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「みんなの新武将/孫呉」(2022/04/25 (月) 01:55:50) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*孫呉(229~280)
呉郡の孫氏が江南に樹立した政権。
始祖とされる[[孫堅]]は[[袁術]]に属して[[董卓]]討伐に加わり、後に荊州攻略中に戦死した。
嗣子の[[孫策]]は袁術の僭称を機に自立して[[呉]][[会>会稽]]地方を征服。
孫策を襲いだ[[孫権]]が荊州を接収した[[曹操]]を赤壁で撃退し、江南の独立と土豪に対する求心力を確立した。
南遷した名士にも政権に連なる者が多く、219年に[[劉備]]から荊州を奪い、229年には[[建業]]に拠って称帝した。
夷陵の役の前後を除いては概ね蜀と同盟して魏に当たり、江南開発による国力の増強を進めたが、
人口の中原回帰や山越の反抗などに苦しみ、孫権の晩年の内訌(二宮の変)が長期化したこともあり、
挙国的な軍事行動は年々困難を極めていく。
殊に山越の存在が呉の大患だった事は敵国である魏の識者にも指摘され、
土豪勢力の伸張もあって軍事は保守に偏り、蜀との連携も円滑を欠いた。
末期には魏の征蜀に呼応した交州の離叛や[[孫皓]]の集権化の失敗があり、280年に半ば自壊的に晋の南征軍に征服された。
物語的には地味ながらも、後の南朝の先駆け的存在であり、長い目で言えば現在の経済南遷の先鞭という非常に大きな意義を残した王朝であった。
**孫権(仲謀)
※即位後Ver.
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|素質|親愛|嫌悪|
|36|47|30|39|35|強奪|C|C|C|C|C|C|早熟・短|[[孫亮]]・[[孫魯班]]・[[孫峻]]・[[歩隲]]|[[陸遜]]・[[吾粲]]・[[朱拠]]・[[顧譚]]・[[張休]]|
【ソンケン(チュウボウ)】
詳細は[[本人の項>孫権]]を参照。
**孫邵(長緒)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|69|60|89|86|69|造船|B|C|B|B|C|A|163|225|
【ソンショウ(チョウショ)】
呉の初代丞相。[[北海]]郡の人。
身長は八尺あり、最初は[[孔融]]の功曹であったが、彼に「朝廷に立つべき人物」と評された。
後に[[劉繇]]の下に身を寄せ、[[孫権]]が江東の主となると臣従。
様々な献策を行い、朝廷との交渉に際し献上物も送り、江東の主としての承認を求めるよう進言した。
呉が黄武という年号を用い始めた頃には丞相に任じられ、陽羨侯に封じられた。
これ程の人物にも拘らず彼が『呉書』に立伝されていないのは、
『呉書』を編纂した[[韋昭]]が[[張温]]の派閥に属しており、彼と張温が反目したためとされる。
**孫松(子喬)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|母|
|71|65|79|72|83|操舵|A|B|A|C|B|S|200?|231|[[孫翊]]|[[徐氏]]|
【ソンショウ(シキョウ)】
呉の将。[[孫権]]の弟の孫翊の息子。
社交に長け、人々を援助する事を好んだと言われる。
父の孫翊は[[孫策]]の風格があると称されたほど勇猛果敢で短気だったが、
彼は対照的に謙虚で温厚な性質だったようである。
巴丘に駐屯していた際、[[陸遜]]に自らの施策に関して助言を受け、
自らの失策を諌められた際にも、些か不満が表情に出た程度で自らの非を認め、陸遜と和解した。
射声校尉、都郷侯に任命された後に死去。
蜀の[[諸葛亮]]も養子である[[諸葛喬]]から孫松の声望を聞いており、その逝去に落胆したという。
**孫紹
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|母|
|63|68|57|54|80|掃討|B|C|A|C|B|A|200|?|[[孫策]]|[[大喬]]|
【ソンショウ】
呉の将。孫策の長子。孫奉の父。
孫策が早世した際にはまだ幼少であり、先行きを案じた孫策は、跡継ぎとして次弟の[[孫権]]を選んだ。
孫権が即位すると、呉侯に封じられ、のちに上虞侯とした。
※厳密には大喬が生母であった可能性は低いが、ゲームの仕様を優先します。
**陸瑁(子璋)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|48|37|72|75|81|名声|C|B|B|C|B|A|?|239|
【リクボウ(シショウ)】
呉の政治家。[[陸遜]]の実弟。
若い頃から学問を好み、義に厚く、清貧の士を厚遇して彼らと苦楽を共にした。
[[孫権]]に召されて出仕し、議郎・選曹尚書の官に就く。
その後、遼東の[[公孫淵]]が、孫権の送った友好の使者を斬り、魏へ帰順する事件が起きた。
孫権は激怒して遼東遠征を計画したが、陸瑁の理路整然とした意見を聞き入れ、遠征を取りやめた。
子孫は大いに繁栄し、西晋や東晋、西魏の重臣になった者がいると伝えられる。
**劉基(敬輿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|
|54|25|80|77|87|親越|C|C|B|C|C|A|184?|232?|[[劉繇]]|
【リュウキ(ケイヨ)】
後漢末から三国・呉の政治家。
後漢の揚州刺史劉繇の長子。『演義』には登場しない。
父の没後は喪に服し、旧臣の贈答品を固辞し、遺族と共に半ば隠棲していた。
[[孫策]]が勢力を拡大すると、[[王朗]]の助言を受け、両者は和解する。
容姿が端麗であり、[[孫権]]にも厚遇された。
泥酔した孫権が[[虞翻]]を殺害しようとした際には、懸命に諫めた。
酒宴で雷雨に見舞われた際に、主君用の傘を特別に許された逸話もある。
孫権が帝位に即くと、光禄勲に昇進。
死後、孫権は彼の娘を孫覇に娶らせ、遺族に最高度の待遇を与えている。
**是儀(子羽)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|18|14|83|87|74|能吏|C|C|C|C|C|B|?|?|
【シギ(シウ)】
呉の政治家。[[北海]]郡営陵の人。
元は氏姓だが、[[孔融]]に揶揄されたのを機に是に改姓したという。
戦乱を避けて江東に移住したが、[[孫権]]の代に招聘されて出仕する。
[[呂蒙]]の[[関羽]]攻撃に全面的に賛同し、自身も荊州の関羽討伐戦に参加した。
武昌に都が置かれると、裨将軍・都亭侯を歴任。
石亭の戦いでは[[曹休]]を誘き寄せる計画を練り、曹休の魏軍に大勝した。
太子[[孫登]]の補佐を務めるほか、奸臣呂壱への抗弁や、「二宮の変」の阻止にも尽力し、
呉の統治を内部から支えた。
数十年の職務期間において、一度の過ちも無かったという。
**胡綜(偉則)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|65|68|78|65|71|沈着|A|B|A|C|C|A|?|243|
【コソウ(イソク)】
呉の政治家。[[汝南]]郡固始の人。
幼い頃父を亡くして母と江南に移住し、[[孫策]]に見出される。
[[孫権]]とは同年代で、机を並べて共に勉強した。
孫策没後は孫権に従い、[[黄祖]]討伐や夷陵の戦いで活躍する。
晋宗が魏に寝返ると[[賀斉]]・[[糜芳]]らと共に討伐し、[[周魴]]と共に鄱陽の賊を討伐した。
政治面では国政全般の処理に携わり、外交書や官位の任命書、
魏の呉質に寝返りを勧める手紙などを起草。
酒乱の気もあったが、平時は訴訟を管掌する任務に就き、孫権と[[張昭]]の対立を仲裁した。
魏の埋伏の毒の隠蕃を周囲が信任し油断する中、常に冷静な意見を保った。
なお『Ⅸ』に登場した胡沖は彼の子。
**殷礼(徳嗣)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|46|37|72|67|59|風水|C|C|B|C|C|B|?|?|
【インレイ(トクシ)】
呉の政治家。[[呉]]郡雲陽の人。
若くして官につき、顧邵から[[吾粲]]と共に友人として遇された。
[[孫権]]が呉王になると郎中に昇進し、[[張温]]と共に蜀に赴き[[諸葛亮]]から高く評価される。
官職を歴任した後、[[零陵]]太守となる。魏の[[曹芳]]の時代に蜀との協力かつ、
呉の総力を挙げての大規模の攻勢を進言するが採用されなかった。
殷礼は小事に興味を持たず、深い見識を持っていた。
没年は不明だが在任中に亡くなった。
**朱績(公緒)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|嫌悪武将|
|73|52|70|51|54|鉄壁|B|B|A|C|B|A|?|270|[[朱然]]|[[諸葛恪]]|
【シュセキ(コウショ)】
呉の将。朱然の子。後に姓を施に変える。諸葛恪とは不仲だった。
父の功績によって官につき[[潘濬]]の異民族討伐に従軍し胆力を称賛される。
二宮の変では[[孫和]]を支持し、父の死後はその後を継ぎ[[江陵]]の守備を任され魏の王昶の大軍を退けた。
[[孫綝]]が国を乱すと、内紛の隙を魏に突かれることを心配し蜀に魏への牽制を依頼した。
大司馬にまで昇るが、[[孫皓]]に対して猜疑心を持って接したため煙たがられていた。
[[陳寿]]・陸機や敵国の魏からも呉の名将と評価されている。
**丁固(子賤)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|61|37|72|75|62|親越|C|C|A|C|C|A|198|273|
【テイコ(シセン)】
呉の将。[[会稽]]郡山陰の人。
元の名は密だが改名する。若い頃から[[闞沢]]や[[虞翻]]に将来を期待されていた。
二宮の変の頃には尚書の位にあり、廷尉に昇進した後[[鍾離牧]]と共に鄱陽の反乱を討伐した。
[[孫皓]]が武昌に遷都すると[[諸葛靚]]と共に[[建業]]の守りを任され施丹の反乱を鎮圧した。
丁固は[[陸凱]]や[[丁奉]]と共に孫皓の暗殺を謀るが[[留平]]に断られたため断念した。
司徒にまで昇進し、76歳で死去。
陸機の『弁亡論』にも登場する呉の晩年の名臣。
**徐詳(子明)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|47|34|71|72|58|屯田|C|C|B|C|A|A|?|?|
【ジョショウ(シメイ)】
呉の将・政治家。[[呉]]郡烏程の人。
217年の濡須口の戦いの際、停戦の使者として[[曹操]]の元に赴く。
文武に優れた才能を発揮し、是儀・胡琮と共に国家と軍事の機密事項の処理を任された。
後、郎中に昇進し、胡綜と共に領軍将軍に任命されている。
呉の食糧管理を一任されていたが、胡綜よりも早死した。
彼の没後、その軍は[[諸葛恪]]が引き継いだ。
**秦松(文表)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|30|22|77|84|68|指導|C|C|C|C|C|B|?|?|
【シンショウ(ブンヒョウ)】
呉の政治家。広陵の人。
呉の「二張」[[張紘]]と同郷で、同じく同郷の陳端らとともに[[孫策]]麾下に加わる。
[[曹操]]が南下してくると、[[張昭]]らと共に降伏を主張している。
史書には常に張昭・張紘の「二張」とともに名前が見えることから、
最上級の幕僚(おそらく張昭・張紘と並ぶ文官の第三位)として厚く遇されていたと見られる。
陳端とともに早世した。
**孫河(伯海)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|67|69|63|57|68|補佐|B|B|A|C|C|A|?|204|
【ソンカ(ハクカイ)】
呉の皇族の一人。[[呉]]郡の人。[[孫桓]]の父。[[孫韶]]の叔父。
[[孫堅]]の族子であったが、俞家の養子となり、
孫堅の挙兵に若くして従い腹心として重用され、参加した戦いでは常に先鋒を務めた。
孫堅死亡後、配下の諸将は[[袁術]]配下に吸収されるが、
[[呂範]]と共に[[孫策]]に付き従い、旗揚げまでの不遇時代を支え続けた。
独立後は呉や[[会稽]]攻略へ従軍し、[[孫権]]の代には李術の討伐でも功績を挙げ出世し、[[廬江]]太守となる。
だが、[[孫翊]]が暗殺された時に巻き添えで殺された。
子の孫桓が幼少であったため、彼の軍は甥の孫韶が引き継いだ。
**歩練師
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|37|16|60|68|90|内助|C|C|C|C|C|C|?|238|
【ホレンシ】
[[孫権]]の夫人の一人。歩夫人として知られる。『建康実録』によると諱は「練師」。臨淮郡淮陰県の人で[[歩隲]]の同族。
漢の末年に母に連れられ戦乱を避けて[[廬江]]に移住したが、廬江が[[孫策]]に攻められると一家は江東に避難した。
その美貌から孫権の寵愛を得、[[孫魯班]]、孫魯育の二人の娘を産んだ。
嫉妬知らずの性格で他の後宮の女性の後押しをしたので孫権からは大切にされた。孫権は歩練師を皇后にしたかったが、
群臣は皇太子の[[孫登]]の母親で既に離縁されて[[呉]]郡に戻されていた徐夫人を推薦したので孫権はこの問題を十年以上放置していた。
しかし宮中では歩練師は皇后として扱われていた。238年に死去。群臣は孫権に皇后の位を彼女に追贈するよう勧め、孫権はそれを受け入れた。
**孫賁(伯陽)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|
|64|68|50|55|56||B|B|B|C|C|A|?|?|[[呉景]]|
【ソンホン(ハクヨウ)】
[[孫堅]]の甥。[[孫策]]・[[孫権]]の従兄。[[孫歆]]・[[孫震]]の祖父。
孫堅の挙兵に参加する。
孫堅死後、その軍を引き継いで[[袁術]]軍の麾下となる。
九江太守の[[周昂]]を破り、豫州刺史に任命された。
呉景とともに[[劉繇]]を攻めるが苦戦し、孫策が出陣したことで丹陽を攻略した。
孫策により袁術の下へ還されるが、袁術が皇帝を僭称したため妻子を捨てて孫策軍に駆けつけた。
[[劉勳]]、[[黄祖]]討伐にも従軍し、予章太守を務めた。
孫権の代には、[[曹操]]の南下に際して帰順しようとし、[[朱治]]に止められている。
※読みは「ソンフン」とされることも多いが、ゲーム中の列伝(呉景、周昂など)では読みは「ソンホン」となっている。
読みはお好みで選択。
**孫輔(国儀)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|
|70|68|52|60|64|補佐|B|A|B|C|C|A|?|?|[[孫策]]|[[孫権]]|
【ソンホ(コクギ)】
[[孫堅]]の甥。孫賁の弟。孫策・孫権の従兄。
幼い時に両親が死んだため、長兄の孫賁に養われた。
孫策の挙兵に従い、揚武校尉として江東の平定で孫策を補佐する。
丹陽・宣城・始安などの討伐では歴陽に駐屯し、
[[袁術]]の介入を防御し、戦乱で離散した江東の民を集めて組織させた。
祖郎討伐では祖郎を捕え、[[劉勳]]討伐では先鋒として功績を上げ、[[廬江]]太守となる。
孫権の代に[[曹操]]に内通したと告発され、流罪となり幽閉されたまま死んだ。
曹操に通じたのは、孫権に江東を守り抜く力がないと判断したからといわれている。
**谷利
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|
|51|74|60|21|64|護衛|B|A|C|C|C|A|?|?|[[孫権]]|
【コクリ】
呉の武将。
孫権の側近で、謹直な性格を孫権に賞されて親近監を務めた。
合肥の戦い(第二次)に随軍し、退却時に[[張遼]]の追撃を受ける。
逍遥津の橋が断たれていたが、孫権の乗馬に鞭を入れて馬を跳ばし孫権の窮地を救った。
孫権が巨艦の試験航海に出た際に嵐に遭遇すると、
孫権の航海続行の命令に反し、舵取りに剣を向けて近くの樊口に行くよう命じた。
孫権から臆病者と誂われるが、孫権を失って呉に影響が出ることを怖れたと答えた。
以後、孫権は谷利を重視し、名前で呼ばず「谷」と呼んで敬意を払われた。
**賀邵(興伯)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|34|29|69|70|71||C|C|C|C|C|B|226|275|
【ガショウ(コウハク)】
呉の政治家。[[賀斉]]の孫。
[[孫休]]の代に散騎中常侍に任じられ、呉郡太守を務めた。
[[孫皓]]が即位すると中書令や太子太傅を歴任する。
孫皓に対して、忠臣の諫言を聞き、奸臣を遠ざけるよう直言した。
また、苛政を除いて国と民を豊かにし、過去の歴史に学んで行いを改めるよう諌めた。
このため孫皓に恨まれ、国事を誹謗したとして免職された。
間もなく復職するが、中風で口が利けなくなり数ヶ月で辞職する。
これを孫皓に仮病と疑われ、拷問にかけられ一言も話せないまま殺された。
**王蕃(永元)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|23|28|74|60|67|風水|C|C|C|C|B|C|228|266|
【オウシン(エイゲン)】
呉の政治家。
博学多聞で天文や数学にも通じていた。
尚書郎を務めたが一時官を去り、[[孫休]]即位後に散騎中常侍に任じられる。
蜀漢に遣わされた際には蜀の人からも称賛を受けた。
[[孫皓]]が即位すると常侍となるが、中書丞の陳聲らに讒言される中でも憚らずに直言を行った。
孫皓の酒宴の際に、酔っても威厳のある姿でいたため、怒った孫皓に斬られた。
天文学者としては渾天儀を作って一年の長さを求め、
数学者としては円周率を3.15以内と算出し、後代へ業績を残している。
**陸胤(敬宗)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|
|71|67|74|73|80|不屈|B|B|B|C|A|A|?|?|[[孫和]]、[[陸遜]]|
【リクイン(ケイソウ)】
呉の政治家、武将。[[陸凱]]の弟。
孫和に礼遇されるが、二宮の変に巻き込まれた。
孫覇の立太子工作を聞いた孫和に求められ、陸遜に上奏を依頼する。
これを聞いた孫覇派の楊竺は、陸胤を密告者として[[孫権]]に讒訴し、投獄された。
拷問を受けるが、孫和を守るために孫和の名を一度も口に出さずに耐え抜いた。
二宮の変後は衡陽督となり、交州で趙嫗の反乱が起きると交州刺史として乱を鎮圧する。
高涼の黄呉を投降させ、安南将軍として蒼梧の賊も平定した。
華覈が中央に召還するよう[[孫休]]に推薦したが、間もなく没した。
※生年は200年頃(陸凱の生年の少し後)、没年は260年頃(孫休の治世前半)に設定。
**孫奐(季明)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|
|73|67|60|67|70||B|B|B|C|A|A|195|234|[[孫静]]|
【ソンカン(キメイ)】
呉の武将。孫静の子、[[孫瑜]]、[[孫皎]]の弟。
兄の孫皎の死後、その軍と職を引き継ぎ、揚武中郎将・[[江夏]]太守となる。
孫皎の幕僚を礼遇して、朴訥な人柄ながら機敏に職務にあたり賞賛された。
[[孫権]]が石陽を攻めた際に、別働隊で淮河への退路を断たせ、自らは先鋒軍を率いて城を攻め落とした。
孫権はそれまで孫奐を鈍い人物だと思っていたが、その才能を見直し揚威将軍に任じた。
学問を愛し、部曲の子弟を学ばせ、朝廷に仕える人物を数十人輩出した。
**孫壱
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|58|60|37|48|57||C|B|C|C|C|A|?|259|
【ソンイツ】
呉の武将。[[孫静]]の孫。孫奐の庶子。
兄の孫承が没すると、孫承に子が無かったため跡を継いだ。
[[孫峻]]が[[諸葛恪]]を誅殺すると、全熙、施績(朱績)と共に諸葛融を攻め、自殺に追い込んだ。
鎮南将軍、鎮軍将軍、仮節を務め、夏口を治めた。
[[孫綝]]が実権を握ると、義弟の[[滕胤]]・[[呂拠]]が反乱を起こしたため孫綝に猜疑される。
その後、孫綝の命を受けた[[朱異]]の侵攻を受けたため、魏に出奔した。
魏では[[曹芳]]の貴人だった邢氏を妻に賜るなどの厚遇を受けたが、
邢氏は嫉妬深い性格だったため、堪え切れなくなった部下により邢氏とともに殺害された。
※孫覇(孫権の第四子)の子の孫壱とは別人。
**孫慮(子智)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|
|59|24|85|82|78||C|C|C|C|B|A|213|232|[[孫権]]|
【ソンリョ(シチ)】
孫権の子。[[孫登]]の弟、[[孫和]]の兄。
幼い時から賢く才能を示したため、孫権に愛され建昌侯に封じられる。
孫権が皇帝に即位した頃、闘鴨に熱中して[[陸遜]]から諌められるが、諌めを直ぐに聞き入れている。
[[顧雍]]が孫慮を王に進封するよう上奏したが、孫権より却下される。
その二年後に同様の上疏があったため、鎮軍大将軍として開府が認められ、半州を統治した。
事に臨むに当たって法を順守し、師や友を敬ったため声望を得た。
しかし、二十歳の若さで早世した。
**孫覇(子威)
【ソンハ(シイ)】
[[孫権]]の子。[[孫和]]の弟、孫奮の兄。
『[[みんなの新武将/後漢末~三国>みんなの新武将/後漢末~三国#id_fae9df83]]』の「三国志Ⅸに登場した武将」を参照。
親愛は[[歩隲]]、[[全琮]]、[[孫魯班]]、[[呂拠]]、[[呂岱]]
嫌悪は[[孫和]]、[[陸遜]]、[[諸葛恪]]、[[顧譚]]、[[朱拠]]
**孫奮(子揚)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|嫌悪|
|57|64|12|17|11||C|C|B|C|C|B|?|270頃|[[孫権]]|[[諸葛恪]]|
【ソンフン(シヨウ)】
孫権の第五子。孫覇の弟、[[孫休]]の兄。
斉王に封じられ、武昌に居を構えた。
諸葛恪が実権を握ると予章へ移そうとしたため、激怒し命に従わなかった。
度々法に触れることを行ったため、諸葛恪から行状を諌められる。
これを畏れた孫奮は南昌に移るが、その後も遊猟に耽った。
諸葛恪が死ぬと実権を握るために[[建業]]に向かおうとし、諌めた部下を殺害したため庶人に落とされた。
[[孫皓]]の代に、孫皓の死亡説と孫奮の擁立の噂が民に広まった。
この噂を信じた予章太守の張俊が孫奮と結ぼうとしたため、孫皓により張俊は処刑され、孫奮も誅殺された。
※孫休の兄なので生年は235年以前。
**孫魯育(小虎)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|配偶者|親愛|嫌悪|
|7|3|53|54|74|内助|C|C|C|C|C|C|?|255|[[孫権]]|[[朱拠]]|[[孫和]]|[[孫魯班]]、[[全琮]]|
【ソンロイク(ショウコ)】
孫権と歩練師の娘。孫魯班の同母妹。朱拠に嫁ぎ、朱公主と呼ばれる。
朱拠との娘は、孫魯育の兄弟である[[孫休]]に嫁いでいる。
二宮の変では朱拠が孫和についたが、
孫魯班は孫和の廃太子を計画して王夫人(孫和の生母)を讒言したため、姉妹間で対立する。
朱拠が孫覇派の孫弘に賜死の命令を捏造され自殺すると、劉纂に嫁ぐ。
孫魯班により[[孫峻]]の謀殺計画に関わったと誣告され、自殺させられた。
[[孫亮]]が孫魯育の謀殺を推察したため、
これを覆い隠すために孫魯班によって朱拠と孫魯育の息子が処刑された。
※姉の孫魯班がゲーム内では202年生まれのため、生年は203年以降。
**呉範(文則)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|11|21|66|53|66|風水|C|C|C|C|C|C|?|226|
【ゴハン(ブンソク)】
占術師。[[会稽]]出身。呉の「八絶」の一人。
暦数を修め、[[洛陽]]で学ぼうとしたが戦乱のために洛陽に行けなかった。
[[孫権]]が立つと災害や瑞兆を占い、的確だったため名を馳せた。
[[黄祖]]攻めを占うと、翌年に攻めるべきで翌年には[[劉表]]が死ぬと述べた。
翌年の黄祖攻めでは風気を見て孫権に慶賀を述べ、その後から黄祖を破った報せが届いた。
その後も[[劉備]]の入蜀、[[関羽]]討伐、劉備の夷陵出兵、蜀との和睦を予見した。
孫権が呉王となると、孫権は呉範に術の教授を請うがこれを断ったため、論功行賞から名前が削られた。
**趙達
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|13|24|64|49|69|風水|C|C|C|C|C|C|?|?|
【チョウタツ】
占術師。河南出身。呉の「八絶」の一人。
後漢の侍中だった単甫に学び、東南に王者の気を見て江東に渡る。
「九宮一算の術」を使い、飛蝗の数を当て、隠伏したものを当てることが出来た。
この術を学ぼうと[[闞沢]]や殷礼が訪れたが、術を惜しんで明かさなかった。
[[孫権]]は出征の度に占わせていたが、
孫権にも術法を教えなかったため、禄や位は与えられなかった。
自分の命数を占い、その通りの日に死んだ。
死後、書物があると聞いた孫権は棺を暴いたが何もなく、術は失われた。
孫権は呉範・趙達に代わる術師を求めたが得られなかった。
**葛玄(考先)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|23|18|80|41|70|祈願|C|C|C|C|C|C|?|?|
【カツゲン(コウセン)】
呉の方士。号は仙公。呉書の趙達伝に登場。
方士左慈の弟子で九丹金液仙経という道法を伝授された。
晩年の[[孫権]]に招かれ重用された。ある時長い間雨が降らず困っている人を見て、
護符を用いて雨乞いを実行し大雨を降らさせた。
さらに孫権が「この大雨の中に魚を呼べるか?」と聞いたところ、簡単に呼んで見せた。
その他にも水の上を歩いたり、乗った船が沈没しても忽然と姿を現したという話がある。
『抱朴子』の著者で有名な仙道研究家の葛洪は葛玄の子孫。
**陸晏
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親|
|65|57|62|60|70||C|B|B|C|C|B|?|280|[[陸抗]]|
【リクアン】
呉の武将。陸抗の子。
陸抗の死後に家督を継ぐ。
父の率いた軍を、弟の陸景、陸玄、陸機、陸雲と分けて統率した。
裨将軍、夷道監に任じられる。
晋の呉討伐で[[王濬]]の軍に抵抗するが戦死した。
※同じく王濬に抗戦した弟の陸景が31歳で戦死しているため、生年は250年より少し前に設定。
**陸景、陸機、陸雲
[[陸抗]]の子たち。
陸景は『[[みんなの新武将/後漢末~三国>みんなの新武将/後漢末~三国#id_fae9df83]]』の「三国志Ⅸに登場した武将」を参照。
陸機、陸雲は『[[みんなの新武将/西晋・東晋>みんなの新武将/西晋・東晋#id_e37c5931]]』を参照。
**陶璜(世英)
#image(toucho.jpg)
Ⅸの顔グラ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|73|75|78|79|仁政|A|A|A|C|A|A|?|290|
【トウコウ(セイエイ)】
呉の将軍。[[陶濬]]の兄。
策謀を有し、施しを行い、人心を得ていた。
交阯が晋に帰順すると、虞汜らと共に交州に派遣される。
緒戦では軍を統率できず敗走するも、晋軍に夜襲を仕掛けて戦功を立てる。
不意を突いて海路から交阯へ向かい、晋の伏兵を見破って撃破し、
敵将を謀略で排除し、混乱を突いて交阯を陥落させた。
この際、[[霍弋]]から守将の楊稷に百日以上の籠城命令が出されていたため、
咎が及ばないよう食料を渡して期日を守らせてから降伏を受け入れた。
前将軍・交州牧に任じられ、晋に帰順した後も交州で仁政を続けた。
※三国志Ⅸにも登場。
その際の能力値は『[[みんなの新武将/後漢末~三国>みんなの新武将/後漢末~三国#id_fae9df83]]』の「三国志Ⅸに登場した武将」も参照。
**鮮于丹
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|
|66|74|55|36|42|騎将|B|C|C|A|B|B|?|226以降|[[韓当]]・[[程普]]|
【センウタン】
呉の武将。荊州の所有権を巡って孫権と劉備の対立が激化すると、呂蒙の属将として荊州南部に侵攻した。
夷陵の戦いでは陸遜に従い、韓当・徐盛らとともに蜀軍を防いだ。
石陽の戦いでは五千を率いて敵の退路を遮断する役割を果たし、高城の陥落に貢献した。
※北辺人に多い苗字なので幽州出身の韓当程普を親愛武将にして騎馬巧者に。
**祖郎
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|
|71|64|40|37|78|掎角|A|B|C|C|C|C|?|197以降|[[孫策]]・[[厳白虎]]|
【ソロウ】
丹陽の宗教指導者。孫策が丹陽太守呉景の援軍に来ると、先手を打ってこれを包囲し、孫策を討死寸前にまで追い詰めた。
孫策が江東を平定した後も抵抗を続けるも、ついには捕らえられる。
この時、孫策が恨み事を言わずに協力を頼んだため、祖郎は孫策に帰服し、軍勢の先導を務めた。
**徐琨
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|72|70|69|67|造船|C|B|B|B|C|A|?|199?|
【ジョコン】
[[孫堅]]の外甥。
初め州や郡の役人だったが、孫堅が挙兵するとそれに従い、征伐で軍功を挙げて偏将軍に任ぜられた。
孫堅が戦死すると[[孫策]]に従い、江東平定に参加した。
[[劉繇]]を攻める時、船不足で軍を留めようとした孫策に葦で筏を作り渡河するという母の作戦を提案し、
取り上げられて成功したため、劉繇軍を敗走させ、孫策は江南の地盤を固めることが出来た。
功により丹陽太守となるが、[[呉景]]が[[袁術]]より逃れると督軍中郎将に転じた。
のちに廬江太守の李術を破り平虜将軍・広徳侯となるが、孫策の[[黄祖]]討伐で戦死した。
**孫氏
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|49|42|80|70|83|造船|C|C|C|C|A|S|?|?|
【ソンシ】
[[孫堅]]の妺。孫堅と親交の深かった徐真に嫁ぎ、徐琨を儲けた。
[[孫策]]が江東平定で[[劉繇]]を攻める時、船不足で軍を留めようとしたが、
「揚州の役所が多数の水軍を動員して不利になる前に葦で筏を作り、船の役目を補いながら軍勢を渡河させればよい」
と息子の徐琨に伝えて孫策に提案させた。
作戦は取り上げられて劉繇軍攻略に成功し、功により徐琨は丹陽太守に任ぜられた。
『三国志集解』によると兄の遺風があったという。
*その他『正史』に名前が登場する、シリーズ未登場の人物
殷基、殷巨、何定、華融、紀陟、曁艶(キエン)、虞忠、虞聳(グショウ)、虞昺(グヘイ)、顧栄、顧邵、顧承、周循、聶友(ジョウユウ)、朱才、徐陵、沈珩(シンコウ)、芮玄(ゼイゲン)、石偉、祖郎、張梁(張角の弟とは別人)、鄭泉、唐固、裴玄(ハイゲン)、馮煕、陸玄、陸耽、李衡、劉惇(リュウトン、呉音ではリュウジュン)
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*注意点
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