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「みんなの新武将/元」(2022/04/25 (月) 01:52:38) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*元(1271~1368)
モンゴル帝国の中枢を簒奪したクビライが定めた国号。
中国の完全支配を視野に1271年に国号を大元としたもので、モンゴル帝国ではクビライ=ウルスでもあり、近年は大元ウルスと呼ぶこともある。
1278年に江南の南宋を征服したことで、約150年ぶりに中国の統一を回復しただけでなく、モンゴリアをも包摂する空前の大国となった。
クビライの治世は東西両面で軍事に忙殺されながらも国家体制を固め、曾孫の武宗の時代には各ウルスとの和合も成り、
“パクス=モンゴリカ”と呼ばれる世界規模の安定がもたらされた。
元朝では[[大都>薊]]・上都が行政上の首都とされて中書省が最高行政府とされ、時に財政を掌る尚書省が並立したが、大汗は遊牧の伝統に従って季節ごとに牧地を移動した。
遊牧封建体制を圧倒的多数派の中国人に対して維持する必要から“モンゴル・色目・漢人・南人”に
区別する身分制を用い、モンゴル至上主義を貫徹する一方で、制度・税制などは中国制が採用された。
漢人・南人(女真・漢人・南宋人など)は概ね政治組織の上層から排除され、民間に下野して
仕官を拒む者も多く、このことが知識層の下方拡大と市民文化の普及をもたらした。
遊牧社会の伝統を保つ元朝では相続法が確定されず、そのため継承紛争はしばしば武力衝突に直結し、
武宗の後は通婚氏族たるオンギラト族の内訌も加わり、軍の中核として抬頭したキプチャク軍団が実権を握るようになった。
遊牧社会の分権傾向と世界規模の気象異常などによって各ウルスが急速に没落していた頃、
元朝でも通貨政策の破綻や軍閥抗争も重なって中央の統制力が無力化し、14世紀中葉には
黄河治水での酷使を原因とし、搾取の最も激しかった河南で農民を主力とした白蓮教の叛乱が発生して全国に拡大した。
江淮が反抗勢力に占拠されたことで塩に依拠していた中央財務は完全に麻痺し、
白蓮教団から派生した朱元璋の北伐に遭うと、自壊同様に中国を逐われた。
以後しばらくは漠北に侮りがたい勢力を保って明朝と長城地帯を争ったが、1387年に満州のジャライル軍20万が
食糧不足から降伏したことが致命傷となり、翌年には大汗が内紛で殺されてクビライの血統は滅んだ。
**忽必烈
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|86|78|76|9|強奪|B|A|A|S|A|B|1215|1294|
【クビライ】
モンゴル帝国の第5代大カァンでチンギス・カァンの孫。元の世祖。
兄のモンケが大カァンとなると漠南・華北の軍権を授けられる。
陝西を拠点とし、雲南を征服した。その後モンケの南宋親征に従う。
モンケが陣没すると弟のアリクブケと後継を争い、帝位に就くと国号を「大元」に改めた。
外征では南宋を滅ぼしビルマを征服するが、日本やベトナムへの出兵は失敗に終わった。
内政面では税制改革などを行い、シルクロードによる交易も盛んになった。
晩年はカイドゥの乱などモンゴル勢力の分裂に悩まされながら没した。
補足:[[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%A4]]
※「クビライ」で全称。三文字のため入力する場合は適当に姓名に分割する。
姓はないが、一応チンギス・ハーンの氏族名の「ボルジギン(孛兒只斤)」が元朝の国姓となっている。
**史天沢(潤和)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|92|89|81|87|射程|A|B|B|S|S|B|1202|1275|
【シテンタク(ジュンカ)】
元代の漢人軍閥の一人。史秉直の次男で、史天倪の弟。
元は金の臣だったが、モンゴルの将ムカリに降伏しモンゴルに臣従。
兄の横死後、都元帥となり、漢人軍閥の重鎮として金討伐でも功績を立てた。
その後、クビライと誼を通じ、アリクブケの乱でも擁立に活躍。
クビライの即位後は、宰相として華北再編や漢化政策に尽力した。
南宋攻略戦の[[襄陽]]の戦いでは、投石器で襄陽の支城の樊城を陥落させ、
調略で呂文煥軍を投降させる大功を立てた。
南宋攻略軍の総司令官に任命されたが、高齢のため病に倒れ、後任にバヤンを推挙し死去。
**郭侃(仲和)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|97|81|95|78|81|攻城|S|B|B|S|S|C|?|1277|
【カクカン(チュウカ)】
元の将。華州鄧県の人。智勇兼備の名将で特に攻城戦に卓絶した。
郭宝玉の孫で、幼くして史天沢の家に養われた。
金への遠征に従って戦功を挙げたのを皮切りに、フラグの西方遠征に従い、
ペルシアの乞都卜城やアラムート城塞を陥落。
遂にはバクダードを攻囲し、アッバース朝のカリフを降伏させた。
更にはシリアで十字軍と戦い、その用兵の見事さから「極西の神人」と称された。
憲宗モンケの没後中国に帰還し、江漢大都督理問官となる。
万戸長に抜擢されると[[襄陽]]を攻め、元の江南制圧後、知寧海州に任ぜられた。
**劉秉忠(仲晦)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|60|52|93|95|62|指導|C|C|C|C|C|C|1216|1274|
【リュウヘイチュウ(チュウカイ)】
元の政治家。本名・劉侃。号は臧春散人。法名は子聡。
十七歳で金に出仕するも、翌年に金が滅んだためモンゴル帝国に仕える。
一時官職を返上し武安山で仏教を修めた後、クビライの謀臣となって漢人ブレーンの登用に務める。
モンケ・ハーンが陣没すると、クビライの皇帝即位に尽力した。
元号を定め、中書省を設置するよう上奏し、太保、中書令に任じられ「秉忠」の名を下賜される。
その後、国号を「大元」として首都を[[燕京>薊]]に移すよう進言し、大都として大造営を行う。
晩年は太子太保となり、紫山書院を建立して教育に務めた。
**姚枢(公茂)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|54|48|95|88|84|深謀|C|C|C|C|C|C|1203|1280|
【ヨウスウ(コウモ)】
元の政治家。号は雪斎、敬斎。
クチュの南宋遠征に従軍し、その際に儒教・道教・仏教・医学・占卜を探求した。
クビライの参謀となり絶大な信頼を寄せられ、大理国・南宋遠征に従軍した。
北宋の曹彬に倣い、包囲後は無血開城を促し、民を殺さないよう進言している。
クビライ即位に劉秉忠とともに尽力し、太子太保に任じられる。
世侯を廃止し、州県制度を設けて中華王朝化を進める。
南宋征伐でも無駄な殺戮・略奪を避けるよう進言を行う。
これを的確に実行したバヤンと呂文煥によって南宋側に投降者が続出し、臨安は無血開城した。
**阿合馬
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|40|24|79|94|24|徴税|C|C|C|C|C|C|?|1282|
【アフマド】
元の政治家。ムスリム。
クビライの側近で、財務官僚として頭角を現す。
平章政事(宰相)として十数年間政治を司った。
財政改革、戸籍整理、専売制の導入などに辣腕を振るう。
南宋滅亡後は江南で税制改革を行い、元の治世に経済発展をもたらした。
しかしアフマドの税制は漢人官僚には不評だった。
尚書省で権勢を誇り、中書省のチンキム(クビライの嫡子)との対立を招く。
クビライの留守中にチンキムによって[[大都>薊]]へ召還され、その配下の王著らに暗殺された。
死後に不法を訴えられ、クビライにより屍を車裂にされている。
補足:姓名は「アフマド・ファナーカティー」。「阿合馬」は元史の表記。
元史では姦臣伝に記述されているが、業績を考慮すると漢人視点からの極端な評価とされている。
**伯顔
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|95|91|91|82|95|心攻|A|A|S|S|S|A|1236|1294|
【バヤン】
元の重臣。バアリン部の出身。
若くしてイル・ハン朝の将軍となるが、クビライに容貌と才幹を認められ抜擢された。
呂文煥の降伏後、南宋討伐の総司令となり、投降者を寛大に扱ったため、
士気喪失した南宋軍は瓦解し、ほぼ無血で南宋攻略に成功した。
直後、シリギの乱を鎮圧すべくカラコルム総督となり、モンゴル一帯を元の支配下に収めた。
フビライ没後のクリルタイを収拾し若きテムルを輔弼したが、惜しまれつつも急逝した。
「伯顔」の音は「百眼」に通じるため、南宋を滅ぼした「百眼の怪物」の伝承の元となった。
**阿朮
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|84|54|37|50|威圧|C|A|A|S|B|B|1227|1281|
【アジュ】
元の武将。名将スブタイの孫。
父のウリヤンカタイに従軍して西南討伐、[[大理>雲南]]平定、交趾攻略などで功績を立てた。
李璮の反乱鎮圧でも功を上げ、宿衛将軍・征南都元帥となり[[襄陽]]・樊城を包囲するが、
呂文徳・文煥の激しい抗戦を受ける。
南宋の援軍を大破し、軍船を鹵獲して水軍の編成を始め、
張順・張貴の来援では劉整に水軍を統率させて自ら追撃し両将を討った。
回回砲が導入されると樊城を抜き、襄陽の呂文煥を降すことに成功した。
その後は丞相バヤンの麾下で南宋滅亡に貢献し、シリギが反乱すると北伐にも従事した。
**劉整(武仲)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|88|81|51|32|水将or造船|A|A|C|B|A|S|1212|1275|
【リュウセイ(ブチュウ)】
南宋、元の武将。京兆の出身。
金末期に南宋に入って孟珙の麾下となり、
信陽攻めで勇士十二名を率いて登城して陥落させ、李存孝の武勇に比された。
四川東部の要衝を抑えるが、武功を[[襄陽]]の呂文徳から忌まれ、
賈似道の粛清も恐れたためモンゴルに投じた。
クビライに南宋侵攻を進言して襄陽包囲戦を開始させ、
五千隻の軍船を建造してモンゴル水軍を調練し統率する。
襄陽包囲が長期化すると樊城を先に攻略するよう進言し、
回回砲で樊城を破ると呂文煥を説得し、襄陽を開城させた。
驃騎上将軍となり南宋の水軍を破るが、淮南出兵の際に没した。
**阿里海牙
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|64|84|80|78|発明or射程|B|B|A|A|S|S|1227|1286|
【アリハイヤ】
元の武将。ウイグル出身。
[[襄陽]]攻囲に参加するが、阿朮が五年に渡って襄陽を降せずにいたため、
クビライの許可を得てウイグル人技師のイスマイルらに投石兵器の回回砲を製作させた。
回回砲で樊城を破り、襄陽にも投石を浴びせて呂文煥を降伏させ、
襄陽に駐屯して南宋平定を上奏し、丞相バヤンの征討軍に平章として加わる。
水軍を率いて漢水・長江を下り、武磯堡や鄂州を攻略し、南宋水軍を洞庭湖で破った。
南宋領五十八州を攻め取り、兵士に殺害と侵掠を禁じ、
賦税を軽くするなどの善政を敷いたため、南宋の民は祠を立てて喜んだという。
**張弘範(仲疇)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|85|51|69|57|駆逐|A|S|B|B|S|A|1238|1280|
【チョウコウハン(チュウチュウ)】
元の武将。漢人世侯の張柔の息子。
漢人世侯の一部が反乱を起こすと、史天沢の討伐軍に従った。
アジュの[[襄陽]]・樊城包囲戦に参加し、一字城を築いて襄陽と樊城を分断させ樊城を攻略する。
襄陽攻略後にはバヤンの南宋征伐に従軍し、臨安に入り漢軍都元帥に任じられる。
その後、南宋の残存勢力を追討し、文天祥を海豊で破り五坡嶺で捕縛する。
端宗と衛王を擁立した陸秀夫、張世傑を追撃し、海上へと追いやり水と補給を断つ。
これに疲弊した抵抗軍を崖山の戦いで滅ぼし、南宋は完全に滅亡した。
**李恒(徳卿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|82|87|59|24|67|乱戦|S|B|C|A|B|A|1236|1285|
【リコウ(トクケイ)】
元の武将。西夏の皇族の出身。
モンゴル皇族のイェスンゲの妃に育てられる。
漢人世侯の李璮が謀反を計画している事を告発し、クビライから功績を賞賛された。
[[襄陽]]・樊城の戦いに参加し、襄陽降伏後はバヤンの南宋侵攻に従う。
陽羅堡(武磯堡)で先鋒となり流矢で額を負傷するも、
バヤンの制止を振り切って継戦し、敵将の夏松を斬った。
洞庭湖で高世傑を捕え、江西から文天祥を逐い、広東を経略する。
張弘範と合流して崖山の戦いで南宋を滅ぼし、金璽を入手した。
トガンの失政で反した交趾を攻めるが、毒矢を受けて戦死した。
**阿塔海
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|72|46|68|53|掃討|C|B|A|A|A|A|1234|1289|
【アタハイ】
元の武将。
ウリヤンカタイ(スブタイの子)に従軍し、[[雲南]]攻略で功を上げる。
クビライの代には[[襄陽]]攻囲に参加し、南宋の夏貴の援軍を阻止した。
バヤンの南宋討伐に従軍し、[[建康>建業]]陥落後は李庭芝の篭る揚州を包囲し救援を絶つ。
張世傑・孫虎臣を焦山で破り、張彦を斬って平江を攻略し、臨安を開城させるのに功績を立てた。
左丞相を務め、弘安の役の直前にアラクカンが急逝すると、征東行省丞相に遷任。
江南軍を率いて日本へ侵攻するが、九州沖で大風に遭遇し、軍船と兵を喪失して帰還する。
晩年はナヤンの叛乱討伐に扈従した。
**洪俊奇
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|68|76|63|65|4|徴税|B|A|B|C|B|A|1244|1291|
【コウシュンキ】
高麗、元の武将。通称は洪茶丘。
父の洪福源が処刑されると、高麗を恨んでモンゴルに投じ、三別抄の乱の討伐で功績を立てた。
クビライの日本侵攻計画に便乗して高麗の人々に高い賦税を課すように仕向ける。
文永の役では右副元帥として対馬・壱岐を襲撃。
帰還後はクビライに高麗占領を訴え、金方慶への讒訴を繰り返した。
弘安の役では東征都元帥として先発し、対馬・壱岐を制圧し志賀島から上陸するも、
元寇防塁を越えられず撤退し、江南軍と合流するも台風の直撃を受けて帰還する。
第三次日本侵攻計画にも尽力したがナヤンの乱で頓挫した。
**蒲寿庚
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|72|54|70|67|25|富豪|C|C|A|C|B|S|?|?|
【ホジュコウ】
南宋末期の商人、武将、政治家。号は海雲。祖先はアラブ人のムスリム。
泉州で海商・海寇として名を上げており、
その財力と海軍力は南宋・元の双方から注視されていた。
蒲寿庚は海軍力を必要としていた元に投じ、
張世傑が泉州で再起を図ろうとした際に、泉州に匿われていた南宋の皇族を殺害する。
張世傑の泉州攻囲も計略を用いて防衛し、元の援軍到着まで約三ヶ月持ち堪えた。
元軍の海戦を指揮し、崖山の戦いで南宋滅亡に大きく貢献した。
その後、元の治世で泉州の海上貿易の権益を掌握し、泉州は世界有数の貿易港として繁栄した。
補足:マルコ・ポーロによって、泉州は世界最大の港「ザイトン」として紹介されている。
明代には、蒲寿庚を反逆者として忌み嫌った朱元璋により、子孫が徹底的に迫害・弾圧されている。
**郭守敬(若思)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|52|36|85|90|76|運搬|C|C|C|C|A|S|1231|1316|
【カクシュケイ(ジャクシ)】
元の政治家、水利学者、天文学者、数学者。
劉秉忠に師事し、クビライに謁見した際に水利について説き、任用される。
西夏の地で灌漑・水路を整備して治績を上げた。
バヤンの南征の際には水路の兵站が計画され、河北・山東を視察する。
南宋征服後には、[[大都>薊]](北京)から通州(天津)に至る大運河を開削する。
西海(大都の人工湖)の積水潭を修復して「通恵河」を完成させ、水路による交通を飛躍的に発展させた。
また、王恂・許衡らとともに大規模な天文観測を行って暦法を改正し、「授時暦」を定めた。
**脱脱(大用)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|81|76|89|62|掃討|B|A|A|S|A|B|1314|1355|
【トクト(ダイヨウ)】
元の武将、政治家。メルキト部出身。
伯父のバヤンが漢民族を排撃すると、クーデターを起こして実権を握る。
バヤンに廃された科挙を復活させ、正史編纂を行い「遼史」「金史」「宋史」を完成させた。
一時職を辞すが、右丞相として新紙幣の発行や黄河の治水対策を行う。
しかし、治水工事に使役された民によって紅巾の乱が発生し、華南を中心に反乱が頻発する。
徐州の芝麻李を討つなど反乱平定で軍功を重ねる。
だが、張士誠の討伐中に哈麻に讒言され、[[雲南]]に追放され毒殺された。
後に名誉回復されたが、元朝の衰退が決定的なものとなった。
補足:伯父のバヤンはメルキト部出身の宰相で、南宋征伐で活躍したバヤンとは別人。
**王保保
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|75|89|68|55|80|遁走|B|A|A|S|C|C|?|1375|
【オウホウホウ】
元、北元の武将。ココ・テムル(拡廓帖木児)。
チャガン・テムルの外甥で養子となるが、
養父が紅巾の乱の最中に殺害されると、軍権を引き継いで山東の紅巾軍を討伐する。
元朝内部の政争で皇太子を支持して大都へ進軍し、
専横していた軍閥のボロト・テムルが誅殺されると、左丞相に任じられてココ・テムルの名を賜る。
江南を統一していた朱元璋と対決するが、
軍内部の分裂・反乱もあって徐達の北伐軍の前に連敗を重ね、カラコルムまで敗走した。
しかし、カラコルムで徐達を大破して数万を討ち取り、朱元璋のモンゴル征服の野望を挫いた。
補足:入力する文字数の都合上「王保保」表記を採用。
中華圏では父親が漢人のため(母親がチャガン・テムルの姉)、漢名の「王保保」で呼ばれる。
朱元璋には「奇男子」と気に入られており、度々帰順を勧められている。
*元末期の群雄
**方珍(国珍)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|74|82|62|67|45|運搬|A|A|A|C|C|A|1319|1374|
【ホウチン(コクチン)】
元末期の群雄。元は塩の密売人。
浙江で反乱を起こし、元の討伐軍を退けその将軍を捕虜とする。
その後、元は懐柔策に乗り出すが、反乱、討伐失敗、懐柔を幾度も繰り返すこととなる。
最終的に方国珍は太尉、浙江の左丞相となり、衛国公に封じられる。
朱元璋が台頭すると投降し、福建の平章政事に任じられる。
しかし、元からも浙江の平章政事に任じられ元にも糧秣を流していたため、
湯和の討伐をうけ海上へ追いやられ、朱元璋に降伏した。
明では資善大夫、広西左丞相となり、元末の群雄としては天寿を全うした。
**韓山童
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|65|21|84|71|88|祈願|B|B|C|C|C|C|?|1351|
【カンザンドウ】
紅巾の乱の引き金を引いた人物。
北宋の八代皇帝・徽宗の八世孫を詐称し、白蓮教の指導者となる。
十五万の農民が黄河の堤防修復に駆りだされた際、劉福通とともに計を練って黄河に隻眼の石像を埋める。
その後「只一つの眼をもつ石人が、黄河で天下への叛乱を引き起こす」という民謡を流布し、石像を発見させて農民を心服させる。
農民を率いて元に反乱するが、捕えられ処刑された。
死後、劉福通により息子の韓林児が擁立され、大規模な紅巾の乱へと発展する。
**陳友諒
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|82|84|47|49|操舵|B|A|B|C|C|S|1320|1363|
【チンユウリョウ】
元末の群雄・大漢皇帝。もとは紅巾軍の武将。
紅巾の乱に呼応して挙兵した徐寿輝(西派紅巾軍)が天完国皇帝を名乗るとその配下となる。
天完国元帥の倪文俊の書記だったが、倪文俊が徐寿輝殺害を計画するとこれを誅殺。
天完国の実権を握ると徐寿輝も殺害し、国号を大漢として皇帝を名乗った。
湖北を拠点に朱元璋と対立、一時は応天府([[南京>建業]])に迫る勢いを見せるが、康茂才の偽投降に掛かり敗北。
南昌を奪回するため大船団を率いてこれを包囲するが落とせず、
鄱陽湖で決戦を挑むも火砲と火船により船団は壊滅、退路を断たれて戦死した。
補足:三国志演義の赤壁の戦いは、この鄱陽湖の戦いがモデルといわれる。
**張士誠
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|80|61|63|78|富豪|A|A|A|C|C|S|1321|1367|
【チョウシセイ】
元末の群雄。呉王。
官塩の輸送を行っていたが、官からの圧迫を受けて挙兵する。
塩の密売によって得た利益を民に施していたため、塩産地の泰州が挙兵を支援した。
元は塩の専売で財源を得ていたこともあり、名将トクト率いる大討伐軍が起こされ高郵を包囲する。
しかし、突如トクトが解任され、張士誠は混乱する元軍を打ち破った。
その後は平江(蘇州)を制圧、苗族の楊完者を滅ぼし、紅巾軍の劉福通を戦死させるなど版図を広げ、呉王を名乗る。
陳友諒滅亡後に朱元璋の侵攻を受け、平江で十ヶ月に渡る籠城をするが敗北し、自縊した。
補足:三国志演義の編者とされる羅貫中は、張士誠の軍に属していたといわれる。
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