プレカリアート


この用語の定義については、現在社会運動に携わっている人達の間で、集団的な討論が行われており、それがWikipediaに反映される予定である。それで、私がこのRAM WIKIで展開する議論は、極めて個人的で確信犯的に偏向したものになるしかない。

先ず、先行する2つの用語、「プロレタリアート」と「マルチチュード」を見よう。前者も、「プロレタリアート」=「産業労働者」というような幅の狭い理解をされていた時期はむしろ限定されたもので、歴史的には下層の労働者から知的労働に従事する人達まで多様な層の総称としてこの語が用いられてきたという。そういった、階級的差別・排除を含まない「幅広」の用語としてなら、「プロレタリアート」という用語も排除する理由がない。ただ、「プロレタリアート」ではなく「プレカリアート」を用いるという場合、「不安定さ」に力点が置かれていることになる。次に「マルチチュード」だが、これは労働が知的な労働にシフトしつつあるという傾向に狙いを定めた概念である。例えば派遣社員や契約社員達の多くが、自らの専門化された知や技術を切り売りしている現状を見るならば、この言葉にも一定のリアリティがあると言える。「マルチチュード」ではなく「プレカリアート」という場合は、多数多様性よりも状況としての不安定性を強調することになるのではないか。

「プレカリアート」=不安定な生を強いられる人達という用語を私達が掲げるのは、経済学者としてではない。社会運動に携わる者として、(特に日本の)文脈でこの言葉を使うのだ。それは社会的現実を新たな視角から把握し、新たな現実を想像/創造しようという強い解放主義的な志向のもとに、政治的にそうするのである。私は、あらゆる科学主義は、これを拒否するべきだと考える。そもそも私達の大多数は、経済学専門家として生き、考えているわけではなく、自らの現実と向き合って言葉を紡いでいるのだし、仮に経済学を語るとしてもそれはどのような立ち位置に立つどのような経済学なのか、という疑問がある。いろいろと諸説はあるが、マルクスがやったのは経済学の根拠づけではなく、経済学「批判」だった、と考えることもできよう。その批判内容の一つが、商品フェティシズム・貨幣フェティシズムへの批判、及び、商品中の特殊な商品としての「労働力商品」という概念の批判的解明にあったと私は理解している。本来自由で多様なものであるべき(即ち、個性・特異性が十全に開花させられるべき)私達の生が、「賃労働」というカテゴリーに押し込められることでその豊かさを奪われ、さらには、自発的な努力でなく資本家的社会に特有の利潤を求めるが故の過剰な競争に晒され、他者及び自己との関係を疎外的なものにしている。科学主義ではなく主体的な倫理や政治を選択し、現存の諸関係を乗り超えようと意志するとは、今挙げたような規定性を揚棄しようと試みるということを意味する。

そもそもの始めから、資本主義は不安定な生を強いられた人達の一群を要請してきたし、囲い込み運動のような暴力的な仕方でそのような一群の人々を生み出してきた、とも言える。だが、プレカリアート=不安定な生を強いられる人達の問題性が近年前景化してきたのは、資本主義のグローバルな進展のもと、多国籍企業をはじめとする資本の暴力が世界の隅々にまで行き渡り、国家もそれを規制するどころか「規制緩和」(「改革」ファシズム!)して資本がより自由に運動できるようにしているからである。国内的にみても、福祉などセーフティ・ネットはどんどん切り下げられてきており、大多数の人々は不安を余儀なくされている。それだけではなく、資本主義のグローバル化に伴い、資本は安価な労働力を求めて規制の緩い第三世界の国々に生産拠点を移動するので、労働者は常にリストラの脅威に怯えなければならなくなった。さらに、IT革命をはじめとする生産手段の高度化は、アンドレ・ゴルツのような一部のエコロジスト=マルクス主義者らが予見したような「労働からの解放」といったユートピアを齎さず、酒井隆史が正確に分析しているように、「反転された革命」のディストピアを齎した。簡単に言えば、大多数の労働者は熟練も専門知識も求められず、その代わり低賃金で使い捨てられる存在になったのである。財界が提案していた、労働力の3分割──一部の正社員、特殊技能を持つ専門家、使い捨てのフリーターといった──は、この文脈で読むならば、資本主義の現段階における搾取・抑圧の更なる強化の指標と言える。現在議論が進められている「日本版エグゼンプション」などは、労働者の分断を更に深めると共に、労働強化を外延的にも内包的にも齎すことを意図したもので、資本=経営の側と徹底的に闘っていく必要がある。

非正規労働が問題の中心だが、私達がプレカリアートという言葉で指し示そうとしている現実は、必ずしも非正規労働に従事する人達のみに限定されるわけではない。正社員であっても、過労死・過労自殺を齎すような過剰な資本家的競争に晒され、その地位を日々脅かされている人達もいるだろう。そのような人達もプレカリアートだと私達は考える。また、賃金を上げろというのは根本的な要求だが、私達の関心事は賃金のみに限定されるわけでもない。私達の関心は不安定にされた「生」全体にある。私達は基本所得問題を提起するのは、生そのものをまるごと政治問題化し、全ての人達がただ生きること──一部の能力ある人達が生きることだけではなく──を肯定しようという意図からに他ならない。繰り返しになるが、「プレカリアート」は、科学的に精密に定義された学術用語ではなく、政治の言葉であり、更にいえば日常生活の言葉である。奴隷的な労働を強いられている第三世界の人達のみならず、没落の危機にある第一世界の大多数の人々も、自らの自由と生存を闘い取る必要があるということの表現がこの言葉なのである。

Linda

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最終更新:2006年08月22日 12:10