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通訳残留 10-③


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紫煙が揺れる。
タバコの先から宙に放逐された煙は、しばらくの間ふわふわと頼りなく、カウンター付近の空間を漂っている。
回転する換気扇の羽。拳二つ分ほど開けられたカウンター脇の窓。
煙は、それらが結ぶ線上に達した瞬間、崩れるようにして移動の速度を急速なものへと変える。
浮遊から霧散へと移行した紫煙は、最後の僅かな残留をファンに噛み砕かせる事で、その命を終えた。
タバコから放たれた煙は、例外なくそのコースを辿り換気扇へと消えていく。
その光景はまるで冬のカゲロウだった。
そんな、妙な儚さと寂しさを催す想像をしてしまうのは、きっと窓が開いているからに違いなかった。
窓から流れ込む空気はとてもとても涼しげで、この古本屋で長らく強い暖房にさらされていた彼には、一筋の光明にも思えた。
火照り汗ばんですらいる自らの顔を、冷涼な風が引き締めてくれている。
同時に気持ちも引き締められて、ムワリとした熱で鈍化していた感受性が、覚醒する。
窓から流れ込む空気には、付近の住宅街から発せられるにおいが含まれていた。
カレーやら揚げ物やら、夕飯時に相応しい食欲をそそる香り。
それから環境保護の風潮からか、最近はめっきりしなくなったはずの、石油ストーブのにおい。
あの、ムワリとした独特の、鼻孔の奥から全身を包むような、ストーブが過熱する香りが混じっていた。
 
「このにおい」
「・・・・・・・・・・」(パタパタパタ、カチッ、パタパタパタ、カタタッ
「なんか随分久しぶり嗅いだ気がするんですけど、あっちの住宅街じゃまだ使ってたんですね。」
「・・・・・・・・・・・なにがー?」(パタパタパタ、カチカチッ、パタッ、パタパタパタパタ
「石油ストーブの臭いですよ。ほら、最近はどこもかしこもエアコンばっかじゃないですか。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」(パタパタパタパタ、カチッ、パタッパタタタタパタッ、カタタッ
「聞いてます?懐かしくないですか?このにおい」
「あ?どこが?」
「いや、だってほら、俺らが子供の頃は割りとよく嗅いだニオイですけど、最近じゃめっきりじゃないですか。」
「訳分かんねっ。石油臭が懐かしいとかどういう神経してんだ?
 っつか話しかけんな。こちとらVIPで忙しいんだヨっ」(パタタタッ、カタタ、カチリ、カチカチッ、パタタタタタタタタ、パタッ
「はあー・・・ネットなんかやってないでいい加減、まじめに仕事してくださいよ・・・店主さん。そのうち潰れちゃいますよ?この店・・・」
「るせー。昨日行った回転寿司のバイトがVIPPERだったんだ。あの野郎。俺のことでスレ立てしてやがる。
 ここで見つけたが百年目、ってなw無茶苦茶にしてやんぜwwwww」
「って言うか寿司屋でなにやらかしたんですか(´Д`;)」
 
入口脇のカウンター前に立つ常連の彼のもとへ、不意に風に乗りやってきた旧知の香り。
それに対する彼のノスタルジーを歯牙にもかけず、カウンター上を占領するノートパソコンに向かい続ける、やる気のない古本屋の女店主。
客である彼は、開店時間にも関わらず平気で遊んでいる彼女を、本気で心配して頭を抱えてみたりする。
とはいえ駅前に広がる繁華街の、紆余曲折した路地を辿った先にある、この流行らない古本屋では日常茶飯事の光景でもあるので、意味のない行動であったりもするのだが。
 
「だいたい―――お客さんもいるんですから・・・」
常連客は、チラリと背後を振りかえりながら言った。
書籍間の隙間が目立つ本棚に挟まれた通路。
ただでさえ狭いその空間は、腰のあたりまで積み上げられた本に席捲されて、体を横にしなければ通れない程である。
そんな店内の半ばあたり。
カウンターから数メートル離れた位置に一人、お客さんがいた。
もともと大通りから外れていて来店者が少ない上、折からの寒さからか、この日はその『少ない来店者』さえもやってこなかった。
そんな中やってきた『彼女』は、常連の彼を除けばこの古本屋で、今現在唯一のお客さんと言う事になる。
新ジャンル学園の制服を着た彼女は、本を手にとっては本棚に戻し、戻したかと思うと躊躇いがちにまた同じモノを引っ張り出す、という動作を繰り返している。
どうやら、その本を買うか否かを決めあぐねているようだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
女店主は常連の彼の言葉に、キーを打つ手を止めて顔をあげる。
まるで今はじめてお客の存在に気づいた風に、ちょっとだけ表情を動かす。かと思うと、唐突に手元の灰皿へタバコを突き刺した。
既にタバコの吸殻で埋め尽くされた中へ差し込むように突き入れると、さっきまで換気扇へ登っていた煙が、途中でプツリと途絶える。
「ほら、これでいいんだろ?」
「いや、いいんだろって俺に言われても・・・・」
こちらを向いてニヤリとされて常連客は困惑する。
彼からすれば、言われたからやるんじゃなくて、言われる前に消してほしい物であった。仮にも『消せ』と言った彼はお客であり、ここは彼女の店なのだから。
そんな風に思っていると、不意にカウンターを挟んだ店主から声がかかる。
「そういやさ、あの辺りってなんだっけ?」
「あの辺りって?」
「あのコがいる辺りの本棚。なに売ってたっけかなあ?」
女店主は、頬をついた手で器用にもメガネを押し上げつつ、余った手で少女の立つあたりの空間を指さした。
「さあ・・・っていうか自分の店なんですからそれくらい把握しましょうよ・・・・」
「め ん ど く せ え。
そもそも今は目録検索できるようにデータベース化してるからな。パソコンでちょちょい、だ。―――――ほれ。」
古本屋経営者としてあるまじき質問に呆れる彼の脇で、女店主は再びタイピングとクリックを始める。
パタパタカチカチという音が数秒間続いた後、店主は画面が常連の彼にも見えるようにわざわざパソコンを動かす。
「あそこらへんはアレだな。紀行文とかガイドブック。」
「なんでそう言うところ『だけ』は無駄にハイテクなんでしょうね?」
下ろされた長めの髪を肩の後ろにおしやり、続いてタートルネックの襟を軽く整えながら説明する店主へ、彼はわざと冷やかに言ってみる。
この店主、変にメリハリがあるのが特徴で、まじめに仕事をしない半面、こうやって電子目録なんかを完備しちゃってるあたりは意外に抜け目がない。
それにしても接客業なのだから、やっぱりもうちょっと普段から態度をよくしたら良いのでは?と常連の彼は思っているのだが、『変なメリハリ』はそこにも影響しているらしい。
この店主、服装次第で接客態度が良くなったり悪くなったりするのだ。
具体的に言うと、現在のようにタートルネックのセーターを着て髪をおろしている場合は、べらんめえ口調で愛想もあまり良くない。
逆に髪を束ねて服もカッターシャツに着替えると、女性的な口調と話好きな性格になる。
常連の彼にとって、どちらが好ましいかと問われれば、接客業としてはやはり後者であった。
だが、そちらはそちらでお客がいない間は彼が店主の長話に付き合わされる、という弊害があったりする。
店主いわく、やる気を出したいときには、髪を束ね服を糊のきいたシャツに変えて気分をスイッチするのだそうだ。
 
「彼女・・・・」
「ん?」
「ああ、いや、なんでもありません」
「あっそ。――――ああ・・・買うんなら買えよなー。こっちも仕事なんだからよお」
「ちょwwww聞こえちゃいますってwwwwww怒って帰っちゃいますよ?」
「いいのいいのwどうせこんな辺鄙な所に来るなんて余程のモノ好きくらいだってwww」
「自分で言いますかwwww」
 
店主と軽口を叩きながらも、彼は内心ホッとしていた。
今現在、常連の彼の視線は店主に向けられていたが、意識の方は、本を買うか買うまいか悩んでいる、新ジャンル学園の少女にあった。
先程ポツリと口にしてしまった少女への意識。
それに対して店主が喰いついたり深く追及してこなかったのは、彼にとってはありがたい事であった。
 
少女がこの店に現れてから、20分ほど経つだろうか。
視線の動きや顔立ちなど、整ってはいながらも人間として見ると、全体的にそこはかとない違和感のある小女。
それが一週間ほど前に来店したのと同一人物だとわかった理由は、言わずもがなである。
一度しか目にしていなくとも、店主の長話に付き合わされた人物を忘れる事なんて、彼にはできなかった。
なにせ店主の小難しい講義の主たる被害者は、常連客である彼なのだ。
どうしたって長話に付き合わされた人間に対しては、同情を抱かずにはいられない。まして、忘れるなどもっての他である。
 
そんな、常連客に記憶された少女がおよそ20分前。
とっぷりと日が暮れた所為で真っ黒にしか見えなくなったガラス戸を開いて、来店した。
それまでいつもの如く緩い調子で、店主との書評に興じていた彼であったが、少女の表情が目に入った瞬間、ギョッとした。
具体的にどこがどう、という訳ではない。
少女は以前来店した時と変わらず、人形みたいに乏しい表情で店内に踏み入ってきた。
けれど、以前とは何かが違う。
以前には無かった何かが、そう、端的かつ短絡的に表現するならば、『ギョッと』させるモノが彼女の表情にあったのだ。
それがなんなのか、常連の彼にはすぐにはわからなかった。わからなかったが、気のせいと否定するにはその『何か』は、些か存在感がありすぎた。
『何か』
その表情を、何の心構えもなく目にした人間に対して、軽いショックを与えるくらいの『何か』を含んでいる事だけは間違いなかった。
しばらく考えてみた彼は――その過程で店主の言葉を二言三言無視してしまったらしい。気がついた時には、相手は不機嫌そうにノートパソコンを引っ張り出してパタパタカチリとやっていた。――やがて思いいたる。
 
―――あれは、やる奴の目だ。
 
心の中で言葉にした後、まるで頭の悪い中学生が漫画の台詞を真似しているみたいな言い方だと気付き、軽く鳥肌が立つ。
だが、その言葉は、一応は的確に『ギョッとさせるモノ』の正体を、彼に説明したという点においては、悪い物ではなかった。
『ヤる奴』『やる奴』『犯る奴』『殺る奴』『遣る奴』・・・・・
時として英語で『do』の訳語とされるだけあって、指し示す意義もスラングを含めれば多岐にわたる―――『やる』。
何かをしようとする人間とは、結果、例外なく『やる』ものだ。
やらなければ何もできないから『やる』のだが、その行為が日常から外れれば外れるほど、『やる』ことに対する本人の意識の度合いは高くなる。
そして、その、『やる』に対する意識の度合いがある一定のラインを越えると、他人にも分かる程の『平素との違い』が現れる。
・・・・例えば人生の浮沈がかかった試験に臨む前。
・・・・例えば誰かと対立していて、その闘いを始めようとする前。
・・・・例えば普段は滅多に自分の意見を言わない人間が、言わなければならない状況に追い込まれた瞬間に。
彼の知る限りでも、確かにそう言った状態にある人間からは尋常ならざるモノが感じ取れた。
もっというと、まるで鳥獣が地震を予知するかの如く、それを感じ取った後には大抵なにか『非日常的な事』が、どこかで起こっていた。
ただ『非日常的』と言っても、大事件に発展する例はまれで、ほとんどはその本人に限り重大なことが起こるに過ぎない。
それでも、後で顛末を知って、彼が納得できなかった事は一度もなかった。
違いは主観的に重大なだけなのか、周囲の人間にとっても大変な事をしようとしているのか、くらいだ。
 
小女は、間違いなく『彼女の日常から外れた事』、場合によっては『周囲の人間にとっても大変な事』をしようとしている。
経験的にそう理解した常連の彼は、ためらった。
それは、一方向への抑制ではなく反対のベクトル同士の引っ張り合い。
つまり
『彼女へ声をかけて事情を聴き、表情へ滲み出てしまう程の重荷を、少しは分かちあうべきではないのか』という気遣いと
『赤の他人が好き勝手に口を出して、いたずらに彼女の決意を乱すくらいなら、何もするべきではない』という心遣い。
どちらも一見すると正しいように思える考えが、彼の中でグニョグニョと渦巻いていた。
5分くらいパタパタという音を傍らにして考えた彼は、結局、虚ろな瞳の少女とは赤の他人の関係を通すことにした。
どんな問題が飛び出すのか分からないのに、カウンセリングのプロでもなければ悟りを開いた聖人君子でもない彼が、下手に手を出してはまずいという判断からである。
決断を下して10分以上たっても、間違っているとは思ってはいない。
思ってはいないが、それでも、『ギョッ』とさせるほどの表情を隠すこともせず、あるいは隠せずに来店したのだから、構ってやるのが道理じゃないか、なんて考えが消えたわけでもなかった。
頭では行動を決定しているにも関わらず、未だに常連の彼の心はグニョグニョと渦巻き状態である。
 
少女に対する意識が口にのぼったのはそんな彼の心理が背景にあったからだが、傍らに座る女性にとってはあまり興味のない事だったらしい。
女店主はとくに気にしている風でもなかった。
自分は少女がなにか尋常ではない、とすぐに気が付いたにも関わらず、この古本屋の店主は何も感じないのだろうか?
そんな風に思い、そこから更に、『だとすると鈍感な話だし理解してて全くおくびにも出さないのなら尚悪い』、という思考に結び付く。
なので彼は、軽くカマをかけて見る事にした。
なにより、お客さんは本を買うか買うまいか迷っているのだ。ここでアクションを起こさない本屋の店主はどうかしているとも思えた。
実際には気付いていて、これから何かしらアクションを起こそうとしているので有って欲しいと願いつつ、彼は口を開く。
 
「彼女、ずいぶん悩んでるみたいですね?もうかれこれ20分くらい、ああやってるんじゃないですか?」
言外に『声くらいかけてあげたらどうです?』という言葉を含みつつ、そんな風に言う。
暇そうに頬杖をついていた店主は、その言葉にジロリと瞳を動かした。
「ああ?」
「いや、だってマズイでしょ。ここで何にもしないなんて。本屋なら・・・・・・みたいな?なん、ちゃって?」
店主の返答には奇妙な迫力があり、それに対する心構えをしていなかった彼はちょっとたじろいで後を続けた。
と、常連の彼があれこれと喋る中、店主は不意にポケットから紐を取り出して髪の毛を束ね始める。
さらにその動きが終わらないまま、椅子から立ち上がったかと思うと、窓を閉め、側の壁にあるクリーム色の換気扇のスイッチをオフにする。
常連客の言葉なんて聞いてもいない様子で動き回る店主に、彼はポカンとした。その口は言葉を発した形のまま、開いたままである。
そんな常連客をよそに、何時の間にやら店主はカウンターの外へさっさと出ていってしまっていた。
店内を少女のいる方へズンズンと進んでいったかと思うと、『ヤホッ♪ずいぶん悩んでるみたいね?』なんて、本の山に挟まれて横ばいになりながら声をかけている。
一連の動作は一切のよどみなく行われた。まるで、常連の彼の意識、その間隙を突くような形で。
事は、面食らった彼の思考が再稼動をしたころには、凡そ全て終わってしまっていた。
何にせよ店主の行動が、常連の彼の予想の域を出ていたのは、まず間違いがなかった。
 
「ヤホッ♪ずいぶん悩んでるみたいね?」
「あっ、、はい、ちょっと・・・難しくて・・・・・・」
店主の声に少女は、手にしていた鮮やかな色彩のB6くらいの本から目を離し、俯いていた顔をあげた。
本は、あまり有名ではない作家が書いた鎌倉の紀行文である。
さらにもう片方の手には、黄色を基調とした有名な旅行ガイドブックシリーズの鎌倉編が一冊見受けられた。店主は『へえ』と口にする。
「ふーん・・・どれどれ?ああ、この作家さんのね。お目が高い。」
女店主は、ちょっと失礼、なんて断りを入れて少女から本を受け取ると、吟味するようにしてゆっくりと手の内で回転させる。
じっくりと紀行文の本へ視線を送りながらも彼女の口調は、褒め称えるような言葉とは裏腹に、あまり起伏のない物であった。
その脇で少女は、無表情に店主の査定と思しき行動を見つめている。
ただ、突然に声をかけられた為か、無表情の中にもどこか所在なげな物がにじんでいた。
「よしっ。お客さん、前に来た時はなにも買えなかった訳だし、お茶を御馳走したよしみだっ。ちょいと安くするわよ?」
やがて吟味を終えた店主は、軽く勢いをつけて本を少女に差し出しながら、ひときわ高い声でそう告げた。
けれど、割引宣言にも関わらず少女の顔はどこか浮かなかった。
「ん?やっぱり無理かしら?」
「・・・・・・・すみません。その・・・買うべきだとは思います。」
「『買うべき』・・・・って、やっだなーwwwもうっwwwwだったら買いなさいってwwwww」
「いえ・・・でも、それでもまだ、迷ってるんです・・・・買って良いのか・・・買うべきだって解っていても―――迷ってるんです。」
絶妙な営業スマイルを伴い優しく問う店主に、少女の言葉はどこか要領を得なかった。
本について語っているにも関わらず、まるで別の事を言っているかのような。どこか上の空な返答。
店主はそんな彼女の様子を受けて、口元に薄く笑いを浮かべると、軽く息をついた。
「―――お客さん。」
古本屋の女店主は、静かに言う。
その言葉は、話しているうちに再び俯きはじめていた少女が、思わず顔をあげてしまうような、深い響きを持っていた。
「あれよ?ことわざ。案ずるより産むが易しって言うじゃない?
やるべきかどうかって迷ってたら、サクッとやるに限る。うん。物事って7割方その方がうまく行くものよ?」
「あの・・・後の3割は・・・」
「とっても上手く行く?ってところかしら?」
少女の体全体に染みいった後、心の奥へ達すような響きはしかし、『お客さん』の一言のみに限られていた。
あとを受ける言葉は全て、先ほどから変わらない軽い調子のもの。
まるで、『深い響き?さあ、お客さんの聞き間違いじゃない?』と言わんばかりの、冗談めいた口調であった。
けれど、その落差が少女の心を動かしたのだろう。
声を掛けられてからこっち、始終落ち着かない様子を見せていた少女は、安心したような微笑を静かに浮かべる。
彼女がこの店に来て、初めて見せたかもしれない明るい表情に、女店主は満足げに一言。
「よしよしwそれじゃあお会計はあっちのレジでね。支払済んだらまたお茶でも出そうかしら?」
   ・
   ・
   ・
   ・
「しかし、やる気出すために髪まで束ねちゃってまあ。なんだかんだ言って店主さんも気にしてたんですね?
俺、店主さんが仕事であんな素早く動いたの見るの久しぶりですよw」
「あ?なにがだよ?」
「いやいや、だってあの子、なんだか知らないけど随分思い悩んでたみたいじゃないですか。
なにか問題を抱えてるんだって。俺でもわかりましたよ?」
「あーあーそーねはいはい。」
「はいはいって・・・・店主さんだって何か気付いたから、ああやって声をかけたんでしょ?
いやー、さすがっていうかなんていうか。彼女、なんか吹っ切れたみたいでしたよ?本も買っていってもらえたしw」
「・・・・ったく・・・めんどくせえ奴だな・・・・あんなのセールストークに決まってんだろ?知るかよ。客のプライベートな問題なんてよ」
「むっ、その言い方は無いんじゃないんですか?
現に彼女、ああいう精神状態でこの店に来たんですから・・・・・・ああ、っと、、つまりはああいう気持でも来る価値のある店って事なんですから」
「はいはーい。質問。お姉さん質問がありまーす。『ああいう』ってなんだよ、お前よお。」
「い、いや、そりゃ、ああいうパッと見で普通じゃないって解る精神状態で、ですよ。」
「『で、ですよ』じゃねえよ。説明になってねーっつーのー。そんなの全部お前の想像だろーが」
「う、、いや、まあそれはそうですけど・・・」
「人の心なんてさ・・・誰にも分からないから」
「まあ。。。そうですけど・・・・・・でも全く分からないわけじゃないでしょう?少しは解るもんでしょう?」
「まーねー。だけどさ、だからって解ったふりすんのもカッコ悪いだろ?
俺は・・・・・・あれさ。つまり自分がわかってることだけやる主義なんだよ。」
「なんっすか、それ?」
「古本屋としては本を買ってもらえないより買ってもらった方が嬉しいって話。」
「なんっすか、それ?」
「――――お前・・・・・・・・・・頭、悪いだろ?」
「店主さんの説明が分かりにくいんで「ざけんな。死ね。」
 
 ◇
目の前で墨をしみ込ませたような色合いの、木製の壁が動いている。 
いや、実際に動いているのは私の方であって、壁は止まったままだ。
デッキブラシを前後させるたび、それに伴って視界が動く。
ブラシを掴む素手から冷気がしみわたり、全身の筋肉の一筋一筋に針金を通したかのような強張りが常時私を苛んでいた。
その感覚に耐えながら、機械的にブラシを動かし続ける。
 
―――ジャカジャカシャカシャカジャカジャカシャカシャカ
―――シャッシャッシャッ・・・・・バシャバシャビチャ・・・・・ジャカジャカジャカジャカ
 
放課後の飼育小屋は、水気を含んだ摩擦音に満たされていて、外部の音はあまり聞こえない。
床をこする反復運動は持続したまま、視線を下に向けてみた。
コンクリートの床が、デッキブラシの通過した所から濃い色に染まっていくのが見える。
薄い灰色をしていた床は、私の視界に限れば、ほとんどが黒に近い灰色になっていた。
自分が担当する中の一区画が終了した事を悟り、ブラシを動かす腕を止め、折り曲げていた体を起こす。
「――――――っ・・・」
床掃除の作業ををやめた途端、筋肉が強張る感覚が酷くなった。
きっと今まで体を動かしていたために、意識の外へ追いやられていた分が、終了と同時に戻ってきたからなのだろう。
一度はシャンと背筋を伸ばした筈の私は、その感覚に耐えようと、柄の先端を両手で押さえる形で体の正面に立て、そこに体重を預けた。
けれども、ブラシを杖代わりにして息をついてみても、攻め立てるようにして続く痛みはひかない。
それもそのはずで、原因は15時過ぎという日が照って十分に暖かい筈の時間でさえも、治まらない冬の寒さ。それから私自身の精神状態にあるのだ。
休息はまるで意味がない。
 
―――シャカシャカシャカシャカシャカ、ジャカジャカジャカジャカ
 
そうやって私が仕事の中で、束の間の静止状態にある間にも、飼育小屋のブラシの音は続いていた。
ただし音源の片方が消えたせいだろう、いくらか小さく寂しい物になってはいたけど。
 
振り向くと私と同じ色のジャージを着た同僚君が、腕まくりをして床をこすっているのが見えた。
彼の向こう側にはこんもりとした山のような黄色と黒の縞模様――虎吉がいる。
今虎吉は、ほし草の端っこで借りてきた猫のように行儀よく掃除の終わりを待っていた。
同僚君はそこから程近い所で黙々と床をこすり続けている。やっぱり男の子だけあって、私が飼育小屋の10分の1を掃除するのと同じ時間で、その2、3倍の面積を終えているようだった。
彼はこちらの視線にも頓着せず、ジャリジャリと力強い動作で、ただただ仕事を遂行していた。
―――筋肉の強張りが一層強まる。
首筋からうなじを経由して、二の腕を覆うように。足の指先からふくらはぎと太ももを通り、股関節へ走りぬけるように。
結局のところ、この強張りは。体の動きを制限してくるような全身の異物感は、私の精神状態が原因のほとんどだった。
寒いから、というのはあくまで補助的な要因に過ぎない。むしろ、元からあった固い感覚を、強めているだけ、と考えた方がいいのだろう。
 
 『同僚君と話し合う』
その決意が固まっても、実際にその話を切り出そうとすると、やっぱりどこかでブレーキが働いてしまう。
しっかりと意志を持って行動を起こそうとしても、これまで同僚君に対して堆積された苦手意識や怖さのイメージが、私の事を抑えつけてくる。
それは、同僚君の実物を前にすると、一気にその輪郭をはっきりと表して、抑える力をいや増してきた。
振り払おうと、無視して同僚君に声をかけようと奮闘しているうちに、飼育委員の当番が割り振られた朝と昼の時間を消費してしまった。
・・・・・・・・・・なんというか・・・我ながら情けないと思う。
もうこの放課後の飼育小屋の掃除の時間をおいて他にはない。これ以上引き延ばせば、きっと、全て手遅れになる。
まだ私の心の中は、抑えつけるモノと自身の決意の中で葛藤してはいたが、そろそろ言ってしまおうと思う。
いろいろと不安はあるけれど、何より、そう決めたのだ。
それに、彼を説得しないと、大切な何かを失ってしまうような、そんないわれのない恐怖が心の奥にあった。
もしかしたらそのおかげで私は動かすことができたのかもしれない。
彼の方へ体全体を向けようとするのを、拒否する足を。寒さを伴った緊張で、僅かに震える唇を。
 
「あの・・・・・」
「ん?」
息を吸う。同僚君は手を止めた。私は、口を動かして。
「お話が―――あります。」
彼はゆっくりと顔をあげ、こちらを見る。
小屋の端の方で虎吉が、静かに喉を鳴らすのが聞こえた。