LETS


柄谷行人は、その著書『可能なるコミュニズム』『NAM原理』『トランスクリティーク』において、人間の営みを「交換」という基礎的なところまで遡行して把握し、贈与、収奪と再分配、市場的交換の3つに整理した。そして、その3つのいずれにも属さないアソシエーション的交換として、地域通貨LETSを用いた交換があると考えた。

西部忠がリードした、オンラインでLETSを実現しようとしたプロジェクトが、「Qプロジェクト」である。それは、LETS経済圏の構築を目指し、厳密な設計と運営がなされたが、その広告塔的役割を果たしていた柄谷行人が突然、Q攻撃に転じ、脱退を大掛かりに呼び掛けたために、参加者が激減し、現在に至っている。

柄谷行人は、自らの転向=態度変更を「理論的」なものとして打ち出した。即ちそれは、貨幣の貨幣性、貨幣が何故流通するかという根拠を巡る問いと関連するものとして提起されたのである。柄谷行人は、貨幣が金(きん)とのリンクを失い、電子マネーなどへと徐々に脱物質化していくポストモダン的な流れに反対し、貨幣は基軸通貨に、ひいては金(きん)によって根拠づけられることによって流通するのだと考えた。(『Lの理論』)

しかし、柄谷行人が提唱した「市民通貨」Lは全く現実化しなかった。「柄谷通貨戦争」と2ちゃんねるで揶揄された泥仕合は、事実上、何とも無様な格好で尻すぼみ的に終焉したのである。

こうした時代の経験から、私達は何を学ぶべきだろうか。

まず、交換の3類型の外部にあると「想定」される「X」=「アソシエーション」なるものの実在性を疑うことが出来る。それは信じられることしかできないものであるから、非常に貧困な概念的内容しか持たないものである。私達は、世俗主義を徹底すべきである。安易な超越を夢見るのではなく、現世の諸々の具体的な組み合わせを分析し、変革すべきである。

そして、贈与と盗みといった型の交換をより重視すべきことが挙げられる。具体的なサバイバルという文脈において、生活保護や基本所得、障害年金といったものを闘い取っていく運動を重視すべきだし、無償のコモンズを広げる運動にも意味があるだろう。私達のこのWIKIもささやかな知恵、技術、情報の共有の試みである。

LETSの運動の積極面を言えば、西部忠によって、それが単に貨幣の役割を果たすばかりでなく、文化的メディアでもあると捉えられていた点を評価すべきだろう。「交換」概念を拡張すると同時に、新たなメディアの創出と新たな集団的主観性の構築が結びつくことになる。なるべく国民通貨に頼らず、自ら価値を創出する新たなメディアを用いて交換を営むことを通じて、私達は連帯と協働を広げることを期待できる。この意味で、LETSの経済的機能のみならず、文化的・精神的機能も重視すべきである。

西部忠の提案は、残念なことに、30年、いや10年早過ぎたのではないだろうか。金銭が全面的に電子マネーなどに取って替わられるという事態が生じるなら、オンラインでのLETSがそれを侵蝕するといった事態も期待できただろう。しかし、現在イーバンクなどオンラインでの決済は十分な広がりを見せていない。デジタル・ディバインドと呼ばれる障害も深刻な問題である。ネットを自由に使える層とそうでない層の間に格差が生まれている。そうした問題にどう取り組むかというのも、今後の課題であろう。

Linda

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最終更新:2006年08月21日 11:46