「精神病」者


心身の不調など何らかの「苦訴」を持ち、治療や養生(ここでは治療という言葉を専門医によるものと定義し、養生という言葉を患者=受苦者本人の主体的な治癒への努力と定義する)を必要とする状態のことを「精神病」と言い、そのような状態にあると自己自身を定義する人を「精神病」者という。

ロナルド・レイン、ディヴィッド・クーパーらの反精神医学が告発したように、「客観的」な精神医学の欺瞞と抑圧が露わにされ、抑圧的で監禁的な病院のシステムが「精神病患者」といった実在を生産したり、歪んだ家族システムが「精神病患者」とラベリングされる不運な犠牲者を生産したりといった事柄について知られるようになっている。またミシェル・フーコーは「狂気」の経験の変遷を歴史的に辿ろうとした。かれによれば、狂気を「精神病」という形態から解放することが問題であった。狂気の言葉は、一部の文学者の言葉のなかから垣間見えるだけであり、狂気の忘却と隠蔽が人間主義的改革の名のもとに遂行されつつある、というのがかれの基本的な診断であった。

とはいえ、これら批判的な論者達の解放志向の議論の一切にも関わらず、やはり症状は本人にとっても周囲にとっても苦しいものであり、何とかしたいと痛切に感じさせるものである(その辺りの事情について木村敏や中井久夫が言及したことがある)。単なる歴史家・考古学者の立場からではなく、「精神病」者本人の立場からすれば、苦痛の軽減と快の増大を志向するのは当然のことだろう。その観点からして根本的に重要だと思われるのは、中井久夫の『精神科治療の覚書』と神田橋條治の『精神科養生のコツ』である。難解な思弁や過度の急進主義に陥らず、治療や養生の過程を丹念に追おうとするその姿勢は貴重なものとして「精神病」者当事者からも評価されている。また、海外のものとしては、フェリックス・ガタリの提唱した「制度論的精神療法」が重要であろう。その詳細については、『精神の管理社会をどう超えるか』という書物が今のところ唯一の情報源である。

最近の傾向としては、以前見られたというかなり重症の統合失調症患者に代わって、軽度の精神病者や境界例などの患者が急増しているという。精神科の敷居が低くなったというのも精神科を訪れる人が増えている一因であろうが、他の原因としては、バブル崩壊以降の景気の悪化に伴い、企業や家庭などでストレスを感じている人が急増していることが挙げられる。「精神病」という現実を分析的に把握するには、社会全体との関わりという政治的な視点を外すわけにはいかない。私達は、大多数の人が「生きづらい」と感じながら生きている社会に暮らしているのだ(この論点に関しては、雨宮処凛『すごい生き方』を参照していただきたい)。「生きづらさ」を単に主観的で個人的なものとして切り捨てるのではなく、社会や政治に向けて開き、解放志向の実践を刷新して新たな集団的主観性の領野を切り開くことが今求められている。

Linda

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最終更新:2006年08月22日 14:42