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「みんなの新武将/項羽軍」(2022/04/25 (月) 01:57:37) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*項羽軍
**季布
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|83|82|73|72|94|長躯|A|A|A|A|B|C|?|?|
【キフ】
西楚の将。
項梁・[[項羽>項籍]]の挙兵に参加し、楚漢戦争では項羽の部将として活躍。
項羽と同郷の高名な侠客であり、信頼も厚く[[劉邦]]を幾度も窮地に立たせる。
垓下の敗戦後、項羽の下を離れ、各地に潜伏する。
漢の追及が激しいため、奴隷の姿をして夏侯嬰を訪れて劉邦への仲介を依頼。
直接の対話の結果、郎中に登用され、後、河東郡の太守にまで出世する。
義理堅い直言の士として高く評価され、次第に宮廷内でも重きを成した。
その言動は、「黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず」とまで言われた。
**鍾離昩
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|85|57|22|55|規律|B|A|A|A|B|C|?|B.C.201|
【ショウリバツ】
西楚の将。
項梁・[[項羽>項籍]]の挙兵に参加し、楚漢戦争において項羽の部将として転戦し活躍した。
項羽が垓下で追い詰められた時、項羽の下から離脱。後、楚王・[[韓信]]に身を寄せる。
[[劉邦]]は鍾離眜を恐れて詔を下して韓信に殺させた。
その際、「漢が楚を攻撃しないのは、私が貴公に身を寄せているからだ。
もし貴公が私を捕えて漢に媚びようとするならば、私は今日にでも死ぬが、
貴公もいずれ滅びるであろう」 と言い自刎した。はたして韓信の末路はその通りになった。
余談だが彼の次男の末裔が[[許昌]]に永住し、[[鍾繇]]の祖先となった。
※鍾離の二字姓。
名は「昩(日偏)」「眜(目偏)」の二つの表記がある。
**龍且
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|96|58|20|52|威風|A|S|B|S|C|C|?|B.C.203|
【リュウショ】
西楚の将。
数々の戦いで功があった勇武に優れた勇将。
[[英布]]が反旗を翻して漢に味方すると、淮南を攻めて散々に破った。
[[韓信]]が斉を平定すると[[項羽>項籍]]に斉の救援を命じられて将兵二十万を率いて対陣するが、
韓信の嚢砂の計により大敗を喫し、捕らえられて斬られた。
**項纏(伯)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|60|57|74|78|60|補佐|B|B|B|C|B|C|?|B.C.192|
【コウテン(ハク)】
西楚の将。[[項羽>項籍]]の叔父で、項燕の子、項梁の弟。項伯。
楚の名門・項家の出だが、秦の将軍[[王翦]]により楚が滅亡すると、各地を流浪。
その際、殺人を犯し、旧友の[[張良]]に匿われた。
[[始皇帝>贏政]]の没後、兄の項梁が項羽と[[会稽]]で挙兵するとこれに参加し、
以降は左尹として、甥の項羽の補佐を務め、楚漢戦争後、張良を頼って[[劉邦]]に帰順した。
鴻門の会では、劉邦の食客・参謀の張良の身を慮り劉邦を守ったことから、
その功績と劉邦との姻戚関係を結ぶ約定で射陽侯に封じられ、劉氏を名乗る事を許された。
**桓楚
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|83|87|42|57|65|戟将|B|S|C|A|C|C|?|B.C.203|
【カンソ】
西楚の将。
秦王朝の時代、沢中に逃亡していた。
[[会稽]]郡守殷通は、桓楚と項梁を将軍にして、秦に叛乱しようとしたが、
項梁に殺され、桓楚は項梁の配下となった。
項梁亡き後は甥の[[項羽>項籍]]に仕え、項羽が上将軍宋義を殺すと、桓楚が楚の懐王に報告している。
秦の章邯との戦いでは五千騎を率いて[[英布]]、于英と共に秦の勢を撃ち破った。
垓下の戦いの最後まで項羽に従い、奮戦の末、項羽に殉じた。
**于英
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|80|27|24|45|強奪|B|A|C|A|C|C|?|B.C.204|
【ウエイ】
西楚の将。
[[会稽]]山の麓で桓楚と山賊の頭領だったが項梁の挙兵に従い、
秦討伐では函谷関から出撃した章邯率いる大軍を迎え撃ち勝利する。
楚漢戦争に突入すると[[項羽>項籍]]に従い常に前線で戦い続けた。
睢水の合戦では僅かな軍で斬り込み大勝するが、[[韓信]]の軍と交戦した際、
韓信自身が考案した戦車部隊の包囲攻撃により敗死。
項羽軍の初めての敗北であった。
**周蘭
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|81|45|36|54|昂揚|B|A|B|A|B|C|?|B.C.203|
【シュウラン】
西楚の将。
項梁の挙兵に付き従って反秦、楚漢戦争で勇猛果敢に戦場を駆け回った。
[[項羽>項籍]]軍が成皋を包囲している時に、漢の[[韓信]]が斉に侵攻したと連絡が入ると、
斉の救援と韓信の討伐のために竜且とともに斉に向かう。
漢軍は前日堰き止めていた濰水を崩し、大量の水攻めにあって大敗、
竜且は捕虜になって斬首され、周蘭も曹参の追撃を受けて虜囚となる。
逃れて再び戦うが、再度灌嬰によって捕らえられ斬首された。
**項荘
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|35|77|24|27|35|護衛|B|A|C|B|C|C|?|?|
【コウソウ】
西楚の将。[[項羽>項籍]]の従弟。
鴻門の会の際、[[范増]]に、剣舞をして劉邦に近づき[[劉邦]]を討つように命じられるが、
項伯の妨害などにより失敗した。
**項佗
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|45|64|35|48|44||B|B|B|C|C|B|?|?|
【コウタ】
西楚の上柱国(宰相)。[[項羽>項籍]]の親族。
魏の魏咎の援軍として使者の周市と共に秦将章邯と戦うが敗北、魏は滅びる。
楚漢戦争でも項羽の下で戦うが、彭城を灌嬰に攻められて捕虜となる。
以後、生死不明。
**項声
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|42|67|32|25|32||A|B|C|C|B|A|?|?|
【コウセイ】
西楚の将。[[項羽>項籍]]の親族。
[[黥布>英布]]が楚に背くと、龍且とともに淮南を攻め撃破した。
[[彭越]]が梁に侵攻すると戦うが敗北、梁を失う。
のち斉の[[韓信]]を牽制するために薛公らと兵を率いるが、灌嬰に破られ捕虜となる。
以後、生死不明。
**周殷
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|76|64|62|70|運搬|A|A|A|B|B|B|?|?|
【シュウイン】
西楚の将。大司馬。
[[項羽>項籍]]の信頼を受けた将で、楚の要地を盗賊や叛乱から守っていたが、
陳平の離間の策にかかった項羽にやがて信頼されなくなる。
楚漢戦争の終わり頃、漢の劉賈に誘われ楚に叛いて九江の兵を集めて項羽を討った。
**武渉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|4|13|71|55|36|論客|C|C|C|C|C|C|?|?|
【ブショウ】
西楚の説客。
竜且が敗れて[[韓信]]が斉王となると、誼を結ぼうとした[[項羽>項籍]]に派遣された。
武渉は蒯通と同じ考えを持ち、韓信の未来を予想して天下三分の計を説くが、
取り上げられず交渉は失敗した。
**呉芮
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|66|58|85|76|94|名声|C|A|B|C|C|B|?|B.C.202|
【ゴゼイ】
秦末前漢の群雄の一人。呉臣の父。
秦の鄱陽県令として長江・鄱陽湖一帯の人々に慕われ、「鄱君」と呼ばれた。
陳勝・呉広の乱以降の秦末動乱の際、[[英布]]は呉芮に従い、呉芮は自分の娘を英布の妻とし、
越の地で秦への反乱に加担した功で衡山王に封じられた。
のち詳細は不明だが、英布と同時期に[[劉邦]]陣営についたと思われる。
項羽滅亡後、楚王[[韓信]]、韓王韓信、淮南王英布、梁王[[彭越]]、趙王張耳、燕王臧荼と共に、
劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。
同年、[[長沙]]王に立てられ、その年に死去。
長沙王は異姓諸侯王の中で最も長く続いた。
**曹咎
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|82|35|62|58|怒髪|B|A|A|A|B|C|?|B.C.203|
【ソウキュウ】
西楚の将。大司馬。
秦の獄吏だったが、昔に項梁を冤罪から救った件を頼って西楚に降る。
項梁亡き後は[[項羽>項籍]]に仕えて西楚の大司馬となった。
[[彭越]]が黄河を渡って楚軍を東阿で討ち将軍薛公を殺したので、
項羽はそのため東行して彭越を討とうとした。
項籍は曹咎に成皋の守城を任せて、東行して陳留と外黄を討った。
項羽のいない隙に[[劉邦]]が成皋で楚軍に挑発したが、曹咎は応じなかった。
しかし楚軍を侮辱すること五日、ついに曹咎は怒って兵を出し、
漢軍に渡河中を襲撃されて大敗を喫し、自刎した。
**虞子期
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|36|57|17|16|55||B|C|B|C|C|C|?|B.C.202|
【グシキ】
西楚の将。[[項羽>項籍]]の愛人である虞美人の弟。
虞美人が項羽の妾になると、虞子期も楚に仕えた。
滎陽包囲戦で降伏の確認の使者として[[劉邦]]の陣営に赴くが、降伏は陳平が仕組んだ罠であり、
偽情報を吹き込まれて項羽に[[范増]]が劉邦と内通していると報告し、范増追放の原因を作ってしまう。
劉邦軍により垓下に追い詰められ、項羽の傍にいた虞美人は項羽の足手纏いにならぬよう自害した。
虞子期もまた虞姫の墓前で後を追った。
**虞美人
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|3|1|48|12|96|内助|C|C|B|C|C|C|?|B.C.202|
【グビジン】
秦末漢初の女性。西楚の覇王[[項羽>項籍]]の愛人。虞姫。
『史記』は「項羽の傍には常に虞美人がおり、項羽は片時も彼女を放すことがなかった」と伝えるが、
その出番は垓下の戦いだけであり、正確な名も両者の馴れ初めも殆どが不詳である。
[[劉邦]]軍に追い詰められ、『四面楚歌』の状態で自らの破滅を悟った項籍は、
虞美人に「垓下の歌」を歌い、彼女との最期の別れを告げて垓下から脱出した。
『史記』や『漢書』はその後の彼女を一切伝えていないが、
『覇王別姫』などの多くの物語は、項羽に殉ずる彼女の悲恋を描いている。
//あくまでも項籍と同一の部隊にしたい方は、楽奏を推奨。
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