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労働


労働は、アダム・スミスにより富の主観的本質として定義された。以後、フーコーのいう「人間」の構成要素として(他の構成要素は言語と生命)、経済学的言説の基礎概念となる。

ところで、ジェヴォンズ以来の近代経済学において「効用」概念が主観的なものであり比較不可能ではないか、という議論がしばしばなされてきたが、同様に、「労働」における苦痛やその強度なども比較不可能ではないだろうか? 端的にいって、労働時間は客観的に比較可能だが、その強度や辛さなどは比較できないもののように思う。私は、主観的なものだから「労働」の苦痛や強度などを捨象すべきだと言いたいのではない。主観的なものは、それはそれとして、尊重し重視すべきだと考える。

多くの論者が、「労働の解放」ではなく「労働からの解放」を訴えてきた。資本主義社会においては、人間すらも「労働力商品」として商品化されてしまう、というのがマルクスの議論だったが、そのような資本家的な商品化に抵抗しようという試みが続けられている。論者によってどこに力点を置くかは違っているが、例えば「賃労働」ではない「協同組合的労働」に、或いは無償の「遊び」や「自由活動」に、人間疎外からの解放を求める議論がある。勿論、私達が生きている社会は、「必要に応じて求め、能力に応じて働く」共産主義社会ではなく、資本家的社会であるため、大多数の人達は、厭でも苦痛な労働に従事せざるを得ない状況がある。端的に言って、喰っていかなければならない。これを「だめ連」では「シノギ問題」と言っている。非正規労働や生活保護、障害年金など可能なあらゆる方法でシノギ問題に対応しようと、多くの人達が努力を続けている。

フーコーが現代的経験として描き出した「人間の死」──それは人間という限定された形態から別の形態への移行を意味する──においては、言語・労働・生命は、抜本的な変容を蒙らざるを得ない。ネグリ=ハートやパオロ・ヴィルノが論じるように、労働が生を覆い尽くし(労働が根本的に「知的」なものになったため、労働している時間とそうでない時間の区別が曖昧・識別不可能になり、アイディアを捻り出すために一日中時間を費やしたりしている事態を想定している)、「生権力」「生政治」が現実化した現代においては、「ただ生きていることの肯定」が抵抗の一契機となる。この文脈でもう一度「労働からの解放」を言い直せば、「賃労働から生を解放すること」となる。生き生きとした協働は、賃労働ではなく、協同組合労働、NPO/NGOでの活動、遊び、自由活動など疎外的でない活動に寄与するものとなる。「労働の拒否」というかつてのスローガンは、「新たな活動の創出」というポジティブなものに転化する。私達は、新たな生産-消費-再生産の様式、生活様式を発明しなければならない。資本主義を揚棄するためには、まず私達一人一人が、非資本家的な生き方を創り実践していかなければならない。そのような生き方が愉しいものであれば、それは自然に伝播していくことだろう。正社員/非正規労働者に分断され、前者には過労死・過労自殺の危険が迫るほど苛酷な労働強化がなされ、後者にはまともな賃金が支払われない、という今の社会は異常である。「労働」概念を問い直し、新たな「活動」として生を肯定していくことによって、資本家的社会が私達に強いてくる生きづらさを解消していく必要がある。

Linda