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「みんなの新武将/明」(2022/04/25 (月) 01:52:24) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*明(1368~1644)
貧農出身の朱元璋が、紅巾軍の組織と江南の経済力を背景に集慶([[南京>建業]])に樹立した王朝。
開祖の洪武帝は元朝を大都([[北京>薊]])から逐い、1382年には[[雲南]]の梁王を平定して全国を統一し、
深刻な疑獄によって中央集権と君主専制の強化を行なう一方で、法制の再編・農村復興などに
尽力して王朝の基盤を固めたが、経済と政治の中心の合致という構造は、
靖難の変で奪権した永楽帝が自身の勢力基盤の北平(北京)に遷都したことで永続しなかった。
永楽帝の大規模な外征によって、明朝は漢人王朝としては空前の直轄版図を示し、殊に南海経略は世界史上でも稀有の壮挙として特筆される。
君主権強化の一環として洪武帝は特務機関を設け、宦官に対しては諸種の制限を設けて
識字すら禁じたが、永楽帝は宦官を重用して大権を与え、以後の宦官跳梁の悪弊を開いた。
又た洪武帝の重農抑商主義は紙幣や高額貨幣を禁じて流通形態を交換経済に逆行させ、且つ対外私貿易をも禁じ、
永楽年間を除いては概ね内向の伝統的中華王朝に終始し、結果的に文明の東西逆転を甘受することとなった。
永楽帝を襲ぎ、明君と称された洪煕帝・宣徳帝の治世にも宦官の権威・権力は増大し、英宗の正統年間には国政を壟断して
党争を激化させたばかりかモンゴルへの対応を誤り、1449年にはオイラート族の入寇による土木の変で英宗が捕虜となるに至った。
以後、明朝はモンゴル族に対して長城沿いでの専守防衛を余儀なくされ、16世紀になると後期倭寇が活発化して軍費が増大し、深刻な財政難を招いた。
万暦年間に内閣首輔の張居正によって行なわれた官界粛正と一条鞭法で財政は一時的に好転したが、
万暦帝の未曾有の奢侈は財政を再び悪化させただけでなく、東林党と非東林党の無責任な党争に
宦官勢力が加わって政局も低迷沈滞し、天啓年間には未曾有の宦官禍とされる魏忠賢の専権を招来した。
また明朝の深刻な外患となった建州女真が抬頭したのも万暦年間で、崇禎年間には北防費の増大と
濫発される雑税で民生が崩壊し、農民の大叛乱を指揮した李自成によって1644年に北京が陥落し、崇禎帝は自殺した。
李自成はまもなく山海関守備の呉三桂が手引きした満州族に逐われ、
華南には満州族に抵抗する明朝遺臣の諸勢力がそれぞれに宗族を擁立して抵抗したが、
正統論に固執した対立と前朝から続く党争によって統合される事はなく、各個撃破されて1661年までに鎮圧された。
**朱元璋(国瑞)
群雄時代
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|79|76|80|97|名声|B|A|A|C|A|S|1328|1398|
統一以後
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|80|79|76|82|4|捕縛|B|A|A|C|A|S|1328|1398|
【シュゲンショウ(コクズイ)】
明の洪武帝。本名朱重八。紅巾の乱に加わった際に朱元璋と改名。
貧農出身で、紅巾の乱で挙兵した郭子興の軍に身を投じ、その養女を娶る。
郭子興の死後、その軍を継承して応天府([[南京>建業]])を拠点とした。
陳友諒、張士誠を討って江南を統一し明を建国する。
徐達に北伐軍を率いさせ元を華北から駆逐、四川・[[雲南]]も平定し天下統一を成し遂げた。
統一後は重農政策を採り農民を慈しむ一方、知識階級へ「文字の獄」の弾圧を行った。
更に「胡惟庸の獄」「藍玉の獄」など五万人規模の大粛清を行い、没する直前まで元勲・功臣の粛清を続けた。
補足:二面性が強いので評価が非常に難しい人物。苦肉の策で数値を2種類記載。
ただ、朱元璋が尊敬して功臣粛清まで模倣した[[劉邦]](いにしえ武将)の数値に倣って、魅力全盛期の数値で登録するのが吉か?
**徐達(天徳)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|94|85|83|38|74|洞察|A|S|A|B|B|S|1332|1385|
【ジョタツ(テントク)】
明初の将。朱元璋の旗揚以来の、明建国の元勲。
安徽省の農民の出で、同郷の朱元璋の旧友とされる。
朱元璋と共に紅巾軍に参加すると側近として活躍し、朱元璋の呉王即位後は大将軍・左相国となる。
軍才に優れ、軍閥の張士誠との戦いや山東平定に功績を挙げ、
明の建国後は、元朝の支配下の華北を奪取すべく北伐軍を率いて連戦連勝し、モンゴルの勢力を駆逐した。
この功績で創業第一の功臣と賞され、右丞相・魏公に任ぜられたが、
その大功と軍内部の人望の高さゆえに疎まれ、毒殺されたとの説もある。
**常遇春(伯仁)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|95|63|32|70|威風|A|B|S|S|C|S|1330|1369|
【ジョウグウシュン(ハクジン)】
明初の将。懷遠の人。容貌魁偉で武勇に冠絶していた。
劉聚傘下の盗賊だったが、朱元璋が和陽に到ると麾下に入った。
渚磯の戦いでモンゴル軍を破ってからは、采石を巡る攻防で活躍。
徐達元帥に従い各地を転戦し、陳友諒の追撃の際には留守居を担当。
法を厳格に執行し軍民ともに粛然としていたという。
邵榮の造反時は、処断すべきであると主張し、羅友賢・張士誠の打倒に功を挙げる。
太祖が呉王に即位すると鄂国公・副将軍を拝命し、さらに重用された。
徐達と共に北伐を成功させたが、帰還の途上、柳河川で病没した。
**李善長(百室)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|57|38|90|94|52|百出|C|C|C|C|C|C|1314|1390|
【リゼンチョウ(ヒャクシツ)】
明初期の政治家。
紅巾の乱の最中で朱元璋と出会い、漢の高祖[[劉邦]]に倣って統一を成し遂げるよう促す。
その後、朱元璋の謀臣として活躍し、明建国の元勲として覇業を支えた。
明建国後は明の制度・行政の整備に尽力し、筆頭功臣として左丞相となり韓公に封ぜられる。
胡惟庸らと派閥を形成し劉基を讒言で追い落とすが、劉基の死を発端とする「胡惟庸の獄」に連座して失脚。
その後の洪武帝による功臣大粛清の波を受け、十年後に連座の罪を再び問われ自害させられた。
**劉基(伯温)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|61|38|98|84|89|神算|C|C|A|C|A|A|1311|1375|
【リュウキ(ハクオン)】
明初の軍師。天文・兵法・数理などに精通し、詩文に優れた才能を持ち、
明の建国に大きな功績をあげた。朱元璋は青田の劉基を聞き、礼節を持って招き、
以後、劉基は朱元璋の下で常に適切な助言をした。
朱元璋が急難に直面すればすかさず打開策を講じ、平常時には王道を説いて聞かせたという。
明王朝成立後も重用されたが、政敵の讒言よって中央から遠ざけられ失意の晩年を送った。
中国では魔術師的な力を持っていたと信じられており、彼の著書『焼餅歌』は、
明のはるか未来の将来を占った予言書であると言われている。
※三国志演義における[[諸葛亮]]のモデルにされたといわれる。
**李文忠(思本)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|92|85|70|87|補佐|S|A|B|S|B|S|1339|1384|
【リブンチュウ(シホン)】
明の武将。朱元璋の甥。
十九歳で親軍を率い、軍功を重ねていく。
張士誠が諸全に侵攻すると、徐達らが援軍として来ると偽報を流して張士誠を撤退させた。
また、新城の防衛戦では援軍として駆けつけ、寡兵ながら奮戦して大勝した。
元への北伐では常遇春の指揮下で上都を攻略、常遇春の陣没後は軍の指揮をとる。
さらに応昌を攻略して北元の皇族を捕えて玉璽を奪う功績をあげた。
その後も四川の慰撫、第二次北伐、反乱平定などで活躍した。
洪武帝に対しては功臣粛清、日本侵攻、宦官重用などを諌めるなど直言を憚らなかった為に
最期は洪武帝に毒殺された。
**湯和(鼎臣)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|87|62|42|74|連戦|S|A|A|B|B|S|1326|1395|
【トウワ(テイシン)】
明の武将。
郭子興の軍に参加していた際に幼馴染の朱元璋を誘い、旗揚げの立役者となる。
朱元璋麾下として徐達らと采石、太平などの諸城を攻略。
南方平定の総大将に任じられ、方国珍を降伏させ、陳友定を滅ぼし江南を統一する。
北伐軍に加わり北方を転戦、さらに四川を討伐し[[重慶>江州]]を陥落させた。
[[北平>薊]]の守備に当たり高麗を服属、その後も北元との攻防に従事する。
晩年は倭寇の防衛に当たるが、粛清の中で李文忠、徐達らが不審死したこともあって隠居する。
病に倒れると洪武帝自ら見舞うなど、明の元勲で天寿を全うした数少ない人物だった。
**鄧愈(伯顏)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|83|64|50|78|鉄壁|A|A|S|C|B|S|1337|1377|
【トウユ(ハクガン)】
明の武将。初名は鄧友徳。
朱元璋の旗揚げ時から従い、この参軍時に鄧愈を名乗る。
太平、[[集慶>建業]]、鎮江の攻略に従い、広徳を攻め落とすと広徳を拠点に元軍を防ぐ。
鄱陽湖の戦いでは、緒戦となる陳友諒の洪都府(南昌)包囲を三ヶ月守り抜き、朱元璋の援軍まで持ちこたえた。
その後、常遇春に従い江西の諸都市を落とし、[[襄陽]]の守将となる。
北伐では[[南陽>宛]]に侵攻し河南を征服、その後は徐達に従って征西にも参加、吐蕃ら諸族を服属させる。
その後も南方や西方の諸族の叛乱鎮圧に活躍するが、吐蕃からの凱旋途中に病に倒れ、[[寿春]]で没した。
**馮勝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|87|67|72|61|攻城|S|A|A|B|B|S|?|1395|
【フウショウ】
明の武将、政治家。初名は馮国勝。
兄の馮国用と共に朱元璋に仕える。
石灰山の戦いで活躍、鄱陽湖の戦いにも参加し軍功を重ねる。
高郵攻略戦では敵の偽投降を見抜けず杖罰が与えられるも、これに奮起して諸城を落とした。
北伐に参加し、ココ・テムルを二度破る活躍をする。
金山の納哈出討伐では総大将としてこれを討伐。
しかし戦功報告の場で娘婿の常茂と対立して讒訴し合い、朱元璋の怒りを買って将軍位から解任される。
徐達・常遇春に次ぐ功臣第三位とされたが、その功績の大きさから朱元璋に猜疑され、藍玉の獄の最中に賜死した。
**馮国用
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|84|87|58|72|護衛|A|S|B|C|C|S|1323|1358|
【フウコクヨウ】
元末の混乱期に弟の馮国勝とともに決起し、その後朱元璋の軍に投じた。
その際、天下の大計を朱元璋に問われ、[[金陵>建業]](集慶、後の応天府、南京のこと)の攻略を進言する。
元軍との戦いでは朱元璋の近衛を務め従軍し功績を上げる。
元の降将・陳野先の反乱を見抜き、陳一党を打ち破りその軍勢を捕虜とする。
この際、五百人の捕虜を親軍に加え、馮国用一人の護衛で朱元璋が兵と寝をともにしたため捕虜は心服した。
進言通り集慶を手中にした朱元璋によって、親軍都指揮使に任じられる。
しかし、紹興の戦いの最中で突然の病に倒れ没した。
**傅友徳
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|88|52|28|65|踏破|A|A|A|A|B|S|?|1394|
【フユウトク】
明の武将。
元末の乱の中で、李福通、陳友諒らの群雄を渡り歩き、朱元璋に仕える。
鄱陽湖の戦いでは軽船に座乗して先鋒を務め、負傷しながらも力戦した。
武昌攻略では要害の高冠山を攻め取り、以後も江淮の諸城攻略に従事した。
徐達の北伐に従軍し、軽騎を率いて埋伏への誘導や敵陣への夜襲を行う。
陝西に到達すると[[漢中]]を抑え、蜀に侵攻して湯和とともに明夏を滅ぼした。
征南将軍となって[[雲南]]を平定し、東川の反乱鎮圧や燕王朱棣の征北で活躍した。
晩年は馮勝とともに山西で屯田と練兵を行うが、洪武帝に召還され死を賜った。
**康茂才(寿卿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|78|83|81|70|詭計|A|A|A|C|B|S|1313|1369|
【コウモサイ(ジュキョウ)】
明の武将。
もとは元の水軍の武将だったが、徐達や常遇春に敗れ朱元璋に降伏する。
水軍元帥として張士誠の軍を破り、都水営田使に任じられ応天府(後の[[南京>建業]])の農業復興を委ねられる。
陳友諒が朱元璋を攻めると、偽の投降によって陳友諒を伏兵のもとへ誘き出し大勝する。
水軍を率いて陳友諒を追撃して滅ぼし、さらに長江を遡上して[[江陵]]・湖南を攻略するのに功績があった。
徐達の指揮下で北伐に参加、[[洛陽]]を落とし、陝州(弘農)の守備に就いて兵站を整える。
さらに西方へ遠征して定西を落とすが、その中で陣没した。
**沐英(文英)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|83|74|82|80|屯田|A|A|B|S|B|A|1345|1392|
【モクエイ(ブンエイ)】
明の武将。孤児で朱元璋の養子となり朱姓となる。
十八歳で帳前都尉に任じられ鎮江を守り、軍功によりもとの沐姓に戻る。
吐蕃の叛乱では鄧愈の副将として遠征し、これを鎮める。
[[雲南]]の梁王国(元の分封国)征討では征南副将軍として別動隊の騎兵を率い、
梁王国軍を打ち破って梁王を自殺に追い込む。
その後は小規模な叛乱平定に従事し、雲南一帯を平定した。
雲南で民を慰撫し、屯田や養蚕を奨励して土地を開墾した。
皇太子朱標の急死を憂いて病に罹り、後を追うように亡くなった。
**宋濂(景濂)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|11|34|84|78|76|詩想|C|C|C|C|C|C|1310|1381|
【ソウレン(ケイレン)】
元、明の政治家、学者、史家。号は潜渓、玄真子など。
貧家の出身だったが、幼い時から聡敏で呉莱らに師事した。
元の至正年間に翰林院編修となるが間もなく辞職し、龍門山に隠棲して著書に打ち込む。
洪武帝が即位すると招聘され、太子の朱標に「春秋」や「尚書」を講授する。
元史編纂の主幹を務め、礼楽制度の制定に精勤し、開国文臣の首席とされた。
胡惟庸の獄に巻き込まれ誅殺されそうになるが、
朱標らの執り成しで助命され、流刑の途上で没した。
明初の詩文三大家として高名で「太史公」と称され、北伐の際には檄文を著している。
**方孝孺(希直)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|38|27|89|87|90|指導|B|B|B|C|C|C|1357|1402|
【ホウコウジュ(キチョク)】
明の政治家。別字に希古。正学先生と呼ばれる。
宋濂に師事し、儒学を修める。
朱元璋に対して仁政を以て統治するよう諫言した。
蜀王朱椿に招聘され「正学」の号が贈られる。
建文帝が即位すると翰林侍講・翰林学士となり重用され、国家の大事を教授し治世を支えた。
燕王朱棣が挙兵すると朱棣討伐の檄文を書き上げる。
[[南京応天府>建業]]が陥落すると投降を拒み捕縛される。
朱棣が簒奪を正当化する為に即位の詔書を書くよう命じるが、「燕賊簒位」と書いた。
怒った朱棣により弟子・友人・一族九百名を目の前で処刑された後、磔にされ腰斬に処された。
永楽帝は更に彼の著作を焼棄て、門下生や使用人まで処刑。
この大虐殺は「滅十族」と称され、後世まで怖れられた。
**鉄鉉(鼎石)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|75|40|86|75|85|不屈|C|B|S|C|A|B|1366|1402|
【テツゲン(テイセキ)】
明の政治家。
洪武帝の代に疑獄で明白な裁判を行って賞賛され、鼎石の字を賜る。
建文帝の代に山東に赴任し、燕王軍に済南城が包囲されると、盛庸とともに死守した。
朱棣殺害を狙って詐降し、朱棣の入城時に橋を落とすも脱出され、
怒った朱棣の猛攻を受けるも三ヶ月耐え撤退させた。
盛庸を補佐して東昌の戦いで燕王軍を大破し、張玉を戦死させる。
再起した朱棣が黄河を渡ると、
遼東の楊文と燕王軍の後背を討とうとするが、楊文の敗戦により失敗する。
永楽帝の即位後に捕縛され、磔刑に処された後に遺体を油鍋で煮られた。
補足:忠義不屈の人物として永楽帝の没後に「鉄公」と讃えられ、各地の祠で祀られるようになった。
**朱棣
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|98|92|86|94|80|強奪・指導|S|A|S|S|A|A|1360|1424|
【シュテイ】
明の第3代皇帝。成祖永楽帝。
北元対策のため燕王に封じられたが、
恵帝が諸王削藩を進めると挙兵し、恵帝を滅ぼし即位する(靖難の変)。
その経緯から譜代以外の家臣を信用せず、
君主権拡大の一方、大学士や宦官を抜擢し、東廠に言論統制を布かせる等、
太祖の方針を一転させ明の国制を決定的にした。
二大事業に漠北遠征と南海経略があり、殊に六次の南海経略は宦官の鄭和を提督に任じ、
三十余国の朝貢を齎した。
江南の輿論を嫌い、[[北京>薊]]へ奠都した結果、政治と経済の中心地が再び分離されたが、
大運河の改修で漕運が活発化し、南北の結合が本格的に進んだ。
**姚広孝(斯道)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|50|54|92|83|43|鬼謀|B|B|B|C|B|C|1335|1418|
【ヨウコウコウ(シドウ)】
明の政治家。出家しており、号を道衍という。
仏法や陰陽道を学び、兵法にも通じていた。
洪武帝に見出され、燕王朱棣(後の永楽帝)に仕える。
洪武帝が崩御し建文帝が即位すると、燕王府解体を命じられた朱棣に挙兵を促す。
靖難の変では軍師として活躍し、建文帝の軍を打ち破り、朱棣の即位を成し遂げた。
その後、永楽帝に功績第一と称えられ重用され、類書「永楽大典」の編纂などに携わった。
しかしながら儒教思想に反した皇位簒奪を勧めた批判も強く、
晩年には郷里の親族や知人から面会を拒否されるほどであった。
**丘福
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|91|17|23|50|昂揚|S|B|B|S|B|A|1343|1409|
【キュウフク】
明の武将。
燕王朱棣(後の永楽帝)に仕え、朱能・張玉とともに[[北平>薊]]を攻略。
真定、白溝河の戦いで功績を上げ、夾河、滄州、霊璧の戦いでは常に先鋒を担った。
朱能と密かに数百の兵を率いて淮河を渡河し、盛庸の軍に大勝した。
策謀では張玉に及ばないが、勇敢さでは朱能と並ぶと評された。
永楽帝即位後、武の功臣第一位とされ淇国公となる。
漢王朱高煦の立太子工作を行うが、成功しなかった。
十万の軍を率いて北元のオルジェイ・テムル討伐に赴く。
敵を軽んじないよう忠告されるが、千人の兵でヘルレン河を渡河し伏兵に遭って戦死した。
**朱能(士弘)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|85|76|42|75|強襲|S|A|B|A|B|S|1370|1406|
【シュノウ(シコウ)】
明の武将。
燕王朱棣(後の永楽帝)に仕え、朱棣の挙兵に従い張玉らと[[北平>薊]](北京)を奪う。
建文帝の討伐軍として北上した耿炳文、李景隆を破る。
南進して平安、徐福らの軍を破るも、疫病の流行や糧秣が尽きたため撤退論が出る。
その中、朱能は諸将を鼓舞して南進続行を進言する。
朱高煦が建文帝の補給を奪うと、これに乗じて霊壁で大勝し十万の兵を捕虜とし、その勢いをもって[[南京>建業]]を陥落させた。
永楽帝即位後、功臣第二位とされ成国公となる。
その後、胡朝(ベトナム)征伐に向かうも、遠征途上で陣没した。
**張玉(世美)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|90|70|62|79|血路|S|A|B|S|C|C|1343|1401|
【チョウギョク(セイビ)】
元、北元、明の武将。
元および北元に仕えていたが、明の執拗な攻勢の前に洪武十八年に明に降る。
以後は燕王朱棣に仕え、その筆頭武将として燕王府の軍を指揮する。
靖難の変で朱棣が[[北平>薊]]にて挙兵すると、[[薊]]を攻略し、真定で耿炳文を撃破する。
李景隆の軍が北上すると、白溝河での迎撃を進言しこれを打ち破った。
燕王軍が盛庸の大軍と遭遇し東昌で包囲されると、決死の兵を率いて奮戦。
包囲を突破し朱棣を逃がすことに成功するも、張玉は戦死した。
その死に際して朱棣は慟哭し、永楽帝即位後に栄国公と河間王を追贈された。
**張輔(文弼)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|86|76|38|65|威圧|S|A|B|S|C|A|1375|1449|
【チョウホ(ブンヒツ)】
明の武将。
父の張玉に従って靖難の変に参加、父の戦死後は朱棣の南征に従い功績を上げる。
朱能の配下として胡朝征伐に向かうと、途上で朱能が陣没したため軍を引き継ぐ。
胡朝軍を打ち破って首都タインホアを攻略、交阯布政司を置いて唐以来のベトナム服属を成し遂げた。
その後も頻発するベトナムの叛乱を鎮圧し、ベトナムの人々に畏怖された。
洪熙帝の代に漢王朱高煦が簒奪を計画すると、これを張輔が洪熙帝に報告し叛乱を鎮めた。
晩年、エセン・ハーンの侵攻に対する英宗親征に随行するも老兵として軍政に関わらず、土木の変で戦死した。
**鄭和
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|95|77|86|95|94|水神|A|A|S|B|A|S|1371|1434|
【テイワ】
明の部将・宦官。三保太監。
雲南出身のムスリムで、本姓は馬、幼名は三保。
永楽帝の宦官だったが、靖難の変で軍功を挙げ、鄭姓を下賜され太監となる。
南海への大船団の指揮を委ねられ、七度に渡る大航海を行う。
東南アジアからインドへ船団を進め、四度目の航海ではアラビア半島、五度目の航海では東アフリカへと到達している。
この過程で東南アジア諸国の朝貢を促し、国威発揚と海上交易に貢献したが、
彼の死後には費用や儒教の観点から対外積極策は打ち切られた。
彼の大航海は欧州の大航海時代を半世紀以上先取りするものである。
**于謙(延益)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|58|89|92|84|指導|B|B|S|C|S|C|1398|1457|
【ウケン(エンエキ)】
明の政治家、武将。
進士及第後に御史となり、漢王朱高煦の乱では親征軍に同行して投降した朱高煦の取り調べを行う。
以後、河南と山西の巡撫を行い、善政を敷いて民心を得る。
中央召還後、エセン・ハーンの侵攻に対する親征を諌めるも、英宗は出兵し捕虜となる(土木の変)。
この事態に南宋の先例に倣い景泰帝を擁立し、全軍権を委任されて[[北京>薊]]を防衛しエセンを撃退する。
その後、英宗返還のために謀略を駆使して講和を結び、英宗は無事に帰還する。
しかし、奪門の変により英宗が重祚すると、英宗擁立派に反逆罪を誣告され処刑された。
**王守仁(伯安)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|74|93|87|92|洞察|B|A|S|C|A|S|1472|1529|
【オウシュジン(ハクアン)】
明の政治家、武将、思想家。陽明学の始祖で、号は陽明。
宦官劉瑾の専制を批判し左遷されるが、左遷先で陽明学を起こす。
劉瑾処刑後に中央へ戻り、江西・福建・広東で住民が蜂起するとこれを平定。
寧王の乱が生じると、檄を飛ばして江西の諸将を集め、南昌を急襲して陥落させる。
黄家渡で寧王朱宸濠を破り、鄱陽湖で寧王の船団に火を放って壊滅させ、
乱を短期間で鎮圧した功績で「大明軍神」と称えられた。
その後も江西・広東の慰撫に務め、少数民族の叛乱を鎮めるなどの功績を上げた。
広東からの帰還途上で肺の病を患い、没した。
**唐順之(応徳)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|77|91|79|52|71|槍将|S|S|B|A|C|A|1507|1560|
【トウジュンシ(オウトク)】
明の武将。人呼んで「荊川先生」
倭寇やモンゴルと戦った武将であり、明の名将戚継光の先輩格でもある。
拳法・槍術を得意とし、戚継光に槍術を伝授するほどの腕前だったという。
詩文にも優れ、日本では江戸時代『荊川先生文集』がよく読まれた。
武術関連では『武編』のほかに詠詩「楊教師鎗歌」「日本刀歌」「峨嵋道人挙歌」などの作品で知られる。
**張居正(叔大)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|40|17|87|95|47|徴収|C|C|C|C|C|C|1525|1582|
【チョウキョセイ(シュクダイ)】
明の政治家。
徐階に見出され、当時政治を壟断していた厳嵩の排除に協力する。
その後も政敵を排除し、万暦帝の代に政治の独裁権を握った。
倭寇で増大した軍費により国庫は破綻寸前だったため財政改革を行い、考成法を実施して大量の冗官を処分する。
さらに丈量と一条鞭法を実施して国庫を再建し、十年分の糧秣と余剰金を生み出した。
女真族が活発化し北辺が脅かされると、戚継光と李成梁を用いて北辺の守備に当たらせている。
しかし、独裁や言論弾圧などの強硬手法により政敵も多く、病没後に弾劾され死刑扱いとなった。
**戚継光(元敬)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|96|86|81|63|90|指導|S|S|A|A|B|S|1528|1587|
【セキケイコウ(ゲンケイ)】
倭寇およびモンゴル軍を撃退した明を代表する名将。
戚継光は倭寇の被害が著しい浙江へ赴任するが、そこの官軍があまりに弱体化していたので、
そこで戚継光は、住民が精悍なことで知られた金華・義烏の地で兵を募り、
厳しい訓練を施して、精強な自らの軍隊を組織した。
戚継光は軍律を明らかにし、信賞必罰で兵士に臨んだため、決して略奪などは働かない
精鋭部隊となり、戚継光の軍隊は「戚家軍」と呼ばれ倭寇制圧の中核となった。
後に北方に赴任するが、そこでも在任16年間にわたってモンゴルの侵略を防いだ。
戚継光が著した『紀効新書』『練兵実紀』は後世の兵法家の必読書となっている。
※他の特技候補は「築城」あたりか。現在に残る万里の長城は彼が改修・増築したもの。
**兪大猷(志輔)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|91|80|12|88|掃討|S|A|S|B|C|S|1503|1580|
【ユタイユウ(シホ)】
明の武将、武術家。号は虚江。
若い頃より易経を学び、剣と棍と騎射に優れた。
武挙に及第し千戸を授かるが上司に疎まれ失職、しばらく不遇となる。
広西の叛乱鎮圧に起用され活躍、海南を平定する。
後期倭寇が活発化すると十数年にわたって「兪家軍」を率いて迎撃し、戚継光、劉顕らと倭寇を駆逐した。
時の権力者・厳嵩の一派に阿らなかったため幾度も免職するが、その度に倭寇討伐の功績を上げて復官した。
清廉正直な人柄で、倭寇討伐の名将として戚継光と名声を等しくする。
また、武術家として「剣経」などを著している。
**馬芳(徳馨)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|93|92|88|34|72|勇将|S|B|S|S|B|C|1518|1581|
【バホウ(トクケイ)】
明の武将。
十歳の時にモンゴルに掠取される。
狩猟で虎を射倒しアルタンの側付となるが、下賜された良弓良馬を用いて帰還する。
モンゴルの侵犯防衛で戦功を重ねて累進し、行伍から太帥にまで昇りつめた。
敵情に通じて伏兵詭計を見破りつつ、常に先陣に立って奮戦するという戦いぶりで、
戦闘中に兜を脱ぐと敵軍が「馬太帥!」と驚愕して撤退するほどだった。
馬蓮堡防衛では空城の計を用い、敵の退却時に突撃して十万の軍勢を大破している。
大小百余りの戦いで数十の負傷をしつつ、常に寡兵で戦いながら大勝しないことはなかったという。
**李成梁(如契)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|87|74|72|31|詭計|S|A|S|A|C|S|1526|1615|
【リセイリョウ(ジョキツ)】
明の武将。朝鮮から亡命した一族の出身。
遼東総兵となり、二十年以上に渡ってモンゴル、女真の侵攻を防いだ。
この間、王杲や速把亥といった国境を侵す女真族の首領を討った。
女真を統御するため女真族を互いに争わせるため煽動し、
覚昌安と塔克世が殺害されると、塔克世の息子努爾哈赤(ヌルハチ)の後ろ盾となる。
しかし、着服や賄賂などの汚職、流民を虐殺して虚偽の戦勝報告をするなどの悪行が発覚し免職された。
免職と時を同じくして努爾哈赤が女真を統一し、李成梁の行動を「七大恨」と奉じて明と交戦状態に入った。
**李贄(宏甫)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|71|35|89|74|11|論客|C|C|C|C|C|C|1527|1602|
【リシ(コウホ)】
明の思想家。号は卓吾。
王陽明(王守仁)の流れをくむ陽明学の左派リーダーとして名を馳せた。
地方官吏としての生活を送っていたが、54歳の時に引退し思想家として活動する。
李卓吾は「童心(飾りの無い無垢そのものの心)」を重視し、儒教の伝統的な価値観を徹底的に批判した。
著書『蔵書』において歴史上の人物を、儒教的基準で一律に評価できないと主張し、
素行の悪い司馬相如、姦雄と評された[[曹操]]、何度も君主を変えた無節操な馮道など、
悪評の高い歴史上人物を称賛している。また男女に優劣の差はないという思想の持ち主であり、女性の弟子も受け入れた。
あらゆる価値や権威を否定した李卓吾は危険思想家として弾圧を受け、最期は投獄されて獄中で自刎した。
その先進的思想は後の知識人に大きな影響を与え、日本でも幕末維新の思想家・吉田松陰に強い影響を与えている。
**劉綎(省吾)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|74|91|56|68|31|騎将|B|A|A|S|A|C|1558?|1619|
【リュウテイ(ショウゴ)】
明の武将。倭寇討伐で活躍した劉顕の子。
劉顕の苗族討伐に従軍し功績を立てる。
ビルマの侵犯に対応し、象兵を打ち破って雲南を回復する。
文禄の役で四川兵を率いて朝鮮に二年間留まった。
慶長の役で再び朝鮮に赴いて小西行長らと戦い、撤兵交渉を行って順天倭城に入る。
四川兵に日本軍の火器を導入し播州の乱の鎮圧に貢献したが、
驕って官吏を殴打したため禄を半年没収されている。
サルフの戦いで友軍の敗戦を知らずに深入りし戦死した。
馬上で百二十斤の鉄刀を飛ぶように用い「劉大刀」の異名で呼ばれ、諸将の中で最も驍勇とされた。
※入力する場合、「綎」の字は「廷」などを代わりに当てる。
なお、生年は1553年、1558年、1560年と諸説ある。
**熊廷弼(飛百)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|78|84|86|79|築城|A|B|S|B|S|C|1569|1625|
【ユウテイヒツ(ヒヒャク)】
明の武将、政治家。号は芝岡。
遼東経略の楊鎬がサルフの戦いで大敗すると、後任の経略となる。
サルフから逃げ帰った武将を処罰して城濠を修復し、兵器と火器を揃え防御を固めた。
ヌルハチの瀋陽侵攻を撃退するも、不仲の御史たちに弾劾され職を去った。
瀋陽・遼陽が相次いで陥落すると再び遼東経略に任じられる。
しかし遼東巡撫の王化貞は驕慢で、熊廷弼の忠告に従わず広寧を失陥する。
熊廷弼は死戦を繰り広げて山海関へ退却した。
後に姦臣の魏忠賢により領土失陥の罪を追求され処刑されたが、後に冤罪として名誉回復された。
補足:最大の戦犯である王化貞は賄賂を送って助命されたが、魏忠賢誅殺後にそれが発覚し処刑された。
**孫承宗(稚縄)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|60|87|82|71|屯田|A|C|S|B|S|A|1563|1638|
【ソンショウソウ(チジョウ)】
明の政治家、武将。科挙に榜眼で合格した。
広寧失陥後に兵部尚書に任じられ、後に自ら志願して遼東に赴任する。
軍制を整えて袁崇煥らに軍備を整えさせ、軍内の綱紀を改め馬世龍に軍を監督させた。
遼寧など九つの城、四十五の堡を修復し、十一万の軍を屯田させ、後金に備えた。
しかし、柳河の戦いで馬世龍が敗戦すると、魏忠賢と対立し辞任する。
袁崇煥が捕縛されると山海関の守将となって後金の侵攻を防ぐが、
袁崇煥が処刑されたため祖大寿が清に投降してしまい、罷免される。
清の第四次侵攻の中、故郷の高陽城で抗戦し戦死した。
**徐光啓(子先)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|38|22|91|84|75|発明|C|C|B|C|S|C|1562|1633|
【ジョコウケイ(シセン)】
明末の政治家。農学者。科学者。上海の人。
貧しい生活の中勉学を重ね、43歳の時にようやく科挙に合格する。
キリスト教宣教師のマテオ・リッチやダ・ローニャと親交を結び、西洋文化・科学に関心を持つ。
崇禎帝の時に宰相となり、清の侵攻に対する代案として、西洋の火薬製造技術の導入を提案した。
西洋の暦法を取り入れて、明の暦(大統暦)を改修するとともに、西洋暦学・科学の本を次々と翻訳した。
マテオ・リッチの協力を得てユークリッド幾何学を翻訳した『幾何原本』を刊行したり、
中国古来の農学者の説を集大成した『農政全書』を編集するなど、自らの主要な研究をたゆまず継続した。
なお徐光啓が策定した暦は明では用いられなかったが、後の清では新暦として採用された。
**茅元儀(止生)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|67|88|51|64|秘計|A|A|A|A|B|A|1594|1640|
【ホウゲンギ(シセイ)】
明の軍学者、武将。号は石民や東海波臣、夢閣主人など。
幼少から文才を発揮し、18歳で北京国子監に遊学。
後に孫承宗の命で従軍して、その軍機に参画し実戦上で活躍した。
明代の軍事百科全書で有名な『武備志』は、26歳から28歳の3年間で完成させたものだという。
これ以外に十数種の史学著作、詩文集を残した。
晩年は人にそしられて左遷され、清朝が興り各地に反乱が勃発する中、明朝を憂い酒に溺れて没した。
『武備志』は清朝では発禁書となったが、日本では翻訳版が出て武士階級に普及した。
**馬世龍(蒼淵)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|87|74|27|50||A|B|A|S|B|A|1594|1634|
【バセイリュウ(ソウエン)】
明の武将。別字に蒼元。
武挙に及第して孫承宗に才を認められて兵を統率し、袁崇煥の東巡に従い形勢を調査して帰還する。
軍費の増大が馬世龍に原因があるとして誣告されるが、孫承宗の弁護により不問となる。
降将の言を入れて耀州に軍を派遣するも、派遣軍は柳河の戦いで壊滅し、弾劾されて職を去った。
その後逮捕されたが、後金の侵攻を受けると再度起用される。
祖大寿とともに遵永の戦いで四城を回復し、祖大寿に次ぐ功績を立てた。
寧夏総兵となると、オルドス(モンゴルの部族)を撃ち破り西方を震撼させた。
※特技は寧夏で地形を生かした戦い方(伏兵による挟撃)をして連戦連勝しているので「掎角」か「待伏」あたりか。
**袁崇煥(元素)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|94|63|93|84|89|工神|A|B|S|A|S|B|1584|1630|
【エンスウカン(ゲンソ)】
明末の武将。広東省東莞の人。
本来は科挙に合格し、進士に及第した文官だったが、仕官時に軍事に関心を持っていたとされる。
後金対策のため、寧遠城を築城し、ポルトガル製の大砲(紅夷砲)を導入する等防備を固めた。
この策は当たり、後金のヌルハチ、ホンタイジの侵攻を阻止出来たが、
買収された宦官の讒言で崇禎帝から謀反の嫌疑を被ったため、凌遅刑にされた。
[[諸葛孔明>諸葛亮]]に準えられた軍略と、兵への慈愛に満ちた将であり、彼の処刑は明の崩壊を決定づけた。
後、彼の子孫は皮肉にも後金・清に仕えて昇進している。
**曹文詔
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|89|80|47|72|連戦|S|A|A|S|C|C|?|1635|
【ソウブンショウ】
明の武将。
勇毅と智略があり、熊廷弼、孫承宗の麾下として遼東で遊撃任務を担当し軍功を重ねる。
馬世龍の参将となり遵永の戦いで活躍する。
陝西で民衆蜂起が起こると鎮定に赴き、各地を転戦して反乱の首領を次々と討ち取るか捕縛していった。
高迎祥・李自成・張献忠らを河南に追い詰め包囲するも、配下の王朴の失策で取り逃がす。
後金の侵攻では懐仁を固守するが、後金軍の撤退の際に追撃を仕掛け敗れている。
その後も洪承畴らと反乱鎮圧で功績を重ねるが、李自成を追撃中に包囲されてしまう。
数十人を斬るが力尽き、自刎した。
**盧象昇(建闘)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|89|76|69|84|乱戦|A|B|A|A|A|A|1600|1639|
【ロショウショウ(ケントウ)】
明の政治家、武将。号は九台。
幼い時から読書と騎射を好み、白い肌の文人ながら腕力にも恵まれていた。
ホンタイジの侵攻に対し「天雄軍」を組織し、高迎祥率いる反乱軍に対抗する。
兵糧が切れると自ら食事を絶って兵の信頼を得、高迎祥を撃ち破る。
その後も反乱軍に連勝を重ね、高迎祥を湖広まで追いやった。
清が侵攻の気配を見せると[[北京>薊]]で練兵を行い、清軍を掣肘する。
大軍を整えた清軍の侵攻に対し、寡兵ながら慶都・真定で清軍を食い止める。
宦官の高起潜に援軍を求めるが拒否されたため、孤軍で死戦を挑み戦死した。
**史可法(憲之)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|64|83|80|87|不屈|A|A|A|C|A|C|1601|1645|
【シカホウ(ケンシ)】
明、南明の政治家。別字に道隣。
東林党の左光斗に師事し、師が誅殺されるとその忠義心を受け継ぐ。
李自成の乱で崇禎帝が自縊すると、南明の弘光帝の幕下に加わる。
江北四鎮で北伐を企図するも、南明の援助を受けられずに失敗に終わる。
清が李自成を滅ぼし南下すると、[[南京>建業]]郊外で清の侵攻を食い止め、揚州に篭って抗戦する。
多爾袞(ドルゴン)の降伏勧告に応じず、
砲撃で城壁が破られると市街戦で抵抗し、清軍に多大な出血を強いて自刎した。
その後、激烈な抵抗に怒った予親王多鐸(ドド)により、揚州十日と呼ばれる虐殺が起こった。
**瞿式耜(起田)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|75|39|85|76|84|詩想|B|C|A|C|B|C|1590|1651|
【クシキシ(キデン)】
明、南明の政治家。別字に伯略。号は稼軒。
崇徳帝の治世で戸科給事中となるも、佞臣の排斥により免官され投獄されている。
この間、「媿林漫録」などの著作を著している。
李自成により[[北京>薊]]が陥落し崇禎帝が自殺すると、桂王朱由榔(後の永暦帝)を擁立して桂林で挙兵。
桂林を守備し清軍の桂林侵攻を三度防ぐも、その後城壁を破られ清軍に制圧される。
永暦帝を逃がすも自身は城内に残り、捕縛される際には張同敞(張居正の孫)と酒を酌み交わしていたという。
捕縛後に処刑されたが、獄中でも屈せずに「浩気吟」など百余りの詩を詠み続けた。
**李定国(寧宇)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|89|73|54|87|槍将|S|A|A|B|B|A|1621|1662|
【リテイコク(ネイウ)】
大西、南明の武将。別字に鴻遠など。
張献忠の養子となって明末の反乱挙兵に従う。
武芸と兵法に通じて武勲を重ね、張献忠の暴虐に苦心しながら大西政権樹立に貢献する。
張献忠が清に敗死すると、大西軍を纏めて清に抵抗し、南明の永暦帝を迎え入れて北伐を行う。
靖州・桂林・衝陽と大勝を重ねて湖南広西地方を一時回復するも、
[[鄭成功]]の合流が遅れて孤戦を強いられ、北伐は頓挫した。
南明が瓦解し清の討伐を受けると、
永暦帝と昆明から落ち延びるが離散し、永暦帝殺害の報を受け憂死した。
鄭成功とともに抗清の英雄として讃えられている。
補足:字は『清史稿』では鴻遠、南明史の『永暦実録』では寧宇。これ以外にも霖宇、大授、一純などが伝わる。
その勇猛さから「小柴王」「小尉遅」「万人敵」等の異名で呼ばれたという。
**張献忠
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|73|64|62|1|1|強奪||||||C|1606|1647|
【チョウケンチュウ】
陝西省出身の軍人で、法を犯し除籍され反政府運動に参加。
清に逐われ60万の叛乱軍を擁して四川に入り、大量虐殺の限りを尽くした。
嗜虐癖の異常に強い人間で、忽ち陥落させた重慶で民衆と降兵3万7千を集め1人ずつ惨殺。
[[成都]]を占領すると大西王朝の皇帝に「即位」した。
先ず成都守備軍の士官とその家族32万人を集め、その15歳以上の者を全員殺害、
屍は城外に延々と数十kmに渡り積上げられた。
この頃から自らに「1日200人」の殺害を課し、
兵士がいなくなれば僧侶を、次は職人、男、女と、虐殺を続けたが、勿論王朝役人も無関係では無かった。
また宮殿前で喜捨を行う触書を出し四川中から数万の僧侶を集め、軍を投入し鏖殺。
科挙を行うとの偽情報で集まった1万7千もの知識人を機械的に斬首し屍は川に遺棄、
民衆達の激しい抵抗には「草殺」で根絶やしにしていった。
殺害人数で恩賞が決定した為に我先にと兵卒は殺戮を行ったが、
大量虐殺による人口激減により軈て「食人」の様相を帯びる。
四川を文字通り喰らい尽して放棄する処を清に征伐された。
彼の行為に因り古代より続く四川人は壊滅し、
現代の四川人は州外から流入した民衆の末裔である。その為か言語も北京語に近い。
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*注意点
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