今日も江戸の風景は紅い。
賑わいは騒々しさとなり、やがて悲鳴となり、そして消えていくほどに、真っ赤だ。
立ち上がる紅蓮の炎も、鮮やかに舞う血の色も。
全て僕の嫌いな紅い色をしている。
勝手な戦など、起こすだけ価値のないものだというのに。
ほら、またそこらで泣き叫ぶ声がする。
人は人を傷つけ、守り、救い、そうしてまた傷つける。どんなに分かりきったことであろうと
理性を失った頭では、理解もできないんだろう。
なんて人間は愚かで無価値な存在なんだろう。
黒猫はせせら笑った。
そして、自分を抱え、桜の木に寄りかかっているひとりの男を見上げると、もう笑みが止ま
らない。狂ったように笑っては、江戸の町を見て、心底やりきれないという感情に囚われる
のだった。
黒猫は目を細め、喉を鳴らした。
喜ばしい訳でなく、また悲しい訳でなく。
どうして喉を鳴らしたのか。それは黒猫以外誰も知らない。
だんだんと江戸の町に静けさが戻った頃、この男が目を覚ました。
「んんぅ」となんとも間抜けな声を漏らした奴を、クツクツと笑ってやった。
まるで、「お前もまた無価値な人間なんだ」とでも言いたげに。
咲良 桜次郎(さくら おうじろう)。それがこの間抜け野郎の名前だ。
野郎は、僕が見てきたどんな人間よりも無価値だ。
無駄だと分かっていようが、真剣に刀を振るう。
世のため人のため、お国のためと言って、必死になって命懸けで何かを守ろうとする。
その手で守ったものが音を立てて崩れてゆくのを、何度も見ているはずなのに。
だが、その優しさが、その揺るがない想いが、人を傷つける。
何かを、誰かを守るのは、結局は誰かを傷つけるのと同じことなんだ。
そして、その意志が自分自身を苦しめているのも、野郎は分かってる。
「 。」
以前野郎は誇らしげに何か言っていたのだが、何だっただろうか。興味のないものは、
記憶にあまり鮮明に残らない。
まあ所詮、記憶なんてものは化け猫である僕には意味のないものなのだが。
僕は本当に嫌いだ。
人間が持っているものも。人間の心が蠢くこの江戸の町も。人間の存在も。人間が存在
しているこの地球も。
全部、全部。
黒猫は笑う。この世の全てを嘲り笑った。
狂おしい、悲鳴にも似た笑い声が、江戸中に響き渡る。
「どうしたんだい。何か良いことでもあったのかい?」
穏やかな表情で野郎は言った。
「いんやァ別に。ただ人間ってのはつくづく下らねぇもんと思ったもんでしてね?」
ケラケラ笑ってみせると、何を思ったか江戸の町を見回し、そして笑って言う。
「そうさな。人の欲でこんなんなっちまって。きっと神様も怒ってんだろうなァ・・・」
全くだ。神様だけじゃなく、僕だって怒っている。
人間は本当にクズでゴミだ。
お前もその人間のはずなのに、どうしてそんなに真っ直ぐな目をしてるんだ。どうしてそん
なに純粋に生きられる。
『俺は誰かに尽くすためだけに、この命を授かったと思ってるんだ。』
野郎の言っていた言葉を思い出した。
こいつは、馬鹿らしいほどに人が好きなんだ。だから、無力なんだ。
どうしてだ。この最高に愚かな人間を、どうして笑うことができない。何で。
―信じようなんて、思っちまうんだ。
「お前は一番馬鹿で愚かでクズだ」
そう言って、野郎の膝に爪を食い込ませる。
どうしようもない感情に駆られる。
「だから―」
お前だけは。
「僕が一生を見ててやるよ」
そして一生あざ笑ってやる。そう誓った。
それは、全てを嫌う黒猫の、気まぐれで最高の心からでた言葉。
「約束だぞ?」
桜が舞った。