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通訳残留 11-③


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      ◇ ◇
ほんの少しだけ顔をあげて、視線を前に向ける。
すると、人形みたいな顔立ちの少女が、瞳を濡らしながら静かにこちらを注視しているのが見えた。
こいつがここまで食い下がるとは思わなかった。
あの日、男と決別したあの校舎裏で。
俺が通訳と呼ぶ、目の前の少女に現場を目撃されて。
俺も馬鹿じゃあない。あれで男とは、何もかも完全に切れてしまっただなんて考えていない。
その後に誰かが動くであろうことは薄々わかっていた。
半ば衝動的に絶交してしまった事を後悔した男か。或いは、事情を知ってしまった、男とごく親しい間柄にある人間か。
誰であるかは別としても、俺と男の関係を修復しようとする誰かが説得を試みるであろうことは予想済みだった。
もちろん、偶然にもあの場に出くわした通訳も含めて、だ。
人との繋がりを失ってしまった人間を前にすれば、普通は誰であれ、それを見なかった事にはできないのだから。
 
鼻水をすすりあげる鈍い音がした。
目の前の少女は泣きそう、というよりは、ほとんど泣いている状態でありながら、視線だけは決して反らそうとしない。
誰かが説得にくるのは判っていたし、その『誰か』の中には確かに、通訳も含まれていた。
含まれてはいた、けれども、こんなに、こいつが、ここまで深く俺の心の中に入ってくるなんて予想だにしていなかった。
『普段と同じように』こいつに対する苛立ちを持って接すれば、おのずと雰囲気に耐えきれず簡単に引き下がるはず。
そう高をくくっていた。彼女が、俺と男の仲を修復しようと動くのを予測できていたにも関わらず、実際にはほとんど眼中になかったと言って良い。
だから、こうやって必死になって俺を説得しているのが『あの』通訳だと言う事実は意外過ぎて、当事者でありながら未だに現実の出来事だという感覚が希薄だった。
 
息だけで会話をしているような周囲の人間のヒソヒソといった声が、次第に止んでいく。
先ほどまでの怒鳴りあいで、こちらを注視し邪推していた他の客は、静かになったのを受けて最悪の事態を脱したと考えたのだろう。
店内のBGMや遠く離れて俺達の事に気付かない人々の話し声。
そこに微かに聞こえるか聞こえないかの形で混じっていた小声が消え、代わりに普通の大きさと内容の会話が戻ってきた。
彼等は今までのただならぬ雰囲気なんて忘れたみたいに。いや、初めからそんな事は無かったみたいに、笑い合い、お互いの世界に浸っているようだった。
俺達の言い争いを見て好き勝手に内実を推測していたって、結局の所は、彼等は真実を知りたいわけじゃない。
当事者でない彼等にとって本当に重要なのは、どれほど早く俺達二人が、自分達に影響を及ぼさない状態へと移行するかなんだ。
その証拠に誰一人としてこちらに直接的な接触を図ろうとしていない。真相を知りたかったら、なにかしら手段を講じてこちらに聞けばいいだけの話なのに。
確かに喧嘩の最中に近づくなんて、気まずくて出来ないけど、勝手に推測する意味もない筈だ。
―――まあ、だからどうと言う訳でもないのだけど。
そんな事は随分昔に分かっていた事で、気にかける程でもない。
『他人』は自分の利になることしかしない。何か、ためになる事をしてくれるにしても、それはあくまで自身の善意と保身を天秤にかけ、吊りあった場合に限る。
他人はわざわざ危険や苦痛を犯してまで助けてはくれないし、それを望んではいけない。
恐らくは人生において、出来るだけ早い段階で理解しておかなければいコトだ。
それを理解し納得した上で、人は生きていくべきなのだと思う。
結局は、そこが境界線なんだろう。
危険を冒すか否か。それが、『他人』か否かの境界線なんだろう。
自分のためにどれほど危険を冒し苦痛に耐えるかで、相手が自分をどう思っているかが分かる筈だ。
・・・・・だとすれば。
だとすれば、こいつは一体なんなのだろうか?俺にとって『他人』だった筈のこいつは一体なんなのだろう?
 
今、目の前にいる少女は、普段の反応やそれに基づいた俺の予想を大きく上回って、食い下がっている。
涙を流し、鼻や目のあたりを真っ赤にしながらも尚、感情の読みにくい貌を背けることをしない。
さっきまではこちらも熱くなっていたせいで意識していなかったけど、今になって女の子を泣かせてしまったという事実に、胸がチクリと痛んだ。
なんだろうね。
言い訳は好きじゃないけど、普段はあんなにオドオドしていると見せかけて、ここ一番の所で頑として引き下がろうとしないなんて反則だ。
こっちもそんなつもりは無かったのに涙線のラインを見誤って、泣く所まで追いつめてしまった。
いつかテレビのワイドショーで、暴行を加えていたら相手が歯向かってきて、誤って殺してしまった暴走族の話をやっていた。
例えは悪いけど、相手を殺めてしまったと気付いた瞬間の彼等は、もしかしたら今の俺と同じ類の気分だったのかもしれない。
 
通訳は、まだまだ先ほどのショックが抜けきらないと見えて、口をつけた飲み物に軽くむせていた。
遠慮勝ちに『ケホッ・・・』と僅かに喉を鳴らしている。
その姿に、『こんな修羅場は未経験』というイメージが今度はちゃんと当たってくれた安堵と、『可愛らしいな』という想いが、同時に湧き上がる。
想いの方は完全に不覚で、意味もなく顔が熱くなった。
じっと見続けていると、通訳もこちらに気づいたのか、口を開いて何かを言おうとしてきた。
俺が顔を逸らすと、相手は僅かな戸惑いの後、言葉を飲み込んで口を閉じる。
―――全く。こいつを『可愛い』なんて思う日が来るなんて。
そう、思う。
初めて会った時は確かな嫌悪を抱いていた相手だと言うのに。
 
 ◇
 
俺が初めて通訳と会ったのは、毎月飼育委員会が開かれている一年五組の教室で。
もともとクラスが同じなのだから、実際にはそれ以前の、年度の初めも初めに教室でクラスメイトとして顔を合わせてはいた。
けれど本当の意味で『会った』というのであれば、恐らくこの日と言う事になるのだろう。俺にとって。そして多分、通訳にとっても。
飼育委員として担当する仕事と曜日を割り振られ、これから仕事をともにする相手として俺達は対面した。
一目見て、気に入らないと思った。
まだ年度の始めでクラス替えが行われたばかりと言う事もあり、お互いに『クラスで見た顔』程度の認識だった。
相手のことなんて、ほんの僅かな情報でしか知りえないのに。
俺は、あいつを嫌いになってしまったのだ。
 
どこがどう嫌いなのか、と問われれば、その時点では『なんとなく』とか『物腰や雰囲気が』と言った抽象的な答えしか用意できなかったろう。
ただ、今ならはっきりと言える。
俺は、あいつの取り澄ました態度が気に入らなかったんだ。
何事にも興味をもっていない、まるで俺達とは別の空気で生きているような、傍観者でも気取っているかのような無表情。
世間知らずのお嬢様みたいな、どこか一般的な人間のそれとは乖離した物腰と反応。
俺にはそれが人を見下しているように感じられて、知らず反感を抱いていたんだ。
初めは無意識的なモノだったかも知れない。けど、何度も顔を突き合わせていれば嫌でも気づかざるを得なかった。
こちらが話していても別の場所を見ているような瞳や、ワンテンポ遅れて返ってくる要領を得ない返事。
どこかこの世の物事全般に対して本気になっていないような、超然的な態度。
通訳にとって、人間を相手にするのは、木石に喋りかけるのと大差ない行動なのではないか?
そんな妄想めいた考えを抱くほど、あいつの無感動は著しかった。木石、と言うのであればむしろ、通訳こそが木石のような物だった。
あいつを前にしていると時折自分が、人間ではなく人形かロボットを相手にしているような錯覚を覚えてしまう。
不出来なワンパターンな答えしかできない、中身は血や肉でなく無機質な何か別の物が詰まった人造物。
感情の乏しい貌は均斉がとれていたが、それが余計に俺の、『わざとらしく美女に作られた人形』というイメージを掻き立てた。
人間なのに人間らしくない。そんな通訳を前にすると起こる、何か、何か人間の姿をした別の物を相手にしているよう気味の悪さ。
それは、酷く不安定な気分を催してきて、飼育委員の仕事の時は、胸の奥がムカムカと崩れ落ちて抑えが効かなくなりそうな感覚に晒されていた。
 
加えて決定的だったのは、あいつが俺に対して怯えを抱いているって事だった。
そもそも、通訳に人間味がなかったとしても、それは相手の人間性の問題であって、俺がとやかく言う話ではない。
いくら不安定な気分になろうとも、あいつを視界から締め出して、それこそ木か石のように背景に溶け込ませればいくらでも我慢は効いた。
けど、あいつのオドオドとした態度だけはどうにもならない。
普段は無表情で無機質な雰囲気にも関わらず、俺に対する時だけはその中に、紛れもない『怯え』のような物をにじませていたのだ。
どこか視線は泳いでいてはっきりと俺を見ようとはしないし、こちらから話しかけると必ずピクリと肩を震わせる。
白状すると、それはひどく俺の嗜虐心を煽るような反応で・・・・・・・・・・・・・・・・・そんな気持ちになってしまう自分がたまらなく嫌だった。
通訳を虐待したい気分を耐える事で神経をすり減らし、知らず俺の言葉は刺々しくなり、その所為で相手は余計怯えを強める。
結局唯一の解決方法は、お互いにできるだけ距離を置く事だった。
飼育小屋では自分一人の仕事に専念して相手を見ない。会話も極力避けて必要最低限に抑える。
結果として俺達は、間に流れる重苦しい空気に耐えながら黙々と仕事をこなすだけの間柄になってしまった。
 
それで良かったとは思うけど、少し、残念な気もした。
いや・・・違うな。
『残念』というのも適切ではない、有るか無いかも定かではない一種の後悔だ。
飼育小屋で、虎吉の相手をしている通訳を見ているといつも、それが胸の隅の隅、先っぽの僅かな位置に生まれるのを自覚していた。
普段は無機質で俺に対する時だけ怯えている通訳は、その瞬間だけ無邪気な子供のような笑顔を浮かべる事があった。
多分それは、唯一俺が通訳を認められる瞬間だったんだろう。
相手も自分と同じ動物が好きなのだという安心感。そして何より、多分、あいつの笑顔はとてもとても奇麗に見えたから。
なんとなく『普段からそんな風に笑えばいいのに』と思う事がよくあった。
そいつが俺に向けられないのは、まあ別に気にならないことだったけど、そういう奇麗な物を見る機会が少ないというのだけは、やっぱり残念だった。
きっと俺の態度もあいつの笑顔を奪っているのかもしれない。
通訳に関して、そう考える事もあった。
そんな時、決まって俺の心は、彼女を泣かせてしまった今と同じ、チクリとした痛みを覚えていた。
 
 ◇
 
そして今、あいつは俺の前にいる。
いつもなら絶対にこちらを見据えようとはしないのに、今は、涙を流しながらも目を逸らそうとしない。
無機質であるが故に心を奥まで見透かされているような瞳に、うっすらと光る物を携えながら、ただじっと俺を見ている。
ここまでする理由はわからなかったけど、きっと大変な想いをして、その状態を保っているに違いない。
普段は怯えていて、交わす会話と言えば事務的な物をほんの少し。
あとは逃げるように二人の時間を終わらせ、虎吉か仕事に向かう通訳。
そいつが必死になって真剣そのものの表情で俺を説得しようとしている。
俺は・・・・この真剣な相手には、同じ真剣さで応えなければいけないっていう、畏れに近いモノを感じ始めていた。
自分という物の根幹にかかわるような。そうしなければ自分が自分でなくなてしまうような、腹の底から湧きあがるざわめきを感じていた。
 
今まで・・・だましだましやってきた。
けどそろそろ、俺は自分で答えを出すべきなんだろう。
なにより、こいつがこれだけ真剣になっているのに、俺だけのらりくらりとかわすのは、どうしようもなく失礼で恥ずかしいって気持ちがあったから。
 
俺は、項垂れていた顔をあげることにした。
 
      ◇ ◇
 
同僚君が、項垂れていた顔をあげた。
その貌には、こちらをドキリとさせる何かがある。
どこかで見たように思い記憶を手繰り寄せると、ビルの谷間を抜けた先にある古本屋の、やる気のない女店主さんの顔に思い至った。
色のない瞳の中に、ただ『深さ』だけを表出させた、向けられたこちらが思わず姿勢を正してしまうような貌。
今の同僚君の表情は女店主さんのそれとそっくりだった。
生まれて初めてかもしれない『怒鳴り合い』という行動を終えたことで弛緩していた心が、再び張りつめるのを感じる。
「本当は、自分でも馬鹿な事をしたと思ってる」
コーヒーを少しだけ口に含んだ後、彼はそう始めた。
言葉を紡ぐその表情は、一見すると普段と変わらない、眉間に皺をよせた気難しい物である。
けど、今の私にはそこに、峻険さとは別の、弱弱しい何かを認めていた。
「あいつは・・・男は・・・あんなに必死になって、昔みたいに俺が周りに溶け込めるように努力してたのに。
 俺はずっとそれを無碍にしてきたんだ。愛想を尽かされて当然だと思う。」
視線を宙に投げ出しながら、彼はポツリポツリと、少しずつ口もとから言葉をこぼしていく。
彼が見ていると思しき机の上の空間に目をやる。
窓ガラスから差し込む陽光は、チラチラと光を反射する塵によって白く霞んだ沢山の光条を現わしていた。
まるで透明に輝く細長い匣を幾本も、窓ガラスから机の上へ斜めにかけ渡しているみたいだった。
その向こう側にいる同僚君には、白く霞んだ空気を通して見ているためか、どこか普段とは違った印象があった。
彼の表情にある弱弱しい『何か』も手伝って、誰か知らない人間を相手にしているような気分になってくる。
いつも険悪な雰囲気の中作業を共にしている同僚君と、目の前にいる彼を、どうしても結び付けられなかった。
「でも・・・あの時からずっと、あいつとどう接して良いか分からなかったんだ。
 ―――――クソッ、、、だからって・・・なんでこんな事になってんだよ・・・・・っ」
彼の顔にはっきりと、途方に暮れたような苦しげな色が浮かぶ。
肘をついた方の手で、右目の上の方を覆うようにした格好で、しばし止まっていた。
やがて手をどけて、ほんの一瞬こちらを見やり、そのまま虚空に視線を戻す。
その貌からは先程まであった色が消えて、平坦な表情だけがあった。
「俺が中学生のころの話だよ・・・」
語る口調は催眠術にでも掛けられているみたいに抑揚がなかった。
思い出したくない記憶を、感情を殺すことでやっと呼び覚まし得ているのが伺えた。
私は沈黙して、彼の語るに任せる事にする。
とりあえず聞く姿勢を整えようと空になったカップと、細かいパン屑が若干の汚れを見せるお皿を脇へどけてみた。
「あの頃はさ、反抗期っていうのかな・・・
授業中に騒いだり、誰かの事を傷つけたりとかする奴がいたんだ。
小学生の頃なら『可愛いイタズラ』だったのが、体が成長するにつれて度が過ぎていく。
それも先生に言われれば止めてたのが、だんだんと言う事を聞かなくなっていく。
教員もPTAだのなんだのであまりきつくは言えないからさ。図に乗る奴は乗るんだ。
普通じゃ考えられないような酷い事を平然とやってのける。どんなのか聞きたい?―――ああ、聞きたくねえよな。
一年で何十万と貢がされた奴とか、イジメぬかれた挙句に胃潰瘍で入院しちまった女子の話なんて。
ともかくあの年頃はさ、加減ってモンを知らないんだ。本当に相手のことなんて、そこらへんのアリみたいに思ってんだよ。
はっ。しかも笑っちまうよな
そういう人を労わらない馬鹿に限って親がうるさかったりするんだ。今で言うモンスターペアレンツって奴だよ。
邪推すんのは好きじゃないけど、ひたすら甘やかされて育ってきたんだろうぜ。本当に基本的な、当たり前の社会のルールさえ教えられずに。
だから、かどうかは解らないけど、ホントに周りの事を考えないようだった。騒ぎたきゃ騒ぐし気に入らなきゃイジメる。
教師がちょいと注意しようもんなら、親が呼ばれて飛びでて何とやらだ。始末に負えない。やりたい放題。
俺はさ―――学校が、自分のいる場所が、そんな道理の通らない場所になっていくのが耐えられなかった。
だから、大人が何もできないんなら、出来る奴がやるしかないよな?」
 
話している彼の瞳に、だんだんと暗い光が宿っていくのが見て取れた。
少しずつ熱っぽさを帯びていく同僚君が、彼特有の噴怒に駆られていくのを予感して、軽い恐怖が芽生える。
なのに私は彼から目を離せなかった。彼の話すような経験なんて自身には無いにも拘らず、何故かその感情に共感して言る自分がいたのだ。
私は、能面がだんだんと暗い色を帯びていく過程をただじっとジッと見守り続けている。
 
「弱い者をイジめるのは悪い事だし、授業を妨害すんのも悪い事だ。
それは止めさせなきゃいけない事の筈だ。誰かがやらなきゃいけない筈だ。
例えそれで親が飛んできて騒動になったって、喧嘩してクラスの雰囲気がギスギスしたって。
イジめられてる奴らの事を考えれば・・・・自分達の学校が、平然と人格を否定する異常な場所になる事を考えれば・・・・
過程がどうあれ、俺が『正しい』って思う行動を続けていれば最後には皆、そっちの方に動いてくれる。
守らなければいけない事。絶対にやってはいけない事。
まだ大丈夫だと思ってた。
仮にわかっていない奴がいたとしても、それはごく少数であって、まだ俺の周りは、『正しい』事が何なのか判っている奴が大半を占めている。
 
そう・・・思ってた。
 
けど違ったみたいだ。」
 
同僚君は両手の肘をつき指を机の上で組むと、その陰に頭を垂れた。
彼の顔のあった位置。その向こう側に例の邪気眼の彼氏とそれに構ってしまう彼女の姿が見えた。
けれどあくまでただ『見えた』だけだ。
カップルは視界に端に映るだけであり、私が意識を向けて見ているのはただ一人、同僚君だけだった。
今や彼の話だけが私にとっての関心事で、その他の事に対しては、普段の自分からは考えられないほど注意が行かなかった。
『違う?』
私はそう尋ねる。
彼はほんの少し顔をあげて私に視線を向けた。
『ああ。違った。』
そんな答えが返ってくる。
垂れた髪の毛と組んだ手の合間から、こちらを覗かれているようで落ち着かなかった。
 
「結局・・・イジメを止めようとする俺に味方してくれる奴なんて一人もいなかったんだ。
誰も彼も遠巻きに自分が傷つかないような位置から見ているだけ。
重要なのは自分に災難が回るか否かで、クラスが良くなろうが悪くなろうが、異常でも狂っていても興味がないみたいだった。
イジメをやってる連中が、俺にちょっとでも親しくしてる奴らを標的にするようになってからは早かった。
あっという間に俺は孤立してったよ。」
 
――――あの時は訳がわからなかったなあ。
 
ゆっくりと、また頭をあげて、そのままのけぞるようにして彼は天井のあたりを見つめる。
顔は見えなくともその声には、はっきりと寂しそうな響きが含まれていた。
 
「クラスで一丸となって不良行為に異を唱えれば、それで済んだはずだ。
イジメもなくなるし授業中騒がれて満足に勉強できないって事もなくなる。
それなのに俺の方を排除するんだ。
まるっきり反対じゃないか。いくら俺に味方すれば目をつけられるからって、悪いのはあっちだってのは判りきったことの筈だ。
標的にされる恐怖はあっても、覚悟しさえすれば問題はいずれ解決できるっていうのに。
何故かそれをやった俺の方が孤立しちまってる。
 
多分さ、その時になんか、なにか崩れたんだと思う。俺の中で。
思ったよ。ああ、結局おかしかしかったのは俺の方だったんだ。って。
俺が一番大切だと思ってたモノは、少なくともあの時あの場所で俺を取り巻いていた人間の中では・・・・・・
先生にとっても、クラスメイトにとっても、そして、そして男にとっても大して重要じゃないんだって。
物事の優先順位がさ、俺と『普通』の奴らでは決定的に食い違ってたんだよ。
俺が『正しい』と思ってやってたことは、奴等にとっては度の過ぎた異常な行動だったんだ。
自分が傷ついてまで他人を助けたりクラスを良くしようとしたりなんて、『普通』はやらないんだ。
そんなんで解りあえるはず無いよな。
自分とは明らかに違う考え方をしてる奴をさ、わざわざ危険をおかしてまで・・・その危険がどれほど小さなモノでも、そいつを冒して助ける理由なんて無いし。
大局的に見れば利に適った行動も、あいつらにとってはクラスから疎外される危険を孕んでる限り、『絶対にやっちゃいけない事』なんだって。
そう、気づいてしまった。
 
・・・・・それからだよ。周りの人間と本気で笑いあえなくなったのは・・・・・・・・・・・・
いつも誰かと接するごとに思うんだ。
きっと、こいつも付き合ってるうちに、理解できない事にこだわる俺を、得体の知れない奴と奇異の視線で見るようになるんじゃないかって。
こっちが必死になったって、それが分かってもらえずに距離が開くばかりなんじゃないかって。
誰を相手にしても、そんな考えがいつも頭をよぎるんだ・・・・男にしたって、もう、昔みたいに平然と付き合えなかった。
どっかで、いつか拒絶されるんじゃないかって、それが怖くて、いつも心の中に引っかかりを覚えてたんだ・・・・・・
だから俺は、そんなわだかまりを持って付き合うならって・・・・・・・まあ、そう言う事だ・・・」
 
最後は消え入る様にして言葉を濁したが、彼の言いたい事は十二分に伝わってきた。
それこそ、これ以上ない程に判然とした形で。
そう。もはや、同僚君の心は閉ざされてはいなかった。
顔をあげ語りはじめてからずっと、普通の人と同じようにその心が読めた。
彼は、心を開いてくれたのだ。
それまでは意識を向けても何も分からず、たまに読めるようなことがあっても、暗い日没直後に霧が出たようなあやふやでおぼろげモノだった。
けれど今は、晴れた真昼のごとくにはっきりと心が読める。
押しても引いてもびくともしない鉄の扉。強い力があれば必ず開くと解っているのに、私の力では錆とつかえの許容する僅かな隙間を行ったり来たりするだけ。
それが、内側から開かれたことが分かった。
誰も彼もはねのけていた彼の心は今、この私が立ち入ることを、一応は許可してくれているのだ。
 
必死の説得が結実したことに心が軽く温かく浮ついたけれど、彼の言葉と心はそれらを、さっと塗り替えていった。
 
同僚君の心からは、あの時校舎とフェンスの間で感じた、そして私自身も抱いていた、酷い寂寥感と自分以外の人間への距離感が絶えず伝わってきていた。
比喩などではなく、本当に、『絶えず』伝わってきたのだ。
私が、ツンさんの幸せを自分のものとして感じられないと理解したあの数十秒ではない。
校舎の影が空気を冷え冷えとさせる、あのフェンス脇での一瞬ですらない。
臓腑が落ち込んで、指先から四肢が凍りついていくような。足元がさらわれて全身が萎え、動きを奪われていく。
心の明るさも闊達さもどこかへ行ってしまい、空気が粘り気を持ち始め、何かをすることが果てしなく億劫になっていく―――あの、感覚。
同僚君は、飼育委員の同僚の彼は、私に語る間中。いや、私と相対している間中・・・違う。
認めたくはない。
こんな酷い事実は認めたくない。
けれど、心を読んでしまって解った。
彼は・・・・ずっと・・・・・・・今語っている中学時代の一件からずっと―――その気持と共にあったのだ。
 
認めて―――酷いめまいを覚えた。
足元がふらつくほどの衝撃に、全身が無理矢理揺さぶられてるみたいだった。
『雷に撃たれる』
そんな比喩表現が頭に浮かぶと同時に、漫画で衝撃を表現する雷めいたトーンを連想する。
連想は、ピタリと現在の状態にその身を重ね、揺るがしがたいイメージとなった。
私は、雷に撃たれたような気がした。
 
そう。彼は、周りの人間の理解が得られなかった。
正しいと信じて行った事が、気がつけば度の過ぎた、ただの異常なものとして扱われている。
自分の行動の意味が相手に伝わらず、絶えず誤解を受けてしまう。
それは、遠い昔に私が、保育園の先生から受けた誤解と同じ種類の物だった。
普通に、正常にふるまっている筈なのに、周囲の人間からは何時の間にか異常者のレッテルを張られている。
それは・・・・・・・・きっと自分を大きく変えてしまう程の事なのだろう。
現に、私がそうだった。
あの時、私は、自分以外の人間に見切りをつけたのだ。
もう、自分の事を理解してもらおうなんて思う事をやめてしまった。
子供の頃の事だからはっきりと意識したわけではないけれど、子供の頃だからこそ、理解を得られない反感は性根に染み付いてしまったのだろう。
一歩退いて、他人や世界を薄い膜の向こう側の物として、自分を保っていた。
それで理解が得られなくとも、心の読める私はそれで良かったのだ。
人というものに興味を無くすだけで、曲がりなりにも社会に溶け込むことができた。
けれど彼は違う。
私は心が読めるから、理解を得られなくても不自由はしない。相手の心を読んで、それに沿って反応すれば良かった。
けれど同僚君には私みたいな反則技は存在しない。
理解してもらえない以上、常に摩擦の危険と隣り合わせで生きていかなければならないのだ。
何がどう相手を傷つけるか判らない。
自分が当たり障りないと思って言った言葉が、相手を傷つけ、またその応報として傷つけられる。
その恐怖に耐えなければいけない世界。
それは・・・・・・どれほど辛いものだったろうか。
周りの人間がみんな、自分を傷つけるかも知れない。
その中で拒絶を選んだのは自然な事だったのだろう。
きっと周り全てが敵に見えていたのだろう。誰も味方だなんて思えなかったのだろう。
どこまでも延々と続く地雷原を歩くような。
姿の見えない猛獣が、昼夜問わず常に徘徊する広大なジャングルを行くような。
恐ろしくて泣きたくなるほどの恐怖と寂しさにさいなまれながらも、止まる事の出来ない板挟み。
 
そんな途方に暮れてしまうような恐ろしい感覚を、私は飼育委員の同僚の彼に抱くだけで済んだ。
けれど同僚君は、およそ全ての人間に抱かなければならなかったのだ。
男さんも含めて親しい人達に対してさえも。
恐らく、彼らと距離を置くようになってしまったのは、それが同僚君なりの最善の方法だったからなのだろう。
お互いがお互いを傷つけないようにする為の、苦肉の最善策だったのだろう・・・・・・
 
私が心の読めない彼へ抱く恐れ。
そしてツンさんやサトリさんにほんのちょっと抱いた距離感と寂しさ。
彼は、それらを周囲の人間全てに、いつも、感じ続けていたのだ。
目の前の彼の心の痛みは、想像以上だった。
恐らくは同僚君と出会い、理解しあえない、心の読めないという状態を知らなければ、想像だってできなかったろう。
だと言うのに、今の私は彼に対して以前ほどの距離を感じていなかった。
それどころか、親近感さえ覚えている。ツンさんやサトリさんに感じたモノとは、真逆と言っていいような近しさを。
 
虎吉の通訳・・・・・・
忘れる事の出来ない通訳・・・・・・
残留した、通訳・・・・・・
 
私の耳の中でその時の言葉が中心となって、ここ最近の出来事や聞いた言葉を伴って渦となっていた。
『同僚君と私は似ている。』
言葉の意味をかみしめながら、建物と窓ガラス枠の間に見える、細い蒼穹に目をやる。
何の感慨も与えないただの青が瞳にしみ込むのを自覚した後、私は彼の方を向いた。
 
「だけど・・・あなたは間違っています・・・」
「・・・・・・・・・」
言われた彼は無表情だった。
心もまた、起伏のない状態で、ただじっとこちらを見てくる。
あまりじっと見つめてくるので、顔をそむけたくなったけど、構わず続けた。
「勝手に理想を抱いて、勝手に皆が自分と同じ事を考えていると思って、そうでなかったから失望して誰も彼も拒絶してしまうなんて・・・・・・
自分が誤解されるのが怖かったのなら、自分の事を伝えれば良かったんです。
必ずしも理解されることは無くても・・・・・・ああやって、男さんと喧嘩別れしてしまうくらいなら。
クラスでいつも独りで、誰も傍にいなくて、最後にはあなたのことを心配してくれる人までいなくなって・・・・・・
 
それは・・・とても寂しい事だと思います。
あなたは、それで良いんですか?それで納得しているの?
人が信じられなくても・・・・・・みんな・・・・・味方には思う事ができなくても・・・・・
おと、男さん、、があなたを傷、、つけたいなんて、、、傷つけたいなんて思ってるはず無いのに、、、、、
そうまでして、、、あなたは、、、独りが良いの?」
 
喋っているうちに段々と気持ちがかき乱されて、目頭が熱くなっていった。言い終わった私の口から、『ひっ』と嗚咽が漏れる。
今まででは考えられないほどに私は強い口調だった。
飼育小屋であれほど恐れていた同僚君に対して、毅然としてモノを言っている。
こんなに、激情をあらわにした態度をとるのは初めてかもしれない。
多分それは、発した言葉が彼にだけ向けられた物ではなかったからなのだろう。
今の言葉は、何より自分自身に向けられていた。
私は、自分へのある種の腹立たしさに押される形で、想いをぶつけていたのだ。
 
ここにきて私は虎吉の通訳が意味するところを理解していた。
 
結局のところ、通訳と同僚は似ていた。
私達は二人とも、自分以外の人間を拒んでいたのだ。
普通とは違う常識を持ち、周囲の理解を得られない。
結果として私達は、自分以外の人間を心の中から排除する道を選んだ。
同僚君は、人を嫌い付き合いを止める、という形で拒絶し
私は人に対する興味を失くす、という形で距離をとった。
お互い、普通ではない常識を持った経緯や、人を拒む際の反応は違うけれど。
それでも、他者を受け入れず、人に見切りをつけたという点では同じだったのだ。
 
どこまでも孤独になる道を選んだ、という点において私達はとてもとても似ていた。
 
あの、寂しさも距離感も。
すべてはそれ故だった。自分から人を拒んでしまった二人が、感じるべくして感じた応報に他ならなかった。
飼育委員会での邂逅も偶然ではない。
私達は人間が好きではないから、代わりに動物が好きになったんだと思う。
そこまではっきりした言い方をしなくとも、おそらくはそう言った、どこか通じるモノがあって同じ場に立つことになったのだろう。
何より、彼も私も動物は好きだった。
同僚君も虎吉を相手にする時だけは、近寄りがたい雰囲気を緩めていた気がする。
虎吉に向き合う彼はいつも、ほんの少し柔らかい表情をしていたのを思い出す。あるいは私も、似たような表情をしていたのかもしれない。
そんな共通点が、私達を引き合わせたのだろう。
虎吉がかぎ取ったのはそんな、厭世的で、世界から少し外れた私達が持つニオイだったのだろう。
 
でもだからこそ、私は耐えられなかった。
自分と同じモノを持つ人間が、本当にたった独りになってしまう事が。
まるで、自分も最後にはそうなってしまうと宣告されているみたいで。
思えば私達が選んだ道は、とても寂しい荒野の道だった。
人間を一緒くたにして、誰も彼もを拒んでしまうなんて。
その選択を間違いと断言できる程、私は完成されてはいないけれど、その道の果てに男さんのような、本気で親身になってくれる人の喪失があった。
良い悪いではなく、それが道理だったのだろう。そうやってその道を辿れば、最後には誰も彼も失ってしまうのだろう。
やっぱりそれは、寂しい事で。
私はそれがたまらなく嫌で。
通訳と同僚が似ていると自覚したがために、自分の未来を現在の彼に見てしまった。
私が人を拒んだのは、まだ物心がついたばかりの頃。自覚的ではなかっただけに、気付いた今は道を引き返そうと思えた。
もしも、道の先を行く同僚君が、心のどこかで引き返したいと思っているのなら、一緒に戻りたい。
自分と似ている人が、何より飼育委員で一年間、仕事をともにした人間が、不幸になっていくのは耐えられないと言う気持ちがあったのだ。
 
彼を、説得しようとした理由はいろいろあるけど、自覚できない程深い心の底で、一番強く後押しをしてくれたのはこの気持だった。
自分と同じ人が、どこまでも冷たく凍える世界へ行ってしまうのが耐えられなかったから。
あんなに怖いと思っていた人を、怒鳴られて、心を傷つけ傷つけられてでも引き下がらずに説得したのは。
普段の自分では考えられないほど、必死になっていたのは。
 
同僚君に、自分を見ていたからなんだ・・・
 
「そんなもん・・・良くないに決まってんだろ・・・・・・」
前方から、息だけを吐き出しているような、微かな声がもれる。
こちらを向く彼の顔は、眉間に皺を寄せたいつもの表情だったけれど、それはとても苦しげで、そして―――
「・・・・・・本当はちゃんと解ってる。
男が、心から俺の事を心配してくれる奴だって事も。
中学時代、誰も助けてくれなかったのは、俺が本気で周りに理解してもらおうとしなかったからだってのも。
頭では解ってるつもりだ。
けど・・・やっぱり・・・あの時『普通じゃない』って言われてから、男でさえも信じられなくなっちまったんだ。
どうしても、普通の顔で、普通の付き合いができなかった・・・
ただ、距離を置いて理由を聞かれても煙にまいて、切れるでも直るでもないあやふやな関係のまま、結論を先延ばしにするのがやっとだったんだ。
男の説得に応じて、人の輪に戻るのか。それとも、男さえもはね退けて、このままずっと独りでいるのか。
何がしたかったのか、どうしたかったのかなんて、当の俺でさえ、わかってなかったと思う。
だから2月14日に男が本気で説得しようとしてくれた時は・・・ちょっとは思ってた。
『もう、いいじゃないか』って。せめて、男くらいは気を許しても良いんじゃないかって。
俺ももう、疲れてきたのもあったかもしれない・・・・・
だけどさ、結果は知っての通りだ。
今までだましだましやってきた。
けど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
我慢、できなかったんだ。
結局俺は、馬鹿で、しかも苦しい道を選んじまった。
―――――――ああ、、、、畜生っ、、、、」
 
そう言って、彼は頭を抱える。
あてがった両手で、強く髪の毛を掴んでいる。
ギリギリと力を込めてしばらくそうやっていたが、数秒の後、彼は顔をあげて
 
「親友にあんな酷いことした俺に―――――――今更どうしろって言うんだよ・・・・・・・・・・・・・」
 
そう、力なく言った。
机が淡く反射する陽光に照らされたその表情は、とても苦しげで、そして――――
 
今にも、泣きだしそうに思えた。
 
嗚呼、と。
私は知らず、漏らしていた。
いつか、用務員の裏方雑用さんと交した会話を思い出す。
同僚君への恐れを語る私に対して、彼女は、『たまに泣いているように見える気がする』と言おうとしていた。
結局、彼女自身も自分の感覚を信じられなかったのか、口にはしなかったけど、心の読める私には無意味だった。
『彼に限ってそんな事はない』
用務員さんの言い淀んだ先を知った私も、その時点では、そう一蹴していた。
『同僚君』と『泣く』という要素が結びつくなんて、到底考えられなかった。
けれど今、目の前で途方に暮れたような表情をしている少年は、本当に弱弱しくて。
眉間に寄った皺も、不機嫌さからではなく、目頭の疼きに耐えかねている為であるように見えた。
初めて飼育委員会で、出会ってから。
心の読めないこの人を知ってから、ずっと抱いていたイメージが、静かに溶けていくのを自覚した。
常人では考えられないほど強く心を閉ざせる、飼育委員の同僚の彼は。
世界中のすべての人間を敵に回しても泰然自若としているはずの彼は。
その裏側に、こんなにも弱い貌を持っていたのだ。
同僚君という人間への恐れと畏れが、紅茶の中のお砂糖みたいに消え、去っていった。
隔絶した存在だと。自分とは全く別の何者かだと思っていた目の前の同僚君が、今は酷く身近なモノに思える。
暖かい波動が目の前から伝わってくるようだった。
 
「それでも・・・」
私は言う。
「それでも。まだ、あなたが男さんと仲直りしたいと少しでも思っているのなら、その想いを伝えるべきだと思います」
自分でも意外なほどに、きっぱりとした口調だった。
けれども対する彼は、首を横に振る。
その反応に、通訳は躊躇うことなく言葉を返す。
恐らくは、説得すると決めた初めから、そうしようと考えていた事を。
この上ない穏やかな表情で
静かに息を吸い、
平生、そして今も
僅かに力を込めて結んでいる口元を開いて
 
「もしも、本当にどうしようもなくなったその時には
 
―――――――――――私が、あなたを通訳しますから」
だから、諦めないで下さい。
そう、結んだ。
彼の表情はうかがい知れない。
何故って彼は、少し驚いていて、どんな貌をすればいいか迷っていたから。
  
   ◇
 
その某有名コーヒーチェーン店には、バレンタインに結ばれた初々しいカップルがあふれていた。
壁の一面を丸ごと使ったガラス窓からは、冬の柔らかい日差しが差し込み、店内に流れるジャズと併せて穏やかな昼下がりを演出している。
私達はその中に混じって、向かい合って座っている。
ゾワゾワという、鼓膜に押し寄せてくるような気配めいた人々のざわめき。
それから、このコーヒーチェーン店に特有の甘いミルクとコーヒーの香ばしさが混じった匂い。
ついでに全身をくまなく覆う暖房の効いた空気。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚はここがどこであるかを明確に告げている。
けれど、ふと。
入ってきた時に比べて、やや人影がまばらである事に気がつく。
まだまだ満席状態だったけど、レジの前にあった列が見当たらない。
お昼の休憩時間が終ろうとしているのだろう。
前の方の邪気眼のカップルが席を立つのを見ながら、そう確信する。
脇からは陽光が斜めに差し込んでいる。
多分見る位置によっては、私達は逆光で、向かい合うシルエットとなっているかもしれない。
ざわめいた世界で、静かに向かい合う、顔の見えない影。
『どこか、違う世界の人間が、偶然そのおぼろげな痕跡をこちらの世界に映している。』
そんな空想が頭の中でイメージとして出来上がった。
イメージを鮮明な頭で取り扱おうと、ラテを口に含もうとして、もう飲み干してしまった事に気付く。
『宴もたけなわ祭りも終り。』
周りから人の気配が減っていくのが、何故だか妙に物悲しく感じて。
同時におおよその要件を終えた私達も、それに従うべきだと言う義務感が芽生えて。
 
やがて、お腹の底から喉元まで満たしてつまりそうな青と、街ゆく人と車と並び立つビルディングの灰白色を背景に。
黒いシルエット達は、店を後にすることに決めた。