は・・・・この真剣な相手には、同じ真剣さで応えなければいけないっていう、畏れに近いモノを感じ始めていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分という物の根幹にかかわるような。そうしなければ自分が自分でなくなてしまうような、腹の底から湧きあがるざわめきを感じていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">今まで・・・だましだましやってきた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けどそろそろ、俺は自分で答えを出すべきなんだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">なにより、こいつがこれだけ真剣になっているのに、俺だけのらりくらりとかわすのは、どうしようもなく失礼で恥ずかしいって気持ちがあったから。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺は、項垂れていた顔をあげることにした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt 60pt;text-indent:-18pt;" align="left">
<span style="font-size:10pt;color:#000000;">◇<span style="font:7pt 'Times New Roman';">     </span></span> <span style="font-size:10pt;color:#000000;">◇　◇</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君が、項垂れていた顔をあげた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その貌には、こちらをドキリとさせる何かがある。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どこかで見たように思い記憶を手繰り寄せると、ビルの谷間を抜けた先にある古本屋の、やる気のない女店主さんの顔に思い至った。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">色のない瞳の中に、ただ『深さ』だけを表出させた、向けられたこちらが思わず姿勢を正してしまうような貌。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">今の同僚君の表情は女店主さんのそれとそっくりだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">生まれて初めてかもしれない『怒鳴り合い』という行動を終えたことで弛緩していた心が、再び張りつめるのを感じる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「本当は、自分でも馬鹿な事をしたと思ってる」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">コーヒーを少しだけ口に含んだ後、彼はそう始めた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">言葉を紡ぐその表情は、一見すると普段と変わらない、眉間に皺をよせた気難しい物である。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けど、今の私にはそこに、峻険さとは別の、弱弱しい何かを認めていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「あいつは・・・男は・・・あんなに必死になって、昔みたいに俺が周りに溶け込めるように努力してたのに。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　俺はずっとそれを無碍にしてきたんだ。愛想を尽かされて当然だと思う。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">視線を宙に投げ出しながら、彼はポツリポツリと、少しずつ口もとから言葉をこぼしていく。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼が見ていると思しき机の上の空間に目をやる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">窓ガラスから差し込む陽光は、チラチラと光を反射する塵によって白く霞んだ沢山の光条を現わしていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">まるで透明に輝く細長い匣を幾本も、窓ガラスから机の上へ斜めにかけ渡しているみたいだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その向こう側にいる同僚君には、白く霞んだ空気を通して見ているためか、どこか普段とは違った印象があった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼の表情にある弱弱しい『何か』も手伝って、誰か知らない人間を相手にしているような気分になってくる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">いつも険悪な雰囲気の中作業を共にしている同僚君と、目の前にいる彼を、どうしても結び付けられなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「でも・・・あの時からずっと、あいつとどう接して良いか分からなかったんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　―――――クソッ、、、だからって・・・なんでこんな事になってんだよ・・・・・っ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼の顔にはっきりと、途方に暮れたような苦しげな色が浮かぶ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">肘をついた方の手で、右目の上の方を覆うようにした格好で、しばし止まっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">やがて手をどけて、ほんの一瞬こちらを見やり、そのまま虚空に視線を戻す。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その貌からは先程まであった色が消えて、平坦な表情だけがあった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「俺が中学生のころの話だよ・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">語る口調は催眠術にでも掛けられているみたいに抑揚がなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">思い出したくない記憶を、感情を殺すことでやっと呼び覚まし得ているのが伺えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は沈黙して、彼の語るに任せる事にする。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">とりあえず聞く姿勢を整えようと空になったカップと、細かいパン屑が若干の汚れを見せるお皿を脇へどけてみた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「あの頃はさ、反抗期っていうのかな・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">授業中に騒いだり、誰かの事を傷つけたりとかする奴がいたんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">小学生の頃なら『可愛いイタズラ』だったのが、体が成長するにつれて度が過ぎていく。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それも先生に言われれば止めてたのが、だんだんと言う事を聞かなくなっていく。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">教員もＰＴＡだのなんだのであまりきつくは言えないからさ。図に乗る奴は乗るんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">普通じゃ考えられないような酷い事を平然とやってのける。どんなのか聞きたい？―――ああ、聞きたくねえよな。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">一年で何十万と貢がされた奴とか、イジメぬかれた挙句に胃潰瘍で入院しちまった女子の話なんて。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ともかくあの年頃はさ、加減ってモンを知らないんだ。本当に相手のことなんて、そこらへんのアリみたいに思ってんだよ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">はっ。しかも笑っちまうよな</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そういう人を労わらない馬鹿に限って親がうるさかったりするんだ。今で言うモンスターペアレンツって奴だよ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">邪推すんのは好きじゃないけど、ひたすら甘やかされて育ってきたんだろうぜ。本当に基本的な、当たり前の社会のルールさえ教えられずに。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">だから、かどうかは解らないけど、ホントに周りの事を考えないようだった。騒ぎたきゃ騒ぐし気に入らなきゃイジメる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">教師がちょいと注意しようもんなら、親が呼ばれて飛びでて何とやらだ。始末に負えない。やりたい放題。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺はさ―――学校が、自分のいる場所が、そんな道理の通らない場所になっていくのが耐えられなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">だから、大人が何もできないんなら、出来る奴がやるしかないよな？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">話している彼の瞳に、だんだんと暗い光が宿っていくのが見て取れた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">少しずつ熱っぽさを帯びていく同僚君が、彼特有の噴怒に駆られていくのを予感して、軽い恐怖が芽生える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">なのに私は彼から目を離せなかった。彼の話すような経験なんて自身には無いにも拘らず、何故かその感情に共感して言る自分がいたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は、能面がだんだんと暗い色を帯びていく過程をただじっとジッと見守り続けている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「弱い者をイジめるのは悪い事だし、授業を妨害すんのも悪い事だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それは止めさせなきゃいけない事の筈だ。誰かがやらなきゃいけない筈だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">例えそれで親が飛んできて騒動になったって、喧嘩してクラスの雰囲気がギスギスしたって。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">イジめられてる奴らの事を考えれば・・・・自分達の学校が、平然と人格を否定する異常な場所になる事を考えれば・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">過程がどうあれ、俺が『正しい』って思う行動を続けていれば最後には皆、そっちの方に動いてくれる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">守らなければいけない事。絶対にやってはいけない事。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">まだ大丈夫だと思ってた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">仮にわかっていない奴がいたとしても、それはごく少数であって、まだ俺の周りは、『正しい』事が何なのか判っている奴が大半を占めている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう・・・思ってた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けど違ったみたいだ。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君は両手の肘をつき指を机の上で組むと、その陰に頭を垂れた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼の顔のあった位置。その向こう側に例の邪気眼の彼氏とそれに構ってしまう彼女の姿が見えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれどあくまでただ『見えた』だけだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">カップルは視界に端に映るだけであり、私が意識を向けて見ているのはただ一人、同僚君だけだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">今や彼の話だけが私にとっての関心事で、その他の事に対しては、普段の自分からは考えられないほど注意が行かなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『違う？』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私はそう尋ねる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼はほんの少し顔をあげて私に視線を向けた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『ああ。違った。』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんな答えが返ってくる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">垂れた髪の毛と組んだ手の合間から、こちらを覗かれているようで落ち着かなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「結局・・・イジメを止めようとする俺に味方してくれる奴なんて一人もいなかったんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">誰も彼も遠巻きに自分が傷つかないような位置から見ているだけ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">重要なのは自分に災難が回るか否かで、クラスが良くなろうが悪くなろうが、異常でも狂っていても興味がないみたいだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">イジメをやってる連中が、俺にちょっとでも親しくしてる奴らを標的にするようになってからは早かった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あっという間に俺は孤立してったよ。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">――――あの時は訳がわからなかったなあ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ゆっくりと、また頭をあげて、そのままのけぞるようにして彼は天井のあたりを見つめる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">顔は見えなくともその声には、はっきりと寂しそうな響きが含まれていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「クラスで一丸となって不良行為に異を唱えれば、それで済んだはずだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">イジメもなくなるし授業中騒がれて満足に勉強できないって事もなくなる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それなのに俺の方を排除するんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">まるっきり反対じゃないか。いくら俺に味方すれば目をつけられるからって、悪いのはあっちだってのは判りきったことの筈だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">標的にされる恐怖はあっても、覚悟しさえすれば問題はいずれ解決できるっていうのに。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">何故かそれをやった俺の方が孤立しちまってる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">多分さ、その時になんか、なにか崩れたんだと思う。俺の中で。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">思ったよ。ああ、結局おかしかしかったのは俺の方だったんだ。って。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺が一番大切だと思ってたモノは、少なくともあの時あの場所で俺を取り巻いていた人間の中では・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">先生にとっても、クラスメイトにとっても、そして、そして男にとっても大して重要じゃないんだって。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">物事の優先順位がさ、俺と『普通』の奴らでは決定的に食い違ってたんだよ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺が『正しい』と思ってやってたことは、奴等にとっては度の過ぎた異常な行動だったんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分が傷ついてまで他人を助けたりクラスを良くしようとしたりなんて、『普通』はやらないんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんなんで解りあえるはず無いよな。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分とは明らかに違う考え方をしてる奴をさ、わざわざ危険をおかしてまで・・・その危険がどれほど小さなモノでも、そいつを冒して助ける理由なんて無いし。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">大局的に見れば利に適った行動も、あいつらにとってはクラスから疎外される危険を孕んでる限り、『絶対にやっちゃいけない事』なんだって。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう、気づいてしまった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">・・・・・それからだよ。周りの人間と本気で笑いあえなくなったのは・・・・・・・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">いつも誰かと接するごとに思うんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">きっと、こいつも付き合ってるうちに、理解できない事にこだわる俺を、得体の知れない奴と奇異の視線で見るようになるんじゃないかって。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">こっちが必死になったって、それが分かってもらえずに距離が開くばかりなんじゃないかって。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">誰を相手にしても、そんな考えがいつも頭をよぎるんだ・・・・男にしたって、もう、昔みたいに平然と付き合えなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どっかで、いつか拒絶されるんじゃないかって、それが怖くて、いつも心の中に引っかかりを覚えてたんだ・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">だから俺は、そんなわだかまりを持って付き合うならって・・・・・・・まあ、そう言う事だ・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">最後は消え入る様にして言葉を濁したが、彼の言いたい事は十二分に伝わってきた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それこそ、これ以上ない程に判然とした形で。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう。もはや、同僚君の心は閉ざされてはいなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">顔をあげ語りはじめてからずっと、普通の人と同じようにその心が読めた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼は、心を開いてくれたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それまでは意識を向けても何も分からず、たまに読めるようなことがあっても、暗い日没直後に霧が出たようなあやふやでおぼろげモノだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど今は、晴れた真昼のごとくにはっきりと心が読める。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">押しても引いてもびくともしない鉄の扉。強い力があれば必ず開くと解っているのに、私の力では錆とつかえの許容する僅かな隙間を行ったり来たりするだけ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それが、内側から開かれたことが分かった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">誰も彼もはねのけていた彼の心は今、この私が立ち入ることを、一応は許可してくれているのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">必死の説得が結実したことに心が軽く温かく浮ついたけれど、彼の言葉と心はそれらを、さっと塗り替えていった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君の心からは、あの時校舎とフェンスの間で感じた、そして私自身も抱いていた、酷い寂寥感と自分以外の人間への距離感が絶えず伝わってきていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">比喩などではなく、本当に、『絶えず』伝わってきたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私が、ツンさんの幸せを自分のものとして感じられないと理解したあの数十秒ではない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">校舎の影が空気を冷え冷えとさせる、あのフェンス脇での一瞬ですらない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">臓腑が落ち込んで、指先から四肢が凍りついていくような。足元がさらわれて全身が萎え、動きを奪われていく。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">心の明るさも闊達さもどこかへ行ってしまい、空気が粘り気を持ち始め、何かをすることが果てしなく億劫になっていく―――あの、感覚。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君は、飼育委員の同僚の彼は、私に語る間中。いや、私と相対している間中・・・違う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">認めたくはない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">こんな酷い事実は認めたくない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど、心を読んでしまって解った。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼は・・・・ずっと・・・・・・・今語っている中学時代の一件からずっと―――その気持と共にあったのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">認めて―――酷いめまいを覚えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">足元がふらつくほどの衝撃に、全身が無理矢理揺さぶられてるみたいだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『雷に撃たれる』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんな比喩表現が頭に浮かぶと同時に、漫画で衝撃を表現する雷めいたトーンを連想する。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">連想は、ピタリと現在の状態にその身を重ね、揺るがしがたいイメージとなった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は、雷に撃たれたような気がした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう。彼は、周りの人間の理解が得られなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">正しいと信じて行った事が、気がつけば度の過ぎた、ただの異常なものとして扱われている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分の行動の意味が相手に伝わらず、絶えず誤解を受けてしまう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それは、遠い昔に私が、保育園の先生から受けた誤解と同じ種類の物だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">普通に、正常にふるまっている筈なのに、周囲の人間からは何時の間にか異常者のレッテルを張られている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それは・・・・・・・・きっと自分を大きく変えてしまう程の事なのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">現に、私がそうだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あの時、私は、自分以外の人間に見切りをつけたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">もう、自分の事を理解してもらおうなんて思う事をやめてしまった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">子供の頃の事だからはっきりと意識したわけではないけれど、子供の頃だからこそ、理解を得られない反感は性根に染み付いてしまったのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">一歩退いて、他人や世界を薄い膜の向こう側の物として、自分を保っていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それで理解が得られなくとも、心の読める私はそれで良かったのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">人というものに興味を無くすだけで、曲がりなりにも社会に溶け込むことができた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど彼は違う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は心が読めるから、理解を得られなくても不自由はしない。相手の心を読んで、それに沿って反応すれば良かった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど同僚君には私みたいな反則技は存在しない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">理解してもらえない以上、常に摩擦の危険と隣り合わせで生きていかなければならないのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">何がどう相手を傷つけるか判らない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分が当たり障りないと思って言った言葉が、相手を傷つけ、またその応報として傷つけられる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その恐怖に耐えなければいけない世界。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それは・・・・・・どれほど辛いものだったろうか。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">周りの人間がみんな、自分を傷つけるかも知れない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その中で拒絶を選んだのは自然な事だったのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">きっと周り全てが敵に見えていたのだろう。誰も味方だなんて思えなかったのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どこまでも延々と続く地雷原を歩くような。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">姿の見えない猛獣が、昼夜問わず常に徘徊する広大なジャングルを行くような。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">恐ろしくて泣きたくなるほどの恐怖と寂しさにさいなまれながらも、止まる事の出来ない板挟み。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんな途方に暮れてしまうような恐ろしい感覚を、私は飼育委員の同僚の彼に抱くだけで済んだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど同僚君は、およそ全ての人間に抱かなければならなかったのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">男さんも含めて親しい人達に対してさえも。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">恐らく、彼らと距離を置くようになってしまったのは、それが同僚君なりの最善の方法だったからなのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">お互いがお互いを傷つけないようにする為の、苦肉の最善策だったのだろう・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私が心の読めない彼へ抱く恐れ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そしてツンさんやサトリさんにほんのちょっと抱いた距離感と寂しさ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼は、それらを周囲の人間全てに、いつも、感じ続けていたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">目の前の彼の心の痛みは、想像以上だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">恐らくは同僚君と出会い、理解しあえない、心の読めないという状態を知らなければ、想像だってできなかったろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">だと言うのに、今の私は彼に対して以前ほどの距離を感じていなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それどころか、親近感さえ覚えている。ツンさんやサトリさんに感じたモノとは、真逆と言っていいような近しさを。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">虎吉の通訳・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;text-align:left;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">忘れる事の出来ない通訳・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">残留した、通訳・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私の耳の中でその時の言葉が中心となって、ここ最近の出来事や聞いた言葉を伴って渦となっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『同僚君と私は似ている。』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">言葉の意味をかみしめながら、建物と窓ガラス枠の間に見える、細い蒼穹に目をやる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">何の感慨も与えないただの青が瞳にしみ込むのを自覚した後、私は彼の方を向いた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「だけど・・・あなたは間違っています・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「・・・・・・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">言われた彼は無表情だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">心もまた、起伏のない状態で、ただじっとこちらを見てくる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あまりじっと見つめてくるので、顔をそむけたくなったけど、構わず続けた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「勝手に理想を抱いて、勝手に皆が自分と同じ事を考えていると思って、そうでなかったから失望して誰も彼も拒絶してしまうなんて・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分が誤解されるのが怖かったのなら、自分の事を伝えれば良かったんです。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">必ずしも理解されることは無くても・・・・・・ああやって、男さんと喧嘩別れしてしまうくらいなら。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">クラスでいつも独りで、誰も傍にいなくて、最後にはあなたのことを心配してくれる人までいなくなって・・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それは・・・とても寂しい事だと思います。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あなたは、それで良いんですか？それで納得しているの？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">人が信じられなくても・・・・・・みんな・・・・・味方には思う事ができなくても・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">おと、男さん、、があなたを傷、、つけたいなんて、、、傷つけたいなんて思ってるはず無いのに、、、、、</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そうまでして、、、あなたは、、、独りが良いの？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">喋っているうちに段々と気持ちがかき乱されて、目頭が熱くなっていった。言い終わった私の口から、『ひっ』と嗚咽が漏れる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">今まででは考えられないほどに私は強い口調だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">飼育小屋であれほど恐れていた同僚君に対して、毅然としてモノを言っている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">こんなに、激情をあらわにした態度をとるのは初めてかもしれない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">多分それは、発した言葉が彼にだけ向けられた物ではなかったからなのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">今の言葉は、何より自分自身に向けられていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は、自分へのある種の腹立たしさに押される形で、想いをぶつけていたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ここにきて私は虎吉の通訳が意味するところを理解していた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">結局のところ、通訳と同僚は似ていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私達は二人とも、自分以外の人間を拒んでいたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">普通とは違う常識を持ち、周囲の理解を得られない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">結果として私達は、自分以外の人間を心の中から排除する道を選んだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君は、人を嫌い付き合いを止める、という形で拒絶し</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は人に対する興味を失くす、という形で距離をとった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">お互い、普通ではない常識を持った経緯や、人を拒む際の反応は違うけれど。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それでも、他者を受け入れず、人に見切りをつけたという点では同じだったのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どこまでも孤独になる道を選んだ、という点において私達はとてもとても似ていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:5pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あの、寂しさも距離感も。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">すべてはそれ故だった。自分から人を拒んでしまった二人が、感じるべくして感じた応報に他ならなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">飼育委員会での邂逅も偶然ではない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私達は人間が好きではないから、代わりに動物が好きになったんだと思う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そこまではっきりした言い方をしなくとも、おそらくはそう言った、どこか通じるモノがあって同じ場に立つことになったのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">何より、彼も私も動物は好きだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君も虎吉を相手にする時だけは、近寄りがたい雰囲気を緩めていた気がする。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">虎吉に向き合う彼はいつも、ほんの少し柔らかい表情をしていたのを思い出す。あるいは私も、似たような表情をしていたのかもしれない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんな共通点が、私達を引き合わせたのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">虎吉がかぎ取ったのはそんな、厭世的で、世界から少し外れた私達が持つニオイだったのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">でもだからこそ、私は耐えられなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分と同じモノを持つ人間が、本当にたった独りになってしまう事が。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">まるで、自分も最後にはそうなってしまうと宣告されているみたいで。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">思えば私達が選んだ道は、とても寂しい荒野の道だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">人間を一緒くたにして、誰も彼もを拒んでしまうなんて。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その選択を間違いと断言できる程、私は完成されてはいないけれど、その道の果てに男さんのような、本気で親身になってくれる人の喪失があった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">良い悪いではなく、それが道理だったのだろう。そうやってその道を辿れば、最後には誰も彼も失ってしまうのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">やっぱりそれは、寂しい事で。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私はそれがたまらなく嫌で。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">通訳と同僚が似ていると自覚したがために、自分の未来を現在の彼に見てしまった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私が人を拒んだのは、まだ物心がついたばかりの頃。自覚的ではなかっただけに、気付いた今は道を引き返そうと思えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">もしも、道の先を行く同僚君が、心のどこかで引き返したいと思っているのなら、一緒に戻りたい。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分と似ている人が、何より飼育委員で一年間、仕事をともにした人間が、不幸になっていくのは耐えられないと言う気持ちがあったのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼を、説得しようとした理由はいろいろあるけど、自覚できない程深い心の底で、一番強く後押しをしてくれたのはこの気持だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分と同じ人が、どこまでも冷たく凍える世界へ行ってしまうのが耐えられなかったから。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あんなに怖いと思っていた人を、怒鳴られて、心を傷つけ傷つけられてでも引き下がらずに説得したのは。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">普段の自分では考えられないほど、必死になっていたのは。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君に、自分を見ていたからなんだ・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「そんなもん・・・良くないに決まってんだろ・・・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">前方から、息だけを吐き出しているような、微かな声がもれる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">こちらを向く彼の顔は、眉間に皺を寄せたいつもの表情だったけれど、それはとても苦しげで、そして―――</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「・・・・・・本当はちゃんと解ってる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">男が、心から俺の事を心配してくれる奴だって事も。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">中学時代、誰も助けてくれなかったのは、俺が本気で周りに理解してもらおうとしなかったからだってのも。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">頭では解ってるつもりだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けど・・・やっぱり・・・あの時『普通じゃない』って言われてから、男でさえも信じられなくなっちまったんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">どうしても、普通の顔で、普通の付き合いができなかった・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ただ、距離を置いて理由を聞かれても煙にまいて、切れるでも直るでもないあやふやな関係のまま、結論を先延ばしにするのがやっとだったんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">男の説得に応じて、人の輪に戻るのか。それとも、男さえもはね退けて、このままずっと独りでいるのか。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">何がしたかったのか、どうしたかったのかなんて、当の俺でさえ、わかってなかったと思う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">だから２月１４日に男が本気で説得しようとしてくれた時は・・・ちょっとは思ってた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『もう、いいじゃないか』って。せめて、男くらいは気を許しても良いんじゃないかって。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">俺ももう、疲れてきたのもあったかもしれない・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">だけどさ、結果は知っての通りだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">今までだましだましやってきた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・････････････････････････････</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">我慢、できなかったんだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">結局俺は、馬鹿で、しかも苦しい道を選んじまった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">―――――――ああ、、、、畜生っ、、、、」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう言って、彼は頭を抱える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">あてがった両手で、強く髪の毛を掴んでいる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ギリギリと力を込めてしばらくそうやっていたが、数秒の後、彼は顔をあげて</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「親友にあんな酷いことした俺に―――――――今更どうしろって言うんだよ・・・・・・・・・・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう、力なく言った。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">机が淡く反射する陽光に照らされたその表情は、とても苦しげで、そして――――</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">今にも、泣きだしそうに思えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">嗚呼、と。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は知らず、漏らしていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">いつか、用務員の裏方雑用さんと交した会話を思い出す。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君への恐れを語る私に対して、彼女は、『たまに泣いているように見える気がする』と言おうとしていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">結局、彼女自身も自分の感覚を信じられなかったのか、口にはしなかったけど、心の読める私には無意味だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『彼に限ってそんな事はない』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">用務員さんの言い淀んだ先を知った私も、その時点では、そう一蹴していた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『同僚君』と『泣く』という要素が結びつくなんて、到底考えられなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど今、目の前で途方に暮れたような表情をしている少年は、本当に弱弱しくて。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">眉間に寄った皺も、不機嫌さからではなく、目頭の疼きに耐えかねている為であるように見えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">初めて飼育委員会で、出会ってから。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">心の読めないこの人を知ってから、ずっと抱いていたイメージが、静かに溶けていくのを自覚した。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">常人では考えられないほど強く心を閉ざせる、飼育委員の同僚の彼は。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">世界中のすべての人間を敵に回しても泰然自若としているはずの彼は。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その裏側に、こんなにも弱い貌を持っていたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同僚君という人間への恐れと畏れが、紅茶の中のお砂糖みたいに消え、去っていった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">隔絶した存在だと。自分とは全く別の何者かだと思っていた目の前の同僚君が、今は酷く身近なモノに思える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">暖かい波動が目の前から伝わってくるようだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「それでも・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私は言う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「それでも。まだ、あなたが男さんと仲直りしたいと少しでも思っているのなら、その想いを伝えるべきだと思います」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">自分でも意外なほどに、きっぱりとした口調だった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれども対する彼は、首を横に振る。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その反応に、通訳は躊躇うことなく言葉を返す。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">恐らくは、説得すると決めた初めから、そうしようと考えていた事を。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">この上ない穏やかな表情で</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">静かに息を吸い、</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">平生、そして今も</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">僅かに力を込めて結んでいる口元を開いて</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">「もしも、本当にどうしようもなくなったその時には</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">―――――――――――私が、あなたを通訳しますから」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">だから、諦めないで下さい。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そう、結んだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">彼の表情はうかがい知れない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">何故って彼は、少し驚いていて、どんな貌をすればいいか迷っていたから。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　　</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　　　◇</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">その某有名コーヒーチェーン店には、バレンタインに結ばれた初々しいカップルがあふれていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">壁の一面を丸ごと使ったガラス窓からは、冬の柔らかい日差しが差し込み、店内に流れるジャズと併せて穏やかな昼下がりを演出している。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">私達はその中に混じって、向かい合って座っている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ゾワゾワという、鼓膜に押し寄せてくるような気配めいた人々のざわめき。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">それから、このコーヒーチェーン店に特有の甘いミルクとコーヒーの香ばしさが混じった匂い。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ついでに全身をくまなく覆う暖房の効いた空気。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">視覚、聴覚、嗅覚、触覚はここがどこであるかを明確に告げている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">けれど、ふと。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">入ってきた時に比べて、やや人影がまばらである事に気がつく。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">まだまだ満席状態だったけど、レジの前にあった列が見当たらない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">お昼の休憩時間が終ろうとしているのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">前の方の邪気眼のカップルが席を立つのを見ながら、そう確信する。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">脇からは陽光が斜めに差し込んでいる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">多分見る位置によっては、私達は逆光で、向かい合うシルエットとなっているかもしれない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">ざわめいた世界で、静かに向かい合う、顔の見えない影。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『どこか、違う世界の人間が、偶然そのおぼろげな痕跡をこちらの世界に映している。』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">そんな空想が頭の中でイメージとして出来上がった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">イメージを鮮明な頭で取り扱おうと、ラテを口に含もうとして、もう飲み干してしまった事に気付く。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">『宴もたけなわ祭りも終り。』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">周りから人の気配が減っていくのが、何故だか妙に物悲しく感じて。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">同時におおよその要件を終えた私達も、それに従うべきだと言う義務感が芽生えて。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">やがて、お腹の底から喉元まで満たしてつまりそうな青と、街ゆく人と車と並び立つビルディングの灰白色を背景に。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">黒いシルエット達は、店を後にすることに決めた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;color:#000000;">　</span></div>