第一話


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 懐中少女
 
 
 近未来、東京。
 この町に、インターネットは無い。
「イコナ。約束の時間より、十二分遅刻だ」
 彼女は煩く時間を復唱する『懐中時計』をコートの内ポケットに押し込み、駐輪場のパネルに触れた。液晶が自分の名前と現在時刻、そして施錠が完了したことを知らせる。
 駅のロータリーまでは一本道だ。彼女が近づくたびに、脇にある店の看板が彼女の興味を惹こうと表示を変える。ガラス細工の看板の横では、若いカップルが案内板を操作して、ランチの情報を探していた。
 大きな荷物を抱えたお婆さんが、街路樹から表示されるホログラムディスプレイの地図を見て、道を確かめている。喫茶店ではスーツに身を包んだ男が、玉子サンドを頬張りながら机に映し出されたパネルを叩く。
 車、家、街灯に街路樹、喫茶店の机やマンホールに至るまで、全てのものがネットワークで紡がれ、電脳を埋め込まれている。この町の多くの人間は、インターネットという言葉を知らない。
 震災からめまぐるしい復興と発展を遂げて三十余年。世界最先端の技術を結集させ、コンピュータ・ネットワークと一体化したこの町を、人は電脳都市と呼ぶ。

「ごめん。待った?」
「いや、二十分前に来たところ」
 銅像の下で暇つぶしに読んでいた本を閉じ、青年が答える。
「変わってないな、イコナは」
 イコナと呼ばれた彼女は小さく笑った。漏れた息が白く濁る。
「あんたもね、峻(シュン)」
 イコナは峻の抱えた大きな鞄を見やると、道の端に構えたコインロッカーを指差した。峻は頭を小さく振って拒否するが、イコナは譲らない。
「そんなでっかい荷物抱えて女の子とデートする気?」
「デートって……。俺はさっさと新居に行きたいんだが」
「その前に町案内よ。あんたの居た田舎とは全く違うんだから、迷ってからじゃ遅いのよ」
 彼は渋々錆び付いたコインロッカーの蓋を開け、荷物を押し込んだ。暖かいコーヒーの一つでも、と取っておいた100円玉が無情にも暗い穴に呑まれていった。
 ロータリーは閑散としている。そもそもの駅利用者も少ないし、また平日の昼間にこんな寒くて何も無い場所を歩き回る者はほとんど居ない。端の方では黒ずくめの衣装に身を包んだ怪しげな集団が、のぼりを立てて神の思想を叫んでいた。

 イコナがタクシー乗り場の小さなパネルに触れると、ほどなくして二人乗りの自動運転車が走ってきた。乗り込むと合成音声が行き先を尋ねる。彼女は先ほど押し込んだ懐中時計を再び取り出し、車の案内パネルに置く。
 その懐中時計は、丸い形をして三つの針と開閉する蓋を持つものではない。それはリンゴ二つ分ほどの背丈の女の子であり、目を光らせながら小さな手足を器用に動かす、アンドロイドだった。
「イコナ、行き先は?」
 イコナを見上げて、懐中時計が喋る。イコナが行き先を告げると背中から通信用ケーブルを伸ばしてパネルへと挿し、程なくして車がゆっくりと動き出した。
「……何? これ」
「何って。『懐中時計』だけど」
 きょとんとした顔で峻を見る。直後、ハッとしたような顔をして、
「もしかして、知らないの」
「知らん。近頃の女の子の流行りなのか? 着せ替えドール的な」
「違うよ。懐中時計」
 峻は頭痛がした。峻の知っている懐中時計は、もっと質素で慎ましく、ただ淡々と現在時刻を知らせてくれる、ちょっとお洒落なアンティークアイテムだ。少なくとも人の形はしていない。
「うーん……ああ、携帯電話? 多分、あれに、近い。あんまり覚えてないけど」と補足するようにイコナが言う。
「ケータイ?」
 峻はポケットから携帯電話を取り出し、イコナに見せた。
「そう。インターネットとか、データベース検索とか、メールに電話に財布に書籍の閲覧にゲームにプレゼンに創作に、なんでもしてくれる携帯端末」
「いや、携帯電話はそこまで出来んが」
 しかしいくらか全貌が掴めた峻はほっと胸をなでおろした。どうやら携帯電話は自分と同じ年頃の女の子にはウケが悪く、世界の誇る電脳都市トーキョーではこんな奇抜なデザインをしているらし──。
「!?」
 峻は息を呑んだ。道端を歩くサラリーマンが、女の子の人形に話しかけている。気でも違ってしまったのだろうか。そうではない。肩に載せて歩道を歩く人。懐に入れて伸びたコードを耳に挿している人。レストランのテーブルに置いて目から発せられるホログラムのディスプレイを見ながら、机に映るキーボードを叩いている人。皆が持ち歩いていた。この、『懐中時計』を。
「あ。その携帯電話、捨ててね。もう要らないから」
 彼は目の前が真っ暗になるのを感じた。

「何がいい? ここはホットココアが美味しいけど」
「ん……じゃあそれで……」
 タクシーの行き先は、フランスのシャンゼリゼ通りの外れにありそうな小洒落た喫茶店だった。
 イコナは素早くテーブルの電光パネルを叩き、ココアを二つ注文した。しばらくお待ち下さい……の文字と共にくるくると丸いマークが回転する。やがて奥から二つの綺麗なカップをお盆に載せて、ゴミ箱のような形をしたロボットがやってきた。
「ご苦労さん」
 イコナが受け取ったココアの代わりに懐中時計を載せる。ピッ、と電子音を発してロボットの前面に付いたパネルが「代金:320円 残金:4960円」と教えてくれる。
「じゃあ、引っ越し祝いね」
「安く済ませたな」
 峻はイコナからココアを受け取ると、二回息を吹きかけてから口元に運んだ。甘いチョコレートの香りが体を中から温めた。
「ここから少し歩くけど」
「どこに行くんだ?」
「勿論、時計屋よ」
 テーブルの上に、イコナが懐中時計を置く。
「げっ。俺も持つのか、これ」
「当たり前でしょう。これがなかったら電車にも乗れないのよ」
 懐中時計はキョロキョロと辺りを見渡すと、峻の顔をじっと見て、手元まで歩いてきた。
「ナナよ」
 喋ったのは時計だ。百歩譲って時計に携帯と同等かそれ以上の機能を持たせるのはアリとして、自律行動と人工知能は意味が分からない。しかも名前まである。峻はまた頭が痛くなった。
 差し出された手は、握手のつもりなのか。峻が軽く指先で握ってあげるとナナはそのまま無表情で、イコナの方へと歩いていった。

 懐中時計屋らしい建物は、外から見ればまるで携帯電話ショップで、店の中はどう見ても人形工房だった。四段、五段もある陳列棚にずらりと人型懐中時計が並び、二人を見下ろしている。
「ほら、早く選んでよ」
 イコナが急かす。峻も出来る限り早くここを離れたかったが、あまりの不気味さにそのうちの一つを手に取ることさえはばかられた。
「あ、店長。お疲れさま」
「おや、イコナちゃん。部品でも壊れたかい? それとも冬用の凍結防止シートを買いに?」
 店の奥から出てきたのは三十代後半に見える男性だった。オイルで所々黒ずんだエプロンが店長としての貫禄を見せる。
「いえ。今日は友達の」
 そう言って彼女は見渡す限りの懐中時計達に囲まれ戸惑う峻を指差す。店長は嬉しそうに頷いて、カウンターの扉を開けた。
「東京には初めて?」
「え、ええ……」
「ゆっくり選ぶといい。ずっと使っていくものだからね」
「はあ」
 満足そうにもう一度頷くと、店長はポケットから雑巾を取り出しショーケースを磨き始めた。
「イコナ……もう少しこう、普通なのはないのか? あ、これこれ。これはどうだ」
 峻が指差したのは、いかにも「女性アンドロイド」というゴテゴテの姿形をした懐中時計だった。そういえばレストランで仕事をしていたビジネスマンはこのタイプのものを持っていた気がする。
「はあ? おっさんくさい」
 ばっさり切り捨てる。
「あんたの田舎じゃどうだか知らないけど。こっちじゃこれが普通なのよ」とイコナは『普通』の懐中時計の頭を掴んで彼に突きつける。何とも可愛らしい西洋人形だ。五歳くらいの女の子は目を輝かせて喜ぶだろう。しかし彼は男だし、もうすぐ十八にもなる。
「あんたの田舎、ってお前の田舎でもあるんだが」
 彼は観念したように小さなため息を付いて、目の前の懐中時計を手に取った。
 
 と、その時。彼の携帯電話がブルブルと音を立てて震えだした。
「ん、着信か」
 彼が携帯を取り出して通話ボタンを押した瞬間、店中の携帯時計の目が光りだした。薄暗い店内が太陽を得たように色とりどりの光によって照らされ、影を失う。
「うわっ、なんだ!?」
「え、何?」
 イコナがさっとナナを取り出し、手近な売り物に通信要ケーブルのプラグを接続した。直後に映し出されたスクリーンを見て、彼女は血相を変えて叫んだ。
「店長、元線切って!」
 店長もその異常事態を察知し、既に外部と繋がる回線を遮断していた。
「何が起こったって?」
「多分、SID。携帯の」
 彼女が答える。その指は懐中時計のライトによって空中に照らし出されたキーボードを恐ろしい速さで叩いていた。
「イ、イコナ。俺なんかしたか?」と恐る恐る峻が尋ねる。
「あんた以外誰が何かするのよ」
 イラだった様子で言い放つと、彼女は売り物の懐中時計からプラグを抜き、店の壁に直接差し込んだ。
「あんたの携帯、第三世代でしょ。第三世代のシステムIDはたまーに暴走するのよ。勝手にね」。イコナは峻の携帯電話をぶん捕り、電源ボタンを連打した。「今じゃ、宝くじよりレアだけどね。ツイてるよ。まったく」
「イコナちゃん、きっと外には逃げていない。大丈夫だ」
「分かった。店長、モニタをお願い。ナナ、行くよ」
「ええ」
 ナナと呼ばれた彼女の懐中時計が返事をする。店長の運んできたモニタのプラグをナナに繋ぐと、モニタにゲーム画面のような不思議な空間が映し出された。同時にスピーカーから、低い風の音のようなものが流れ出す。
「何だ? これは」と峻が聞く。
「ネットワークよ」
「ネットワーク? インターネットのことか?」
「インターネット……うん、多分それ」。イコナはキーボードをたたきながら言う。「ここじゃ、それがGUI……つまり、こうやって仮想空間として描かれるの」
 画面には無数の円盤が浮かび、細い橋で繋がっていた。画面中央に3Dアバターとして描かれたナナは、そのうちの一つの円盤に乗っている。
「お願いね、ナナ」
 ナナはイコナの方を向いてうなづくと、広大な空間に向かって飛び立った。

 ナナが宙に浮かぶ円盤を避けながら上昇する。
「東京では、扉・テーブル・ポット・レンジ・エアコン・カーテン、全てに電脳が埋め込まれネットワークに接続されているの。それを一括で管理するために、こういう形で描かれてる。この円盤一つ一つが、端末なの」
 天井には真っ黒く大きな蓋があった。ナナはあっという間にそこまで辿り着くと、二度三度それを叩いた。
「これが出口。外と繋がる、回線ね。今は塞いでるけど」
「逃げ出した形跡はないね。一つずつ締め出そう」
 店長がそう言って手元にあった懐中時計の電源を切った。空間に広がる円盤のうち、一つが弾けて消えた。ナナは蓋に張り付いて、それを監視する。
「いない。次」とイコナが指示する。
 店長は店を歩きながら、次々と懐中時計の電源を落としていった。その度に円盤が消えていく。
 七つ目の電源を落とした時、消えた円盤から黒い影が飛び出した。
「いた!」
 ナナが猛スピードで真っ黒いオタマジャクシのような形をしたSIDを追う。SIDは逃げるようにして、近くにある円盤に隠れた。
「店長、Dの7!」
 店長が自分の懐中時計を取り出し、操作する。すると画面に別のアバターが現れ、SIDが隠れた円盤を弾き飛ばした。SIDが慌てて別の円盤に逃げると、ナナがその円盤を破壊する。
「また隠れた。店長、次」
 隠れた傍からその円盤を壊してSIDを弾き出す。壊すたびに店の中のどこかの懐中時計がデタラメな七色の光を出すか、プシュウンと音を立てて止まる。
「峻、見てないで手伝ってよ」
「手伝えって何を」
「適当な時計使って、接続すんの」
 峻は立ち上がり、『適当な時計』を探そうとした。が、どれもこれも目が光っていて眩しい。
「何も見えん」
 返事は無い。イコナは激しくキーボードを叩いているし、店長は付近の時計をつけたり消したり、手元の時計を弄ったりと非常に忙しそうだ。
「あたいを使いなよ」
 ふと頭上から声がする。顔を上げると、生意気そうな顔をした一つの懐中時計が峻を見下ろしていた。彼女は背中のプラグを自力で引き抜くと陳列棚の縁に足をかけ、「えいっ」と小さな掛け声と共に飛び降りた。
「うわっ」
 慌てて手を前に差し出すと、その中に彼女はすっぽりと納まった。
「後ろからコードが延びてるでしょ、それをあれに差すの」
 小さな手で店の壁を指差す。コンセントに良く似た、不思議な形のプラグがあった。言われるがままにコードを差すと、目からホログラムディスプレイが表示された。イコナの見ている、あのモニタと同じ画面だ。
「よーし、行くよ!!」
 画面中央には、峻の抱える懐中時計のアバターが居た。瞬く間に円盤から飛び立つと、猛スピードで空間を飛び回り始める。天井の方ではナナと店長のアバターがあちらこちらの円盤を叩き壊していた。
 壊された円盤からSIDが飛び出す。疲弊しているのか、さっきより小さくなっている。視点がぐるんと周り、アバターがSIDを追い始めた。
「うっ、酔ってきた」
「ちょっと峻、邪魔よ!」
 ナナと接触しそうになりながら、空間を縦横無尽に飛び回る。峻は気持ち悪くなってディスプレイを直視できずにいた。手元の生意気そうな懐中時計も、威勢こそ良いが人間の指示が無ければ上手く動けなさそうだった。
「峻! そっち行った!」
「えっ?」
 峻がディスプレイに目をやった瞬間、アバターに凄い勢いでSIDがぶつかった。目標を見失ってうろうろしていた彼女が、偶然にもSIDの進路を遮ったのだ。
 一瞬怯んで動きを止めたSIDを、巨大な網が捕らえた。そのままナナが突撃し、空間の壁に叩きつける。大きな音がし、演出のエフェクトだろうか、粉塵が舞い上がる。
「やった!」
 白い煙が晴れると、ナナの手の中でSIDがじたばたと暴れていた。
 
「どうも、ご迷惑をおかけしました……」
「いや、いや。いいよ。実害があったわけじゃないしね」
 頭を下げる峻に、店長が笑って答える。
「で、それにすんの?」
 イコナが峻の抱える懐中時計を指差して言う。
「うん」
 と答えたのはその時計だ。
「ありがとう。んー、現金かな? 携帯はもう使えないし」
「ちょっと待って下さい。これ、いくらするんですか?」
「ん」
 店長が出口近くにある看板を指差した。「特価! 200,000円均一」と書かれている。
「高っ!?」
「どうせ持ってないんでしょ。立て替えとくよ」
 ちょっと待て、立て替えられても銀行にもそんな金はない。と彼が言う前に既にイコナが支払いを終えていた。時計をかざすだけで良い。便利な時代だ。
「いや、払えんぞ」
「そう言われても、必需品だから。トイチでいいよ」
「毎度ありー」

 外は日が落ちて寒さを増していた。下ろしたての羽毛布団のように分厚い雲が、今にも雪を降らそうとしている。
「はあ、どうするか。まさか母さんに人形買ったから二十万くれとは言えんし……」
「人形じゃなくて懐中時計」
 自分が買ったわけでもないのに、どこかイコナは嬉しそうだ。
「そういえば名前どうするの?」
「名前?」
「その子の。難しく言えば識別ID」
 懐から買ったばかりの時計を取り出す。今は目を閉じてスリープモードになっている。
「付けなきゃダメなのか」
「ペットにも名前を付けるでしょ」
 峻は悩んだ。生まれてこの方名前を付けるどころかペットを飼ったことすらない。
「人形だからアリスとか?」
「だから、時計だって」
「クロック?」
「センスないわね」
 冷たいものが頬に触れる。綿菓子のかけらが、空から溢れ出したようだ。あちらこちらで窓が閉まる。多くはセンサー式の自動開閉窓である。
「そうだ。ユキ、とか」
「雪が降ってるから?」
「うん」
「はあ……。まあ、いいんじゃない?」
 タクシーに乗り込むと、イコナはユキをパネルの上に置いた。
「ザンガクガ、タリマセン」と自動音声が流れる。
「峻、財布出して」
 言われるままに財布を出すとイコナは躊躇無く一万円札を機械の中に放り込んだ。パネルの残額が一万円増える。
「おい、それは一週間分の食費──」
「行き、出したから帰りはあんたよ」とイコナは財布を返して言った。


 扉が静かに閉まり、自動音声がオカエリナサイとイコナを迎える。
「はいはい、ただいま」
 彼女は靴を脱いで揃え、母親の靴がなくなってることに気付いた。そういえば今日から三日ほど、友人と旅行に行ってくると言っていた。代わりに玄関にはイコナが二人程度入りそうな、とても大きな鞄が置いてあった。長く出張に行っていた、父親のものだ。
「お父さん、帰ってるの?」
 シンとした家の中にイコナの声が響く。しかし返ってくるのは遠くで冷蔵庫の奏でる重低音だけだ。
 イコナはコートを脱いで手を洗うと、父親の書斎に行った。廊下の冷たさがスリッパを通して伝わってくる。最近改築したばかりのフローリングの床を、イコナはあまり好きになれなかった。
「お父さん?」
 書斎は真っ暗だった。電気をつけると、確かに父親の帰った跡がある。もしかしたら一旦帰ってきた後また出かけたのかもしれない。
 書斎は四方の壁のうち扉のない三つを本棚で覆った小さな部屋で、真ん中に作業用の大きな机が佇んでいる。机には当然電脳が埋め込まれており、持ち主が起動すれば広い机の上がホログラムディスプレイで埋まる。
 イコナは机の上に、見慣れないものがあることに気付いた。無造作に放り出された袋と、そこからはみ出たケーブルのプラグ。懐中時計に差せる形のものだ。
「イコナ、勝手に触るとお父さんに怒られる」とナナが諭す。
「見るだけだよ」
 取り出してみると、その先に付いていたのはメモリースティックだった。彼女はナナのアイライトでそれを照らし、何も書いてないことを見るとプラグをナナに差した。
「アップデートパッチがある。当ててみよう」
「イコナ。変なの入れないで。イヤよ」
「きっと未公開の最新版パッチよ。思わぬ新機能が付くかも!」
「でも……」
「人工知能体七原則第二、時計は人間に逆らえない」
「ぶー」
 パッチ適用完了の軽快なジングルが流れる。同時に、玄関から扉の開く音が聞こえてきた。
「やばっ」
 慌ててメモリースティックを引き抜き、元の袋に隠す。パッチ記録に細工する暇は無い。ナナを胸の専用ホルスターに入れて、スリープモードにした。
 書斎の電気が付く。
「イコナ、帰ってたのか」
 彼女はびくっとして振り向いた。久々に見る父親の顔だ。髪の毛はボサボサで、無精ひげが目立つ。服装もまるで朝帰りのサラリーマンだ。とても日本で数本の指に入るエリート科学者とは思えない。
「え、ええ。お父さんこそ」
「ああ。例の事件で召集されてね。ちょうど日本が近かったし、連絡する間もなく帰ってきた」
 ポシェットから仕事用の懐中時計を出して、机の上に置く。机が認証を開始して、ディスプレイを表示した。イコナは今のうちに逃げようと、足音を立てず扉のほうへと移動した。
「あれ、イコナ」
「はい!?」
 声が上ずる。
「ここに置いてあったパッチ、弄ったか? もしかして使った?」
「う、ううん……知らない」
「まあ、調べた方が早いか。ナナを貸してくれ」
 渋々、ナナを差し出すイコナの顔は真っ白だ。出来ることなら、逃げてしまいたかった。
「疑うようなことをして済まないが、非常に重要な物だからね。外に出てしまえば大変なことになる。知能体第二原則は?」
「……知能体は権限を持つ人間に与えられた命令を必ず実行しなければならない」
「うむ、よく勉強している。開発者の娘たるもの、そこはきちんと知っておかないとな」
 そう、イコナの父親、水斗目道悟(ミズトメドウゴ)は懐中時計の開発者の一人である。それも、中心人物だ。現在は世界中を飛び回り、ポータルデバイスとしての懐中時計の普及活動と、インフラの整備を行っている。
 慣れた手つきでナナを操作し、ログ機能を呼び出す。
「ナナ。今日のパッチ履歴を」
 終わった、とイコナは思った。数秒もたたぬうちに、どこか上機嫌な父親の顔は修羅に変わるだろう。拳骨で済むだろうか。晩御飯が抜きかもしれない。いや、もしかしたらナナを取り上げるかも──。
「参照完了。ドウゴ、本日のパッチ履歴は、ありません」
「えっ?」
 その日、懐中時計は嘘をついた。
 
 
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 近未来、東京。
 この町に、インターネットは無い。車や家、喫茶店の机や呼び込み看板に至るまで全てが巨大なネットワークによって紡がれ、電脳が埋め込まれた。この町の人間は、インターネットという言葉を知らない。
 震災からめまぐるしい復興と発展を遂げて三十余年。世界最先端の技術が結集したこの町を、人は電脳都市と呼ぶ。
「イコナ。約束の時間より、十二分遅刻だ」
 彼女は煩く時間を復唱する『懐中時計』をコートの内ポケットに押し込み、自転車に鍵が掛かっていることを確認すると駅のロータリーへと急いだ。



 懐中少女
 
 
 近未来、東京。
 この町に、インターネットは無い。
「イコナ。約束の時間より、十二分遅刻だ」
 彼女は煩く時間を復唱する『懐中時計』をコートの内ポケットに押し込み、駐輪場のパネルに触れた。液晶が自分の名前と現在時刻、そして施錠が完了したことを知らせる。
 駅のロータリーまでは一本道だ。彼女が近づくたびに、脇にある店の看板が彼女の興味を惹こうと表示を変える。ガラス細工の看板の横では、若いカップルが案内板を操作して、ランチの情報を探していた。
 大きな荷物を抱えたお婆さんが、街路樹から表示されるホログラムディスプレイの地図を見て、道を確かめている。喫茶店ではスーツに身を包んだ男が、玉子サンドを頬張りながら机に映し出されたパネルを叩く。
 車、家、街灯に街路樹、喫茶店の机やマンホールに至るまで、全てのものがネットワークで紡がれ、電脳を埋め込まれている。この町の多くの人間は、インターネットという言葉を知らない。
 震災からめまぐるしい復興と発展を遂げて三十余年。世界最先端の技術を結集させ、コンピュータ・ネットワークと一体化したこの町を、人は電脳都市と呼ぶ。

「ごめん。待った?」
「いや、二十分前に来たところ」
 銅像の下で暇つぶしに読んでいた本を閉じ、青年が答える。イコナより背が高く、眼鏡をかけている。
「変わってないな、イコナは」
 イコナと呼ばれた彼女は小さく笑った。漏れた息が白く濁る。
「あんたもね、峻(シュン)」
 イコナは峻の抱えた大きな鞄を見やると、道の端に構えたコインロッカーを指差した。峻は頭を小さく振って拒否するが、イコナは譲らない。
「そんなでっかい荷物抱えて女の子とデートする気?」
「デートって……。俺はさっさと新居に行きたいんだが」
「その前に町案内よ。あんたの居た田舎とは全く違うんだから、迷ってからじゃ遅いのよ」
 彼は渋々錆び付いたコインロッカーの蓋を開け、荷物を押し込んだ。暖かいコーヒーの一つでも、と取っておいた100円玉が無情にも暗い穴に呑まれていった。
 ロータリーは閑散としている。そもそもの駅利用者も少ないし、また平日の昼間にこんな寒くて何も無い場所を歩き回る者はほとんど居ない。端の方では黒ずくめの衣装に身を包んだ怪しげな集団が、のぼりを立てて神の思想を叫んでいた。

「……で、こういう造りになってるわけ。聞いてる?」
「ん? ああ、聞いてるよ」
 イコナに従って、町を北のほうへと歩く。峻にとって初めての町だが、見た目は想像よりもずっと未来的ではなかった。目立つものといえば、緑色の壁をした高層ビルと、道路を走る無人のタクシー位だ。前者はCO2を吸収し、後者は最近始まった新しいタクシーサービスらしい。後は半分くらいのゴミ箱が自律駆動していたり、信号の形が少し違っていたりする程度だ。
 彼女によれば、人の描く未来像はただの虚像だという。真の意味で電脳と都市が一体化してしまえば、その見た目は大して変わらないし、人が電脳を意識する必要もない。
「峻、市民IDは持ってるよね?」
「市民ID?」
 彼女は手近な街路樹のボタンを押した。幹に擬態した蓋が外れ、中の装置が作動すると宙にホログラムのディスプレイが表示される。
「これが私のプロフィール。東京ではIDを提示するだけで、あらゆる証明になるの。財布代わりにもなるから、現金を持ち歩く必要もない。峻のもあるはずだけど……Mから始まる十二桁の番号、知らない?」
「いや、知らないけど……」
「ふーん。あ、私ちょっと行ってくる」
 そう言ってイコナは道の脇にある、西洋風の真っ白な公衆トイレに入っていった。
「雪が降りそうだな……」
 空は真っ白だ。午前中より気温が下がっている。
 ふと、峻の目に不可思議なものが止まった。数十メートル先の交差点に、小さな人影が見える。いや、小さいどころではない。隣にあるゴミ箱から推測して、精々リンゴ二つ分の背丈しかない。人形ではない。その証拠に、それは瞬く間に角を曲がって走り去っていったのである。
 峻は無意識のうちに後を追っていた。同じ角を曲がると、遠くの方に懸命に走る姿が見える。よく見ると女の子のようだ。西洋人形のような可愛らしい姿をしている。
 また角を曲がった。峻は見失わないように小走りで、その後を追った。

「……ここはどこだ?」
 追いかけ続けて五分。謎の人影を見失い、同時に自分の居場所も見失った。ただでさえ土地勘のない峻が、初めて来た土地で友人とはぐれてしまった。致命的である。
 とりあえずイコナの見よう見まねで、街路樹のディスプレイを開いた。全てがネットワークで繋がっているのならば、地図の一つくらい表示してくれるはずだ。しかし、そのわずかな希望はディスプレイに表示されるID認証画面に打ち砕かれた。
 歩いてみるしかない。確か、太陽を背にして歩いていたはずだ。ならば太陽に向かって歩けば駅まで戻れるはずだろう。
 いつの間に閑静な住宅地から、発展途上の商業地区のような所に突入していた。周りは背の高いオフィスビルか、工事中の建物ばかりだ。大きな建物に囲まれると、なんだか自分が小さくなった気がする。峻は少しばかりの不安と焦燥を覚えた。
「まったく。不便な町だな」
 迂回路表示の看板にわずかなだけ映っている地図を眺め、ため息をこぼす。
「きみ、迷子?」
 はっとして顔を上げる。声の主は、塀の上に座るあの小さな女の子だった。近くで見ると、本当に人形のようだ。金色のショートヘアに、青い眼。少し生意気そうな顔をしている。足首が少し見える綺麗なドレスを着ている。彼女は戸惑う峻を見つめ、面白いものを見つけた子供のようにニッと笑うと、塀の縁に足をかけて峻の方に飛び降りた。
「よっと」
「うわっ」
 慌てて両手を前に出すと、その間に彼女がすっぽり納まる。意外と軽い。そして、わずかに暖かい。
「迷子でしょ! お母さん、探してあげようか?」
 峻は彼女を地面に降ろすと、自分も道端に座り込んだ。見ると、背中から一本のコードが延びている。
「ロボット?」
「違うよ。懐中時計だよ」
 彼女は両手を合わせて、「アンテナ起動」と小さく叫んだ。目の色が七色に変化し、髪の毛の中から小さなわっか型のアンテナが出てきた。
「このプラグを、その壁にさして」
 言われたとおりにプラグを塀に空いた小さな穴に挿すと、塀の一部が開いてモニタが出てきた。まるで忍者屋敷だ。
 モニタにはゲーム画面のような3D空間が表示されている。
「これは?」
「ネットワーク。きみ、東京は初めて?」
「ああ、来たばかりさ」
「この町では、車も、家も、机も、街路樹も、壁も、ポットも、レンジも、ぜーんぶ、ネットワークで繋がってる。それを管理するために、こういうのがあるんだ」
 空間には白い円盤のようなものが幾つも浮かび、木が立っていたり、車が走っていたり、小さな町のようなものを描いていた。そして、無数のアバター(仮想空間上での人の姿)があちらこちらを行き来している。画面中央に描かれたアバターは、目の前の人形──懐中時計と彼女は名乗った──にそっくりだ。
「さあ、探すよ。お母さんの市民IDは?」
「お母さんじゃないけど……それが、分からないんだ」
「えー。あなたの市民IDは?」
「それもわからないんだ」
 峻は思わず苦笑いする。彼女は眼を大きく見開いて驚きを表現した。良く出来ている。
「うそ。うーん、名前は?」
「東川峻。君は?」
「ないよ、名前なんて。あ、ユキ」と彼女は空を見上げて言う。
「雪が降りそうだから?」
「うん、今決めた」
 ユキが目を閉じると共に、ディスプレイのアバターが動き出す。電脳空間上を動き始めたのだ。
 不思議な景色が後方へと流れていく。まるで宇宙を飛んでいるようだ。遠くの円盤がゆっくりと大きくなり、書いてある情報も読めるほど近づいた後、画面の外へと消えていく。注視すると、その円盤が何を表しているか書いてある。それはポストだったり、街角の掲示板だったり。その円盤に腰掛けて、談笑しているアバターもいる。
  ユキは、この世界は現実世界とリンクしているという。といっても地図は一致しない。目の前に広がる全てのオブジェクトが、現実世界にも存在するのだ。無数のアバターはたったの一つもコンピュータによって制御されてはおらず、全て人が操っているのだという。
  程なくしてユキは緩やかに減速すると、木陰のベンチで本を読んでいるOL風なアバターの前でふわりと止まった。
「もし、そこの人」
「なあに」とそのアバターから返事が来る。
「人探しをしているんだけど、えーと」
「イコナ」
「そう、イコナって子、知らない?」
 OL風アバターは頭に手を当てて考える仕草をすると、
「知らないわ。女の子なの?」
「女の子なの?」とユキが復唱する。
「うん、そうだ。ぼくと同じ十七歳」
「女の子だって。十七歳」
「ふーん。じゃあ、見たら教えるわね」
 ユキは礼を言って、その場を飛び去った。OL風アバターはまた本を読み始める。
「もしかして、このまましらみつぶしに探していくのか?」
 峻は半ば呆れていった。
「それしかないじゃん」とユキがむすっとした声で返す。

 十分ほど同じ方法で訪ね歩き、とうとう有力な情報が得られないまま電脳世界の端に来た。世界の端は白い壁で覆われ、わずかに反っている。つまりこの世界は、球形になっているということだ。
「ここまでしかないのか? 意外と小さいんだな」と峻。
「エリアBはね。トーキョーにはABCD四つのエリアがあって、それぞれ独立してるんだよ。ゲートを通ると別のエリアに行けるけどね」
「四つ?」
「うん?」
 峻は眼鏡を抑え、画面にめいっぱい顔を近づけたあと、言った。
「でもこの誘導表記、『エリアE』って書いてあるぞ」
「……」
 ユキは突然黙り込んだ。間違えた、というよりは意図して触れなかったように見える。何かのタブーかもしれない。
「まあ、そんなことより。どうするんだ、全然見つからんぞ」
 話題を転換すると、ユキの曇った表情が少し晴れた。
「うん。やっぱ、名前だけじゃだめだね。写真とかないの」
「あいにく持ってない。……そうだ、交番みたいなものは無いのか?」
 これほどの世界が構築されているなら、派出所も電脳にあるかもしれない、と峻は考えた。
「あ、あるよ。行ってみよー」
 くるりと方向転換し、壁を踏み台にして中央へと飛び立つ。
「あれ、でも」
「ん?」
「なーんか、行っちゃいけない理由があったような……忘れた!」
「なんだそりゃ」

 交番は分かりやすいマークの付いた四角い建物だった。警察官の格好をしたアバターが3人待機している。
「あのう、すみません」
「はいはい、どうしたの」
 警察官がにこやかに答える。
「人を探してるの」
「はいはい。市民IDは?」
「それが、分からないの。イコナって名前なんだけど」
 警察官は腕を組んで、うーんと唸った。
「IDがないと探せないんだよ。ほら、ストーカーとかもあるからね」
「そっかあ……」、ユキが残念そうにうつむく。
「向こうも君を探してるなら、来たときに連絡するよ。君の市民IDは?」
 峻は一瞬怯む。
「えっと……無いです」
「無い? そんなことはないよ。市民IDが無いと電脳世界に接続することが出来ないんだから」
 峻は血の気が引いていくのを感じた。アンテナのようなものを持った、別の警官アバターが近づいてくる。
「君。アバター情報に市民IDがないね。もしかして盗品かい?」
「……やばい。峻、接続切って!」
「は?」
「背中のスイッチを押すの。早く!」
「ちょっと! 君!」
 言われるがままにユキの背中のスイッチを押す。壁のディスプレイがブラックアウトした。ユキが目を開き、アンテナと背中のケーブルを収納した。
「ごめん、逃げないと」
 直後に遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。見事な防犯システムだ。
「おいおい、冗談じゃないぞ」
 ユキを脇に抱えて、全速力で駆け出す。よもや元陸上部の脚力がこんな所で生かされるとは。彼はやっと、今日が厄日であることを悟った。
 
 五分ほど路地という路地を回りサイレンと逆方向に逃げたが、一向に撒ける気配は無い。
「多分、無理よ。私が無線で飛ばしてる筐体IDでどこまでも追いかけてくる」とユキが冷静に言う。
「止めることはできないのか、無線」
「出来るけど、三分だけ。防犯上の理由でね」
 非常に分かりやすい説明だった。
「仕方が無い、私の隠れ家に戻ろう」
「隠れ家?」
「うん。ここから三分の所。まずそこを右」
 右に九十度カーブ。危うく電柱に頭をぶつけそうになる。
「百メートルまっすぐ。今から無線機能を止めるから、頑張ってね」
 峻は足の疲れと息切れを感じた。やはり、引退すると途端に体力が落ちる。この町で暮らし始めると、ますます落ちそうだ。家に帰ったらまず自主トレのメニューを考えなければいけないだろう。
「そこを左、すぐ次を右。道なりまっすぐで、右手の黄色いお店に入る」

 扉を閉め、一呼吸置いたあと力なく床に座り込む。心臓が激しく脈打っている。もうサイレンの音は聞こえないようだ。
「ごくろーさま。危なかったね、市民ID取られてたら早くも犯罪者だったよ」
「はあ……やれやれ」
 ユキが奥へと駆けていく。峻は深くため息をはいて、店の中へと向きなおった。
 体中の毛が逆立つ。彼の眼前に広がっていたのは、無数の人形達だった。四、五段はある陳列棚に綺麗に並べられ、店を見下ろしている。値札が付いているのを見ると、売り物だろうか。
 よく見ると、背中から皆ユキと同じようにケーブルが延びている。すると、これらは全てユキと同じくロボットなのだろうか。
「いらっしゃい。随分慌ててるようだけど」
 奥から穏やかな声をした男性が近づいてきた。三十代後半に見える。エプロンには黒い油汚れが染み込んでいる。この店の主人だ。
「あ……すみません、突然お邪魔してしまって」
「いやいや、こう見えてもお店だからね。ゆっくりしていくといい」
 そう言って男は手を差し出した。それを握って峻は立ち上がる。長い間機械を弄ってきたであろう、職人の手だった。
 と、その時、
「店長、お客?」
 聞き覚えのある女の声が店の奥から響いてきた。
「イコナ!?」
「あれ、峻?」
 ばたばたと木造の床を鳴らしてイコナが駆けてくる。
「もう、どこ行ってたのよ。こちとら親御さんにまで電話して大変だったんだから」
「すまんすまん。ちょっと、珍しいものを見てね。珍しくもなんともないみたいだけど」と峻は店の中を見渡して言った。
「で、どうやってここまで来たの?」
「あたいが連れてきたんだよ」
 いつの間に上ったのか、棚の上からユキが手を振って答える。どことなく得意げだ。勿論、彼女はイコナが此処にいることなど全く知らなかっただろう。
「また勝手に外出していたのか。ちょっと目を離すとすぐこれだ」、店長が呆れた様子で言う。
「そうだ、あたいの固有ID、警察に取られちゃったから変えてね」
「ええっ。一体何をしてきたんだ」
 峻が頭をかきながら「すみません」と小さく謝る。

「で、一体こいつらはなんなんだ」
 イコナとテーブルを挟んで腰掛け、店長に貰ったホットココアを啜りながら峻が尋ねる。
「ん? 懐中時計」
「懐中時計?」
 峻は耳を疑った。
「そう、懐中時計。知らなかったの?」
「俺の知っている懐中時計は、もっと質素で慎ましくて、三つの針が淡々と時刻を知らせてくれる物なんだが」
 そして、少なくとも人の形はしていない。
 イコナがコートの中から、人形──いや、懐中時計を取り出した。淡い茶髪に金色の眼をした、ユキと同じ大きさの女の子だ。テーブルに置くと、小さな手足を上手く使って立ち上がり、峻の方へとゆっくり歩いてきた。
「ナナよ」
 ユキより幾分か落ち着いた、割と機械っぽい声である。差し出された手は握手のつもりなのだろうか。峻が指先で軽く握ってあげると、無言でイコナの元へと戻っていった。
「あんたの知ってるもので言うと……携帯電話?」
「ケータイ?」
 峻がポケットに入った携帯を取り出し、開く。
「そう。電脳接続とか、データベース検索とか、メールに電話に財布に書籍の閲覧にゲームにプレゼンに創作に、なんでもしてくれる携帯端末」
「いや、携帯電話はそこまで出来んが」
 テーブルによじ登ったユキが物珍しそうに携帯電話を眺めている。すっかり峻になついてしまっているようだ。
「その子でいいの?」とイコナ。
「何が?」
「懐中時計。この町じゃ一つは持ってないと、やっていけないよ。時計には市民IDを登録できるの」
 市民ID、暫く聞きたくない言葉だ。
 峻はユキを見た。五歳くらいの女の子なら眼を輝かせて喜ぶ、可愛らしい西洋人形だ。しかし峻は男だし、十七歳である。
「……俺はいらないよ」
「電車もタクシーも自動販売機も映画館も使わないならその選択肢もあるけど?」
「いや、さすがにそれは困る」
 イコナが口元を緩める。
「店長、この子でいいって」
「お、本当か! いやー、嬉しいね」
 嬉しいね、と口に出してしまうあたり、単純に品物が売れるというだけではなさそうだ。多分、相当店長の手を煩わせてきたのだろう。
 とはいえ、結果的に迷子から救ってくれたし……。
「まあ、いいか」
 ユキが丸い二つの目で峻をみつめ、にっこりと笑った。


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 懐中少女
 
 
 近未来、東京。
 この町に、インターネットは無い。
「イコナ。約束の時間より、十二分遅刻だ」
 彼女は煩く時間を復唱する『懐中時計』をコートの内ポケットに押し込み、駐輪場のパネルに触れた。液晶が自分の名前と現在時刻、そして施錠が完了したことを知らせる。
 駅のロータリーまでは一本道だ。彼女が近づくたびに、脇にある店の看板が彼女の興味を惹こうと表示を変える。ガラス細工の看板の横では、若いカップルが案内板を操作しながら、ランチの情報を探していた。
 大きな荷物を抱えたお婆さんが、街路樹から表示される半透明のホログラム地図を見て、道を確かめている。喫茶店ではスーツに身を包んだ男が、玉子サンドを頬張りながら机に映し出されたパネルを叩く。
 車、家、街灯に街路樹、喫茶店の机やマンホールに至るまで、全てのモノがネットワークで紡がれ、電脳を埋め込まれている。この町の多くの人間は、インターネットという言葉を知らない。
 震災からめまぐるしい復興と発展を遂げて三十余年。世界最先端の技術を結集させ、コンピュータ・ネットワークと一体化したこの町を、人は電脳都市と呼ぶ。

「ごめん。待った?」
「いや、二十分前に来たばかりさ」
 銅像の下で待っていた青年が答える。読んでいた本を閉じて鞄にしまうと、眼鏡の位置を中指で直し、小さくため息をついた。
「変わってないな、イコナは」
 イコナと呼ばれた彼女は小さく笑った。漏れた息が白く濁る。
「あんたもね、峻(シュン)」
 イコナは峻の抱えた大きな鞄を見やると、道の端に構えたコインロッカーを指差した。峻は頭を小さく振って拒否するが、イコナは譲らない。
「そんなでっかい荷物抱えて女の子とデートする気?」
「デートって……。俺はさっさと新居に行きたいんだが」
「その前に町案内よ。あんたの居た田舎とは全く違うんだから、迷ってからじゃ遅いのよ」
 彼は渋々錆び付いたコインロッカーの蓋を開け、荷物を押し込んだ。暖かいコーヒーの一つでも、と取っておいた100円玉が無情にも暗い穴に呑まれていった。
 ロータリーは閑散としている。そもそもの駅利用者も少ないし、また平日の昼間にこんな寒くて何も無い場所を歩き回る者はほとんど居ない。端の方では黒ずくめの衣装に身を包んだ怪しげな集団が、のぼりを立てて神の思想を叫んでいた。

「──で、こういう造りになってるわけ。聞いてる?」
「ん? ああ、聞いてるよ」
 イコナに従って、町を北のほうへと歩く。峻にとって初めての町だが、見た目は想像よりもずっと未来的ではなかった。目立つものといえば、緑色の壁をした高層ビルと、道路を走る無人のタクシー位だ。前者はCO2を吸収し、後者は最近始まった新しいタクシーサービスらしい。後は半分くらいのゴミ箱が自律駆動していたり、信号の形が少し違っていたりする程度だ。
 彼女によれば、人の描く未来像はただの虚像だという。真の意味で電脳と都市が一体化してしまえば、その見た目は大して変わらないし、人が電脳を意識する必要もない。
「峻、市民IDは?」
「市民ID?」
 彼女は手近な街路樹に歩み寄り、幹から出ている赤いボタンを押した。樹皮に擬態した蓋が外れ、中の射影装置が作動してホログラムのディスプレイが表示される。イコナが宙に浮く映像に数回触ると、彼女の顔写真とその詳細が出た。
「これが私のプロフィール。東京ではIDが自分の証明になるの。身分証明にもなるし、財布代わりにもなるから、現金を持ち歩く必要もない。峻のもあるはずだけど……Mから始まる十二桁の番号、知らない?」
「いや、知らないな」
「ふーん。まあ後で教えてもらえるでしょ」
 彼女がボタンをもう一度叩くと、ディスプレイは消え装置が素早く収納された。
 道が公園の入り口に差し掛かる。ブランコ、砂場、滑り台、アスレチック。平成の頃からあるようなオーソドックスな遊び場だ。公園の脇には西洋風の真っ白な公衆トイレがあった。
「あ、私ちょっと行ってくる。峻は?」
「俺は大丈夫」
 イコナが小走りでトイレへと入る。峻は歩道の柵に座り、空を見上げる。空は雲の絨毯を引いたように真っ白だった。午前中より気温が下がっている。
「雪が降りそうだな……ん?」
 ふと、視線を空から戻した峻の目に、不可思議なものが留まった。数十メートル先の交差点に、小さな人影が見える。いや、小さいどころではない。隣にあるゴミ箱から推測して、精々リンゴ二つ分の背丈しかない。人形でもない。それは瞬く間に角を曲がって走り去っていったのだ。
 峻は無意識のうちに後を追っていた。同じ角を曲がると、遠くの方に懸命に走る姿が見える。よく見ると女の子のようだ。西洋人形のような可愛らしい姿をしている。
 また角を曲がった。峻は見失わないように歩みを早め、その後を追った。

「……ここはどこだ?」
 追いかけ続けて五分。謎の人影を見失い、同時に自分の居場所も見失った。ただでさえ土地勘のない峻が、初めて来た土地で友人とはぐれてしまった。致命的である。
 とりあえずイコナの見よう見まねで、街路樹のディスプレイを開いた。全てがネットワークで繋がっているのならば、地図の一つくらい表示してくれるはずだ。しかし、そのわずかな希望はディスプレイに表示されるID認証画面に打ち砕かれた。
 歩いてみるしかない。確か、太陽を背にして歩いていたはずだ。ならば太陽に向かって歩けば駅まで戻れるはずだろう。雲のカーテンに覆われて、いくらか頼りない太陽ではあるが。
 いつの間に閑静な住宅地から、発展途上の商業地区のような所に突入していた。周りは背の高いオフィスビルか、工事中の建物ばかりだ。大きな建物に囲まれると、なんだか自分が小さくなった気がする。峻は少しばかりの不安と焦燥を覚えた。
「まったく。不便な町だな」
 迂回路表示の看板にわずかなだけ映っている地図を眺め、ため息をこぼす。
「きみ、迷子?」
 はっとして顔を上げる。声の主は、塀の上に座るあの小さな女の子だった。近くで見ると、本当に人形のようだ。金色のショートヘアに、青い眼。顔は少し生意気そうだ。そして天使の羽で編んだような、綺麗な淡色のワンピースを着ている。彼女は戸惑う峻を見つめ、面白いものを見つけた子供のようにニッと笑うと、塀の縁に足をかけて峻の方に飛び降りた。
「よっと」
「うわっ」
 慌てて両手を前に出すと、その間に彼女がすっぽり納まる。意外と軽い。そして、わずかに暖かい。
「迷子でしょ! お母さん、探してあげようか?」
 峻は彼女を地面に降ろすと、自分も道端に座り込んだ。見ると、背中から一本のコードが延びている。
「ロボット?」
「違うよ。懐中時計だよ」
「懐中時計?」
 聞き間違いだろうか。東京に来て多少の常識は崩れると思っていたが、いきなり時計が人の形をして自走して喋っている。
「俺の知っている懐中時計はもっとこう、質素で慎ましくて、三本の針が時刻を──」
「はあ?」
 峻は口を閉ざした。彼女が懐中時計と言ったらきっと懐中時計なのだ。懐中時計に懐中時計はなんたるかを説明しても無駄である。
 彼女は両手を合わせて、「アンテナ起動」と小さく叫んだ。目の色が七色に変化し、髪の毛の中から小さなわっか型のアンテナが出てきた。
「このプラグを、その壁にさして」
 言われたとおりに背中のプラグを塀に空いた小さな穴に挿すと、塀の一部が開いてモニターが出てきた。まるで忍者屋敷だ。
 モニターにはゲーム画面のような3D空間が表示されている。
「これは?」
「ネットワーク。きみ、東京は初めて?」
「ああ、来たばかりさ」
「この町では、車も、家も、机も、街路樹も、壁も、ポットも、レンジも、ぜーんぶ、ネットワークで繋がってる。それを管理するために、こういう仮想空間があるの」
 そこには小さな町があった。無数の木が立ち並び、車が走っていたり、建物が建っていたり、道路や標識が描かれている。無数に浮かぶ白い円盤は、どれにも属さないオブジェクトを表しているらしい。そして、無数のアバター(仮想空間上での人の姿)があちらこちらを行き来している。画面中央に描かれたアバターは、目の前の人形──懐中時計と彼女は名乗った──にそっくりだ。
「さあ、探すよ。お母さんの市民IDは?」
「お母さんじゃないけど……それが、分からないんだ」
「えー。あなたの市民IDは?」
「それもわからないんだ」
 峻は思わず苦笑いする。彼女は眼を大きく見開いて驚きを表現した。良く出来ている。
「うそ。うーん、名前は?」
「東川峻。君は?」
 彼女は一瞬答えに詰まったが、空を見上げて「ユキ」と名乗った。
「雪が降りそうだから?」
「うん、今決めた」
 ユキが目を閉じると共に、ディスプレイのアバターが動き出す。電脳空間上を動き始めたのだ。
 不思議な景色が後方へと流れていく。まるで宇宙を飛んでいるようだ。遠くの円盤がゆっくりと大きくなり、書いてある情報も読めるほど近づいた後、画面の外へと消えていく。注視すると、その円盤が何を表しているか書いてある。それはポストだったり、街角の掲示板だったり。その円盤に腰掛けて、談笑しているアバターもいる。
 ユキは、この世界は現実世界とリンクしているという。といっても地図は一致しない。目の前に広がる全てのオブジェクトが、現実世界にも存在するのだ。無数のアバターはたったの一つもコンピュータによって制御されてはおらず、全て人が操っているのだという。
 程なくしてユキは緩やかに減速すると、木陰のベンチで本を読んでいるOL風なアバターの前でふわりと止まった。
「もし、そこの人」
「なあに」とそのアバターから返事が来る。
「人探しをしているんだけど、えーと」
「イコナ」
「そう、イコナって子、知らない?」
 OL風アバターは頭に手を当てて考える仕草をすると、
「知らないわ。女の子なの?」
「女の子なの?」とユキが復唱する。
「うん、そうだ。ぼくと同じ十七歳」
「女の子だって。十七歳」
「ふーん。じゃあ、見たら教えるわね」
 ユキは礼を言って、その場を飛び去った。OL風アバターはまた本を読み始める。
「もしかして、このまましらみつぶしに探していくのか?」
 峻は半ば呆れていった。
「それしかないじゃん」とユキがむすっとした声で返す。

##############

「うーん、市民ID分からないんじゃ……地道に探してみるしかないなあ」
 めんどくさそうな声で答えながら、男がモニターをテーブルに置く。歳は二十代後半に見える。エプロンは所々油で黒く汚れ、ポケットには使い古された工具が山ほど詰まっている。
「地道に……って、懐中時計も持ってないのに。どこを探せばいいのよ」
 イコナの声は少し苛立っていた。
 トイレから出たイコナは、峻が居ないことに気付く。きっと峻もトイレに行っているのだろうと思って暫く待っても、全く出てこない。恥を忍んで男子トイレを覗いてみると、中には誰もおらず、個室の扉は全て開いていた。
 探そうにも東京に着たばかりで市民IDさえ分からない。とりあえずどうにも寒いので、一旦本来の目的地であった『時計屋』に赴き、店長に協力を要請することにした。
「とりあえず電脳から。交番に行けば、何かしら情報を掴めるかもしれない。彼はこの辺にいるんだろう」
「そうね」
「僕の方も、勝手に出て行った子を探さないと。はあ、一体どこをほっつき歩いてるんだか」
 彼女はコートの内ポケットから自分の懐中時計を出して、テーブルに置いた。店長が背中のプラグをモニターに差し込む。
「ナナ、お願い」
 モニターに映った彼女のアバターが、小さく頷いて飛び立った。

 峻とユキは十分ほど同じ方法で訪ね歩き、とうとう有力な情報が得られないまま電脳世界の端に来た。世界の端は白い壁で覆われ、わずかに反っている。つまりこの世界は、球形なのだ。
「ここまでしかないのか? 意外と小さいんだな」と峻。
「エリアBはね。トーキョーにはABCD四つのエリアがあって、それぞれ独立してるんだよ。ゲートを通ると別のエリアに行けるけどね」
「四つ?」
「うん?」
 峻は眼鏡を直し、画面にめいっぱい顔を近づけたあと、言った。
「でもこの誘導表記、『エリアE』って書いてあるぞ」
「……」
 ユキは突然黙り込んだ。間違えた、というよりは意図して触れなかったように見える。何かのタブーかもしれない。
「まあ、そんなことより。どうするんだ、全然見つからんぞ」
 話題を転換すると、ユキの曇った表情が少し晴れた。
「うん。やっぱ、名前だけじゃだめだね。写真とかないの」
「あいにく持ってない。……そうだ、交番みたいなものは無いのか?」
 これほどの世界が構築されているなら、派出所も電脳にあるかもしれない、と峻は考えた。
「あ、あるよ。行ってみよー」
 彼女はくるりと方向転換し、壁を踏み台にして中央へと飛び立った。
「あれ、でも」
「ん?」
「なーんか、行っちゃいけない理由があったような……忘れた!」
「なんだそりゃ」

 交番は分かりやすく旭日章の付いた四角い建物だった。警察官の格好をしたアバターが3人待機している。
「あのう、すみません」
「はい、どうしたの」
 警察官がにこやかに答える。
「人を探してるの」
「はいはい。市民IDは?」
「それが、分からないの。イコナって名前なんだけど」
 警察官は腕を組んで、うーんと唸った。
「IDがないと探せないんだよ。ほら、ストーカーとかもあるからね」
「そっかあ……」、ユキが残念そうにうつむく。
「向こうも君を探してるなら、来たときに連絡するよ。君の市民IDは?」
 峻は一瞬怯む。
「えっと……無いです」
「無い? そんなことはないよ。市民IDが無いと電脳世界に接続することが出来ないんだから」
 峻は血の気が引いていくのを感じた。アンテナのような装置を持った、別の警官アバターが近づいてくる。
「君。アバター情報に市民IDがないね。もしかして盗品かい?」
「……やばい。峻、接続切って!」
 ユキが叫んだ。
「は?」
「背中のスイッチを押すの。早く!」
「ちょっと! 君!」
 言われるがままにユキの背中のスイッチを押す。壁のディスプレイがブラックアウトした。ユキが目を開き、アンテナと背中のケーブルを収納した。
「ごめん、逃げないと」
 直後に遠くからサイレンが聞こえてきた。見事な防犯システムだ。
「おいおい、冗談じゃないぞ」
 ユキを脇に抱えて、全速力で駆け出す。徒競走なんて何年ぶりだろうか。彼はやっと、今日が厄日であることを悟った。

「迷子か。うーん、そういう情報は着ていないな。何か着たら連絡しよう。市民IDをピックアップするけど問題ないね?」
「どうぞ」
 警察官の問いに、イコナが残念そうに答える。
「古典的だが、外に出て探すか」と店長が提案する。
「そうね……ん?」
 ピッという音と共に、交番の掲示板に書かれた業務連絡が変化する。その一番上には、「未登録の懐中時計及び市民IDの無い者が逃走中」と書かれている。
「……店長、これもしかして」
「そうかもしれない。友人に掛け合って時計の識別番号を入手するよ」
 店長が自分の懐中時計を取り出し、インカムを頭につけた。
 イコナはナナをログアウトさせ、通話モードにした。番号入力ウィンドウを開き、店長の言葉を待つ。
「イコナ、やっぱりウチの懐中時計だ。君の友達と、どこかで出会ったに違いない。識別番号はCGN-6A-BF-2C-3D-04-FF-M40」
「無線が通っていればいいけど」
 素早くイコナが番号を打ち込む。二秒置いて、回線が繋がった。
「峻? 峻、そこにいる?」

「着信? 誰から?」
「知らないけど、峻の名前を叫んでるよ」
 ユキを耳元に近づける。背面スピーカーからイコナの声がした。
『峻、聞こえたら返事して。峻!』
「イコナ?」
『峻! 何やってんのよ、あんた。今、追われてんの?』
「ああ、どうすればいい」
『現在位置は……分かった。とりあえず次の角を右に曲がって』
 右に九十度カーブ。危うく電柱に頭をぶつけそうになる。
『百メートル道なり。二つ目の角を左に曲がって、すぐ右よ』
 峻は足の疲れと息切れを感じた。思ったより体力が落ちている。この町で暮らし始めると、ますます落ちそうだ。家に帰ったらまず自主トレのメニューを考えなければいけないだろう。

「イコナ、出動してるパトロール機はいずれも無人で四機。直接此処に誘導すれば逃げ切れる」
 店長の手元で、たくさんのホログラムディスプレイが激しく点滅している。そのうち一つはイコナの方を向き、このあたり一帯の衛星写真を表示していた。
「分かった。峻、次の角を右」
 スピーカーからは懸命に走る峻の激しい息遣いが聞こえる。手元のマップには峻の持ってる懐中時計の位置しか映っていないが、電話越しにこれほど大きなサイレンが聞こえるということは余裕はあまりない。無人機は人間が走るより、若干速い。
「市民IDを取られてないのが不幸中の幸いだね」
「峻、この店に誘導するから。次の横断歩道が青だったら真っ直ぐ、赤だったら右へそれて」
『青だ。点滅している』
「じゃあ急いで」
 イコナは前髪を鷲掴みにして持ち上げ、アイスティーのストローを咥えた。

「横断歩道を越した。道なりでいいんだな?」
『そう。で、良く聞いて。警察の追尾ロボットはあんたの抱えてる時計の電波を拾ってどこまでも追いかけてくる』
「じゃあ通話してたダメなんじゃないか?」
『うん、だから回線を切る。その位置からずっと真っ直ぐ行って、川を越えたらゴール』
「川を越える!? 橋なんて見当たらないぞ」
『大丈夫よ、小さいからジャンプでもしなさい。黄色くて細い建物よ、じゃあね』
 ブツッと音を立てて通話が打ち切られる。
 目の前には確かに川が見える。川といっても用水路のような小さなものだ。といっても、文科系の峻がジャンプで飛び越えられる距離ではない。しかも川の向こうは民家だ。勝手に敷地に入れと言うことか。
 考えているうちに川が迫ってくる。選択肢はないようだ。サイレンが後ろから近づいてくる。自分の足より早い。峻はユキを内ポケットにねじ込んだ。
「ええい、ままよ!」
 土手を全力で蹴って峻は飛んだ。届かない。が、川は浅かった。左足が水しぶきを上げ、川底を捕らえる。右足が土手に掛かった。滑りそうになりながらも、懸命に踏ん張ってなんとか土手を登りきる。後ろを見ると、ヘッドランプをつけたゴミ箱のようなロボットが川の前でうろうろしていた。
 人の庭をこっそり抜け、通りの向かいに黄色い建物を見つける。木製のドアノブに手をかけると、扉がひとりでに開いた。バランスを崩して、峻が床に倒れこむ。
「お疲れさま」
 頬に冷たいグラスがあたる。見上げると、イコナが小さく笑みを浮かべていた。

「で、一体こいつらはなんなんだ」
 冷たい紅茶を飲み干し、落ち着いた峻が尋ねる。そして、店内を見渡した。
 何十もの懐中時計が四、五段の陳列棚にずらりと並び、見下ろしている。それぞれに値段と説明書きが書いてある、売り物だ。はたから見ればドールショップである。
 売り物の一つでありながらまんまと逃げ出し壮絶な散歩を楽しんだユキは、店のカウンターに座り店長にメンテナンスしてもらっている。
「ん? 懐中時計」
「懐中時計、ねえ」
 イコナがコートの中から、ナナを取り出し、テーブルに置いた。淡い茶髪に金色の眼をして、短めな茜色のポンチョを着ている。小さな手足を上手く使って立ち上がり、峻の方へとゆっくり歩いてきた。
「ナナよ」
 ユキより幾分か落ち着いた、割と機械っぽい声である。差し出された手は握手のつもりなのだろうか。峻が指先で軽く握ってあげると、無言でイコナの元へと戻っていった。
「あんたの知ってるもので言うと……携帯電話?」とイコナが閃いたように言う。
「ケータイ?」
 峻がポケットに入った携帯を取り出し、開く。
「そう。電脳接続とか、データベース検索とか、メールに電話に財布に書籍の閲覧にゲームにプレゼンに創作に、なんでもしてくれる携帯端末」
「いや、携帯電話はそこまで出来んが」
 いつの間にテーブルによじ登ったユキが物珍しそうに携帯電話を眺めている。すっかり峻になついてしまっているようだ。
「その子でいいの?」とイコナ。
「何が?」
「懐中時計。この町じゃ一つは持ってないと、やっていけないよ。時計に市民IDを登録するのよ」
 市民ID、暫く聞きたくない言葉だ。
 峻はユキを見た。五歳くらいの女の子なら眼を輝かせて喜ぶ、可愛らしい西洋人形だ。しかし峻は男だし、十七歳である。
「……俺はいらないよ」
「電車もタクシーも自動販売機も映画館も使わないならその選択肢もあるけど?」
「いや、さすがにそれは困る」
 イコナが口元を緩める。
「店長、この子でいいって」
「お、本当か! いやー、嬉しいね」
 嬉しいね、と口に出してしまうあたり、単純に品物が売れるというだけではなさそうだ。多分、相当店長の手を煩わせてきたのだろう。峻は頭を抱えた。しかし、迷子から結果的に救ってくれたのも事実だ。
「まあ、いいか」
 ユキが丸い二つの目で峻をみつめ、にっこりと笑った。


 長い一日が終わる。
 鉄製の扉は静かに閉まり、自動音声がオカエリナサイとイコナを迎えた。
「はいはい、ただいま」
 彼女は靴を脱いで揃え、母親の靴がなくなってることに気付いた。そういえば今日から三日ほど、友人と旅行に行ってくると言っていた。代わりに玄関にはイコナが二人程度入りそうな、とても大きな鞄が置いてある。長く出張に行っていた、父親のものだ。
「お父さん、帰ってるの?」
 シンとした家の中にイコナの声が響く。しかし返ってくるのは遠くで冷蔵庫の奏でる重低音だけだ。
 イコナはコートを脱いで手を洗うと、父親の書斎に行った。廊下の冷たさがスリッパを通して伝わってくる。最近改築したばかりのフローリングの床を、イコナはあまり好きになれなかった。
「お父さん?」
 書斎は真っ暗だった。電気をつけると、確かに父親の帰った跡がある。もしかしたら一旦帰ってきた後また出かけたのかもしれない。
 書斎は四方の壁のうち扉のない三つを本棚で覆った小さな部屋で、真ん中に作業用の大きな机が佇んでいる。机には当然電脳が埋め込まれており、持ち主が起動すれば広い机の上がホログラムディスプレイで埋まる。
 イコナは机の上に、見慣れないものがあることに気付いた。無造作に放り出された袋と、そこからはみ出たケーブルのプラグ。懐中時計に差せる形のものだ。
「イコナ、勝手に触るとお父さんに怒られる」とナナが諭す。
「見るだけだよ」
 取り出してみると、その先に付いていたのはメモリースティックだった。彼女はナナのアイライトでそれを照らし、何も書いてないことを見るとプラグをナナに差した。
「アップデートパッチがある。当ててみよう」
「イコナ。変なの入れないで。イヤよ」
「きっと未公開の最新版パッチよ。思わぬ新機能が付くかも!」
「でも……」
「人工知能体七原則第二、時計は人間に逆らえない」
「ぶー」
 パッチ適用完了の軽快なジングルが流れる。同時に、玄関から扉の開く音が聞こえてきた。
「やばっ」
 慌ててメモリースティックを引き抜き、元の袋に隠す。パッチ履歴に細工する暇は無い。ナナを胸の専用ホルスターに入れて、スリープモードにした。
 書斎の電気が付く。
「イコナ、帰ってたのか」
 彼女はびくっとして振り向いた。久々に見る父親の顔だ。髪の毛はボサボサで、無精ひげが目立つ。服装もまるで朝帰りのサラリーマンだ。とても日本で数本の指に入るエリート技術者とは思えない。
「え、ええ。お父さんこそ」
「ああ。例の事件で召集されてね。ちょうど日本が近かったし、連絡する間もなく帰ってきた」
 ポシェットから仕事用の懐中時計を出して、机の上に置く。机が認証を開始して、ディスプレイを表示した。イコナは今のうちに逃げようと、足音を立てず扉のほうへと移動した。
「あれ、イコナ」
「はい!?」
 声が上ずる。
「ここに置いてあったパッチ、弄ったか? もしかして使った?」
「う、ううん……知らない」
「まあ、調べた方が早いか。ナナを貸してくれ」
 渋々、ナナを差し出すイコナの顔は真っ白だ。出来ることなら、逃げてしまいたかった。
「疑うようなことをして済まないが、非常に重要な物だからね。外に出てしまえば大変なことになる故に、一応調べる決まりになってるんだ。知能体第二原則は?」
「……知能体は権限を持つ人間に与えられた命令を必ず実行しなければならない」
「うん、よく勉強している。開発者の娘たるもの、そこはきちんと知っておかないとな」
 そう、イコナの父親、水斗目道悟(ミズトメドウゴ)は懐中時計の開発者の一人である。現在は世界中を飛び回り、ポータルデバイスとしての懐中時計の普及活動と、インフラの整備を行っている。今回の帰国も、この間起きた懐中時計のセキュリティ事件による召集だ。
 彼は慣れた手つきでナナを操作し、ログ機能を呼び出した。
「ナナ。今日のパッチ履歴を」
 終わった、とイコナは思った。数秒もたたぬうちに、どこか上機嫌な父親の顔は修羅に変わるだろう。拳骨で済むだろうか。晩御飯が抜きかもしれない。いや、もしかしたらナナを取り上げるかも──。
「参照完了。ドウゴ、本日のパッチ履歴は、ありません」
「えっ?」
 その日、懐中時計は嘘をついた。